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世嗣文を盗み写した長髄彦

 世嗣文を盗み写した長髄彦
 『秀真伝(ほつまつたゑ)』下巻御機の28「君臣遣し宣の紋」(八幡書店、下巻P197-199 )
  先に香久山(かぐやま)  
長髄彦(ながすね)は 御祖(みをや)天皇(すべらぎ) 鵜葺草葺不合尊
御子(みこ)無(な)きお 天押雲命(おしくも)祈(いの)る  
その文(ふみ)お 請(こ)えど授(さづ)けず  
罷(まか)るのち 天種子命(あまのたねこ)は 鵜葺草葺不合尊が身罷られるたのち
この文(ふみ)お 三笠山(みかさやま)に籠(こ)めて  
君の伴 長髄彦(ながすねひこ)は 天種子命は神武天皇に付き添って筑紫に行かれる
その倉(くら)お 密かに開けて  
写し取る 倉人(くらうど)見つけて  
これお告(つ)ぐ 清雄鹿(さおしか)遣(や)れば  
御子(みこ)答(こた)え 「倉人(くらど)が業(わざ)は  
われ知らず」 これに散(あら)けて  
事代主命(ことしろ)は 伊予(いよ)に留(とど)まる 積葉八重事代主命
その妻は 伊勢に詣でて 玉櫛姫
猿田彦命(さるたひこ) 蹈鞴(たたら)なすおば  
見に至り そこで姫(ひめ)生む  
その妻に 取り上げさせて 宇受売命が姫を取り上げ、伊予まで送って行かれる。
送り行く 事代主命(ことしろ)笑(え)めば  
猿田彦命(さるたひこ) 讃(たた)ゆる姫(ひめ)の  
名は蹈鞴(たたら) 五十鈴姫(いすずひめ)なり 神武天皇の中宮
長髄彦(ながすね)が われお立つれば  
著(いち)騒(さわ)ぐ 故(かれ)に原見山(はらみ)の 国照宮(饒速日尊)の弟の武照宮のことか?
御子(みこ)触(ふ)れて 秀真(ほつま)日高見(ひだかみ)  
糧船(かてふね)お 上(のぼ)さぬゆえに  
多賀の宮 筑紫の宮に 五瀬尊が神武天皇の元に
行(ゆ)き居(い)ます 大物主命(おおものぬし)は 櫛甕玉命
多賀殿(たがとの)に 根の国治(をさ)め  
太田命(おおた)おば 日向神殿(ひうがかんどの) 子守神の十二男が多賀の宮で鵜葺草葺不合尊を日向の神として祀ったことが〔27-33〕に見える。あるいは日向国の宮崎宮の神殿の義か。
添物主(そえものぬし)と なして娘(むすめ)の  
美良姫(みらひめ)お 娶(めと)りて生(う)む子  
直彦(ただひこ)が 天立櫛根命(あたつくしね)は  
幼名(おさなな)ぞ 父の積葉命(つみは)も  
神(かみ)となる 天鈴(あすず)五十年(ゐそとし) 紀元前668年(即位前8年)10月、
十月(かんなづき) 八十四万(やそよろ)三千(みち) 積葉命は84万3,048歳で神上がられる
四十八歳(よそや)なり 今年(ことし)鰐彦(わにひこ)  
百(もも)の八歳(やつ) 妹(いもうと)五十鈴姫(いすずひめ)は 鰐彦(わにひこ)は108歳。妹は15歳。
十五歳(とおゐつつ) ともに喪(も)に入(い)り  
四十八日(よそや)のち 阿波(あわ)の県(あがた)に  
納(おさ)むのち 自(みずか)ら記(しる)し  
この文(ふみ)お 社(やしろ)に置(お)くは  
ゐづこのためか    

長髄彦の反乱

 長髄彦の反乱
 『秀真伝(ほつまつたゑ)』下巻御機の29「武仁尊大和討ちの紋」(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P225-227 )
神日本(かんやまと) 磐余彦(いわわれひこ)の 神武天皇のこと
天皇(すべらぎ)は 御祖(みをや)天君(あまきみ) 鵜葺草葺不合尊
四つの御子(みこ) 母(はは)は玉依姫(たまよりひめ)  
兄宮(あにみや)の 五瀬命(いつせ)は多賀(たが)の  
治君(おきみ)なり 御祖(みおや)天君(あまきみ)  
筑紫(つくし)治(た)す 十年(そとせ)治(をさ)めて  
日足(ひた)るとき 天君(あまきみ)の荷(に)お  
武仁尊(たけひと)に 授(さづ)け吾平(あひら)の  
神となる 君(きみ)宮崎宮(みやざき)に  
天種子命(たねこ)らと 政(まつり)執(と)るゆえ  
静(しづ)かなる 香久山(かくやま)の臣(とみ)  
長髄彦(ながすね)が まゝに振(ふる)えば  
騒(さわ)がしく 原見(はら)の治君(おきみ)は 火明(ほあかり)梅仁(むめひと)、饒速日尊の実父。
糧(かて)止(とど)む 大物主命が 櫛甕玉命
討(う)たんとす 多賀(たが)の治君(をきみ)は  五瀬尊
驚(おどろ)きて 筑紫(つくし)に降(くだ)り  
ともに治(た)す 大物主命(ものぬし)一人(ひとり)  
民(たみ)治(おさ)む 時に武仁尊(たけひと)  
吾平姫(あひらひめ) 娶(めと)り生(う)む御子(みこ)  
手研耳尊(たぎしみみ) 君年(きみとし)四十五(よそゐ)  
物語(ものがた)り 「昔(むかし)の御祖(みおや) 葉木国神の子で木の常立尊のことか?
高皇産霊尊(たかむすび) 日高見(ひだかみ)生(う)みて  
四(よ)マス万穂(よろ) 過(す)ぎて天日(あまひ)の  
大御神(ををんかみ) 天成(あめな)る道(みち)に  
民(たみ)お治(た)す 御子(みこ)の忍仁尊(おしひと)  
譲(ゆず)り受(う)く 御孫(みまご)清仁尊(きよひと)  
また受(う)けて 別雷(わけいかつち)の  
天君(あまきみ)と 天(あめ)の磐座(いわくら)  
押し開き 稜威(いづ)の道別(ちわき)に  
治(をさ)まりて 御祖(みおや)に仕(つか)ふ  
道開(みちあ)きて 光(ひかり)重(かさ)ぬる  
年(とし)の数(かず) 百七十九万(ももなそこよろ)  
二千四百(ふちよもも) 七十穂(なそほ)経(へ)るまで  
遠(お)ち近(こ)ちも 潤(うるほ)ふ国(くに)の  
君(きみ)ありて 村(むら)も乱(みだ)れず  
天(あめ)の道(みち) 世(よ)に流行(はや)る歌(うた)  
  乗(の)り下(くだ)せ秀真路(ほつまじ)  
  弘(ひろ)む天(あま)の岩船」  

五瀬尊の崩御、そして稲飯尊と御毛入尊の崩御

 五瀬尊の崩御、そして稲飯尊と御毛入尊の崩御
 『秀真伝(ほつまつたゑ)』下巻御機の29「武仁尊大和討ちの紋」(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P229-231 )
三月(やよひ)には 吉備高島宮(きびたかしま) 紀元前666年・天鈴(あすず)52年3月
中国(なかくに)の 政(まつり)治(をさ)めて  
三年(みとせ)坐(ま)す 内(うち)に整(ととの)ひ  
御船(みふね)行(ゆ)く 天鈴(あすず)五十五穂(ゐそゐほ)  
二月(きさらぎ)や 早浪(はやなみ)立(た)つる 紀元前663年・天鈴(あすず)55年2月
瑞岬(みづみさき) 名も浪速(なみはや)の  
港(みなと)より 山(やま)あと川(かわ)  
遡(さかのぼ)り 河内(かわち)草香(くさか)の 東大阪市日下町
天上諸命(あうゑもろ) 館(やかた)に軍(いくさ)  
整(ととの)ひて 竜田(たつた)の道(みち)は 奈良県北葛城郡王寺町竜田
並(なら)び得(え)ず 生駒山(いこま)越(こ)ゆれば  
長髄彦(ながすね)が 軍(いくさ)起(おこ)して  
「わが国(くに)お 奪(うば)わんやわ」と  
孔舎衛坂(くさえざか) 戦(たたか)ひ合(あわ)す 孔舎衛坂(くさえざか)
五瀬(ゐつせ)御子(みこ) 肱(ひぢ)お射(い)られて  
進(すす)み得(ゑ)ず 天皇(すめらぎ)触(ふ)れる  
議(はか)り事(ごと) 「われは日(ひ)の孫(まご)  
日(ひ)に向(むか)ふ 天(あめ)に逆(さか)えば  
退(しりぞ)きて 神(かみ)お祭(まつ)りて  
日(ひ)のままに 襲(おそ)はば仇(あだ)も  
破れん」と みな「しかり」とて  
八尾(やお)え退(ひ)く 仇(あだ)もせまらず 大阪府八尾市
御船(みふね)行(ゆ)く 茅渟(ちぬ)の山城(やまき)で  
五瀬尊(ゐつせ)枯(か)る 紀国(き)の竈山(かまやま)に 五瀬尊は竃山神社(かまやま)で祀られている。
送(おく)らしむ 名草(なぐさ)の戸畔(とべ)が 名草山の周辺
拒(こば)むゆえ 罪して佐野え 新宮市佐野
熊野村(くまのむら) 磐盾(いわたて)越えて 新宮市近辺の熊野の神邑(みわむら)。磐盾は神倉山のゴトビキ岩。
沖お漕ぐ 旋風(つじかぜ)船(ふね)を  
漂(ただよ)わす 稲飯尊(いなゐ)哭(いざ)ちて 稲飯尊は室古神社(むろこ)で祀られている。
「天(あめ)の神(かみ) 母(はは)海神(わだかみ)や  
如何(いかが)せん 陸(くが)に窘(たしな)め  
また海(うみ)」と 入(い)る鋤持(さひもち)の  
海(うみ)の神(かみ) 御毛入尊(みけいり)もまた  
逆波(さかなみ)の 海(うみ)お恨(うら)みて  
神(かみ)となる   御毛入尊は阿古師神社(あこし)で祀られている。

『秀真伝』下巻御機の29「武仁尊大和討ちの紋」(八幡書店、下巻P232-236 )

 動物霊を操る丹敷戸畔(にしきとべ)を誅し、大台ケ原を越える。
 『秀真伝(ほつまつたゑ)』下巻御機の29「武仁尊大和討ちの紋」(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P232-236 )
  山路険しく 紀元前663年(即位前3年)
天鈴(あすず)55年
末絶えて 野にしぢまひて  
天皇(すめらぎ)の 夢に天照(あまてる)  
神の告げ 「八咫(やた)の烏(からす)お」  
導きと」 覚むれば八咫(やた)の  
烏(からす)あり 大祖父が穿(うが)つ  
飛鳥道(あすかみち) 軍(いくさ)率き行く  
道臣命(みちおみ)が 峰越え宇陀の  
穿村(うがちむら)    
  = 途中略 =  
  十一月(ねつき)弓張(ゆみはり) 紀元前663年(即位前3年)
天鈴(あすず)55年11月弓張月の日。
磯城彦(しぎひこ)お 雉子(きゞす)に召(め)せど  
兄(あに)来(こ)ず また遣(や)る八咫(やた)の  
烏(からす)鳴き 「天神(あまかみ)の御子(みこ)  
汝(なんじ)召(め)す いざわいざわぞ」  
兄磯城(ゑしぎ)聞き 「厭(いと)うなす神(かみ)  
汚穢(をゑ)ぬとき 仇烏(あだがらす)」とて  
弓(ゆみ)引けば 弟(おと)が屋(や)に行き  
「君(きみ)召(め)すぞ いざわいざわ」と  
烏(からす)鳴(な)く 弟磯城(おとしぎ)怖(お)ぢて  
容(かたち)変(か)え 「神(かみ)の厭(いと)うに  
われ恐(おそ)る ゑゝ汝(なんじ)」とて  
葉盛(はも)り饗(あ)え まゝに至(いた)りて  
「わが兄(あに)は 仇(あだ)す」と申(もふ)す  

『秀真伝』下巻御機の30「天君都鳥の紋」(八幡書店、下巻P261-270 )

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』下巻御機の30「天君都鳥の紋」(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P261-270 )
  日の神使ひ 紀元前660年(即位年)
天鈴58年1月1日
道臣命(みちおみ)と 月の使ひは  
天田根命(あたね)なり 星の使ひは  
天富命(あめとみ)と 忌部(いんべ)賜わり  
禊(みそぎ)なす    
  = 途中略 =  
天富命(あめとみ)は 別雷宮(わけつちみや)の  
剣持ち 天田根命(あたね)は鏡  
持ち上る    
  = 途中略 =  
  次春(つぎはる)十一日(そひか) 紀元前659年(即位後2年)
天鈴(あすず)59年
勅(みことのり) 「思えば忠(まめ)は  
可美真手(うましまち) 代々(よよ)物部(ものべ)嗣(つ)げ  
道臣(みちおみ)と 望みのまゝに  
築坂(つきさか)と 久米村(くめ)の地(ところ)お  
賜うなり 珍彦(うつひこ)がこと  
船と埴(はに) 大和国造(やまとくにつこ)  
弟猾(おとうけし) 猛田(たけだ)県主(あがたし)  
黒速(くろはや)は 磯城(しぎ)の県主(あがたし)  
天日別(あめひわけ) 伊勢の国造(くにつこ)  
天田根神(あたねかみ) 賀茂(かも)の県主(あがたし)  
勝手(かつて)孫(まご) 剣根(つるぎね)葛城(かつらぎ)  
国造(くにつこ) 八咫烏(やたがらす)孫(まご)  
葛野主(かどのぬし)」    
  = 途中略 =  
四穂二月 ネウエのキナエ 紀元前657年(即位後4年)
天鈴61年2月
勅(みことのり) 「御祖(みおや)の神の  
都鳥(みやこどり) わが身お照らし  
仇(あだ)平(む)けて みな治むゆえ  
天富(あめとみ)に 賀茂社(かも)お遷(うつ)させ  
御祖神(みをやかみ) 祭る榛原(はりはら)  
鳥見山(とりみやま) 天田根お賀茂の  
建祗命(たけすみ) 祭り嗣(つ)がせて  
国造(くにつこ)ぞ」