沙沙貴神社(ささき)【3】文献に掲載されている由緒書き|滋賀県

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滋賀県蒲生郡安土町常楽寺1番( マピオンによる広域地図
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文献に掲載されている由緒書き

『全国神社名鑑』(史学センター)に掲載されている由緒書き

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『秀真伝』御機の二「天七代床神酒の紋」(鳥居礼編著、八幡書店、上巻P224- )

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二「天七代床神酒の紋」(鳥居礼編著、八幡書店、上巻P224-230 )
真栄木の 植ゑ継ぎ五百(ゐも)に  
満るころ 世嗣(よつぎ)の男神(をかみ)  
大濡煮尊(うびちに)の 少濡煮尊(すびち)を入(い)るる 大濡煮尊が少濡煮尊を妻と定めたということ。
幸(さいあい)の その本居は 豊かに栄えるその由来は
越国(こしくに)の ヒナルの岳(だけ)の 人成るの岳の略か。あるいは雛るの岳の意か。
『秀真政伝』に「越前雛ヶ嶺」とみえる。
神宮(かんみや)に 木の実お持ちて 木の実をお持ちになった御子が生まれた
生れませば 庭に植ゑ置く  
三年(みとせ)のち 三月(やよゐ)の三日(みか)に 3年後の3月3日に
花も実も 百(もも)成るゆえに 花と実が100個づつなった。
桃の花 二神の名も 百(もも)の数にちなみ、桃(もも)と名付けた
桃雛木尊(ももひなき) 桃雛実尊(ももひなみ)なり  
(ひな)はまだ 人(ひと)成(な)る前(まえ)よ ヒナ」とはヒトに達していない、ヒトでないという義か。ヒトは一から十の教えを全うする「一十」の義
君(きみ)はその 木の実によりて  
男神(をかみ)は 女神(めかみ)はとぞ  
名付(なづ)きます 人(ひと)成(な)るのちに  
三月(やよい)三日(みか) 神酒(みき)造(つく)り初(そ)め  
奉(たてまつ)る 桃(もも)下に酌め(く)る  
神酒(みき)につき 移り勧むる 「ミキ」という名なので、実である女神からまず飲み、木である男神が次に飲むということを指している。
女神(めかみ)まづ 飲みて勧(すす)むる  
のち男神(をかみ) 飲(の)みて交(まじ)わる  
床(とこ)の神酒(みき) 身(み)暑(あつ)ければや  
明日(あす)御朝(みあさ) 寒川(さむかわ)浴びる 神奈川県高座郡寒川町に旧国幣中社の寒川神社がある。祭神は寒川比古命と寒川日女命の二神である。『日本総国風土記』によれば雄略天皇の御代に幣帛を奉納したことが記されているので創建は極めて古いとされている。
本書の伝承と関連するであろうか。
袖(そで)濡(ひ)ぢて 大小(うす)の煮心(にごころ) 「煮心(にごころ)」は熱く燃え上がった心。その熱き心が寒川を浴び冷えて一連の神儀が完成されたので「全きとて」と記されている。
「大小(うす)」は、男神は衣が大いに濡れ、女神は少しく濡れたという意味。
全(また)きとて 名も大濡煮神(うびちに)と  
少濡煮神(すびちかみ) これもウビ似る 本書の中でも特に深い解釈を要するところである。
十八紋に「ウビお地球(くにたま)」(18-3)、「ウビコ煮え 煮上がる山ぞ ノ手結び 野風に乾く」(18-4)などとあることより、「ウビ似る古事」の内容は、天地開闢のとき、アワ、ウビが分化して陽神、陰神が生じた。アワは天となり、煮上がるウビは風に冷えて地となり山となった。
これがのちの世、男の道・女の道が確立し婚儀が制定され、三々九度の床神酒を飲み交じり、交じり終えて熱き身と煮えた心を冷やし一十の道を全うしたのであり、それは天地開闢の一連の古事と全く同一のものであった、ということになる。
古事(ふること)や 大き少なき  
ウスの名も この雛形(ひながた) このような桃雛木尊、桃雛実尊の故実がのちの風儀の雛形となった、三月三日の雛祭りのもととなったという意。
男(を)は冠(かんむり) 大袖袴(うほそではかま) 装束がこのとき定まったことを示している。
女(め)は小袖(こそで) 上被衣(うはかつき)なり  
このときに みな妻入れて  
八十連(やそつづ)き 諸民もみな 本紋〔2-5〕に「八百(やも)続(つづ)きまで」とみえる。
多くの臣民が一勢に妻を定めたことをいうのか、その風習が永く続いたことを象徴的にいっているのか難しいところである。
妻定む 天(あめ)成(な)る道の  
備わりて たぐひなるより 「たぐひ」は組のこと、夫婦が組となって生活することが定まったときより、ということか
年(とし)数え 五百(ゐも)継(つぎ)天(あま)の 国常立尊より天真栄木を植え継ぎ植え継ぎして、五百本に達したということ。つまり三千万年経たことになる。
真栄木や 五世(ゐつよ)の神は  
大殿内尊(おおとのち) 大戸前尊(おおとまえ)なり 『日本古典文学大系・日本書紀』の補注によれば、「は男性を表し、は女性を表す。は、ヲヂ、チチなどの、チと関連し、はメ(女)と通用する」などと記されているが、これは以下の本文の記述にあるように、夫婦となる前は男神は殿の内に居て、女神は戸の前に居て同席せずとの教えを示した名であることがわかる。これにより、男神を御殿と称え、女神を御前と称えるのちの風儀となったのである。
角樴尊(つぬぐい)は 大殿(おおとの)に居て  
活樴尊(いくくい)お 戸前(とまえ)に相(あひ)て  
妻となす 故(かれ)男(を)は殿(との)ぞ  
女(め)は前(まえ)と 八百(やも)連(つづ)きまで  
六代(むよ)の嗣(つぎ) 面足(おもたる)の神 面足尊という名は、その事跡に由来する神名であろうと考えられる。なお、『秀真政伝』および後文の記載より、北は東北地方から、南は九州まで国が生まれていたことがわかる。
惶根尊(かしこね)と 八方(やも)お巡(めぐ)りて  
民(たみ)お治(た)す 近江(をうみ)安曇(あつみ)の 『秀真政伝』に「近江国高嶋郡安曇の川中島に天中柱を立て」とみえる。
中柱(なかはしら) 東(ひがし)は山本(やまと) 日高見のことを、大山本日高見の国とも称した。
日高見(ひだかみ)も 西(にし)は月隅(つきすみ)  
葦原(あしはら)も 南(みなみ)阿波(あわ)素戔(そさ)  
北は根(ね)の 大和(やまと)細矛(ほそほこ)  
千足(ちたる)まで およべど百万穂(もよほ)  
嗣子(つぎこ)無く 道(みち)衰(おとろ)ひて 子孫の繁栄と政事の繁栄は一体であるとする日本伝統の本質を示している重要な部分。
弁(わいため)無(な) 時(とき)に天(あめ)より 弁(わいため)とは生活の規範、分別、わきまえのこと。
天とは宮中に坐す面足尊のこと。
二神(ふたかみ)に 『壺(つぼ)は葦原(あしはら) 祭政上の要所のこと。
日高見の方壺(けたつぼ)
原見山のハ壺(はつぼ)
近江の瀛壷(おきつぼ)
千五百(ちゐも)秋(あき) 汝(いまし)用(もち)ひて  
治(し)らせ』とて 瓊(と)と矛(ほこ)賜ふ (と)と(ほこ)とは別々の神器で二十三紋に「瓊(と)は璽(をして) 矛(ほこ)は逆矛(さかほこ)」〔23-6〕、「通(とほ)る真(まこと)の 瓊(と)の教(をし)ゑ」〔23-6〕とあり、「瓊」は璽からなるものであることがわかる。
さらに『神勅基兆伝太占書記』の「太占図」下註に従えば「太占図」そのものを二神に授けたことになる。
『日本書紀』には「天瓊矛(あめのぬぼこ)」、『古事記』には「天の沼矛(ぬぼこ)」とあるがどちらも誤伝である。
二神(ふたかみ)は 浮橋(うきはし)の上(ゑ)に 浮橋」とは橋渡しのこと
探(さぐ)り得(え)る 矛(ほこ)の滴(しづく)の  
オノコロに 宮殿造り ヲノコロは十八紋にその伝承の詳細が記されている。『秀真伝』の奥儀中の奥儀。このオノコロの4文字の中に天地開闢の伝承が込められている。十八紋に、「の璽(をして) 野風(のかぜ)に乗れる 轡(くつわみ)の 音(おと)はコオコオ踏む跡の 野に人生みて 乗るは手 根地(ねわ)に喜ぶ 根地(ねわ)は手 人なる道は を用ひ そのもとは手 ヲノコロの 四つは地(わ)に合(あ)ひ 国(くに)治(をさ)む 業(わざ)とこの真手(まて)」〔18-8〕とある。
ヲノコロ」は天御祖神が、この地上にはじめて国を生み経営したことを示している。
その開闢時の風儀を二神が再び復古しているのである。
宮殿は八尋の殿のこと。
大弥真瓊(おおやまと) 万物(よろもの)生(う)みて  
人草(ひとくさ)の 御食(みけ)も蚕飼(こか)ひも  
道(みち)成して 弁(わいため)定(さだ)む  
功(いさおし)や 天の神代(かみよ)の  
七代目(ななよめ)お 嗣(つ)ぐ糸口(いとくち)は  
常世神(とこよかみ) 木の実(み)東(ひがし)に  
植(う)ゑて生む 葉木国(はごくに)の神  
日高見(ひだかみ)や 高天原(たかま)に祭(まつ)る 天界にして言霊の四十九の神々が鎮座するところを高天原といい、また、この地上にてそれら元明けの神々を祭る聖地をも高天原というように、高天原については二つの意味がある。
天御中主神(みなかぬし) 橘(たちばな)植(う)ゑて 本書によれば国常立尊の前身と考えられるが、『三笠紀』の所伝は、『秀真伝』とは異なっていて難解な点とされる。
橘は祭政の事始めの神籬(ひもろぎ)依代(よりしろ)として重要な神木。
後世の「たてばな」と関係するものと考えられる。
生(う)む御子(みこ)の 高皇産霊(たかみむすび)お  
諸(もろ)讃(たた)ゆ 木(き)の常立尊(とこたち) 「木の常立」とは、第一代高皇産霊の称え名。
その御子(みこ)は 天鏡神(あめかがみかみ)お  
筑紫(つくし)治(た)す 大濡煮尊(うひちに)も受く 大濡煮尊も教えを受けた、という意味。
この御子(みこ)は 天万神(あめよろづかみ)  
素阿佐(そあさ)治(た)し 沫蕩尊(あわ)析蕩尊(さく)生めば 素阿佐は四国のこと。
沫蕩尊(あわなぎ)は 根(ね)の白山本(しらやまと)  
千足(ちたる)まで 法(のり)も通(とほ)れば  
生む御子(みこ)の 諱(いみな)高仁尊(たかひと) 伊弉諾尊のこと
神漏岐(かみろぎ)や 高皇産霊(たかみむすび)の 神漏岐は男性祖神の意と解される。
「カミ」は神であり、「ロ」は十八紋に「人成る道は トお用ひ そのもとはロ手」〔18-8〕とあり、瓊の教えと同質の語義をもつと考えられ、「ギ」は木の意味の「キ」で男性を表すものと思われる。
五世(ゐつよ)神(かみ) 諱(いみな)玉杵(たまぎね)  
豊受神(とようけ)の 姫の伊佐子(いさこ)と  
浮橋(うきはし)を 速玉之男命(はやたまのを)が 『日本書紀』「神代上」四神出生章、第十・一書に黄泉国において唾く時に化生した神として「号(なづ)けて早玉之男(はやたまのを)と曰(まう)す」とみえる。
出雲国意宇郡の速玉神社、紀伊国の熊野速玉神社などがこの神を祀る。
渡(わた)しても 解(と)けぬ趣(おもむ)き  
解き結ぶ 事解之男命 速玉之男命と同じく『日本書紀』「神代上」四神出生章、第十・一書に「次に掃ふ神を、泉津事解之男と号(なづ)く」とみえる。
紀伊国熊野三山の祭神の中に同神を祭る。
方壺(けたつぼ)の 西南(つさ)の筑波(つくば)の  
伊佐宮(いさみや)に 諾(うなづ)き編(あ)みて  
伊弉諾尊(いさなき)と 伊弉冉尊(いさなみ)となる  
二神の 交(まじ)わるときに  
床(とこ)神酒(みき)や 床(とこ)は瓊(と)矛(ほこ)に 「床(とこ)」の語源説を載せている。
「トコ」というのは瓊(と)の教えの「ト」、子の「コ」という意味であるとする。
子お求む 笹気(ささけ)は常世(とこよ) 笹気は酒のこと。
竹(笹)に雀が籾(もみ)を入れるのを見て作ったことに因った名。
後世「ササ」ともいう。
『秀真政伝』に「故実を以、今に酒造家に新酒出来のしるしに門に、竹笹を建なり」とある。
常世については、この場合いく通りかの解釈が成り立つ。
第一は「常世」を日高見国と狭義に解し、次行の「井の口」を、その日高見の某所とする考え方。
第二は、小笠原通當が『秀真政伝』において、「近江国高嶋郡猪口村」と比定したことに基づき、「井の口」を近江国とする考え方。そのときに、「常世国」を広義に解し、国常立尊の常世の道の政治風儀を伝えた土地とする考え方、あるいは、「常世」を国常立尊の常世の道の政事が行われていた大濡煮尊の御世とする考え方などが導き出せる。
井(ゐ)の口(くち)の 少波神(すくなみかみ)の 小笠原通當は『秀真政伝』において、「近江国高嶋郡猪口村」、現在の滋賀県高島市新旭町安井川井之口にこれをあてるが、本書の文脈からは単純に近江井の口と断定しがたい。
なお、この井の口には、延喜式内の大荒比古神社がある。ただし、祭神は豊城入彦命、大荒田別命二座に、後年、近江源氏佐々木の一族が合祀した 少彦名命、仁徳天皇、宇多天皇、敦実親王の四座であり、少波神との関連はほとんどうかがうことができない。
竹株(たけかぶ)に 雀(すずめ)が籾(もみ)お 『秀真政伝』に「少名味神大竹を好みて藪を造玉ふに或秋稲かふじを雀が竹切り株に入りて酒を造りて呑しを准考て麹を造りて竹筒に入り初めて酒を造玉ふ」
入(い)るお見て 神酒(みき)作(つく)り初(そ)め  
勧(すす)めけり 桃雛木尊より  
笹波神(ささなみ)と 名(な)お賜(たま)ふより 笹波神は〔註99〕を参照
名も笹気(ささけ) その神(かみ)居(い)ます  
笹気山(ささけやま) 九九(ここ)の酌(くみ)とは 笹気山は〔註100〕を参照
九九(ここ)の酌(くみ)とは、三々九度のこと。
三月三日(やよいみか) 盃(さかつき)生める 盃は逆月のこと
神の名も 雛岳(ひながたけ)神とぞ 桃雛木・桃雛実二尊のこと。
讃(たた)ゆなりけり