佐護の神御魂神社【5】記録に残しておきたいメモ書き|長崎県対馬

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長崎県対馬市上県町佐護 字洲ア西里2864(詳細地図はこちら
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記録に残しておきたいメモ書き

1686年(貞享3年)撰の『対州神社誌』の佐護郡湊村と豆酘郡醴豆村の項

 1686年(貞享3年)撰の『対州神社誌』の佐護郡湊村と豆酘郡醴豆村の項に、佐護郡湊村に天道大菩薩があり、豆酘郡醴豆村に天道菩薩がある、とある。

 その縁起は次のように記述する。

 対馬州醴豆郡内院村に、照日某と云う者あり、一人の娘を生す。
 天武天皇の御宇白鳳13年(684年)甲申2月17日、この女日輪の光に感じて懐妊し、男子を生す。
 天武天皇13年(684)10月14日22時頃、地震が発生した。
 日本書紀には「人定(亥の刻)に至りて、大きに地震る。国こぞりて男女叫び唱いてまどいぬ。則ち山崩れ河湧く。諸国の郡の官舎及び百姓の倉屋、寺塔、神社、破壊の類あげて数うべからず。是によりて人民及び六畜多く死傷す。時に伊予の温泉、没して出でず。土佐国田苑五十余万頃、没して海と為る。」と記されている。
 五十余万頃は高知市東方と言われているが、当時そこは海であったので、五十余万頃は土佐の国内の合計量と考えられる。

 その子長するにおよび聡明俊慧にして知覚出群、僧となりてのち巫祝(ふしゅく)の術を得たり。
 朱鳥6年(691年)壬辰年11月15日、天道童子9歳にして上洛し、文武天皇御宇大宝3年(703年)癸卯年、対馬州に帰り来る。
 霊亀2年(716年)丙辰年、天童33歳なり。
 この時に当て、元正天皇不豫有り、博士をして占はしむ。
 占に曰、
 対馬州に法師有り、彼能く祈る。
 召して祈らしめて可なり、

 と云。

 天皇詔してこれを召さしむ。
 天道即ち内院の某地より壱州の小まきへ飛び、夫より筑前国の宝満嶽に至り、京都へ上洛す。

 内院の飛所を飛坂という。

 天道、吉祥教化千手教化志賀法意秘密しやかなふらの御経を誦し、祈念して御悩(なやみ)平復す。是に於いて天皇大に感悦し給ひて、賞を望にまかせ給ふ。天道其時対州之年貢を赦し給はん事を請て、又銀山を封し止めんと願ふ。
 対馬の古代銀山の閉鎖は、12世紀の初頭であったことを考えると、天道法師の伝説の成立過程が判る。
 対馬銀山(つしまぎんざん)は長崎県対馬市厳原町の樫根地区付近にあった日本最古の銀山遺跡。
 中国の史書『宋史』(1345年成立)では、永観元年(983年)に宋へ渡った日本僧「然が皇帝太宗へ日本の国情を説明した上奏文に、 「東奥州産黄金 西別島出白銀 以為貢賦(東の奥州は黄金を産出し、西の対馬は白銀を産出して租税とする)」
 とあることが知られる。

 なお州中之罪人で天道地へ遁入之輩、悉(ことごと)く可免罪科を免れしめんことを願ひ、右の通り、許容す。又寶野上人之號を給わりて帰國す。
 其時、行基(668-749年)菩薩を誘引し、対州へ来る。行基、観音之像六躰を刻む。今之六観音、佐護、仁田、峯、曾、佐須、豆酘に有者是也。
 対馬六観音は、昔の郡制で役所が置かれていた上県町佐護、上県町仁田、峰町三根、峰町吉田(後に豊玉町曽へ移転)、厳原町佐須、厳原町豆酘の六ヶ所に配置されたもので、伝承では白鳳13年(673年)、僧の行基が唐からの帰路、対馬に立ち寄り六体の観音像を刻んだと言われています。
 実際の文献考証では、年代も作り手も違うことが判っています。

 其後天道は豆酘之内卒土山に入定すと云々。

 母后今之おとろし所の地にて死と云。
 又久根之矢立山に葬之と云(多久頭魂神社)。
 其後天道佐護之湊山に出現有と云。今之天道山是也(天神多久頭魂神社)。
 又母公を中古より正八幡と云俗説有。無據(こんきょなく)不可考。

 右之外俗説多しといへとも難記。仍略之。不詳也。」

 これに注目した藩主の宗義真は、元禄2年(1689年)梅山玄常に命じて『天道法師縁起』を撰せしめたが、大筋はおおむね変わらず、年月の不動や若干の異同がある。

近世の伝説、1809年(文化6年)の『津島紀事』の伝

 1809年(文化6年)の『津島紀事』に、村老の伝として次のように伝える。

「古、神崎(こうざき)の大子瀬(おこぜ)浦に、一艘のウツロ船が漂着、中に一人の婦人あり、容姿美麗、自ら内院の女御(にょうご)なりと言う。よって内院と称す」とあるが、これは内院の地名説話として援用されたもので、肝腎の「天童」の話は落ちている。

 天童伝説の一説では

 昔、宮中の女院が不義の疑いにより、ウツロ船に載せて流され、内院の浜に漂着した。このとき、女院は懐妊していたのでサエの山の渓流の傍で出産したが、その子が成長して天道法師となった。

 という

 ウツロ船に乗って漂着してきた女性が神童を産むというこの所伝は、大隈国一之宮・正八幡宮(現在の鹿児島神宮)の縁起とまったく同じである。
 不思議な縁というべきか、内院の神社も正八幡宮で、その由緒の一説には、
「内院女御が大隈国より勧請した」
 とある。
 おそらく、所伝の類似を知っての付会かもしれない。
 内院の正八幡宮が天童の出生地とされているが、同地の字名を「アリ」というのは、「アレ(誕れ)」と同義に解される。
 ウツロ舟の漂着伝説は、神の顕現を説いたもので、対馬にはこの類の所伝が多いことから、いつのころにか天童の降臨伝説と、ウツロ船の漂着伝説が複合したものと考えられる。
 同類の所伝が、大隈国にもあり、古くは朝鮮の『三国史記』新羅本紀第12・敬順王の条にも見えるので、対馬だけの問題として片付けられない。
 また異伝の一説には、天童の母を内院女御の婢(はしため)としたものがあり、これは、賤しい女が日光に感応してアカルヒメ(赤玉)を妊ったという天之日矛伝説と共通している。

神御魂神社を「主基(スキ)宮」、高御魂神社を「悠紀(ユキ)宮」

http://www.genbu.net/zatu/zatu003.htm?print=on
 対馬の式内社巡りの途中でつぎのような記述を見た。
・上県の天神多久頭魂神社と下県の多久頭神社は一対。
・上県の天神多久頭魂神社側の神御魂神社を「主基(スキ)宮」
 下県の多久頭神社側の高御魂神社を「悠紀(ユキ)宮」という。
 こういう風にいう文献はなんだっけ?

「大隅国一の宮 正八幡宮」の縁起

【「大隅国一の宮 正八幡宮」の縁起】
ブログ☞大隈国一の宮 鹿児島神宮
 https://ameblo.jp/taishi6764/entry-12138638285.html

 欽明天皇の代に八幡神が垂迹したのもこの場所とされる。
 当社を正八幡と呼ぶのは『八幡愚童訓』に、
「震旦国(インドから見た中国)の大王の娘の大比留女が、七歳の時に朝日の光が胸を突き、懐妊して王子を生んだ。王臣達はこれを怪しんで空船(うつろぶね)に乗せて、船のついた所を所領としたまうようにと大海に浮かべた。船はやがて日本国大隅八幡の磯に着き、その太子は正八幡(八幡神)となって隼人を討ち、生母は筑前香椎に飛んで聖母大菩薩となった。
 継体天皇の代のことであると言う。」
 との記載がある。

 実際に記録されたのは、1335年で対馬の天道縁起よりも350年余り早い。
『天道法師縁起』は1690年に撰録されたが、それができた頃の対馬独特の「天道信仰」は、中世の神仏習合によって形成されたもので、「天道菩薩(天道童子、天道法師)」という擬人格の聖者を崇敬する。
 表面的には真言密教の色が強い。

「大隅国一の宮 正八幡宮(鹿児島神宮)」の地域隼人町一帯は古代日向国の大隅、阿多の中央に位置し、曽の国と呼ばれていました。海幸・山幸伝説など神武東征に係る伝説が数多く存在します。

 正八幡宮(鹿児島神宮)には、山幸が龍宮から持ち帰ったとされる、潮満玉と潮引き玉が保管されていると言われています。また、天皇の即位の礼に舞われるとされる隼人舞も千年もの時代を経た現在でも受け継がれていると言われます。