日御碕神社【3】文献に掲載されている由緒書き|島根県

マピオン地図
島根県出雲市大社町日御碕455
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文献に掲載されている由緒書き

『全国神社名鑑』(史学センター)に掲載されている由緒書き

 日沈宮(下の宮)は、神代より現社地に近い海岸の経島に鎮座していたが、村上天皇の天暦2年(948年)、勅命により現社地に遷座したという。
 その由来は、神代の昔、素盞嗚尊の子神・天葺根命が清江の浜に出られた時、経島の百枝の松に瑞光が輝いて天照大御神の神託が下り、これに喜んだ命は、直ちに島上に大御神を祀ったと伝えている。
 のち村上天皇は、日御碕は夕日をはなむけ祀る霊地一として崇敬され現社地に宮を造営して遷座したという。
 神の宮は、神代より現社地背後の「隠ヶ丘」に鎮座していたが、安寧天皇13年(前535年)、勅命により現社地に遷座され、のち日沈宮と共に日御碕大神宮と称された。
 隠ヶ丘に鎮座した由来は、神代の昔、出雲の国造りをされて根の国に渡り、熊成の峯に立って柏葉をとり、神魂の鎮まる地を占ったところ、日御碕の隠ヶ丘に止まった。これによって、尊の神霊の鎮まる霊地として斎祀して、今日に至るという。
 旧国幣小社。
地図

『 注釈 上紀(うえつふみ) 』(八幡書店、上巻、P164)より

参考リンク:八岐大蛇を退治した後の素盞嗚尊とそれ以後の出雲

天之冬衣(あめのふゆきぬ)の命、別名、天之葺根(あめのふきね)の命 は須佐之男の尊の6代目の子孫にあたる。

 天之葺根(あめのふきね)の命の伝承は、日御碕神社創建の伝承に残る。

(参考)天之葺根命ー『神道大辞典(縮刷版)』(臨川書店、昭和61年縮刷復刻版)より

 天之冬衣神と同神。素戔嗚尊五世の裔孫。
 のち素戔嗚尊の命により高天原に至り、天叢雲剣を天照大神に奉り給うた。
 日御碕神社で毎年季冬晦の日に神職が天一山(→上の地図を参照)に登って行う神剣奉天の古儀は之に基づく。
 現在日御碕神社神社境外摂社経島(ふみしま)神社(→上の地図を参照)の奉仕神で、その神裔は代々日御碕神社に奉仕し、小野氏という。

(参考)天之葺根命ー『神道大辞典(縮刷版)』(臨川書店、昭和61年縮刷復刻版)より

 「フユ」は「フ」とつまり「ヌ」は「ネ」に通う音であるから、この神は草薙の剣を持って天上に至り天照大神に奉り給うた天之葺根神と同神であろう『古事記伝』に解く。
 淤美豆怒(おみづぬ)神の御子で、御母は布帝耳(ふてみみ)神。
 あるいは、大国主神をその御子神と立てる説もある。

(参考)日御碕神社の由緒書きより(上の地図を参照)

林神社(摂社) 天葺根命(天冬衣命)
 境外、宇竜港附近の山上に鎮座す。天葺根命は天照大御神を経島に祀り、素盞鳴尊を隠ケ丘に祀り絡うた。即ち日御碕神社の祭主であって、命の子孫は世々その職を嗣ぎ(中世以降日御碕検校と称す)現小野宮司は実に九十七代の後 に当る。
熊野神社(未社) 伊弉冊尊
境外、宇竜港の権現島(蓬来島)に鎮座す。毎年旧正月五日の和布刈神事は有名である。