5度の岩戸閉め、岩戸開き、建替え建直し、光の岸 月の光
Homeに戻る 宮城県の日高見の国
失われた国・日高見国は宮城県と岩手県だったのか? 

(新しいウィンドウで開いています)
鹽土老翁神、塩土の翁 『秀真伝』(八幡書店刊、鳥居礼編著)下巻「御機の二十五」・「御機の二十九」より
 塩土の翁は不思議な神だ。『秀真伝』では2度、皇位継承有資格者(のち皇位を継承する)が危機的状況下になっていると救いの助言を出している。
 その塩土の翁(鹽土老翁神)は宮城県塩釜市の塩竃神社(東北鎮護・陸奥国一之宮)に鎮座している。

 ----------
 『秀真伝』(八幡書店刊、鳥居礼編著)下巻「御機の二十五」(p92)
(山彦海彦物語の山彦の)彦火々出見尊が兄の鉤をなくして宮津の松原(京都府)に首をうなだれ憂いておられると、塩土の翁の助言によって助けられた。

 ----------
 『秀真伝』(八幡書店刊、鳥居礼編著)下巻「御機の二十九」(p251)
塩土の翁が武仁尊(神武天皇)に助言したこと
「飛鳥の宮の饒速日命が配下の長髄彦を従えて、宮中に背いております。大和の国に出向かれて平定なされるのがよろしいでしょう」
と進言されました。

磯輪上(しわかみ)、磯(いそ)の輪(わ) 『秀真伝』(八幡書店刊、鳥居礼編著)上巻「秀真伝序」p164、p174
                     これ見ん人は
     
磯輪上(しわかみ)の  心秀真と
     なるときは         花咲く御世の
     春や来ぬらん
     
磯(いそ)輪(わ)の  真砂は読みて
     尽くるとも          秀真の道は
     幾世尽きせじ

  (注17)「磯輪上(しわかみ)」は「秀真国」を修飾している言葉と考えられる。すぐあとに「磯(いそ)輪(わ)」とみえることから「シワカミ」の「
」は、「」は、「カミ」はで、潮が輪となって打ち寄せる磯の上にある国という意味であろうか。

 ----------
 上の『秀真伝』の一文は鹽土老翁神と志波彦神について考えをめぐらせている時なので、妙に引っ掛かる。「磯輪(しわ)」と「志波(しわ)」、「潮(しお)」と「塩(しお)」のかかわり。
 「シワ(磯輪・志波)」ときたら、「
秀真国」となる常識が『秀真伝』奉呈の頃はあったのではないか。
 そうだとすると「秀真国」の「彦」と「姫」で想定される神はどういう神だろうか?国常立大神と豊雲野大神だろうか、それとも天照神と瀬織津姫神だろうか、それとも瓊々杵尊と木花咲耶姫だろうか。
 また別の角度から、『古事記』によれば、那岐那美両神の天野矛(あめのぬほこ)から滴り落ちる「潮(汐・塩)」が固まってオノコロ島ができたはずだった。この国生みのときの「潮(汐・塩)」と鹽土老翁神の関連はいかに?

秀真国はどこか?   『秀真伝』(八幡書店刊、鳥居礼編著)上巻「御機の四」p293

昔この     常立尊の
八降子    木草お苞(つと)の
秀真国   東遙かに
波高く     立ち登る日の
日高見や   高皇産霊尊と
すべて   常世の花お
原見山     香久山山となす
五百継の   真栄木も植え


(上の記述の訳から)
「むかし、国常立尊の八降子であるトホカミエヒタメのうち
トの神は、木草の種を土産として秀真国の天の原見山(富士山)にて政治を執られた。その秀真国の遥か東に、日が高波の上に見える日高見の国がある。トの神日高見の国の高皇産霊尊とともに国を治められ、常世の国の花である香久橘(かぐたちばな)を、天の原見山(富士山)にお植えになり、この山を香久山(かぐやま)と讃えた。」

(p177の注38より)「
秀真
 
富士山を中心とする関東・東海周辺域を意味する。『日本書紀』の「神武紀」に見られるように、転じて日本全体を指す美称として用いられた。

 ----------
『霊界物語』(出口王仁三郎、八幡書店刊)にあった記述(私の記憶に頼っているので正確ではありません)。
●今の富士は
かつての富士山(便宜的に古代富士山としておく)の八合目より上の部分が残存しているものである。その高さは現在のエベレストの3倍だったという。
古代富士山では裾野部分からすでに雲の上だった。雲の上だった裾野の範囲は、東は現在の茨城県、西は福井から愛知だったという。
●古代富士山の雲から上に住んでいた人(雲上人)たちが高天原人種(
神人)。
 だから特別に雲の下に行くことを天孫降臨といった。
●天照神が神上がられてから
古代富士山も爆発し現在の富士山に近くなった。(これは『秀真伝』からの推論)

・・・・・現在のエベレストの3倍くらいの高さだった富士山(
古代富士山)の頂上にあったであろう宮から日高見の国はどのように見えただろうか。あるいは日高見の国から古代富士山は見えたのだろうか。

 ----------
 『秀真伝』と『霊界物語』を総合して考えると
「秀真国」とは古代富士山の雲から上の部分の国である、と結論付けることができるかもしれない。そして、当時の日本の気候は亜熱帯で雲から上の部分がちょうど過ごしやすかった可能性がある。
 そして、
古代富士山の爆発の影響で今の高さまで沈降し、「雲の上にあった」という伝承と「秀真国」という伝承と伝えられることになったのかもしれない。
 ちなみに参考として『霊界物語』で触れている世界の三大人文地帯
第一にエルサレム地帯
第二にセイロン島
第三に高天原地帯(自転倒島)

『秀真伝』(八幡書店刊、鳥居礼編著)下巻「三笠紀」残篇六より  pp704-705
  
高天原についての注

多賀城市の観光協会のホームページ >多賀城市 史跡散策マップ

宮城県神道青年協議会県内神社検索


松島
 小学校6年生の時の修学旅行が松島だった。当時に大人になってから来てみたいと思った。山形に帰る途中、仙台には何度か立ち寄れているのだが、改めて「松島」と聞くと小学校6年生の頃の思い出が蘇ってきて心踊るものがある。「松島や、ああ〜、松島や」。〜46歳の秋。

 ----------
松島観光協会の電脳松島絵巻より
 ・松島が最も美しく見えるポイントの紹介
   日本三景とは、松島、天橋立、厳島です。今回の松島行きで達成。
     また、五大弁才天とは竹生島・厳島・江ノ島の三大弁才天に
    奈良県の天河大弁才天社と宮城県の金華山山頂の奥宮に鎮座する大海祇神社を加えたもの。
    三大弁財天または五大弁才天も今回の宮城旅行で達成。
 ・施設一覧遊覧船松島ベイクルーズ(株)、丸文松島汽船(株)松島島巡り観光船企業組合ニュー松島観光船(株)


日高見神社
宮城県石巻市桃生町太田字拾貫1-73 
陸奥総社宮神社の参拝記録日高見神社より
 延喜式内社奥州百座中、桃生郡六座の一つとして社格を誇り、古くから遠近の信仰も  集めてきた日高見神社は、この百社中所在地も明確で郡内六座の筆頭にある。

☆☆☆
主祭神: 国常立大神(クニトコタチノオオカミ)

地蔵菩薩(社殿左境内社)
虚空蔵菩薩(社殿右境内社)

・天照大神(アマテラスオオミカミ) 
・日本武尊(ヤマトタケルノミコト) 
・武内宿弥(タケノウチノスクネ)

---------
風琳堂 東北伝説日高見川=北上川の水神 より
・・・
北上川日高見川であったことが判明する。(高橋富雄『古代蝦夷を考える』)

御崎神社
宮城県本吉郡唐桑町崎浜7
電話:
0226-32-3406

☆☆☆
祭神

  大海津見神・素盞鳴尊・日本武尊

塩竃神社
宮城県塩竃市一森山1-1

電話:
022-367-1611
鹽竈神社の公式ホームページより

江戸時代以前はあまり判然とせず諸説があった様です。陸奥國最大の社として中古より崇敬された神社の御祭神がはっきりしないのは奇異な感じがしますが、呼称も鹽竈宮・鹽竈明神・鹽竈六所明神・或いは三社の神など様々あった様です。そこで伊達家4代綱村公は社殿の造営に際し、当時の名だたる学者を集めて研究せしめ現在の三神とし、又現在の別宮の地にあった貴船社と只州(糺)宮は現在の仙台市泉区の古内に遷座されました。

☆☆☆
別宮に主祭神
   塩土老翁神
左宮
   武甕槌神
右宮
   経津主神

 ----------
 「玄松子」より


志波彦神社神社
宮城県塩竃市一森山1-1

電話
022-367-1611
鹽竈神社>志波彦神社ホームページより
 志波彦神社は志波彦大神をお祀りしております。あまり馴染みのない御神名ですが、『延喜式』の神名帳に記載されている3132座の中でもわずか224ヶ所しかない「明神大社」と言う最高の崇敬を朝廷より受けていた神社です。

 元々は東山道より多賀城に至る交通の要所宮城郡岩切村(現仙台市宮城野区岩切)の冠川(七北田川)の辺(現
八坂神社境内)に鎮座しておりましたが、中世以降衰微の一途を辿り境内も狭隘だったため、明治4年の国幣中社列格の際に社殿造営の事が検討され、明治7年12月5日この地を離れ鹽竈神社別宮に遷座され、この際の御祭文に後日鹽竈神社境内に社殿を造営する旨が奏上されました。

☆☆☆
主祭神
   志波彦大神

 ----------
 「玄松子」より

(仙台)八坂神社
宮城県仙台市宮城野区岩切字若宮前11
電話:
022-255-8028
陸奥総社宮神社の参拝記録八坂神社と冠川神社より

☆☆☆
主祭神
   素戔鳴尊(スサノオノミコト)
   天児屋根命(アメノコヤネノミコト)
上記の八坂神社の摂社
冠川神社=志波彦神社
宮城県仙台市宮城野区岩切字若宮前11
電話:
022-255-8028
陸奥総社宮神社の参拝記録冠川神社=志波彦神社より
 天正年間に縁起を焼失し沿革不詳なれども、本社は延喜式内明神大社・志波彦神社で、いつ頃よりか甚だしく衰微し、延宝3年(1675年)の再建には堅石5尺横6尺の小祠となり、しかも摂社である天王社と並び立つ状態であった。
 明治4年5月14日、官国幣社治定に当たり国幣中社に列せられたが、社地挾隘(キョウアイ)にして社殿造建不可なる理由により、明治7年12月24日に鹽竈神社に遷宮された。
 明治10年3月31日官許を得て志波彦神社分霊を岩切村の旧社に奉遷し、冠川神社と称し、国幣中社(陸奥国一ノ宮 志波彦神社・鹽竈神社)の摂社に指定された。
☆☆☆
主祭神
   神産霊尊
   (大勢至菩薩〜ダイセイシボサツ)
志波姫神社
陸奥総社宮神社の参拝記録志波姫神社より

志波姫神社は三社ある。

@宮城県栗原市志波姫町八樟新田126 の志波姫神社(延喜式内社)。
祭神: 木花開耶媛 (コノハナノサクヤヒメ)

A宮城県栗原市高清水町字五輪17の志波姫神社
祭神:天鈿女命(アメノウズメノミコト)

B宮城県古川市桜ノ目字高谷地205 (電話 0229-28-3365 )の江合川(荒雄川)の畔の志波姫神社()。
祭神:天鈿女命(アメノウズメノミコト)
配祀:武甕槌神
多賀城址
多賀城址
多賀城跡」〜写真がいい

多賀城の石碑と神社より



多賀神社
(国府駅の東南方向すぐ)
宮城県多賀城市高崎1-14-13
多賀神社


 ----------
 「玄松子」より


多賀神社
多賀神社
多賀神社
多賀城神社
多賀城神社
多賀城神社
貴船神社
貴船神社
貴船神社
神社
(アラハバキ神社)
宮城県多賀城市市川
神奈備より
陸奥一宮の鹽竃神社の末社とされていたが、現在は末社ではないようである。
 陸奥国鎮守の多賀城の左隅に、総社宮と相対するかたちで鎮座する。
☆☆☆
主祭神
   荒

 ----------
 「玄松子」より



---------
風琳堂 東北伝説囲炉裏夜話過去ログ NO301-600のうちNO301話から「アラハバキ」についての風琳堂の仮説
「・・・必死に瀬織津姫隠しをしても、瀬織津姫は存在しつづけているように、同じことが、消された日神にもいえるはずでしょう。その
消された日神の異名の一つがアラハバキ神ではないかということなのです。瀬織津姫「荒魂」=荒波々伽神→アラハバキ神だというのが、わたしの基本的な仮説です。
 以下は、隠し続けられてきた瀬織津姫を、東北を舞台に、明かそうとする試みです。」

---------
風琳堂 東北伝説囲炉裏夜話過去ログ NO301-600のうちNO453話から「ハバキ」について
「アラハバキ神につきましては、ハハキ=ハハカ神の「ハハカ」が桜の古名であるということから、「荒桜神」という理解も可能かなとおもっています。これは、水神の化身としての桜神が瀬織津姫と重なること、および伊勢において、瀬織津姫=荒祭神がアラハバキ姫(アラハバキ神との対神=姫神)などと呼ばれる伝承があることからも、ある程度有効な仮説かという気がしています。ただし、ハハカ神=ホウキ神=蛇神といった性格や、産鉄の「火」に関わる神といった性格なども、この「ハハキ」という命名には複層化されていることが考えられます。また、伯耆=ホウキの荒神という意味も読み取ることができそうです。つまり、伯耆国の火神の山=大山の神という性格です。
 いずれにしましても、神々の歴史舞台で、異端の神、謎の神といったこれまでのイメージを、もう一歩踏み込んで語れば、アラハバキ神は伊勢の元神に深く関わる神ゆえに「異端」の神なのでしょう。伊勢の元神も、もとは蛇神(しかも男性神)ですから、当然、三輪山の神とも、あるいは各地の男蛇神とも共通する性格をもっています。」

---------
風琳堂 東北伝説囲炉裏夜話過去ログ NO301-600のうちNO598話から「アラハバキ」の諸説
「アラハバキは、東北の神というより、穂国―豊川流域の地主神と言っていいかと思います。
(中略)
従来からの説としてあげられるのは、地主神あるいは門神とする説、賽の神とする説です。
これに対して、吉野裕子氏は、ハバは蛇のことであり、蛇神としています。また、近江雅和氏は、インドの古代神「アーラヴァカヤクシァー」が日本に入ってきてアラハバキ神になったとしています。
一方、盟友・風琳堂主人は、朱桜の古名の波々伽と関係するのではとしています。」

---------
風琳堂 東北伝説囲炉裏夜話過去ログ NO301-600のうちNO599話から「アラハバキ姫の伝承」
「 伊勢の荒祭宮の神(瀬織津姫)が「アラハバキ姫」とも呼ばれる伝承を記録していたのは、近江雅和著『記紀解体』でした。この伝承一つあるだけでも、瀬織津姫とアラハバキ神が、濃厚密接な関係にある神々だということを伝えて余りあるというべきでしょう。」

浮島神社
宮城県多賀城市浮島字赤坂1-1


 ----------
 「玄松子」より


 ----------
風琳堂 東北伝説囲炉裏夜話過去ログ NO301-600のうちNO.305話から

陸奥国宮城郡の延喜式内社・
多賀[たか]神社の比定地のひとつとされています。

☆☆☆
現在の主祭神
   奥鹽老翁神奥鹽老女神
融神社
融神社
融神社
陸奥総社宮
宮城県多賀城市市川字奏社1



 ----------
 「玄松子」より


 ----------
陸奥総社宮
多賀城碑
(壷の碑)
黄金山神社
宮城県石巻市鮎川浜金華山
電話:
0225-45-2301
太平洋に浮かぶ黄金花咲く金華山より

---------
丸中金華山汽船株式会社の金華山観光コースより

---------
黄金山神社由緒書より


---------
牡鹿半島癒しの旅委員会「黄金山神社」より

 日本五大弁財天としても有名で、弁天堂(頂上遙拝所)も建立されています。
他に金華山島内には八社、26柱の大神様、八大龍王神の石碑が祀られています。

祭神

  金山毘古神 金山比売神

---------
『秀真伝』(鳥居礼編著、八幡書店)上巻「御機の四」p76
『秀真政伝』に「大日霊貴尊の御身より金色の御光り照輝き八方天下にてりとふり其光り東海の島に凝化て石砂木草海中の魚類に至るまでも皆以金色と化る奥州金花山」是なり」とみえる。宮城県牡鹿郡の金華山に黄金山神社がある。
---------
『秀真伝』(鳥居礼編著、八幡書店)上巻「御機の十一」p537
 任を終え、若宮にてご休憩になられていた若彦命(天児屋根命)は、ある日守(こう)の殿にお上りになりなり、向こうの島(
金華山)に見える黄金の花は何かと問われました。高木の命は答えられました。
「むかし天照神が天の道を学ばれておられるとき、その宮を守る鳥が黄金を吐きました。ところが、伊佐子姫(伊弉册尊)のお生みになられ御子(天照神)も黄金のごとく輝いていて、鳥の吐いた黄金とまったく見分けがつかぬほどでした。ゆえに、あの山を黄金(こがね)咲く久見る山と讃えたのです」

大海祇神社
大海祇神社
陸奥総社宮金華山_大海祇神社より

黄金山神社
宮城県遠田郡涌谷町涌谷字黄金宮前23

電話
0229-42-2619
公式ホームページより

☆☆☆
祭神

  金山毘古神 天照皇大神 猿田彦命
配祀
  軻遇土神 月読命

駒形根神社
栗原市栗駒町沼倉一の宮11
電話:
0228-45-4886
義経伝説栗駒山と沼倉の里の研究栗駒村史3ページ目より
 当社は御駒宮大日社駒形根大明神駒形根神社と云い、栗駒嶽絶巓大日嶽にあるを嶽宮と称し、其東麓に当たる栗駒村沼倉に在るを御里宮と称す。
 【祭神】
 大日霊尊
 天常立尊
 国常立尊
 吾勝尊
 天津彦番邇々芸尊
 神日本磐余彦火火出見尊
 にして創建の年月祥ならずと雖も、延喜式神名帳に載する所の本郡七社の一にして縁記に依れば人皇十二代景行天皇の皇子
日本武尊東夷征伐の命を給いし時、軍容堂々として其勢い雷電の如く迎え遮る者無かりしかば巨魁等極力要害の地に立てこもる防ぎしも其勢いに怖れ終に弓矢を捨てて降を請い東陲全く定まりしかば尊自から六柱の神を駒形山の頂なる大日嶽に齋き祀りて東国鎮護を祈り給い且つ祭政一致の主義に因り万民に敬神の念を授け給えるものにて東国に於ける祭神の最初なれば古来東は奥の一ノ宮日宮と称し人民皆恐れて此山に登る者なかりしと云う故に玉山と文字の間なる大峯(昔は拝峯とも云う)より参拝せりと、其後桓武天皇の延暦年中征夷大将軍坂上田村麿東夷征伐の節此社に祈願を籠めしに程なく大勝を得て東夷悉く平定せしかば四大門(大鳥町 花山 三島 秋田仙北郡)を建て奉賽し親ら駒形大明神の五文字を書したる大額を掲げ又其額は今伝わり居らざるも門の跡は現存せり。

---------
陸奥総社宮神社の参拝記録駒形根神社

陸奥総社宮神社の参拝記録栗駒山頂上の駒形根神社奥宮御室の奥の院

---------
くりこま荘駒形根神社より
 古来、日宮・大日社・駒形社と称し、俗にお駒様と親しまれている。
 社記に『日本武尊御東征の折、天照大神外五柱の主神に祈願創建』奥羽鎮護の一ノ宮として駒形嶽(栗駒山の古名)を奥宮、沼倉の地に里宮を祀ったと誌され、太古より日宮と呼称。
 大和朝廷蝦夷平定に伴い社勢隆盛。宴暦20年(801)坂上田村麻呂奥羽鎮定を祈願。

---------
栗駒山駒姿情報栗駒山への道しるべより

☆☆☆
主祭神〜6柱
大日霊尊(オオヒルメノミコト)、
天常立尊(アマトコダツノミコト)、
国常立尊(クニトコダツノミコト)、
吾勝々速日尊(アカツカツハヤヒノミコト)、
天津彦穂邇尊(アマツヒコホニノミコト)、
日本磐余彦火出見尊(ヤマトイワレヒコヒデミノミコト)

---------
栗駒鶯沢商工会の見どころマップ>駒形根神社より
 古来、
日宮(ひるみや)大日社駒形社と称し、俗に『お駒様』と親しまれている。
 社記に、『日本武尊御東征の折、大日ルメ尊外五柱の主神に祈願創建』
 奥羽鎮護の一ノ宮として
駒形嶽栗駒山の古名)を奥宮、沼倉の地に里宮を祀ったと誌され、太古より日宮と呼称。

051017_宮城から帰ってきて〜日高見の国はどこか?
 今回の旅行で、日程が詰まっていたため多賀城市に入ることはできなかった。しかし、今回の旅行で多賀城市に入らなくても『秀真伝』(鳥居礼編著、八幡書店)の日高見の国は多賀城市周辺ではないことが実感できた。これは大きな収穫だった。旅行の前の雰囲気では多賀城市周辺が日高見の国である可能性が高いと思っていた。しかし旅行に行ってきてみて、日高見の国は違うところにあったのだと思った。
 多賀城市について素盞鳴神は次のように言ってくれている、
「多賀城市は神の代から離れた人の世のはかない願いが込められている場所であるから行ってあげてほしい」

このページのトップに戻る