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岩手県の岩手山・姫神山・早池峰山、そして一関 

(新しいウィンドウで開いています)
どうして岩手で瀬織津姫に出会ってしまうのか?現在考察中。
●瀬織津姫のことについて、とても真剣にそして誠実に資料をふんだんに使って考察しているサイトは「東北伝説」(編集:風琳堂)
     東北伝説>特集「瀬織津姫について」
     東北伝説>日高見川=北上川の水神
     東北伝説>

     東北伝説>囲炉裏夜話過去ログ NO301-600

●玄松子>早池峰神社(遠野)その1 の神社配置の図が面白い。

「遠野の神々」が、神社とその住所が比較的まとまって掲載されている。

平成17年9月10日(郵政民営化を問う総選挙の前日)の記録。
 瀬織津姫神の事を調べていると、突然、神は次のようにいわれました。
  ・・・・・>>『遠野物語』は『遠野物語』、「神の話」は「神の話」。『遠野物語』と「神の話」を区別して捉えよ。神は、現在祀られている神で動く。<<・・・・・・・・
 よって、『遠野物語』から岩手県の神社に祭られている祭神を考察しようとしたやり方を改めます。現在の祭神を忠実に調べ、出来る限り訪ねられるようにしたいと考えています。
 神社やご祭神の由来・由緒を調査研究する時は過ぎて、時は風雲急を告げている、ということでしょうか。

『秀真伝』のなかの瀬織津姫

岩手山神社 奥宮
岩手山
いわての山々【岩手山】の紹介記事
【神社の祭神】
宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)
倭建命(やまとたけるのみこと)
大国主命(おおくにぬしのみこと)

岩手の山だより」 より
4 岩手山神社遥拝所について
 
岩手山神社遥拝所は山岳信仰登山3ルートの登り口にそれぞれ現存している。

岩手山@地球文学からみる岩手山
江戸時代の岩手山の参拝登山の正式な登山口は、
東の柳沢口(柳沢ルート)南の雫石口(御神坂ルート)北の平館口(上坊ルート)の三つ。各口には岩鷲山を山号とする新山堂がありました。


 岩手山トレッキングMAP(Google)というPDF文書が公開されている
 とても詳しい地図で助かります。
岩手山神社
柳沢の新山宮
岩手県岩手郡滝沢村柳沢 本地垂迹便覧>岩手山より
【神社の祭神】
宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)
倭建命(やまとたけるのみこと)
大国主命(おおくにぬしのみこと)

姫神山神社 奥宮
姫神山
姫神金山コース より
●姫神嶽神社
 古来野火により焼失し詳細は不明だが、岩鷲山縁起によれば、蝦夷征伐のおり坂上田村麻呂が守護神、
立烏帽子神女姫神山に祀り、開いた霊場と伝えている。江戸時代は山頂に姫大明神を祀り、山麓に玉東山筑波寺を建立、本地仏十一面観音を安置して神山と称し、神山から山頂の本宮まで10ヶ所の御堂が並ぶ山岳信仰の霊山であった。その後老幼婦女子の参拝困難により明治11年玉山舘地内の玉山十一面観音堂に移されて現在に至っている。(村誌たまやま)

これを由縁として【祭神】は
瀬織津姫神
となっているようだ。

随想アイヌ語地名考 より
…姫神山(ひめかみさん)…

「ひめかみ山」の地名由来は、岩鷲山縁起によれば、平安時代の初めごろ、鈴鹿山を根城にして、京の都に出没して悪事を働く悪い鬼どもがいるということで、桓武天皇の命により、坂上田村麻呂が山中深く分け入って鬼退治をしたおりに、山中で一人の神女にめぐり会いました。その神女が田村麻呂を見込んで、自ら進んで彼の守護神となったといわれます。その神女の名は「立烏帽子神女」と称し、その時以来、神女は田村麻呂を護り、彼が戦う度に彼に連戦連勝をもたらしてくれました。こうして、田村麻呂が、胆沢地方のエミシ勢力との戦いに勝ち、次いで、志波地方のエミシ勢力の掃討作戦に勝った時に、その神女を岩鷲山の北々東およそ20kmの所にあるこの美しい山の山頂に祭り、これを「姫ヶ丘」と呼んだということであり、その故事にちなんで名づけられたのが、現在のこの「姫神山」だということであります。
 しかし、そうはいいながらも、「ひめかみ」は、周辺の「こうま」、「しぶたみ」、「ひのと」など、見るからにアィヌ語系古地名に属すると見られる地名群のなかの一つとして考えるとき、これもやはり、古代エミシの人たちから受け継がれたアィヌ語地名からの転訛地名ではないか…という考えが浮かんでくるわけであります。
 もしも、そのとおりであり、これが純粋な和語地名ではなく、アィヌ語からの転訛地名だとしたら、その語源はアィヌ語の何だったのか…ということになり、次のような解釈が考えられます。
「ひめかみ」は、=アィヌ語の「ヘ・エン・ムィ・カムィ(he・en・muy・kamuy)」→「ヘムムィカムィ(hemmuykamuy)」の転訛で、その意味は、=「頭が・尖っている・山頂の・神」になります。
 したがって、「ひめかみ山」とは、=アィヌ語で「ヘムムィカムィ・シル(hemmuykamuy・sir)」で、その意味は、
=「頭が・尖っている・山頂を持つ・神の・山」になります。


祇園祭_鈴鹿山 より
 京都の祇園祭で「鈴鹿山」といえば「瀬織津姫神」である。

ちなみに「大原ダムと祝詞ヶ原」(写真が豊富なサイト)によると旧東海道において鈴鹿峠(三重県関町)の
片山神社は霊験あらたかな神社であったらしい。
・・・・・太田南畝の「改元紀行」では『左の方に権現の社、高き山の上にたてり,石坂あり,石坂の右にみそぎ殿あり,左に神楽堂あり…。奉るところ三座,
中央に瀬織津媛命,左右に黄吹戸命瀬羅津媛命,相殿は倭媛命ときく,摂社に大山祇命稲荷愛宕などたたせ給へり』とある。坂下(阪之下)宿の氏神で鈴鹿大明神,鈴鹿権現,鈴鹿明神と呼ばれ,鈴鹿峠そのものを守る神社でもあった。田村神社同様,京都の祇園祭の鈴鹿山の山車の縁起などとも重なる伝説との関連も深い。『祇園祭:鈴鹿山縁起:伊勢の国・鈴鹿山に人々を苦しめる悪鬼がおり、これを退治した鈴鹿権現・瀬織津姫命を表す。瀬織津姫尊の御進退は、金の烏帽子に白繻子(しゅす)雲龍文小袖,緋精好大口(せいこうおおぐち)袴,紫地金立涌か巴(たてわくかともえ)文金襴の表着を着け,腰に錺太刀,手に大長刀と中啓を持つ。後の山籠には,赤熊(しゃぐま)で象徴した赤鬼の首が置かれる。山に立つ松には、鳥居や宝珠などが描かれた小絵馬を多く付ける珍しい山で、巡行後に盗難除けの護符として授与される。』 ・・・・・・

姫神嶽神社
姫神嶽神社
姫神山」の紹介記事
城内コース登山口には簡単ながら姫神山が修験の山である説明があり、下方の集落にある質素な姫神嶽神社に詣でれば由来書きがあって、往古は(岩手山、早池峰山とともに)北奥羽の三霊山の一つとされ、修験霊場とされて山伏の山と呼ばれた旨の説明を読むことができる。なおこの神社は昔は山中にあったものが参拝の困難さから
里に遷されたものだそうだ。

いわての山々【姫神山】の紹介記事
【神社の祭神】
姫大明神(瀬織津姫神のこと)
須勢理姫命(すせりひめのみこと)

姫神金山コースより
●姫神嶽神社
 古来野火により焼失し詳細は不明だが、岩鷲山縁起によれば、蝦夷征伐のおり坂上田村麻呂が守護神、
立烏帽子神女姫神山に祀り、開いた霊場と伝えている。江戸時代は山頂に姫大明神を祀り、山麓に玉東山筑波寺を建立、本地仏十一面観音を安置して神山と称し、神山から山頂の本宮まで10ヶ所の御堂が並ぶ山岳信仰の霊山であった。その後老幼婦女子の参拝困難により明治11年玉山舘地内の玉山十一面観音堂に移されて現在に至っている。(村誌たまやま)

早池峰神社神社 奥宮
早池峰山
山のふみあと日記>東北・早池峰山奥宮の伝説の紹介記事
・・・・本宮のとなりに若宮のホコラが建てられ、いまでも
二つの社がならんでいます。祭る神ははじめ姫大神でしたが、いまでは瀬織津姫命という神様になっています。・・・・
【早池峰山の祭神】
瀬織津姫神


しかし、上の「二つの社」という記述はいろんな人のホームページの写真からはどうも確認できません。
神奈備


早池峰神社
(東の登山口)
下閉伊都川井村
(江繋口)
早池峰の山伏神楽」>1.早池峰山より
 
新山宮善行院があり、三陸海岸からの漁民が主にここから登拝した。

田中氏の早池峰神社
(南の大出の登山口)
岩手県遠野市附馬牛町上附馬牛第19地割81
(遠野市の附馬牛の
大出
早池峰の山伏神楽」>1.早池峰山より
 南の岳口には
新山宮池上院妙泉寺(現早池峰神社)があった。なおこの岳と大出の両妙泉寺は近世期には九十年間にわたって本坊を争いあったのである。
 ところでこの早池峰山の開山に関しては、大出口には次のような伝承が伝わっている。大同元年(806)、遠野来内村の猟師藤蔵が熊を追って山中に入ったところ、山頂で金色に輝く権現の姿を見た。そこでその地に社を造営して祀った。藤蔵はこの後夢告により始閣宮本と名のり、その子孫は天文十二年(1543)に上禰宜、下禰宜の本家と分家に分かれ以後近世期を通してこの両家が遠野大出口の新山宮に奉仕した。
 これに対して
南の岳口につらなる大迫の田中神社の神主山陰氏に伝わる開山伝承は、大同二年(807)に猟師兵太郎が鹿を追って岳口から山に入り、遠野から来た藤蔵と会い、早池峰権現を見た。そこで二人は協力して山頂に祠を建てた。その後兵太郎は山麓に早池峰神社の遥拝所として真中明神<現田中神社>を建て今に至っている。なおそれ以来田中明神は、早池峰神社の祭祀権をもっていたが、近世になってその権利を岳の妙泉寺にゆずったという。

いわての山々【早池峰山】の紹介記事
【神社の祭神】
姫大神(瀬織津姫のこととされる)

玄松子>早池峰神社(遠野)その1(神主は田中氏でここでの田中神社のこと)


参考:
「遠野の神々」早池峰神社

山陰氏の早池峰神社
(大迫町にある岳の西の登山口)
岳の里宮
岩手県稗貫郡大迫町内川目1-1  早池峰の山伏神楽」>1.早池峰山より
 西の大出口には
新山宮池上院妙泉寺(現早池峰神社)があった。なおこの岳と大出の両妙泉寺は近世期には九十年間にわたって本坊を争いあったのである。
 ところでこの早池峰山の開山に関しては、大出口には次のような伝承が伝わっている。大同元年(806)、遠野来内村の猟師藤蔵が熊を追って山中に入ったところ、山頂で金色に輝く権現の姿を見た。そこでその地に社を造営して祀った。藤蔵はこの後夢告により始閣宮本と名のり、その子孫は天文十二年(1543)に上禰宜、下禰宜の本家と分家に分かれ以後近世期を通してこの両家が遠野大出口の新山宮に奉仕した。
 これに対して
南の岳口につらなる大迫の田中神社の神主山陰氏に伝わる開山伝承は、大同二年(807)に猟師兵太郎が鹿を追って岳口から山に入り、遠野から来た藤蔵と会い、早池峰権現を見た。そこで二人は協力して山頂に祠を建てた。その後兵太郎は山麓に早池峰神社の遥拝所として真中明神<現田中神社>を建て今に至っている。なおそれ以来田中明神は、早池峰神社の祭祀権をもっていたが、近世になってその権利を岳の妙泉寺にゆずったという。

→神奈備>早池峰神社(神主は山陰氏で、岳の妙泉寺)

早池峰神社
(北の登山口)
下閉伊郡川井村
(門馬口)
伊豆神社
遠野市上郷町来内6−32−2 東北伝説>特集「瀬織津姫について」 より
【伊豆神社の祭神】
瀬織津姫神

■伊豆神社は早池峰神社の「親神」
 三山発祥地は市内上郷町来内とし、早池峰山新山宮神社(現在の早池峰神社…引用者)では、来内の伊豆権現社(現在の伊豆神社…引用者)を親神と呼び、この別当が到着しなければ祭りはできないという掟[おきて]があった。(『遠野市史』第一巻)

■伊豆神社「由緒」〜坂上田村麻呂
 
坂上田村麻呂が延暦二年(西暦七八三年)に征夷大将軍に任命され(任命は延暦十六年=797年…引用者)当地方の征夷の時代に此の地に拓殖の一手段として一人の麗婦人(「おない」という)が遣わされ、やがて三人の姫神が生まれた。三人とも、高く美しい早池峰山の主になることを望んで、ある日この来内の地で母神の「おない」と三人の姫神たちは、一夜眠っている間に蓮華の花びらが胸の上に落ちた姫神が早池峰山に昇ることに申し合わせて眠りに入った。夜になって蓮華の花びらが一番上の姉の姫神に落ちていたのを目覚めた末の姫神がみつけそっとそれを自分の胸の上に移し、夜明けを待って早池峰山に行くことになり、一番上の姫神は六角牛山へ(石神山へとの説もある)二番目の姫神は石神山へとそれぞれ別れを告げて発って行った。此の別れた所に神遣神社を建立して今でも三人の姫神の御神像を石に刻んで祀っている。

■伊豆神社「由緒」〜坂上田村麻呂の次に四角藤蔵に触れる。
 大同年間(八〇六─八〇九年)早池峰山を開山した
四角藤蔵(後に始閣と改めた)が来内権現の霊感を得て故郷の来内に戻り、自家の裏に一草堂を建てて朝夕これを崇拝したとのことである。当時この話を聞いた伊豆走湯関係の修験者がはるばる此の地に来て権現の由来を基に獅子頭を御神体として奉ったものである。故に伊豆大権現と称され千二百年以上にわたり広く信仰を得て来たものなり。明治維新後に伊豆神社と改めて現在に至っている。
■伊豆権現は四角藤蔵の「守り神」
 この女神たちの泊った宿は、当時来内村といった現遠野市上郷町来内の伊豆権現社である。伊豆権現は、早池峰を開山した
猟師藤蔵が、故郷の伊豆から持ってきた守り神である。藤蔵は、太平洋沿岸沿いに北上し、この来内に居を構えた、という。
 現在、この地には三人の女神が生まれたお産畑、お産田が残っている。田は五角形で、女が田植えをすると雨が降るといって男が田植えをする。一坪(三・三平方メートル)くらいの小さな田で、不浄であってはならないと肥料はしないし、田植えの時も畦[あぜ]から苗を三把ずつ植えて内に決してはいらない。この田からとったイネで餅をつくり、大出の新山宮(現在の早池峰神社…引用者)に供え、余りはお守りとして各戸に配っている。付近には、このほか襁褓(おむつ)を干したという三国という名の岩、藤蔵の屋敷跡、後代に造った墓なども残っている。(『遠野市史』第一巻)

参考:
「遠野の神々」伊豆神社  より
【伊豆神社社の祭神】
瀬織津姫神 



 現在の私の立場からすれば伊豆神社の祭神が瀬織津姫神であるという事実が大事です。
 神は早池峰山に瀬織津姫神が祀られるように様々な方向から人に働きかけた、ということでしょう。

六神石神社
(六角牛山)
遠野市青笹町中沢17−131
東北伝説>特集「瀬織津姫について」 より
【六神石神社社の祭神】
大己貴命
誉田別命

参考:
「遠野の神々」六神石神社  より
【六神石神社社の祭神】
表筒男命 
中筒男命 
底筒男命 
息長帯姫命 
大己貴命


石上神社
(石上山)
遠野市綾織町みさ崎4−79
東北伝説>特集「瀬織津姫について」 より
【石上神社の祭神】
経津主命
伊邪那美命
稲蒼魂命

参考:
「遠野の神々」石上神社  より
【石上神社社の祭神】
経津主命 
伊邪那美命 
稲蒼魂命


 人皇第51代平城天皇の御代、大同2年(807)時の征夷大将軍坂上田村麻呂 蝦夷地平定のため蒼生の心伏を願い、神仏の崇拝をすすむ。時に
六角牛山頂薬師如来山麓不動明王住吉三神を祀る。爾来陸奥の国中の衆民、衆団をなして登山参拝あとを絶えず、霊山として山伏の修行者多く集まる。

陸中一ノ宮
駒形神社(本社)
岩手県水沢市中上野町1−83
陸中一ノ宮
駒形神社
陸中一ノ宮
駒形神社(奥宮)
岩手県胆沢郡金ヶ崎町西根駒ケ岳
陸中一ノ宮
駒形神社(里宮)
岩手県胆沢郡金ヶ崎町西根雛子沢13
日本最北の延喜式内社 志賀理和気神社  (東北伝説>囲炉裏夜話過去ログ NO301-600のうちNO.305話から
● 昭和14年3月10日発行の日付をもつ『岩手県神社事務提要』(以下『提要』と略記)という冊子があります。編者は「岩手県神職会」、同会の所在地は「岩手県庁社事兵事課内」と奥付に記されています。
 1937年=昭和12年には日中戦争が始まり、同書の発行年=1939年には第二次世界大戦が始まります。この神職会の所在地「岩手県庁社事兵事課内」が端的に物語っていますが、「軍国日本」の象徴のような資料です。
 この『提要』で、日本最北の延喜式内社・志賀理和気神社(所在地…岩手県紫波郡紫波町桜町字本町川原1)の祭神は【祭神=不詳】とされています。
 この不詳問題をもう少し拡大しますと、『提要』はさらに奇妙な事実を証言していることがみえてきます。それは、県社の上に位置するのが国幣社なのですが、岩手県においては、延喜式内社・
駒形神社一社が「国幣小社」とされていて、しかも、ここも「祭神不詳」なのです。
  県社・国幣小社といった別格の神社の祭神が「不詳」とはどういうことか、という疑問がわいてきます。どんな神をまつっているのかは「不詳」だが、神社として優遇する=管轄するというのはどういうことかということでもあります。
  わたしたちが祭神不詳という表現に出会うとき、まず考えられるのは、文字通り「わからない」のだなということです。これは、祭祀人がいなくなった祠などにおいてはありうることです。また、もうひとついえることは、嘘の祭神表示をする=させられるくらいなら「祭神不詳」としておけというケースです。県社・国幣社といった社格においては、前者のケースは考えられず、後者を想定するしかありません。


●まず、「藩命による郷土史料」(序文)とされる、江戸期の文献『旧蹟遺聞』(文化三年上梓)からみてみます(『南部叢書』第7巻所収)。江戸時代の話です。
  ■志加里[ママ]和気神社
しかりわけの神社は、今志波郡郡山の辺に赤石明神といへるあり、この御社なりといへり。こははやく志加里和気神社と定められたれど、其後火にあひて、古き縁起・神宝やうの物焼たれば、今はしるべきよしなし、その定られたりし頃までは、たしかなる証こそ有つらめ。此み社の古書にみえたるは、延喜神名式に、陸奥国斯波郡一座。小志加里和気神社。また文徳実録に、仁寿二年八月辛未[ママ]。
伊豆佐盗_登奈考[孝]志神。志加里和気神並加正五位下云々。

 ここから読み取れることはいくつかありますが、瀬織津姫を明かす関心からいえば、次の4つがとりあえず挙げられるかとおもいます。

@田村麻呂時代(延暦22年=803年)に「
志波城」が築かれましたが、延喜時代には「斯波郡」、江戸時代には「志波郡」(志和郡)、そして現在は「紫波郡」と、「しわ」の漢字表記は変転があること。
A
志賀理和気神は「赤石明神」と呼称されていたこと。
B志賀理(=志加里)和気神社の「古き縁起・神宝」などは焼失していること。
C文徳実録の仁寿2年=803年の記録に、
伊豆佐盗_登奈考志神とともに「正五位下」という神階が朝廷=神祗官から付与されていること。


●戦後現在はどうなっているかもみてみます(戦前までは祭神不詳であった志賀理和気神=赤石明神なのです)。
  ■志賀理和気神社
祭神 経津主命、武甕槌尊
(由緒)
延暦二十三年(804)坂上田村麻呂が東北開拓の守護神である
香取鹿島の二神を 当地の鎮守として斯波加里の郷鳰(にお or にほ)が磯野(現在地)に勧請合祀したと伝えられている。爾来、東北六郡を領した藤原秀衡の族、樋爪氏を始め、高水寺城主斯波氏など当地を領した累代領主の厚い尊崇を受けた。
 天正年間(1573−1592)南部氏がこの地を領すると殊のほか崇敬の誠を捧げ 、第三十三代利視公は「御社はとまれかくまれ志賀理和気我が十郡の国のみをさき」の和歌を献じ、社殿を造営するなど深く敬仰した。
 さらには近江商人、井筒屋など豪商も霊験あらたかな神として篤く信仰した。境内に 方三尺余の赤石があるところから赤石神社の通称で親しまれる日本最北の延喜式内社である。
岩手県紫波郡紫波町桜町字本町川原1(神奈備HP「延喜式神名帳」)

 戦後現在、祭神は「香取、鹿島の二神」となっていることが田村麻呂伝承とともに語られています。しかし、これらの二神は、この祭神表示どおりならば、戦前に祭神を「不詳」とする理由がわかりません。なぜなら、「香取、鹿島の二神」は、東の伊勢ともいわれるように、ヤマトの武神ですから、まさにヤマトの露骨な「復古」の戦前において、それを表示しないことのほうが不思議だからです。戦前、志賀理和気神=赤石明神の氏子の人たちは、この二神を祭神とすることを潔しとしないからこそ、あえて「祭神不詳」を通したとみることができます。
 現在の「由緒」においても、注意深く読みますと、
「香取、鹿島の二神」を「勧請合祀した」としています。つまり、主神は別だということを暗に述べているわけです。としますと、志賀利和気神=赤石明神とは、ほんとうはどんな神だったのかということになります。

●南部三山と北上川
『提要』から書き出してみます。
@岩鷲山──[県社]岩手山神社【祭神=大名牟遅命、宇迦之御魂命、倭建命】
 (「月の光」管理人の注記:風琳堂の論調は「瀬織津姫と対となる神を考えれば、やはり伊勢に隠された国津神=男神の最高神=太陽神」が岩手山の隠された祭神であるとしているようだ。天照大神男神論を私「月の光」管理人がどう考えているはこちら。)
A姫神岳──[村社]姫神嶽神社【祭神=速佐須良姫命】
B早池峯山─[県社]稗貫郡大迫町の早池峰神社【祭神=姫大神】、戦後に瀬織津姫神に祭神を戻す。

●志賀利和気神=赤石明神とはなにか〜『紫波町史』より
 『紫波町史』によりますと、「シカリワケ」の「ワケ」は「姓」の「わけ」からきた「添え言葉」で、問題は「シカリ」の語義だとなるようです。
 これまで、大きく分けて二つの説がいわれてきました。一つは、菅江真澄が『けふのせはのの』で表記した「鹿猟分[しかりわけ]の社」という理解です。つまり、マタギ言葉で「しかり」は狩人集団の頭領を意味するものだというもの。もう一つは、アイヌ語で「まるい」を意味する「シカリ」からきたとする説です。いずれも、そういわれればそうかといった解釈です。

●風琳堂の第三の説
 同社の由緒書にも記されていましたように、この社の鎮座地は「
斯波加里の郷鳰(にお or にほ)が磯野」でした。 志賀理和気神社の鎮座地は「シワカリ」の郷だというのです。
 ここでこだわってみたいのは、やはり「
シワ」です。延暦22年=803年の田村麻呂の「志波城」からはじまり、弘仁2年=811年に郡名として「斯波郡」とされ、天正16年=1588年に志和郡(志波郡)に、そして明治3年=1870年に「紫波郡」へと、いくつもの漢字表記を経ながらも、変わることのない共通音が「シワ」だというのは、重要なことではないかと考えます。
 延喜式神名帳陸奥国における二つの明神大社、つまり
志波姫神社志波彦神社(   )なのですが、後社は別名「志波道上宮」と呼ばれていました。この「志波道」および社名の「志波」が、田村麻呂の城名「志波城」にそのまま表れていることは大事な符牒だとおもいます。いいかえれば、志波姫志波彦神は、宮城の地にのみ存在した神ではなかったといえそうなのです。宝亀7年=776年、出羽国志波村の蝦夷が叛乱した、翌777年には出羽国軍が志波村の蝦夷に敗れたという続日本紀の記録もあり、「志波」の神はかなり広域に信奉されていた可能性が高いです。
 ここで新しい仮説を提出すれば、「
斯波加里の郷」は「志波神の郷」のことではなかったかとなります。つまり「シカリ」はシワカミシワカリシカリと転じたもので、その祖型神である志波姫神・志波彦神は田村麻呂の「征夷」と同時か直後に主神の座から追われ、そこにいすわった「ワケ」=別の神こそ、田村麻呂が勧請したとされる「香取、鹿島の二神」だったろうとおもいます。
 『紫波町史』も、志賀理和気神社は「中央政権によって全く新規に創祀されたものではなく、以前から夷族の崇敬を受けていた在地の鎮守神を改めて官社に列したものであろう」と推測していますが、わたしは、この「在地の鎮守神」こそ志波神(志波姫と志波彦)だろうとみています。
 では、
主座から追われた在地神志波神はどこへ行ったかとなりますが、少なくとも志波彦神という男神はどこへも行かず、そのまま境内に今でも存在しています。つまり、赤石明神=赤石神社という異名が、このことを端的に語っているわけです。
 神社境内に神石として、現在も鳥居を建ててまつられている赤の大石こそ志波彦神そのものと考えられます。この赤石は、かつては神社が対面する北上川の川中にあった神石でした。いつの時代から境内にまつられるようになったかはわかりませんが、この赤石に、人々が自分たちのほんとうの神を感じとっていたことは、その赤石明神という異名や戦前の鎮座地名(紫波郡赤石村桜町字赤石)から、よく伝わってくるでしょう。
 ところで、赤石で想起されるものといえば、まず、わたしは出羽・湯殿山の神体石の赤岩を考えます。この赤石=赤岩は、山の奥で鉄分を含んだ湯に濡れ、赫々たる赤光を放っています。この岩は太陽神が影向するにふさわしいもので、それを表すかのように、岩の後ろには天照大神が隠れてまつられています(湯殿山神社の表向きの祭神は大己貴命、少彦名命、大山祗命)。

 話を志賀利和気神社にもどします。
 消えた志波彦神が赤石と化したとして、では、消えた志波姫はどこへ行ったかという問題があります。
 大正14年12月4日の跋文の日付をもつ『紫波郡誌』に、次のような志賀理和気神社についての記述があります。

志和[ママ]理和気神社 赤石村大字桜町に鎮座の県社で祭神は不詳である。俗に
赤石明神又は浮島神社とも称へられる、仁寿二年正五位下を加へられ、且つ『延喜式』内の神社である。

 
志賀理和気神社の異名に、「赤石明神」のほかに、もうひとつ「浮島神社」の名があったことがわかります。この浮島神は現在判然としませんが、消えた女神=志波姫神の匂いがする社名です。郡誌は本文での言及はしていませんが、この浮島について、作者不明ながら『篤焉家訓』なる書の一文を後注で再録しています。
 原文の該当箇所を意訳しますと、「当社を浮島明神というのは、その地(北上川の)川辺に、しかも窪地にあるにもかかわらず、どんな洪水のときにも沈んだことがない、その不思議な神異によって、浮島明神という」となりましょうか。
 ヤマトが日高見国への侵攻の足場として724年に築いたのが多賀城ですが、この
多賀城の近くにも浮島神社があります。ここは、荒脛神社の南数百メートルのところに位置し、かつては千賀ノ浦=塩釜湾の入江の島だったようです。この浮島神社は、陸奥国宮城郡の延喜式内社・多賀[たか]神社の比定地のひとつとされています。現在の祭神は「奥鹽老翁神奥鹽老女神」という不思議な祭神名とされています。延喜式内社・多賀神社を主張するなら、祭神表示をその本社と整合させてイザナギ・イザナミとしてよさそうなものですが、なぜか、このような不思議な祭神名となっています。おそらく、現在の鹽竈神ではなく、その「奥」の在地神=男女神を表しているのでしょう。老いたる志波彦神・志波姫神がみえるようです。

 志賀理和気神社の鎮座地「斯波加里の郷鳰が磯野」の「鳰」は「にお(にほ)」と読みます。鳰はカイツブリ科の水鳥なのですが、「鳰湖[におのうみ]」「鳰海」といえば、これは琵琶湖のことです。また、この水鳥が水辺の葦の間につくる巣は、特に「鳰の浮巣」といわれ、これは夏の季語ともなっています。さらに鳰は、潜水術にたけた鳥ということから、別名「息長[しなが]鳥」ともいわれ、「鳰鳥の」となれば「息長[おきなが]」にかかる枕詞となります。日本の神祀りにおいて、瀬織津姫と神功皇后=息長帯日売は不倶戴天の関係にありますが、息長氏の本貫の地もまた琵琶湖西岸であり、その琵琶湖の水神が瀬織津姫であることなど、志波の「鳰」は諏訪湖を越え琵琶湖にまで続いているようです。北上川の川辺=水辺の地を「鳰が磯野」と命名した者の記憶の最終地=初源の地は琵琶湖だったと想像されます。
 志波の浮島と鳰の浮巣がダブルイメージとなってきました。この浮島明神あるいは赤石明神について、「志賀理和気神社」の関係HPに、次のような一文があります。

(志賀理和気神は)地域の人々が北上川の水神を祀った水神様との推測がもっぱら。昔から北上川を往来する船頭さん達が敬い、「船霊さん」と呼んで、遠い海岸から参拝に来る漁業関係者もいる。



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