御機の二十四〔コヱ国原見山の紋〕【2】記念写真を交えての紹介コーナー|秀真伝

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基本用語集

下巻PP41-42の注47の酒折宮(酒折神社)についての説明

山梨県の甲府と石和の中間にある酒折宮(酒折神社)
山梨県甲府市酒折3-1-13


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四十紋に「酒折の 宮は昔の 原の宮」〔40−2〕とあることから、酒折宮=原の宮であることが判然とする。
この「原の宮」とは、四紋〔4−8〕以降に記するところの、二神が天照神を生み育てた宮をさすものと考えられる。
本紋〔24−49〕には、瓊瓊杵尊が、この酒折宮を再建し、原朝間宮としたことも記されている。
『大日本地名辞典』をみると、甲斐国西山梨郡の条に、「酒折」なる項があり、次のごとく記す。
 「今里垣村の管内とす、板垣の東に隣り、石和甲府の中間とす」
 これは、現在の石和町と甲府市の中間地点にある酒折のことである。
 続いて「酒折宮址」の項には
 「酒折神社は酒折八幡宮の境内の小址を存す、別に北方四五許に石の小倉ありて、酒折天神と伝ふ、蓋宮址を転じて八幡宮を置けるならん」

 とみえる。

 四紋〔4−12〕には、天照神即位の儀の模様が記され、白布で製作した八豊幡をやす八隅に建て、天照神が中央に座し君となった旨が記されているが、これは紛れもなく八幡信仰の起源を示すものであり、応神帝誕生のときのときの八旒の幡降臨の所伝の淵源を語るものである。
 前述したごとく、この即位の大礼の執り行われた「原の宮」は、のちの「酒折の宮」であるのだから、酒折宮址に酒折八幡が存しているのはきわめて自然であり、本書の所伝とよく符合するものといわなければらない。

第10代崇神天皇から第15代応神天皇まで

 また、四十紋〔40−2〕には、日本武尊が尾張の宮簀姫の家で、昔「原の宮」であった「酒折の宮」を模し、そこに姫とともに暮し楽しみたいとの願望を表白したという記述をみることができ、右に記したように、酒折宮址が日本武尊の行宮の遺址であったとする『大日本地名辞典』の説とよく類似する。同書には、本居宣長の酒折宮寿詞を、平田篤胤が記した石碑が立つとも記している。
 この酒折の地から約8キロメートル離れた東八代郡一宮町一宮に浅間神社(あさま)がある。
 一宮町の浅間(あさま)神社(笛吹市)は、静岡県富士宮市の富士山本宮浅間神社と対し、古くから富士山望拝信仰の根拠地として知られている。
 このことを、本書に記された二神の富士登山の千日行の記述と考え合わせ、さらに瓊瓊杵尊が「酒折の宮」を朝間宮に造り替えたことを考慮すれば、浅間(あさま)神社(笛吹市)と「酒折の宮」の間に、何らかの関係が存在することを推測せしめる。
 その上、浅間(あさま)神社(笛吹市)には、旧暦の四月第二亥日に夫婦梅の実のついた枝を神前に献上する、梅枝神事が伝わり、二十四紋に記すごとく、瓊瓊杵尊が梅を折りかざしたことにより梅の紋の胞衣とともに生まれた梅仁尊が、のち朝間宮を治めたという二十五紋〔25−3〕の記述との密接なる関係を想起せしめるのである。
 これとは、別に山梨県富士吉田市大明見の小室浅間神社に伝わる「富士古文献」に隼総別皇子が小室の里なる日本武尊の旧跡の坂下(さかおり)の宮に薨じたことが記され、その場所を福知山阿曾谷三陵と称し、今の富士吉田市大明見一帯であるとする説がある。

第14代仲哀天皇から第26代継体天皇まで

 もし、仮にこの坂下(さかおり)の地を大明見とするなら、大明見はもとより、それに隣接する下吉田、上吉田にも、それぞれ小室(おむろ)浅間神社と北口本宮富士浅間神社が存在することも一考を要する。
 両社は吉田登山道の登り口にあって、坂下(さかおり)の名にはふさわしい神社といえる。
 しかし、三十二紋に「諏訪酒折(すわさかおり)の武日照命(たけひてる)」(32−6)と」みえるので、問題がある。
 この武日照命(たけひてる)とは梅仁尊の子で原朝間宮を治めていた。「諏訪酒折(すわさかおり)」という言葉から察すると、甲府市の酒折の方が諏訪には近く酒折宮にふさわしい地ともいえる。
 なお、一層の考証を経た上で、酒折の地を比定する必要があろう。

 大明見小室浅間神社(山梨県富士吉田市大明見148)

 東北本宮小室浅間神社(山梨県富士吉田市下吉田5221)←下宮
 北口本宮冨士浅間神社(きたぐちほんぐうふじせんげんじんじゃ)←上宮