5度の岩戸閉め ・岩戸開き ・建替え建直し 月の光
  平成18年8月6〜13日 壱岐島・対馬  
 壱岐島・対馬・福岡・佐賀・大分
トピック(壱岐島) 天比登都柱
月読神社
神宮皇后の鎮懐石
 壱岐巡り壱岐神社壱岐の神社1.

 壱岐には、千以上の神社がありますが、そのうち、現在、神社庁に登録されているものは、150社です。
 壱岐の式内社の数は24社(24座)で、対馬は29社で九州全体では107社です。壱岐・対馬で九州の半数を占めています。これは、壱岐・対馬が国防上重要な位置にあり、辺地の離島でありながら「国」としての取り扱いをうけたことに関係があります。
 寺院の建立にしても、聖武天皇は天平十三年(741)金光明四天王護国の寺と法華滅罪の寺の創建を国々に命じられ、壱岐・対馬にも国分寺が建てられました。

       壱岐国式内神社(『壱岐国神社誌』より)
場所 神社名   祭  神
武生水町 国津意加美神社 旧藩主直参の9社
渡良村 国津神社
柳田村 天手長比売神社
々 村 天手長男神社
旧藩主直参の9社
壱岐 一之宮
々 村 津神社
同 村 物部布都神社
沼津村 爾自神社
鯨伏村 水神社
々 村 阿多弥神社
々 村 手長比売神社
勝本町 中津神社
箱崎村 佐肆布都神社
那賀村 住吉神社 旧藩主直参の9社
々 村 国片主神社 旧藩主直参の9社
々 村 月読神社 goo地図
長崎県壱岐郡芦辺町国分東触
 々 村 興神社 旧藩主直参の9社
々 村 角上神社
田河村 高御祖神社
々 村 兵主神社
石田村 海神社
志原村 弥佐支刀神社
々 村 大国玉神社
初山村 見上神社
初山村 見上神社
勝本町 ▲佐肆布都神社 ▲式内社二十四座ナリシモ明治四十一年五月二十日々町郷社中津神社へ合祀セラレタルニ依り現在二十三座トナル

箱崎村(釘の尾) 八幡神社 旧藩主直参の9社
聖母宮 goo地図
旧藩主直参の9社
壱岐 二之宮 09204-2-0914
長崎県壱岐郡勝本町勝本浦
鯨伏村(本宮) 八幡神社 旧藩主直参の9社
石田村(筒城) 白沙八幡神社 旧藩主直参の9社


月読神社常世の国
 壱岐の風土記によると、常世のやしろあり。そこに朴木があり、枝は、鹿の角に似ているその枝の長さは五寸ばかりで、二俣になっている。
 この、常世の社は、移されて今は、一の宮の境内に摂社、粟島様としてあります。現在では、子守りの神様、子育ての神様として、島内をはじめ、遠方からも子供の産着やおもちゃを奉納して赤ちゃんのすこやかな成長を祈願しています。

 風土記逸文に、粟島あり、少彦命(すくなひこのみこと)、壱岐島は、玄海の宝来島として古くから伝えられています。宝来と常世は同じ意味として記されています。(廣文庫より)
 また、俗説に「粟島大明神は、女体であられる、夫人の病を守り給う。これ、住吉大明神の妃なり。帯下の病など婦人の病を祈ると必ず感応あり。と伝えられています。」粟島神は、婦女を守らせたまう。

 常世の国はこの世の楽園、楽土、つまり、理想郷とされています。この、常世、理想郷は遠い外国のことと伝えられていましたが玄海灘の一孤島、壱岐島のことだったのです。

 秦の始皇帝の命を受けた除福は、不老不死の仙薬をさがしに東方に船出したが再び始皇帝の前には帰ってこなかった」
 除福が目指した「宝来の国」は、「壱岐島だったのかもしれません。」

 不老不死の薬は「月読尊」が持っています。「若水」という、若返りの水です。

公のサイト 神社名      概    要
 天手長男神社
 goo地図
長崎県壱岐市郷ノ浦町田中触730
延喜式内名神大社

月読神社壱岐国一之宮
 ご祭神は、天の忍穂耳尊、天力男命、天羽豆女命

 由緒は、神功皇后が、三韓征伐の帰りに,戦勝のしるしとしてかぶとを埋られた所として、かぶとの形をしているので、鉢形山(はちがたやま)とも言われています。

 日本全国の一の宮、68州の社の中でも、壱岐一の宮は、一番位の高いお宮とされています。
ご祭神が、天照大神の、長男、、天忍穂耳尊、だからでしょう。そして、 天力男命(ああめのたじからおのみこと)は伊勢の大神宮、(天照大神宮)の相殿の神と儀式帳に記されています。
 ご神体は、八尺(やた)の鏡と神社誌に記されています。

 このように、日本中でも、由緒正しい、壱岐國、一の宮ですが、元寇の戦い以来、壱岐國は神の島としての威厳も無くなり。壱岐島に再び元気を起こして、本来の姿に復興して豊かな夢の島にしたいという人達で有志を募り、壱岐、一の宮会(一の宮奉賛会)を近々立ち上げたいと考え準備を行なっています。
 天手長比売神社
(神社跡)
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長崎県壱岐市郷ノ浦町田中触

公式サイト  聖母宮

(壱岐 二之宮)

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 ご祭神
   息長足姫尊(神功皇后)
   足仲彦尊  (仲哀天皇)
   上筒男尊・仲筒男尊・底筒男尊(住吉大神)
 配祀 : 天照大神・玉垂神・烏賊津連・真根子連

 聖母宮聖母宮由緒
 仲哀天皇九年(二〇〇年)十月、神功皇后は壱岐に着き、順風を待たれたこの地を「風本・かざもと」と名付けられ三韓へ出兵されました。同十二月、三韓からの帰路再び立ち寄られ、出兵の勝利を祝い「勝本・かつもと」と改められたといいます。

 当社は三韓出兵の帰路、異賊の首を海中三町余に沈め、その上に九町八反の築地を築き、神符を掛け五間四面の宝殿を造立、末世異賊の競望断絶を祈願された皇后一夜の霊地です。 

 又、皇后は三韓出兵の往来の時にこの地に行宮を建てられましたが、そのまま放置されていました。しかし、毎夜海中より光る物が昇り、燈火の如く静かに、しばらくして火燃えて、また海中に入るという出来事が続いたので、里人はその行宮に神鏡を納め神功皇后を奉ったといわれます。

【付記】
 筑前香椎宮の編年記に香椎廟の四至のことが記されている。「詔テ神鏡ヲ附シ玉フ。東は鴨山、西ハ壱岐、南は住吉、北は尾呂。コレヲ四限トセリ。」
 《西ハ壱岐》とは勝本の聖母宮のことで、脈絡相通う関係があったと思われる。聖母宮は古くは香椎宮を称し地名はその鎮座地にちなんで、香椎村と称していた。
公式サイト  月讀神社
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長崎県壱岐郡芦辺町国分東触

月読神社月読神社の概要
ご祭神
  中 月夜見尊(つきよみのみこと)
  左 月弓尊  
  右 月讀尊

 西暦 487年に
月読神社に天月神命(あめのつきのみたまのかみ)を祭り、
高御祖(たかみおや)神社には天月神命の祖(おや)の高産霊尊(たかみむすびのみこと)を祭られました。

月読神社神石は月延石
 伝説によると神功皇后(じんぐうこうごう)は月神のご神託により、応神天皇を胎内に宿しながら新羅遠征に立たれたが途中、神石をたもとに挟まれて御心を静められ出産を延べられて御子、応神天皇をご出産されたということが、壱岐・月讀神社の社誌に記されています。
福岡県糸島の鎮懐石八幡神社にも同様のことが記されています。
この神石は月延石(つきのべのいし」または「鎮懐石(ちんかいせき)と呼ばれ、
雷が落ちて、三段に割れたとも言われています、一つは京都の月読神社に、一つは糸島の鎮懐石八幡神社に、あと一つが壱岐の月読神社に祭られたと記されています。


高御祖神社
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長崎県壱岐市芦辺町諸吉仲触81

箱崎八幡宮
マピオン地図
長崎県壱岐市芦辺町箱崎釘の尾触823

興神社
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長崎県壱岐市芦辺町湯岳興触676

白沙八幡
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長崎県壱岐市石田町筒城仲触1012

住吉神社
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長崎県壱岐市芦辺町住吉東触470
本宮八幡神社
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長崎県壱岐市勝本町本宮西触1437
国片主神社
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長崎県壱岐市芦辺町国分東触766

トピック(対馬) 伊邪那岐尊と伊邪那美尊の島生みの段、天狭手依比売(あめのさてよりひめ)
伊邪那岐尊と伊邪那美尊の神生みの段、
公のサイト 神社名      概    要
トピック(福岡)
 私と見解は違うがこれはこれで面白いサイト

       >第5講イザナミとイザナギ、天の浮橋
 大陸中国の河北圏の山東半島から、いきなり日本列島に、九州北部の糸島半島に前218年にやって来たのです。秦の時代の斉の人・徐福の集団こそ、イザナギ(天皇族)のルーツと考えます。
天皇家のルーツを、シルクロードの向こうに求める必要はないのです。天皇(徐福)は、九州の東シナ海の対岸の山東半島からやって来たのです。徐福のあざ名は「君彦」であって、「君が代」とは徐福(君彦)の子孫が永遠に日本国王であり続けることを讃えた歌です。

       >第6講・古事記真解講義
  陰陽二祖神国土出産は、“二大頂点部族国家創出”という意味で、本当だったのです。イザナギ(糸島半島)、イザナミ(博多湾岸)、アマテラス(筑前)、スサノヲ(関門海峡・長門)、オホクニヌシ(豊前)は、上古代の日本列島の有力部族たちだったのです。

  ・・・・・
 精神的に男性で、超一級の文明を持って、日本列島に直接、弥生時代初期に渡来して来た集団と言えば、そう、徐福の集団以外にはいません。徐福は、東海の蓬莱島に渡って、そこで平原光沢を得て王になった、と「史記」にある。

 糸島半島の前原市の佐賀県との境界に“雷山”がある。これが元・蓬莱山であり、元・不二山だ。その麓に、平原(ひらばる)遺跡(三雲井原遺跡)がある。それが、徐福が日本列島に渡来して日本列島で王になった場所だ。つまり、イザナギは徐福だ。

 イザナギ・イザナミは、博多湾に浮かぶ能古島を“天(あめ)の御柱=海(あめ)の御柱”に見立てて、イザナミは能古島を右手に見て、イザナギは能古島を左手に見て博多湾岸をめぐり、両派の境界線に両者が至って、目と目を見つめた場所が、現・福岡市西区の姪の浜の場所です。


公のサイト 神社名      概    要
糸島の鎮懐石八幡神社 月読神社神石は月延石
 伝説によると神功皇后(じんぐうこうごう)は月神のご神託により、応神天皇を胎内に宿しながら新羅遠征に立たれたが途中、神石をたもとに挟まれて御心を静められ出産を延べられて御子、応神天皇をご出産されたということが、壱岐・月讀神社の社誌に記されています。
福岡県糸島の鎮懐石八幡神社にも同様のことが記されています。
この神石は月延石(つきのべのいし」または「鎮懐石(ちんかいせき)と呼ばれ、
雷が落ちて、三段に割れたとも言われています、一つは京都の月読神社に、一つは糸島の鎮懐石八幡神社に、あと一つが壱岐の月読神社に祭られたと記されています。

福岡の香椎宮 月読神社鴨と大鳥

 日本書紀に神武天皇が兄の五瀬命とともに現在の宇佐に着いたときに、宇佐津彦と宇佐津姫が「一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)の宮殿に神武天皇の一行をもてなし、中臣の先祖・侍臣・天種子命を宇佐津姫に賜妻(めあわ)せたとしるされている。
 筑紫の伊都に大野郷がありここが古代の怡土国(いとこく)であり、古事記を書いた、大野ヤスマロもこの伊都の出とされています。

 この伊都には鎮懐石(ちんかいせき)神社があり鎮懐石(ちんかいせき)という、神石があったという伝説がのこされています。
 神功皇后が応神天皇を懐妊中に「ツワリ」が激しかった時に月神のご神託があり、「浜辺の石を懐に差し挟んで御心を鎮められた」その石は「卵の形をした美しい石」であった。
 その後、皇后は「天地のある限り語り継げとこの石をお示しになられたという。
 月は古代の韓国語でダラルで「ドル」鶏と「アル」卵の複合語で、古来、貴人は卵から生まれたという卵生神話が残されている。

 福岡の香椎宮には鶏卵神社が祀られています。これも月神ではないかと思われます。
神話は史実の反映したものといわれています。月神と卵と鳥と鴨の関係)がこの神話で、古代史の奥にかくされた史実がお解かりいただけるとおもいます。


織幡(おりはた)神社 月読神社鴨と大鳥

 式内社名神大で宗像神社とともに、朝廷の信仰が厚い神社であった。
 ここ鐘崎は玄界灘のなかでも特に航海の難所とされている。 

 ご祭神は
 大御食津神(おおみけつのかみ)
 呉織(くれはとり)
 穴織(あなはとり)
 壱岐真根子(いきまねこ)
 武内宿禰

                                            神功皇后が三韓の戦いのときに、宗像の神が赤白の二流の旗を振って敵を翻弄し、これを後には沖ノ島に立て置いた。この旗を織ったのが、ここ織幡大明神であったことなどから、宗像の神々では、沖ノ島の神は壱岐の手長の神を祀ったもので、金崎の織幡の神も本来は壱岐にあったといわれています。
織幡神社の社家が古来より壱岐氏であったこともこれを証しています。

 さらに宗像の神と機織にかかわる伝承は、応神天皇紀の三十七年条に「阿知使主(あちのおみ)、都加使主(つかのおみ)を呉に遣いっして縫工女(きぬぬいめ)を求めしむ〜呉の王はこの時に工女(ぬいめ)に、兄媛(えひめ)弟媛(おとひめ)・呉織・穴織の四人の婦女を与えた。とあり、同四十一年条に「阿知使主など呉より筑紫にいたる。その時に宗像大神はその工女をほしがったので、兄媛(えひめ)に奉る。これが筑紫に住む御使君(みつかいのきみ)の祖(おや)とあります。
 阿知使主(あちのおみ)は党類(ともがら)と十七県の民を率いて大和の高市郡檜前(ひのくま)に住んだ、朝鮮からの渡来集団である。

 このように、宗像神と機織の関係が五世紀代に朝鮮から機織技術をもった集団が渡来し宗像地方に定住したことから、この地が朝鮮半島とも繋がっていたことを示しています。
 こうした渡来人の招来に壱岐の海人族すなわち、壹岐氏が深くかかわっていたのです。
福岡の西区に生の松原に
壹岐神社
月読神社雷大臣
 雷大臣は,神功皇后の御世四太夫の中で随一の位置を占め、同時代に百済に使いをして、彼の地の女を娶り、一男を産む、その子の名前を「日本大臣」と伝う。
 壹岐の真根子は父、雷大臣とともに三韓に赴き、帰朝後はなおも壹岐にとどまり、三韓の守りに就いた。これにより、「壹岐氏」の姓を賜う。
 福岡の西区に生の松原に壹岐神社に「壹岐・真根子」を奉る「壹岐神社」がある。
 その、後方にある「雷山」は「雷大臣」と関係があるという。

月読神社雷山

 ここで、話を壱岐国にもどします。壱岐郡石田町に、神功皇后が、船から上がられるときに、波が高くて、かもじ(つけ毛)を落とされたのでこの所を「カモ瀬」と呼ばれていて、また、波で濡れた着物を干されたので「錦浜」と呼ばれています。
 ここ、石田町には古代より壱岐の海人が奉祭した「海神社」があります。
 「国指定遺跡」の{原の辻遺跡}の入り口の付近に祀られています。
 {原の辻遺跡}から、日本最古の船着場の遺構が発掘されています。古代から交易の集積地として栄え、壱岐国の王都として、「魏志倭人伝」に記された国々のなかで唯一首都(王都)が確定された。また、壱岐の官の「彦」と副官の「ヒナモリ」も壱岐氏であろうといわれています。
壱岐国のことを魏志倭人伝に「一大国」と記され女王国より以北は、特に「一大率」を置き、諸国を検察せしむ。諸国これを畏れた、常に伊都国に治す。
 邪馬台国より以北の七つの国を統括して政治を行うのが「一大率」の役目でかなりの権力を持っていたと書かれています。
 これを書きなおすと一大国=「壱岐国」と怡土国にいて諸国を検察したのは「壱岐率」のようです。
つまり「壱岐国」との強い関係がうかがえられます。
 壱岐氏は弥生時代より、海人族=安曇族=加茂族などとも呼ばれ、月読尊を祖神に、龍神として海人信仰を各地にのこしています。
 
  壱岐氏は亀の甲羅を焼いた「亀卜」で占いを行い、大和朝廷に特に、重要されていました。
 この亀トの亀が亀に乗った、珍彦などの伝承と深い関係があるようです。
      { 壱岐国と対馬国の祖先が「雷大臣」です。}
 加茂の神は伊豆国の加茂郡の「三嶋の神」また「伊予国の「三嶋神」と同体と伝えられる。
トピック
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