神社に掲載されている由緒書き
八幡祭りの由来
歴史
275年、応神天皇が母神功皇后の生地・近江息長村(現在の米原市)を訪問する途中、大嶋大神を参詣するため琵琶湖から上陸した。その際、湖辺の葦で松明を作り、火を灯して天皇一行を八幡まで道案内したのが、祭の始めと伝えられる。概要
毎年4月14日と15日に、八幡開町以前の旧村落12郷(市井・北之庄・鷹飼・大林・中村・宇都呂・土田・多賀・船木・小船木・大房・南津田)の氏子によって行われる(以前は13郷であったが、秀次の八幡開町により、馬場が消滅)。12郷を神戸(かんべ)・土田(つちだ)・郷(ごう)の3つの座に分け、神戸が上の郷、郷が下の郷、土田が中の郷(祭礼の中役)と呼ばれる。松明祭と呼ばれる14日の宵宮祭は、各郷から葦と菜種がらで作られた松明が奉納される。
午後8時頃に、10mもの大松明をはじめ、大小各種30本以上の松明が古例の順序に従い奉火される。
15日の本祭は太鼓祭とも言われ、12郷の大太鼓が太鼓宿から荘厳な音を響かせながら、古例の順序に従い宮入りする。拝殿の前で大太鼓を差し上げ、神職・神役などの祝詞(シューシ)を受ける。
太鼓の打ち方は各郷異なり、宵宮太鼓・休み太鼓・シューシ太鼓・上り太鼓・御渡り太鼓など独特の伝承を持っている。
左義長(さぎちょう)祭の由来
歴史
織田信長が安土城下で毎年正月に盛大に行い、自ら異粧華美な姿で踊ったという奇祭。信長亡き後、豊臣秀次が八幡城を築き、安土から移住した人々によって城下町が開町される。
町民は日牟禮八幡宮例祭「八幡まつり」の荘厳さに驚き、これに対抗して、町開町による新進気鋭の喜びと感謝の意を込め、厄除・火防の由緒ある御神徳を仰ぎ、左義長を奉納したと云われる。
概要
現在、近江八幡での左義長まつりは毎年3月の中旬の土日に行われる(以前は14・15日であり、現在は14・15日に近い土日に行われる)。左義長は、藁で編んだ約3mの三角錐の松明の上に赤紙等で飾りつけた数mの青竹を取り付け、杉葉で作った頭の上には「火のぼり」という御幣、中心には毎年の干支にちなんだ飾り物(ダシ)が付けられる。
土曜の午後に、約10数基の左義長が神社から町に繰り出し、化粧して女装した若者が拍子木を持ち、下駄を履いて「チョウヤレ、ヤレヤレ」と声を掛け合い担ぎ踊りながら町内を御渡りする。
踊り子が女装をするのは、信長が異粧華美な姿で祭りに参加した事に由来する。
ただ、信長は身分を隠す為に、花笠を被り女物の長襦袢を着た程度だったと思われ、女装とは少し違うと思われる。また、現在では女装と言うより仮装に近く、時勢に合わせた様々な格好をした若者が見られる。
日曜の午前は、旧市街地を自由に練り歩き、午後には「けんか」と呼ばれる左義長同士の組み合いが繰り広げられる。午後8時頃から境内で順次奉火され、燃え盛る左義長は湖国に春の訪れを告げる。
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