長髓彦の部下・銅武(あかがねのたける)が守る高淤加美山【1】ここだけは紹介しておきたい!|奈良県

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東海中にある荒美津足国(あらみづたりのくに)からの者たちが潜んでいた

三重県尾鷲市の八鬼山(やきやま)奈良県宇陀市と吉野の境にある高淤加美山(竜門岳)

長髓彦の部下・銅武(あかがねのたける)が守る高淤加美山

参拝履歴

訪問日:未定

宇陀の行宮(宇賀志宮)を定め、神武天皇の国見

 『神武太平記』(上巻PP162-170 荒深道斉筆録)からの引用

 ここに、名張川の川上の処に仮宮(宇賀志宮)作りて大皇子坐しまし、日出彦をして国の防伴部に宇陀平ぎし事を普く知らしまし、秋の終を待ちて大和の真中に攻め入らん事を法示し給へり。

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 大皇子の高見山参拝。
 参拝後に宇陀の奥に下りる。
 その村に一夜泊り、その村では御杖を大皇子の御霊代として社建て祀る。
 その村を「御杖」と名付ける。

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 又秋の終わりに近づかん時、大皇子国見まして宇賀志の宮より吉野川の川上の地を巡り見ませる時、吉野川に筌作りて鮎採る者出で迎えて大いなる鮎を奉る。
 その名を問ひませば贄持彦(にへもつひこ)と白す。
 又出でますに小池の辺りに大火炊上げて迎ふるものあり。その光水を照らして赤く光れり。
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 又その長人に井光鹿(いひか)と名を賜へり。この日はこの所に宿り給ふ。
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 次の日、井光鹿(いひか)を道引として川辺を下りまして川又の地に至ります時、大いなる岩屋より熊皮着たる者出で来りて迎え白さく、
「日嗣の皇子出でますと聞きて2日前より岩屋清め巡りて待ち居りし。岩屋狭けれども大皇子及び大臣等の入り坐すには妨げあらじ」
 とて導き入りて又焼肉栗川魚あまた奉る。その者又多くの山人と共に御伴部を労う。大皇子喜びましてその長人に石押別(いしおしわけ)と名を賜ひ、また前の日の如く織衣悉く賜へり。
 又石押別(いしおしわけ)に問ひ給はく、
「この地には登美彦の族有りや無しや。」
 と。
 彼答へて、
「天津日嗣の大君は太き遠き古へより天下に一人と定まり、この大地(おほどほ)の壊れ亡びん時迄はその大法違はじ。然るに近頃登美彦なる邪者出でて鎮宮(しづめのみや)を押し込め己れ天下を奪はんとす。僕力なくとも彼醜打たんと思ひしが邑人諌めて曰く、
”この狭国の僅かなる山人のみにては得討ち能はぬのみならず、邑人悉く殺されんは明けし。忍びて時を待てば良き事出でん。”
 と押し止むるが故に堪え堪えに日を送る。
 然れど余りに堪え得でこの川下の曾(そ)と云ふ処の知人の処に至りて議りしに、この者又僕と同じ心なれども、僕が邑人の云ふ如諫め止むるが故に、弥武(いやたけ)心を強押しに押し伏せて今日迄徒らに日を過せり。今大皇子に真見えするに至りしは皇神の導きますにこそ。あはれ御先伴に加へ給へ。」
 と白す。
 又白さく、
「この山僻にて糧徴る事も無きが為め登美彦の族来らず、宇陀の弟宇迦志(おとうかし)巡り来る事ありとも、これ心真さしき者にて荒びず、故に未だ事無きを得たれば山人なれども弓矢持つ事知れる者あまたあり。僕に大臣一人賜はりて吉野川の川添悉く服はして、高淤加美山の醜の南を討ち宇陀の御先より東を討ち給へはその醜尽くす事を得べし。
 これ許し給へ。」
 と白す。
 大皇子宣り給く、
「汝が云へる事理あり。」
 とて珍男して吾道臣に議り遣はしませり。
 吾道臣もそれ理なり。
 秋の終日(はてひ)銅醜(あかがねしこ)を囲み攻むる事を議り答え白す。

長髓彦の部下・銅武(あかがねのたける)が守る高淤加美山

高淤加美山の銅武(あかがねのたける)制圧

 『神武太平記』(上巻PP167-170 荒深道斉筆録)からの引用

 ここに、大皇子その醜討つ装ひを根津彦、珍男及び石押別(いしおしわけ)等に宣り置きまして、井光鹿を導きとして所々巡り見ませしに、その山人等多くは大なる小さき種々なる石屋より出で迎ふ状さながら土蜘蛛の如し。
 大皇子井光鹿に問はすらく、
「この邑人等多く岩屋に住むは何の故ぞ。」
 と。
 井光鹿答へ白さく、
「この山狭国にて常の舎建てんには平地多く徒らになして穀物を得んに難し。又年々に破れ行きて修り理むるに苦しむ。然るに岩屋は山腹の嶮地にて田にも畑にも成し得ぬ処に作り得て、又年々の破れなし。然る故に多く之に住むなり。」
 と云ふ。
 また大皇子問ひ給はく、
「凡て獣皮を着るは如何なる故ぞ。」
 彼答へて、
「この山僻地にて田畑の穀物少なきが故に、鳥獣を狩り取りて食物となしてその皮多し。古への人はこれを平国に持ち出で織衣と交へ取りしが、登美彦の国を乱せしよりこれを償ふ者少なくなり、強いて織衣に代へんとすれば獣皮3つ以て織衣1つより得ざるが故に、今は凡て己れ等の着物として平国に出さず。又その尾を附けたる儘に着たるは狩人の長のみにて、これ獣を誘ひ狩るに便りよき為なり」
 と答へ白す。
 ここに、秋の終日(はてひ)に吾道臣、厳武(いづたけ)等を率ゐて東より、富之命(とみのみこと)、岩楠(いわくす)等を率ゐて北より、珍男(うづお)は石押別(いしおしわけ)等を率ゐて南より、根津彦は石押別(いしおしわけ)の知人・曾之武(そのたける)を率ゐて曾之山(そのやま)より高淤加美山銅(あかがね)の醜武を囲み攻む。
 彼醜族等、東の方の御伴にのみ心を奪はれ居りて西南より登り攻むる者に怠りありしが故に、椎根津が西山尾より上げる雄詰の声に驚き、又南より上げる珍男等の雄詰に驚く隙に、吾等も長穂屋威出し雄詰合はせつつ上り攻むるに、彼醜防ぎ難にて南の珍男等の方へ突き出で下り逃ぐ。
 吾等もその逃ぐるを追ひ下りて吉野川の川辺の狭地に追ひ縮めたり。
 その時大皇子の国巡り終へて帰り来まして川の彼方に坐せるが故に、彼醜力つき大皇子の立ちませるを見て、
「今は服ひぬ。助け給へ。」
 と白す。
 大皇子宣り給はく、
「汝は誰ぞや。」
 彼白さく、
「僕は登美彦の方にありて久しくこの山を守りし銅(あかがね)の八十武(やそたける)と白す者、西の大君如此奇びの戦なしますを知らずしてその御伴に追はれ来つる者なり。汝命尊く坐せば必ず西の大皇子ならん。
 吾罪許し給へ。」
 と白す。
 大皇子宣り給はく、
「汝の言霊はこの国言と少し異なり。又その面影も異なれりは初めよりこの国の者とは思はず。何国より来れる者ぞ。」
 と問ひ給ふ。
 彼醜答へて、
「畏し、僕は大皇子の思し悟ります如、初めよりこの国人にあらず、東の海中(うみなか)外垣(とがき)美津足国(みつたりのくに)の漁人長なりしが、今より60年余り前年(さきとし)登美彦等と共にこの国に渡り来て、大和に入り鎮宮(しづめみや)の臣に頼りてその宮の外垣守(とがきもり)となり居りしが、登美彦賢しき者にて饒速日命の愛を得てその大臣となり、益々驕りてこの国奪はんとし、その女を鎮宮(しづめみや)に奉りてその女に生まれし子に先づ鎮宮(しづめみや)の政承継がせん事を謀り、長御子・可美真手命を捕えて僕に与えて言はく、
”この愚人を汝密かに携へて高淤加美山に至り、岩屋作りて隠せ。
 又その高淤加美山は東国守る重き尊き山なれば吾国平げん迄は堅く守れ。
 後には東外垣(ひがしとがき)美津足国(みつたりのくに)をも打ち亡ぼして汝をその国の君とせん。”
 と云ひしによりその言に従ひありし。」
 と答へ白す。
 大皇子、
「その可美真手は何れの岩屋に隠せしや。」
 と問ひ給へば、
 彼、
「この山の西表にあり」
 と云ふ。
 ここに、大皇子石押別(いしおしわけ)を召し給ひて、
「曾之武(そのたける)と共に彼の云ふ処隅なく尋ね来よ。」
 と宣り給ふ。
 石押別(いしおしわけ)、曾之武(そのたける)2人多くの山人伴ひ急ぎ上る。
 大皇子再び彼醜に、
「汝と共に渡りしと云ふ荒風彦(あらちひこ)なる者を知れりや。」
 と問はせば給へば彼醜驚きて白さく、
「吾等は初め彼荒風彦(あらちひこ)に従ひし者にて面の色銅(あかがね)の如く赤きが故に銅彦(あかがねひこ)と呼び、登美彦はその髄(すね)長きが故に長髄彦(ながすねひこ)と云ひ、又荒風彦(あらちひこ)は元その国の大臣の遺子にてその父の仇報いんとして荒風(あらち)吹く日にのみ戦する事巧なるが故に荒風彦(あらちひこ)と呼びて僕等の長人となしたる者なり。その者に語らはれてこの国に渡る海中にて荒風(あらち)に会ひ散り別れたるなり。」
 と。
 大皇子、
「然るか、汝疲れたらん、山への使帰らん迄は心安めて食物せよ。」
 と宣り給ひて御饗給はりぬ。
 然るに彼醜等食ひ終わりて太刀取りて大皇子の方に馳せ向はんとす。
 吾道臣これを見て直ちに彼の頭を切る。又その残れる醜等悉く切り誅す。故にこの地を頭良切と云ふなり。  かくする内に石押別(いしおしわけ)等皆返りて白さく、
「彼醜が言ひし処の岩屋悉く尋ね求むれども求むる人坐さずして徒らに帰れり。」
 と云ふ。
 吾道臣思へらく、
「彼醜の言ひし事悉く真ならずとも何れの処にか隠しあらん。」
 とて。
 なほ多くの者をして尋ね求めしめて、大皇子守りて宇賀志の仮宮に帰れり。
 この銅醜(あかがねしこ)を打つ日に久米命と日出彦議りて、日出彦は紀の名草臣の族を率ゐて吉野川を攻め上りて葛城山の東に出で、高市の南の山々悉く攻め取る。
 これにて大和は全く吾伴部にて囲ひ周り尽せり。
 この事大烏来りて白す。

高淤加美山の大祓いと天之香具山

 『神武太平記』(上巻PP171-183 荒深道斉筆録)からの引用

 ここに、大皇子吾道臣を召して宣り給はく、
「吾初めより

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 然るに今夜の夢に、
高淤加美山を大祓ひして香久山の神社の埴土以て八十枚の平瓶作りて、天津神国津神を迎へ祭りて厳の誓霊(うけひ)せよ、燃すれば自から国平がん”
 と告げ給へる神あり。
 その御名問ひ白せは、
高淤加美なり”
 と宣り給へり。
 汝速くその御祭の装ひ為よ。」
 と宣り給へり。

□ 椎根津彦と弟宇迦志で香久山の埴土を取りに行くことが決まる。

高淤加美山の大祓(丹生川上祭)の準備に取りかる。

 香久山へ埴土を取りに行った椎根津彦と弟宇迦志が戻る。
 これ初冬の中日なり。

□ 榛原鳥見山(とみやま)の戦い。

□ 榛原墨阪(すみさか)の水攻め、志城の兄彦と八十武が亡びる。

忍阪(おさか)の戦い、金鳶の密計に賊軍の降伏

 『神武太平記』(上巻PP181-183 荒深道斉筆録)からの引用

 日出彦使を果たして白さく、
「僕又空石(そらいし)以て彼を追はんは如何に」
 と白すに、大皇子宣り答へ給はく、
「今はいと終(はて)の戦ぞ、汝には他の奇事(くしこと)為させむ」
 と白し給へり。
 次の日、天津日の将に隠れんとする時、大皇子天之真鹿児弓(あめのまかこゆみ)を左の御手に取らし、天之羽羽矢(あめのはばや)を右の御手に取らして、忍阪(をさか)の東の高山に立ちまして宣り給はく、
「今こそ彼を亡ぼさん時来れり。」
 とて、
「満々(みづみづ)し 久米の子等が 垣元(えもと)に植ゑし
 はじかみ 口ひびく 吾は忘れじ
 己れ醜(しこ)や 打ちてし止まむ」
 と高く歌上給へば、東の方より大鳶(おおとび)飛び来りて大皇子の真鹿児弓(まかこゆみ)の弓弭(ゆはず)に止まれり。
 その(とび)より奇日(くしひ)炎(かが)やき輝りて流電(いなづま)の如し。
 登美彦が醜族(しこやから)皆眩迷(めま)ひ縮み畏みて再び防ぎ得ずして皆服ひ出で来て、この奇日(くしひ)の大君に威向(いむか)ふ事能はずなりし。
 登美彦退きて後(しりへ)の鳥見山に防ぎ場固む。
 然れどもこの時、久米命、忍日別(おしひわけ)、諸県弟彦(もろかたおとひこ)等武夫選り率ゐてその山の西を囲むが故に彼再び出づる能はず。
 その子・志津美彦(しつみひこ)を使として奏して曰く、
「僕が御先を防ぐは僕が奉る饒速日命の持たせる宝を天津瑞宝(あまつみづたから)と思ひ、又饒速日命を真の日嗣(ひつぎ)と思ひ奉りてなり。
 然るに西の方より天神の御子なりとて来ります。僕之を疑ひて防ぎ戦ふなり。
 果たして真の天津神の御子なりとの表物(しるし)見せ給へば、僕何を以て逆ひ防ぐ事を得為さん」
 と白す。
 この時大皇子厳(おごそか)に彼児に告げて宣り給はく
「汝今吾宣る事を能く聞知りて汝が父に悉く告げよ。古へより天神の御子は亦多にありますなり。然れども天津日嗣皇君(あまつひつぎすめきみ)は天が下には一柱のみ。その他は四方の国鎮めとして天之鹿児弓矢(あめのかこゆみや)又は天之羽羽弓矢(あめのはばゆみや)を与へて端国鎮めに遣はしあれり。これ、諸々の国にも各君あるが縁なり。
 汝が奉る饒速日命もその内の一柱なり。故に天之羽羽弓矢(あめのはばゆみや)は持たん、又その他に国の田人の病を治めん十種の神宝なる物も持てるならん。これ又至る国の鎮君にもあり。これらはたとへ天津瑞宝(あまつみづたから)なりとも国鎮めの宝の一端(ひとはし)なるぞ。
 真の大瑞宝(おほみづたから)は如此戦に用いる弓矢の類にあらで、座ながら天下治める奇宝(くしたから)なり。
 即ち吾が大君の持ちます瑞玉(みづたま)瑞鏡(みづかがみ)瑞剣(みづつるぎ)なり。
 その玉は真玉の如く美しき世とせよ、
 その鏡は邪心ある者を照らし縮めて安国の田人を救へ、
 又その剣は汝等の如く天津大法事(あまつおほのりごと)の真を忘れて徒らに国乱す醜族を服はせよ、
 との天津大御祖の奇霊(くしみたま)附けて降しませるものにて、天の下には吾大君日嗣として持ちませるのみ。他にはあらじ。
 又天之鹿児弓矢(あめのかこゆみや)、天之羽羽弓矢(あめのはばゆみや)は探女(さぐめ)の怪霊(くしたま)入れる醜を威伏(いふ)すべき物にて、醜にあらぬ良き族討つにはその験(しるし)あらぬ物ぞ。
 この大法事(おほのりごと)の理を解き悟りて自ら来りて服へと告げよ」
 と宣り給ひて彼児を返しませり。

東の海中にある外垣・美津足国の長髄彦がどのように出世していったか

 『神武太平記』(上巻PP183-187 荒深道斉筆録)からの引用

 次の日、饒速日命その子可美真手(うましまで)及び内垣彦(うちがきひこ)を伴ひて来たり服ひて白さく、
「僕愚かにして彼長髄彦の賢あるをのみ愛でてその志の邪(あしき)を悟り得ず、賤しき門守より上げ用ひて初め平群県(へぐりのあがた)を治らせしが、能く田人導きてその国富ませり。故に富彦(とみひこ)と名を与へ、又その妻に志岐津彦(しきつひこ)が娘を女を与へしめて僕の外弟とし、国の内臣を任せたりしが遂に僕が宣(のり)を聞かず、専ら己が心の儘に法事(のりごと)す。
 前に僕が宇奈手彦(うなでひこ)が女をして生ませし長子・可美真手(うましまで)、密かに彼を退けんとするを怒りて、僕には厳武と共に西に向かえりと云ひて再び僕が前に出ださず、厳武が再び敗れて帰らずなりし後は僕を殿内にのみ捕らえて出で為せず、僕が弟子・内垣彦(うちがきひこ)幼なかりし時、彼をその守人とせし事ありしに依りて之に親しみ、その成人に及びて彼の女を娶らして生み出でたる者を内垣奇玉彦(うちがきくしたまひこ)として強ひて瑞玉(みづたま)を与へしめ、常にその手内離さず育み養ふ。
 又内垣彦(うちがきひこ)愚かにして力智ともに兄に及ばず、彼富彦の為に働きて吾を守る。
 然るに昨日朝、可美真手(うましまで)出で来りて、僕を守り縮むる醜族追ひ散らして僕を救い出して、久米命と共にこの地に導引きて今大皇子(おほみこ)に真見ゆる事を得せしめしなり。
 僕今は大なる罪人にてあれば頭切り給ひて後、僕が子ながら真心ある可美真手(うましまで)を仕へ奉らしめ給へ」
 と畏みて乞ひ白す。

『神武太平記』の系図

 次に可美真手(うましまで)奏さく、
「僕早くより富彦を邪者(よこしま)と知りて父を諫むれ共聞入れ給はず、然るに外所世(とこよ)人多く来り住みて皇国人を苦しめ乱すに至るも、彼富彦臣長(おみおさ)に仕へながら之を治す事を為さぬ故、僕彼を責めて曰く
”汝外所世(とこよ)人の乱しを治むる事を得為ねば吾自ら之に当らん”
 と告げしに、彼答へて曰く、
”僕今日まで怠りありしは、他に彼(かの)唐人(からひと)を教へて乱さす長人(をさひと)ある事を慮り之を探り居りし故なり、明日より励めて之を治めん。先ず僕が奉る御饗(みあへ)受けまして御心安まし座せ”
 と真を表はして白す故、彼邪人たりとも皇国奪はん如き大禍津(おほまがつ)は天下にあらじと一向に思ひ知り居りしが故に疑ふことなく彼の家に至りぬ。然るに道にて多くの強兵出で来りて
”外所世(とこよ)人教へて国乱さん者は汝よ”
 とて僕を捕へて高淤加美山の西の峪狭の岩室に隠し入れ住ませり。僕悔しと怒れ共遅かりき。然るにその岩屋守に河内人ありしを語りて、河内臣に、この事を大君に知らせ奉れ。
 と告げ遣りて後、久しく生心地なく只神をのみ拝みて住みしが、前の日、古き僕が伴夫(ともを)来りて、日嗣大君出で来まして、高淤加美山銅武(あかがねたける)誅されたり。早く出で退き給へ。
 と云ひて石室より導き出したりしが、僕足腰立たずありしを彼古伴(ふるとも)をして古き伴等集へしめ、之を率て先づ父の座す岡田殿(現在の明日香村の東部と南部付近か)に至り見るに既に富彦等居らず、僅かの守人なりしを打ち散らして吾父及び弟等を誘ひ出して参る道に大皇子の御前に参ゐ給はんとする久米命に会ひてこの地に道引かれ参ゐ来しなり。如此久しき間国乱せしは年老いたる父が罪にあらで僕が罪なり。これより僕彼処に至りて国の仇(あだ)富彦が醜首持て来て父の罪を贖はん。然る後に父の罪を許しまして僕を罪し給へ」
 と泣きつつ奏す。
 大皇子大いに憐み給ひてその言ふ事を許し給へりし故、彼可美真手命(うましまで)出でて富彦が守城に至りませしが、既に彼醜長(しこおさ)守る醜伴(しことも)悉く逃げ散りて、只僅かに彼の家族のみにて父子争ひしてあれば、その室に直入りせずしてその争ひを聞き居たり。
 その時、子・志津美彦(しつみひこ)怒り声して、
「吾久しく天津大法事(あまつおほのりこと)の真の理を知らずして、父の言ひ聞けし饒速日命を日嗣大君とのみ思ひしに、天津瑞宝(あまつみづたから)の条理及び安国の大法事(おほのりごと)を悟り得し上は、たとへ父なりとも、大いなる孝行には替え難し。故に吾父速に大君の御前に参り給ひてその御頭打切られまして後世助かり給へ。若し他人来りて之に殺され給はん事ありせば後世に避り行きて永久に苦しまん。なほこの理悟り得給はずば僕御首打ち落として、自らも死りて共に幽世の責苦を受けん」
 と云ふ。
 富彦曰く
「吾今汝の云ふ言聞きて悟り得しと雖も、今参ゐ上りて大君に真見えん心なし。汝この内垣奇玉命(うちがきくしたま)と天津瑞宝(あまつみづたから)を返し奉り来よ」
 と云ふ。
 この時、可美真手命(うましまで)その室に入りて、
「吾今大君の御許受けて来れり。汝その子の真理を尽して勧むる吉言を聞かずば、吾剣にてその醜首打ち落とさん」
 と云ひて剣を抜けば、富彦又剣を抜かんとす。
 可美真手命(うましまで)怒りて遂にその首を打切り給ひぬ。
 この時志津美彦(しつみひこ)も自ら首切らんとす。
 可美真手命(うましまで)之を止めて白さく、
「汝の真心あるは吾能く知れり。今己が心のままに避らんよりは大君の勅に任せよ。」
 と白して富彦が首と瑞宝及び子等を率て、参ゐ帰りて有りし事悉く奏させます。
 大皇子大いに喜び給ひて可美真手命(うましまで)を賞めまして宣り給はく、
「汝が功に賞でて汝父及び子等悉く許さん」
 と宣り給へり。
 又
「吾その醜長の亡びし処に至り見ん」
 とて出行きまして、日出彦をしてその室を火かしめ給ひて、その火の鎮まりし時凡ての御伴臣、伴長を召し給ひて宣り給はく、
「吾前年(さきとし)吾大君の大法受けて醜族平けん為来りしも久しくその志を果たさず、二皇兄及び多くの伴部失ひて、吾には天津神国津神の奇ひの大守なしと思ひしに、今この醜長を亡ぼし得たり。未だ皇神等の吾を捨て給はず。その稜威(みいづ)なほ吾守り在せり。汝等之を悟れ」
 と宣り終へて雄叫びし給ふ。諸共悉く之に合わせて雄叫びす。
 この地を威余(いあれ)と云ふ。大皇子を威余彦(いあれひこ)と白すは之が縁なり。
 この日は仲冬の初日なり。

長髓彦の部下・銅武(あかがねのたける)が守る高淤加美山周辺マップ

長髓彦の部下・銅武(あかがねのたける)が守る高淤加美山

長髓彦の部下・銅武(あかがねのたける)が守る高淤加美山

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