田中の田中神社(たなか)【3】文献に掲載されている由緒書き|滋賀県

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滋賀県高島市安曇川町田中1882-1( いつもNAVIによる広域地図
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文献に掲載されている由緒書き

『全国神社名鑑』(史学センター)に掲載されている由緒書き

 記載ありません。

滋賀県神社庁の田名神社に由緒書き

ご祭神:建速素盞鳴尊 奇稲田姫命 八柱御子神

 明細書に創祀年代不詳であるが、社伝によると田中郷の総産土神である。
 往昔若林牛頭天皇社また祇園牛頭天王社と称した。
 享保7年宗源宣旨により神階正一位を授けられ爾来正一位牛頭天王社と称した。
 明治2年田中神社と改称。
 明暦の縁起によれば清和天皇貞観年中の創祀とある。
 一説に天平3年僧良弁松蓋寺建立の際鎮守の神として奉祀し天長年中此地に遷して氏神となしたとある。
 国衙領であった郷の領域化が完成した平安末期には郷鎮守社の地位を得、のち太山寺を当社の別当寺として佐々木・田中氏の信仰に支えられて行ったと伝えられる。
 神事は佐々木高綱奉納の流鏑馬、田中惟氏の献じた衣裳張傘鉾を今に伝えている。

 以上滋賀県神社庁の田名神社に由緒書きからの引用

『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の三十二「藤と淡海瑞の紋」(八幡書店、下巻343)

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の三十二「藤と淡海瑞の紋」(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P352〔32-13〕 )
九穂の夏 雨(あめ)四十日(よそか)降り 第8代孝元天皇9年、天鈴(あすず)512年の夏。
紀元前206年。
山背田(やましろた) 淡海(あわうみ)溢(あふ)れ  
田もみもち 嘆き告ぐれば  
勅(みことのり) 「大御気主命(みけぬし)教人(をし)に  大御気主命と大直根子命との関係については、本書に明文はないが、本紋〔32-19〕の「大御気主命親子(みけぬしをやこ) 噤(つぐ)み居(を)る」という記載と四十紋に付された大直根子の奥書に、天鈴(あすず)843年に『秀真伝』が上奏された旨が記されていること、および序文にこのとき大直根子が234歳であったと記されていることに鑑みると、大御気主命が蟄居したのは天鈴(あすず)567年であるから、逆算するとこのときは大直根子が生まれる52年前のこととなる。
 したがって、「大御気主親子」の「子」とは、大直根子命の親に当たり、大御気主命は大直根子命の祖父にあたることが明らかとなる。
・・・・・
 ここでは『三輪高宮家系』と『旧事記』によって、大御気主命ー建飯賀田須命ー大直根子命の系をとる。
祈(いの)らしむ 淡国(あわくに)三尾(みを)に 滋賀県高島郡安曇川町田中字山崎に田中神社が鎮座する。祭神は社記に建速素戔嗚尊、奇稲田姫命、八柱御子神と記し、『高島郡誌』には、八柱御子神を八岐大蛇霊とする。
田中神(たなかかみ) 晴(は)れお祈(いの)りて 高島市の田中神社が本書の田中神と関連するか。
風ふなす これ大己貴命(おおなむち)  『秀真伝(ほつまつたゑ)』で「大己貴命(おおなむち)」というときは、「奇杵命(くしきね)」を指すのだろうか。
 奇杵命(くしきね)が竹子姫と結ばれて、大嶋奥津嶋神社(おおしまおきつしま)でえびす顔の奇彦・高子姫・味耜高彦根命の3人の子を産んだ。
 そして「奇杵命(くしきね)」は、沙沙貴神社で少彦名命と出会われて、共に諸国を周られたのだろう。
 大国主命が美保岬で少彦名命と出合ったと伝えられるのは、蕗根命(ふきね)の「大己貴命(おおなむち)」が豊玉姫の兄「豊祇彦命」と出会い、共に諸国を周られたものが混同されたものであろう。
 蕗根命(ふきね)がやり遂げている業績が、「奇杵命(くしきね)」-少彦名命と同じ性質のものだったので後世混同されてしまったものだろう。
 こういう点から、琵琶湖岸に「奇杵命(くしきね)」の業績が伝えられていても、何ら不思議なことはない。
田中教(たなかのり) 六月(みなつき)十六日(そむか)  
行(おこな)ひは 三百六十回(みもむそ)歌(うた)ひ  
玄参(おしぐさ)に 痛(いた)みも直(なお)る  
守りとて 田に額(ぬか)づけは  
蘇(よみがえ)り やはり若(わか)やぎ  
瑞穂(みずほ)あつ 民(たみ)糧(かて)殖(ふ)ゑて  
賑(にぎ)はえば 大御気主命(おほみけぬし)の  
祭り大臣(をみ) 名付(なづ)くそれより  
山背(やましろ)も 筑紫(つくし)直(なお)りも  
出雲(いづも)にも 伊勢(いせ)花山(はなやま)も  
年(とし)ごとに 祭(まつ)る風(かぜ)ふぞ 「風(かぜ)ふの祭り」はいわゆる「はれのいのり」のことと考えられる。
雨を祈るときは黒駒を引き、「ハレ」を祈るときには白駒を用いるのが古来の例とされた。