金色の鵄(とび)で長髄彦の反乱の終結・・
白庭(生駒市周辺)で長髄彦の反乱軍の鎮圧し、葛城市の鍋塚古墳に祀る
鵄邑(とびむら)顕彰碑 | 鵄山(とびやま)伝承地 | 長髄彦本拠地 | 鳥見白庭山| 長髄彦の墳墓と伝わる鍋塚(なべつか)古墳 |
紀元前1,552,847年に第一次天孫降臨、瓊々杵尊の兄・天之火之明尊が飛鳥治君に
石切剱箭神社(いしきりつるぎや) | 石切神社(上の社)| 哮ノ峯(生駒山の北麓) | 饒速日山(日下山・草加山) | 生駒山 | 磐舟神社 | 高貴寺 |
65万年後の紀元前898,627年頃、火明命(瓊々杵尊の長子)の長子・国照宮が天之火之明尊の養子として天下る。
哮ノ峯(磐船神社の北) | 磐船神社| 一の矢が落ちたところ | 二の矢が落ちた奇玉比古神社 | 三の矢が落ちたところ | 主人神社(ぬしと) |
松尾寺の松尾神社 | 矢田寺の春日神社 | 東明寺の八坂神社
| 眞弓塚(かつての白庭山か?) | 「眞弓塚」という碑がある |
伊弉諾神社(眞弓山の長弓寺にある) | 天忍穂耳神社 | 生駒山口神社 | 宝山寺の福徳神社
| 饒速日命墳墓(おそらく遥拝所であろう) | 日の窪山 | 夫婦塚(御炊屋姫の墓という碑) |
神武天皇、「大和討ち」の目次はこちら (※)参考ページ ⇒ 「神武天皇大和討ち」
天鈴55年、紀元前663年(即位前3年)12月4日、長髄彦との決戦〜『日本書紀』
しかし戦いを重ねたが、なかなか勝利をものに出来なかった。
そのとき急に空が暗くなって雹(ひょう)が降り出した。そこへ金色の不思議な鵄(とび)が飛んできて、磐余彦尊の弓先に止まった。
金鵄(きんし)とは、長髄彦の妹であり饒速日尊の妻である御炊屋姫(みかしやひめ)である
長髄彦軍は金鵄(きんし)を見ると戦意を喪失し、使者を磐余彦に送っている。この伝承から判断すると、金鵄(きんし)とは長髄彦に強烈なメッセージを送れる人物だったはずである。
長髄彦の妹であり、饒速日尊の妻であり、宇摩志麻遅(うましまち・可美真手とも表記)の母である御炊屋姫(みかしやひめ)が金鵄(きんし)だったのではないかと思う。
反乱軍の長髄彦にしてみれば、自分の妹が、饒速日命と宇摩志麻遅(うましまち・可美真手とも表記)の密命を帯びて神武天皇軍の使者として立ったのである。
反乱軍の長髄彦は戦うことができなくなり、「どうしてなのか」と早速、使者を送って事情を聞きだそうとした。
饒速日命と宇摩志麻遅(うましまち・可美真手とも表記)命は、神武天皇に正当な皇統があることを悟って、長髄彦の反乱を阻止する側に回ったのである。
御炊屋姫(みかしやひめ)の仲立ちによって饒速日命・宇摩志麻遅(うましまち・可美真手とも表記)と長髄彦は話し合ったが、長髄彦は承諾せず、あくまでも戦う意思を崩さなかった。
やむを得ず饒速日尊は長髄彦を刺し殺し、長髄彦の部下を磐余彦に帰順させたのだ。
このため長髄彦の軍の兵達は皆幻惑されて力を出すことが出来なかった。
長髄というのは元々は邑(むら)の名であったが、これを人名に用いたものである。
この地は磐余彦尊の軍が鵄(とび)の力を借りて戦ったことから、人々は鵄(とび)の邑(むら)と改めて名付けた。
今、鳥見(とみ)というのはなまったものである。
この年の3月、孔舎衛坂(くさえざか)の戦いにおいて、五瀬命(いつせのみこと)が矢に当たって戦死している。
長髄彦は磐余彦尊に使いを送った。
「その昔(89万8千年前)、天神の御子が天磐舟に乗って天降られた。御名を櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと)といわれる。それで我々は饒速日命を主(あるじ)として仕えている。天神の子は二人おられるのか。どうして天神の子と名乗って、人の土地を奪おうとするのか。私が思うにあなたは偽物でしょう。」磐余彦は
「天神の子は数多くいる。お前が主とあがめる人が本当に天神の子ならば必ずその表(しるし)があるはずだ。それをしめせ。」と言った。
磐余彦が使いの者に返答すると長髄彦は、饒速日命の持つ天の羽羽矢と歩靫(かちゆき)を磐余彦に示した。
長髄彦が示した羽羽矢と歩靫を見た磐余彦尊は、自分の持つ羽羽矢と歩靫を長髄彦に示し自分もまた天神の子であることを示した。
長髄彦はそれを見て、ますます恐れ畏まった。
しかし戦闘は、いままさに始まったばかりであり、回避することは難しかった。まして長髄彦の軍には、改心の気持ちがなかったのである。
饒速日命は天神が気にかけているのは、天孫である瓊瓊杵尊の子孫だけだということを知っていた。
長髄彦には性質がすねたところがあった。饒速日命は長髄彦に、天神と人とは全く異なるところがあるのだということを説いても無駄だと思い、長髄彦を殺害した。
そして饒速日命は部下と共に磐余彦に帰順したのである。
長髄彦の亡骸は奈良県葛城市竹内にある鍋塚(長髄彦の墳墓)に納められたと伝えられているらしい。
長髄彦との戦いの状況推定
この位置関係から見て、生駒市高山にある鵄山(とびやま)伝承地といわれる丘陵地は、長髄彦本拠地を攻めるときの最前線だったのだろう。
神武天皇一行は現在の「神武天皇聖蹟 鵄邑顕彰碑」のあるあたりまで富雄川を遡ってきた。
「神武天皇聖蹟 鵄邑顕彰碑」周辺の丘陵地に本陣を置き、鵄山(とびやま)伝承地といわれる丘陵地に前線基地を設け、富雄川をはさんで弓矢の射掛け合いをしたのだ。
戦況が膠着状態になったとき、背後の矢田丘陵から密使(金鵄)がやってきたのであろう。
(※)桜井市の外山(とびやま)伝承は、兄磯城(えしき)の伝承と混同したものだろう。
桜井市の鵄山(とびやま)伝承地は兄磯城(えしき)の本拠地であり、すでに磐余彦の勢力圏に入っているのであるから鵄邑(とびむら)は生駒市にあるものが真実性が高い。【地図】「長髄彦の本拠」の碑
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【地図】「鳥見白庭山」の碑(「長髄彦の本拠」の西北55メートル)
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【地図】神武天皇、長髄彦の反乱の鎮圧の最終局面の地図

【地図】神武天皇、生駒俯瞰

難しさ・・饒速日尊(国照宮)の前に、天忍穂耳尊の長子・天之火之明尊がいる
紀元前1,552,847年の第一次天孫降臨のとき、瓊々杵尊の兄・天之火之明尊(あめのほのあかり)が天下られている。
さらに、その65万年後の紀元前898,627年頃、火明命(瓊々杵尊の長子)の長子・国照宮が天之火之明尊(あめのほのあかり)の養子として天下られている。
瓊々杵尊の兄の名が奇玉火之明尊(くしたまほのあかり・飛鳥治君)、瓊々杵尊の長子の名が火明尊(ほあかり・ハラ治君)であることが、また別の混同を生んでいるようだ。
火明尊(ほあかり・ハラ治君)の長子・国照宮が、奇玉火之明尊(くしたまほのあかり)の養子となって饒速日を名乗っていることも混同をいっそう激しいものにしてしまっている。

整理すると・・
天忍穂耳尊の長子・奇玉火之明尊(くしたまほのあかり)が天降ったことを、第一次天孫降臨(紀元前1,552,847年)といい、それから26万年後に瓊々杵尊が天降ったことを第二次天孫降臨(紀元前1,290,607年)と伝える。天忍穂耳尊の長子・奇玉火之明尊(くしたまほのあかり)に子がなく、香久山命の孫の田倉麿(高倉下)が養子に入ったがそのときの后である初瀬姫との折合が悪く、破談になった。
奇玉火之明尊(くしたまほのあかり)が神上がられてから、田倉麿(高倉下)の父・田栗命(香久山命の子)が復縁交渉に当たったが決裂し、瓊々杵尊の長子・国照宮が饒速日と名を改めて飛鳥宮に天降ることになった。
第一次天孫降臨(紀元前1,552,847年)から65万年後の紀元前898,627年過ぎのことである。
第一次天孫降臨(紀元前1,552,847年)、奇玉火之明尊は生駒山の北麓にある哮ノ峯に天降られた
天忍穂耳尊の長子・奇玉火之明尊(くしたまほのあかり)が天降った第一次天孫降臨(紀元前1,552,847年)は、おそらく生駒山の西側にある石切劔箭神社(いしきりつるぎや)・石切神社(上の社)の方向からであろう。創建された斑鳩宮(いかるがのみや)とは、おそらく生駒山の北麓の哮ノ峯(いかるがのみね)にあったのではないか?
ところが、奇玉火之明尊(くしたまほのあかり)は斑鳩宮(いかるがのみや)創建の翌日、飛鳥宮創建の命を出した。
太玉命が飛鳥宮創建の命(めい)に賛成され、大物主・奇彦命と天児屋根命は諌言されるとともに政務を退かれている。
大物主・奇彦命と天児屋根命は宮から退かれたので、一度築かれた斑鳩宮(いかるがのみや)の宮跡を太玉命が守ることになった。
そういう縁故があって、「長髄彦(太玉命の孫)の本拠地」と呼ばれるところが生駒市にあるのだ。
生駒山の北麓の哮ノ峯(いかるがのみね)の次に、高貴寺のある磐舟神社に天降る
天忍穂耳尊の長子・奇玉火之明尊(くしたまほのあかり)は、斑鳩宮(いかるがのみや)の次の飛鳥宮に遷るために、高貴寺近くの磐舟神社に再度天降られた。このことが、
「河内国哮峯(いかるがのみね)とは今の天降高貴寺(大阪府南河内郡河南町平石539)なるべし」
という伝承を生んだのだろう。
太玉命は飛鳥宮を支えるために奈良県葛城市竹内に居を定めた。
その居は長髄彦の墳墓と伝わる鍋塚(なべづか)近辺だったのだろう。
神武天皇は反乱軍を鎮圧していったとき、反乱軍の大将の主たる土地に宮を祀ってきている。
このことから、飛鳥宮を支えた太玉命の拠点は、長髄彦の墳墓と伝わる鍋塚(なべづか)近辺と類推できるだろう。
【地図】大和川南側から葛城周辺の地図

しかし、飛鳥宮がどこにあったかは不明である。
私には、甘樫丘(あまかしのおか)がとても気にかかっている。
養子に入った国照宮は、磐船神社(大阪府交野市私市9丁目)の哮峰に天降られた
第一次天孫降臨(紀元前1,552,847年)から65万年後の紀元前898,627年過ぎ、養子に入った国照宮(瓊々杵尊の子である火明尊の長子・改名して饒速日)は、磐船神社(大阪府交野市私市9丁目)の哮峰に天降られてから、宮を築くところを決めるため3本の矢を放った。その1本目の矢は「矢田坐久志玉比古神社」(奈良県大和郡山市矢田町796)の南側に落ち、2本目の矢は「矢田坐久志玉比古神社」(奈良県大和郡山市矢田町796)に落ち、3本目の矢は、「矢田坐久志玉比古神社」(奈良県大和郡山市矢田町796)の北側に落ちた。
国照宮(瓊々杵尊の子である火明尊の長子・改名して饒速日)は、宮を定めてから、白庭邑において奇玉火之明尊の喪祭りを長く行ったと『秀真伝(ほつまつたゑ)』は伝える。
(※)白庭山の比定地は2ヶ所ある
国照宮(饒速日尊)が放った3本目の矢が落ちた所を 白庭山と呼んでいたらしい。
さらに、長弓寺の北側にある眞弓塚も白庭山と呼ばれていたらしい。
【地図】眞弓塚の東側に「眞弓塚」という碑がある。
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【地図】長弓寺の伊弉諾神社
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奇玉火之明尊(くしたまほのあかり)の御尊骸はどこに・・?
饒速日尊(国照宮)が喪祭りを長い間行ってきたのは、眞弓塚と長弓寺の伊弉諾神社においてだろう。そのとき、奇玉火之明尊の父である天忍穂耳尊を別殿で祭られたのだ。
それが、「神武天皇聖蹟 鵄邑顕彰碑」の北側にある天忍穂耳神社であったろう。
喪祭りをシッカリと行える饒速日尊(国照宮)なのだ、御尊骸は必ずどこかに納めているはずだ。
天之児屋根命の御尊骸が枚岡神社に納められたことを勘案すると、生駒山西麓にある石切神社(上の社)に御尊骸を移し祀られたのではないか、と推測することができる。奇玉火之明尊(くしたまほのあかり)が生駒山北麓の哮峯に天降られたのは、その場所でやり遂げなければならない課題があったからだ。
生駒山は神代史にとって、抜き差しならないほどの重要な場所だったのだろう。
今の私がこういう推測をするにあたって『秀真伝(ほつまつたゑ)』を紐解いているのと同じように、神武天皇も石切劔箭神社(いしきりつるぎや)と石切神社を創建されるさいに、『秀真伝(ほつまつたゑ)』を初めとするとても重要な古文献を元にされたはずだ、と推測することは極めて自然なことだ。
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