5度の岩戸閉め ・岩戸開き ・建替え建直し 月の光
  平成18年5月5〜7日 宮城県多賀城市・塩釜・松島・石巻・仙台
トピック ●鼻節神社・大根神社→多聞天山〜毘沙門大神(偉観)→双観山→扇谷(幽観)→松島(瑞巌寺・五大堂・福浦島・雄島)→冨山(麗観)→大高森(壮観)。
●鹽竈神社・志波彦神社→多賀城市の観光。
●零羊崎神社→鹿島御児神社→計仙麻神社(朝日山)→計仙麻大嶋神社・亀山
●青葉城→八坂神社・冠川神社

 今回の宮城県行は昨年平成17年10月15〜16日に続いて2回目だ。
 昨年は「日高見国」に焦点を当てたもので、行ってみた結果、日高見国は宮城県多賀城市ではないという確信を私なりに得た。

 旅行から帰ってきた私は、素盞鳴神から次のような要請をうけた。
「宮城県多賀城市は神の代から離れた人の世のはかない願いが込められている場所であるから行ってあげてほしい」

 今回の連休の宮城県多賀城市訪問は昨年に決められたことだった。


 今回の宮城県多賀城市訪問前の4月29〜30日、京都府の梅宮大社・月読神社(京都市西京区松室山添町)・松尾大社・月読神社(京田辺市大住池平市)・薪神社・甘南備神社に思い立って行ってきた。


  ☆☆☆☆☆☆

 必死に調べていくと、どうものんびりした旅行ではなさそうだ。
 昨年に続き、「日高見の国」が再びテーマのようだ。
 
 この世ふうの例え。
 昨年が日高見国への道を見極め、今年入る。
 

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<< 全体的な案内サイト >>
  宮城県神道青年協議会県内神社検索
  多賀城市の観光協会のホームページ >多賀城市史跡散策マップ
  松島観光協会の電脳松島絵巻松島が最も美しく見えるポイントの紹介

 多賀城市には、レンタルサイクルやボランティアのガイドさんがいるらしい。
  <観光ボランティアガイド、レンタサイクルの問合せ先>

  多賀城市観光協会     住所:985-8531 宮城県多賀城市中央2-1-1  TEL:022-368-1141
  または、
   史都多賀城観光案内所  住所:985-0873 宮城県多賀城市中央2-5-1  
TEL:022-364-5901


公のサイト 神社名      概    要
鼻節神社

宮城郡七ヶ浜町花淵浜字誰道1
 

陸奥総社宮神社の参拝記録鼻節神社 より

【祭神】
  猿田彦命(サルタヒコノミコト)
  大山祗神(オオヤマズミノカミ)
  保食神(ウケモチノカミ)
  菅原道真(スガワラミチザネ)

【由緒】
 本社創紀の年代は、古書によると第34代・舒明(ジョメイ)天皇2年(630年)といわれ   第60代・醍醐(ダイゴ)天皇の延喜5年(905年)に、全国の神社を調査せしめた延喜式神明帳には、陸奥国の神社の一百座を大社15社、小社85社とし、鼻節神社は承知11年(844年)に名神大社へ社格された。
 社伝によると鼻節神社の祭神は鹽竈神社と同じ神であるといい、また別の説では  鹽竈神社の祭神を案内した岐神(クナドノカミ)という。
 また猿田彦神、塩土神、多カ雄神ともいう。

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 「玄松子」>鼻節神社 より

 社伝によると当社の祭神は、鹽竃神社と同じ神であるといい、鼻節の浜に上陸したという。
 別の説では、鹽竃神社祭神を案内した岐神(くなどのかみ)。

大根神社

陸奥総社宮神社の参拝記録鼻節神社 より

【祭神】
  不明

【由緒】
 境内奥には八幡社があり、右手前には2つ(東西)の石祠の
大根神社の遥拝所があります。
 
大根神社とは、明神崎の沖合い20km(また4km)先に東根・西根の呼ばれる大岩礁があり、ここに大根明神が祭られ、干潮の時には海底に石造の社殿鳥居がみえるといわれる。

公式サイト 塩竃神社

宮城県塩竃市一森山1-1
鹽竈神社の公式ホームページより

江戸時代以前はあまり判然とせず諸説があった様です。陸奥國最大の社として中古より崇敬された神社の御祭神がはっきりしないのは奇異な感じがしますが、呼称も鹽竈宮・鹽竈明神・鹽竈六所明神・或いは三社の神など様々あった様です。そこで伊達家4代綱村公は社殿の造営に際し、当時の名だたる学者を集めて研究せしめ現在の三神とし、又現在の別宮の地にあった貴船社と只州(糺)宮は現在の仙台市泉区の古内に遷座されました。

☆☆☆
別宮に主祭神
   塩土老翁神
左宮
   武甕槌神
右宮
   経津主神

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 「玄松子」より
公式サイト 志波彦神社

宮城県塩竃市一森山1-1
鹽竈神社>志波彦神社ホームページより
 志波彦神社は志波彦大神をお祀りしております。あまり馴染みのない御神名ですが、『延喜式』の神名帳に記載されている3132座の中でもわずか224ヶ所しかない「明神大社」と言う最高の崇敬を朝廷より受けていた神社です。

 元々は東山道より多賀城に至る交通の要所宮城郡岩切村(現仙台市宮城野区岩切)の冠川(七北田川)の辺(現
八坂神社境内)に鎮座しておりましたが、中世以降衰微の一途を辿り境内も狭隘だったため、明治4年の国幣中社列格の際に社殿造営の事が検討され、明治7年12月5日この地を離れ鹽竈神社別宮に遷座され、この際の御祭文に後日鹽竈神社境内に社殿を造営する旨が奏上されました。

☆☆☆
主祭神
   志波彦大神

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 「玄松子」より
(仙台)八坂神社

宮城県仙台市宮城野区岩切字若宮前11
 
陸奥総社宮神社の参拝記録八坂神社と冠川神社 より

【祭神】
  素戔鳴尊(スサノオノミコト)
  天児屋根命(アメノコヤネノミコト)

【由緒】
 文治5年(1189年)6月7日、高森城主・伊澤家景が京都の祇園から勧請し、始めは岩切村・余目(アマルメ)の城内に鎮座し、圭田・二十石を納む。後、同村の台ヶ原頂上に座して天王山と称す。戦国・天正(1573-1592)の頃より社殿荒廃し祭事を欠くに至る。


上記の八坂神社の摂社
冠川神社=志波彦神社


宮城県仙台市宮城野区岩切字若宮前11
 
陸奥総社宮神社の参拝記録冠川神社=志波彦神 より

【祭神】
  神産霊尊
  大勢至菩薩(ダイセイシボサツ)

【由緒】
 天正年間に縁起を焼失し沿革不詳なれども、本社は延喜式内明神大社・志波彦神社で、いつ頃よりか甚だしく衰微し、延宝3年(1675年)の再建には堅石5尺横6尺の小祠となり、しかも摂社である天王社と並び立つ状態であった。
 明治4年5月14日、官国幣社治定に当たり国幣中社に列せられたが、社地挾隘(キョウアイ)にして社殿造建不可なる理由により、明治7年12月24日に鹽竈神社に遷宮された。
 明治10年3月31日官許を得て志波彦神社分霊を岩切村の旧社に奉遷し、冠川神社と称し、国幣中社(陸奥国一ノ宮 志波彦神社・鹽竈神社)の摂社に指定された。



多賀城址

宮城県多賀城市市川
 
多賀城跡」〜写真がいい

多賀城の石碑と神社より
多賀神社(高ア)

宮城県多賀城市高崎字坂下45
 
陸奥総社宮神社の参拝記録多賀神社(高ア) より

【祭神】
  伊弉諾尊(イザナギノミコト)
  伊弉冉尊(イザナミノミコト)

【由緒】
昭和41年に国の特別史跡に指定された多賀城の附属寺院(多賀城廃寺)跡の東塔基壇上に鎮座した神殿その他の施設を、隣接のこの地に移築した。

多賀神社(市川)

宮城県多賀城市市川
 
 「玄松子」>多賀神社(市川) より

【祭神】
  不明

【由緒】


多賀城神社

宮城県多賀城市市川
 
 南奥州仙台2>多賀城神社 より

【祭神】
  後村上天皇
  北畠親房
  北畠顕家
  伊達行朝
  結城宗広等
  南朝諸将

【由緒】
 建武の新政によって弱冠16歳であった
北畠顕家(親房の子)が陸奥守に任じられ、後醍醐天皇の皇子である6歳の義良親王(後村上帝)を連れ、そして親王の補佐役として建武中興の元勲であり南朝の要であった北畠親房らが、多賀城国府に下向。そして陸奥豪族たる伊達行朝や結城宗広らが陸奥南朝をささえ、多賀国府の評定衆として陸奥南朝をささえていた。親王は陸奥宮とよばれ、正式な陸奥太守となった。
北畠顕家のもとに再興された多賀国府は奥州小幕府と呼称されるほどの大政庁となり、東国の南朝一大拠点となった。

 後村上天皇をはじめとする南朝の諸将をまつる神社創建が計画されるも、大東亜戦争が勃発し計画は頓挫。
戦後、再び神社建立の気運が高まり、海軍工廠内に置かれていた奉安殿を払いうけ、昭和27年に政庁裏に社殿建立したことにはじまる。
昭和48年に現在地に遷座。


貴船神社

宮城県多賀城市市川
 goo地図
神社
(アラハバキ神社)


宮城県多賀城市市川
 goo地図

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 神奈備>荒脛巾 より

【祭神】
  荒脛巾神(あらはばきかみ)

【由緒】
 陸奥一宮の鹽竃神社の末社とされていたが、現在は末社ではないようである。
 陸奥国鎮守の多賀城の左隅に、総社宮と相対するかたちで鎮座する。

 個人の家の庭に置かれているように見える。この神は軒を貸して母屋を取られる歴史を彷彿とさせる。荒脛神は門人客社として祀られる事が多い。

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 「玄松子」>神社 より

【祭神】
  荒脛巾神(あらはばきかみ)

【由緒】
 
鹽竈神社の境外末社の一つ。
 その名から、足の神、下半身の神として崇敬されており、社殿には、履物や男根の奉納が多い。
 いわゆる民間信仰の神だが、本来は、守護神として祀られたものとも考えられ、東北地方では、城などの周囲に「アラハバキ神」を祀る場合が多い。
 また、客人神として、外来の神を祀るという説もあり、その発展として、旅の神とも考えられる。
 とにかく、複雑に雑多な要素を含んだ神徳といえる。


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風琳堂 東北伝説囲炉裏夜話過去ログ NO301-600のうちNO301話から「アラハバキ」についての風琳堂の仮説
「・・・必死に瀬織津姫隠しをしても、瀬織津姫は存在しつづけているように、同じことが、消された日神にもいえるはずでしょう。
その消された日神の異名の一つがアラハバキ神ではないかということなのです。瀬織津姫「荒魂」=荒波々伽神→アラハバキ神だというのが、わたしの基本的な仮説です。
 以下は、隠し続けられてきた瀬織津姫を、東北を舞台に、明かそうとする試みです。」

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風琳堂 東北伝説囲炉裏夜話過去ログ NO301-600のうちNO453話から「ハバキ」について
「アラハバキ神につきましては、ハハキ=ハハカ神の「ハハカ」が桜の古名であるということから、「荒桜神」という理解も可能かなとおもっています。これは、水神の化身としての桜神が瀬織津姫と重なること、および伊勢において、瀬織津姫=荒祭神がアラハバキ姫(アラハバキ神との対神=姫神)などと呼ばれる伝承があることからも、ある程度有効な仮説かという気がしています。ただし、ハハカ神=ホウキ神=蛇神といった性格や、産鉄の「火」に関わる神といった性格なども、この「ハハキ」という命名には複層化されていることが考えられます。また、伯耆=ホウキの荒神という意味も読み取ることができそうです。つまり、伯耆国の火神の山=大山の神という性格です。
 いずれにしましても、神々の歴史舞台で、異端の神、謎の神といったこれまでのイメージを、もう一歩踏み込んで語れば、アラハバキ神は伊勢の元神に深く関わる神ゆえに「異端」の神なのでしょう。伊勢の元神も、もとは蛇神(しかも男性神)ですから、当然、三輪山の神とも、あるいは各地の男蛇神とも共通する性格をもっています。」

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風琳堂 東北伝説囲炉裏夜話過去ログ NO301-600のうちNO598話から「アラハバキ」の諸説
「アラハバキは、東北の神というより、穂国―豊川流域の地主神と言っていいかと思います。
(中略)
従来からの説としてあげられるのは、地主神あるいは門神とする説、賽の神とする説です。
これに対して、吉野裕子氏は、ハバは蛇のことであり、蛇神としています。また、近江雅和氏は、インドの古代神「アーラヴァカヤクシァー」が日本に入ってきてアラハバキ神になったとしています。
一方、盟友・風琳堂主人は、朱桜の古名の波々伽と関係するのではとしています。」

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風琳堂 東北伝説囲炉裏夜話過去ログ NO301-600のうちNO599話から「アラハバキ姫の伝承」
「 伊勢の荒祭宮の神(瀬織津姫)が「アラハバキ姫」とも呼ばれる伝承を記録していたのは、近江雅和著『記紀解体』でした。この伝承一つあるだけでも、瀬織津姫とアラハバキ神が、濃厚密接な関係にある神々だということを伝えて余りあるというべきでしょう。」

浮島神社

宮城県多賀城市浮島字赤坂1-1
 
陸奥総社宮神社の参拝記録浮島神社 より
(平成18年5月4日の段階で、浮島神社のブラウザの表示が松尾大社になってしまっている。宮城県に来る直前に、京都の松尾大社に私たちは行っている。 )
【祭神】
  奥鹽老翁神
  奥鹽老女神

【由緒】

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 「玄松子」>浮島神社 より


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風琳堂 東北伝説囲炉裏夜話過去ログ NO301-600のうちNO.305話から

陸奥国宮城郡の延喜式内社・多賀[たか]神社の比定地のひとつとされています。

☆☆☆
現在の主祭神
   奥鹽老翁神奥鹽老女神
融神社

宮城県多賀城市浮島字赤坂1-1
 
芭蕉庵ドットコム俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡「塩釜の浦」と源融 より

 源融(みなもとのとおる、822-895)は嵯峨天皇の皇子で、仁明天皇の異母弟にあたる。「三代実録」の貞観6年(864年)3月8日の条に「正三位行中納言源朝臣融加陸奥出羽按察使」とあり、融は、陸奥出羽按察使の任にあったが、「続日本後紀」等の文献により、直接任国に行くことを免除された「遥任」であったことが知られる。
 しかし、これによらず、かつての多賀城の周辺に、源融にまつわる神社や古跡が散見されるのは、どのような背景からだろうか。

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フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
紫式部『源氏物語』光源氏の実在のモデルの一人。
世阿弥の能『融』の元になった。

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 参考に京都梅宮大社の由緒書きより
「 (梅宮大社は)嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子(タチバナノカチコ<檀林皇后>)によって現在の地に遷しまつられました。 」
 

陸奥総社宮

宮城県多賀城市市川字奏社1
 
陸奥総社宮神社の参拝記録> より

【祭神】
  奥鹽老翁神
  奥鹽老女神

【由緒】

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 「玄松子」より

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多賀城碑
(壷の碑)
芭蕉庵ドットコム俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡多賀城碑(壺の碑)についてより
計仙麻神社
(けせまじんじゃ)

河南町北村字朝日山
(諸説あり)
  
 ホツマツタヱの世界へようこそ > 神社物語1.より
祭神:倉稲魂(うかのみたま)命

 この神社の祭神も倉稲魂(うかのみたま)命となっていますが、ここも豊受神を祭った神社であることは、まず間違いありません。現在、旭山は県立公園になっており、計仙麻神社神社は山の頂きに建っており、そこから眺める石巻湾は太平洋、金華山、松島などを一望  のもとにおさめ、この山から拝む朝日は最高の美しさです。 日高見の名はここから生まれたようにおもいます。



【地名の由来】郡名より
気仙(けせん)郡の由来
歴史書には「介世(ケセ)」や「計仙麻(ケセマ)」もある。
(1) 宮城県桃生郡の計仙麻大嶋神社に由来
(2) カセマ(枷間)が転じたもの
(3) ケセはケシの転で、キシと同じ「崖」の意味
(4) アイヌ語で「ケセ(終、下)」から「下のはずれ、末端」
(5) アイヌ語で「ケセ・マ(削りをせおう海や所)」
(6) ケセンからきたもので海道の入り口の郷村

計仙麻大嶋神社
(けせまおおしまじんじゃ)

宮城県気仙沼市字亀山1番地 (大島)
 


陸奥総社宮神社の参拝記録計仙麻大嶋神社 より

【祭神】
 倉穂魂神 (ウガノミタマノカミ)
 大海津見大 神 (オオワタツミノオオカミ:児置島)

【由緒】
 金華山以北では、最も古い歴史と高い格式を有する延喜式内社・桃生郡六座の大社  明神。大島神社は、今からおよそ1000年以上も前の文献にもその名が出てくる程  古く、蝦夷の民心の安定帰服と開拓の安寧を祈念して創建されたものといわれて  います。

   ーーーーー 御崎(オサキ)神社の御由緒から ーーーーー
 計仙麻大嶋神社は約1160年前、気前(けさき)、即ちケセマ崎(唐桑半島)の児置島(コオキシマ)を御神体として大海津見大神(オオワタツミノオオカミ)を祀り、唐桑町御崎の地に発祥した。
 計仙麻七郡・総鎮守、計仙麻大嶋神社大権現の宮は、第52代嵯峨天皇の弘仁年中に 五条民部郷御崎荒磯に御本地正観音あり。海上安全、漁業満足、福録永寿守護の 尊神也。    


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気仙沼港から渡る。
大島汽船   0226-28-2611
大島フェリー 0226-23-3315 詳しくは http://homepage3.nifty.com/osm-kk/
亀山と愛宕神社


陸奥総社宮神社の参拝記録亀山と愛宕神社 より

 大島神社から徒歩5分、大島唯一の山・亀山のレストハウスに到着します。ここか  らは左手に唐桑半島、右手には牡鹿半島・金華山まで望まれる、最高の眺めの場所  です。また、頂上には愛宕神社が鎮座されています。              ・展望台レストハウスから浦の浜港までは、リフト約12分で降りられます。   

拝幣志神社
(はいへいし、あるいは「おかみ」)

箱崎八幡宮

宮城県石巻市八幡町1-6-2
 
陸奥総社宮神社の参拝記録拝幣志神社 より

【祭神】
  高皇産靈命(タカミムスビノミコト)

【由緒】
 拝幣志(ハイヘイシ、またはオカミ)神社の旧社地は箱崎山頂にあったといい  現在は「 箱崎八幡宮 」と合祀し祭られている。

零羊崎神社
(ひつじさきじんじゃ)

宮城県石巻市湊牧山7
 
陸奥総社宮神社の参拝記録零羊崎(ひつじさき)神社 より

【祭神】
  豊玉彦命(トヨタマヒコノミコト)
  大海津見神(オオワタツミノカミ)

【由緒】
 今から1800年ほど前、応神天皇2年に神功皇后の御勅願により涸満瓊別神(ひみつさけのかみ)という名を賜り、東奥鎮護のため牡鹿郡龍巻山(たつまきやま)にお祭りされ  た。「涸満瓊別神(ひみつさけのかみ)」は、
干潮満潮を別ける神を意味し、後に、この神名が零羊崎になり、龍巻山の龍は除かれ牧山となった。
 牡鹿十座の筆頭に記載される名神大社で、拝殿は鷲峰山長禅寺(廃寺)の御堂でした。





公式サイト 鹿島御児神社

石巻市日和が丘2-1-10


陸奥総社宮神社の参拝記録鹿島御児神社 より

 鹿島御児神社は、縁起式における鹿島神社の最北端にあたり、平安時代に北進を  つづける大和朝廷軍の最後の集結地である北上川の河口、石巻の日和山(ヒヨリヤマ)  に鎮座します。
【祭神】
  武甕槌命(タケミカヅチノミコト)
  鹿島天足別命(カシマアマタリワケノミコト)

【由緒】
 宝亀11年(780年)12月、陸奥鎮守副将軍の百済王俊哲(クダラオウ・シュンテツ)の奏上が鎮座 の起源と伝えられ、中世には奥州総奉行葛西氏の城の「石巻城」があったとされています。

登米神社

宮城県登米市登米町寺池道場15
0220-52-2887

 芭蕉庵ドットコム > みちのくの足跡 > 登米資料写真と解説(2) より

【祭神】
  応神天皇、田心姫命

【由緒】
 八幡宮は天喜年中鎮守府将軍源頼義が賊徒征伐の時に、鏃(やじり)を神体として戦勝を祈願した辺室山の浄地に、康平五年(1064年)頼義の嫡子義家が、山城国鳩峰に鎮座せる
岩清水八幡宮を勧請分遷したもので、後世その地を八幡崎と呼んだ。文治五年(1189年)藤原泰衡没落後、葛西三郎清重がこの地方を領有するに方り、八幡宮を七郡の総鎮守葛西家累代の守護神として尊崇した。
 松尾芭蕉
 多賀城市と松島を周るのに松尾芭蕉を無視することは出来ない。

 芭蕉庵ドットコム > みちのくの足跡 > 芭蕉の晩年と墓所義仲寺 より


 芭蕉が木曽義仲が眠る義仲寺に葬られた経緯は、生前芭蕉が死後木曽殿と塚をならべてと語ったことによるもので、芭蕉は源義経や源義仲、斎藤別当実盛といった悲劇伝を残した武人や藤原実方などにとりわけ思いを寄せ、「おくのほそ道」の旅中、これらの人物にゆかりのある土地を訪れて句を残し、義仲については寿永2年(1183年)4月に平家軍との戦いで戦場と化した北陸・燧(ひうち)が城を眺め、次の句を詠んでいる。

  義仲の寝覚めの山か月悲し
  (「荊口句帳」所収「月一夜十五句」のうちの一句)

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>生前芭蕉が死後木曽殿と塚をならべてと語った<
 ⇒ 松尾芭蕉は木曽義仲の生まれ変わりなんだ、と私は思った(平成18年5月3日記録)。

 松尾芭蕉の行程
芭蕉と仙台  芭蕉庵ドットコム > みちのくの足跡 > 芭蕉と仙台
   奥の細道関連地図帳 > 芭蕉と仙台市
   奥の細道関連地図帳 > 宮城野区岩切
   奥の細道関連地図帳 > 芭蕉の頃の街道筋
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 芭蕉庵ドットコム > 生涯データベース > 松尾芭蕉の旅 奥の細道
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芭蕉と多賀城  芭蕉庵ドットコム > みちのくの足跡 > 芭蕉と多賀城帳
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   奥の細道関連地図帳 > 野田の玉川-詳細
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 芭蕉庵ドットコム > 生涯データベース > 松尾芭蕉の旅 奥の細道
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 芭蕉庵ドットコム > 生涯データベース > 松尾芭蕉の旅 奥の細道
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