大国主命の系図と略歴
赤猪岩神社で一度目の遭難と復活、大石見神社で二度目の遭難と復活、和歌山県の大国主神社で英気を養う
参拝記録
訪問日:2007(平成19)年8月16日
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大石見神社拝殿
大石見神社本殿
大石見神社のご祭神
大国主命合祀:八上比売、他
大石見神社が大国主命、八上姫命を祀ることになった経緯
下記は「鳥取の山」から引用。
因幡で八上姫を娶った大国主命は出雲への帰途、手間山(要害山)で兄の八十神の妬みから大怪我をするが、八十神の妬みがおさまるまで大倉山の山中で待ったという。
この故事から第7代孝霊天皇が大和三輪山大明神を勧請し祀ったと伝える。
大石見神社から大倉山の手前のピークに大岩が見えるが、大倉山の御神体が降臨した岩であり、また牛鬼の住処でもあった。
この岩が見えるので石見といったという。
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大倉山南麓の大石見神社は大国主命、八上姫命などを祀る。因幡で八上姫を娶った大国主命は出雲への帰途、手間山(要害山)で兄の八十神の妬みから大怪我をするが、八十神の妬みがおさまるまで大倉山の山中で待ったという。
この故事から第7代孝霊天皇が大和三輪山大明神を勧請し祀ったと伝える。
大石見神社から大倉山の手前のピークに大岩が見えるが、大倉山の御神体が降臨した岩であり、また牛鬼の住処でもあった。
この岩が見えるので石見といったという。
大国主命の2度目の遭難と復活は大蔵山南麓の大石見神社周辺
大名牟遅の命は 赤猪岩神社での復活の後、腹違いの兄・八十神の命の嫉妬が和らぐのを大倉山(大蔵山)で待っていたが、また八十神の命に謀られ生命を落とす。
八十神の命ハ そを 窺間見(かゐまみ)て また 欺きて 山に率て入りて 大樹を伏せ 角矢を嵌めて その木に打ち立て それの中に入らしめて その氷目矢(ひめや)を打ち放ちて 拷(う)ち放ちて 拷(う)ち伏(ぶ)せに 殺し棄てき
故 御祖の命 泣きつつ それの木を拆(さ)きて 取り出て 息呼(いよぶ)せなして もとの身に活かして 告りたまわく
汝(いまし) ここに在(あ)らば 終(を)エ には腹異(はらかた)の兄 八十神の命に 殺(ころ)さエなむ
「この割れた木の大木の間に入れ」
と欺いて招き入れた。
大国主命が中に入ったのを確かめて大木を閉じ、その間に挟まれて大国主命は落命した。
八十神の命ハ そを 窺間見(かゐまみ)て また 欺きて 山に率て入りて 大樹を伏せ 角矢を嵌めて その木に打ち立て それの中に入らしめて その氷目矢(ひめや)を打ち放ちて 拷(う)ち放ちて 拷(う)ち伏(ぶ)せに 殺し棄てき
故 御祖の命 泣きつつ それの木を拆(さ)きて 取り出て 息呼(いよぶ)せなして もとの身に活かして 告りたまわく
汝(いまし) ここに在(あ)らば 終(を)エ には腹異(はらかた)の兄 八十神の命に 殺(ころ)さエなむ
〜『 注釈 上紀』(八幡書店、上巻、P173)より
八十神は大木を二つに割って大国主命に「この割れた木の大木の間に入れ」
と欺いて招き入れた。
大国主命が中に入ったのを確かめて大木を閉じ、その間に挟まれて大国主命は落命した。
大国主命の2度目の復活後は紀の国へ逃れる
大倉山(大蔵山)の伝承
下記は「鳥取の山」から引用。
山を守 護する神体は山頂の岩に出現した。また近年まで一町地蔵が立っていてお詣りする人があっ たという。しかしその跡らしきところは見あたらない。
またこんな話も残っている。
第7代孝霊天皇に退治された鬼が住んでいて牛鬼山とも呼ばれた。昔長谷部信連の末裔の元信が山麓を通りかかると、
「大蔵殿」
と鬼に呼び止められ、
「おまえの先祖信連が各地に神社を建てるので住み難くなったのでここを去る」
といって消えた。
長谷部信連といえば反平家を掲げて以仁王とともに決起したが平家に捕らえられ、伯耆の日野氏の元に流された(各地をさまよったという説もある)。信連はやがて鎌倉に帰り関東御家人となり、能登の大屋荘の地頭となった。
その後長谷部信連の末裔は長氏と名乗り、前田利家に重用され加賀百万国の家老の一人となり、3万3千石と小大名並の家禄をもらった。
一方当地に残った子孫の元信は備後の武将となり、大蔵左衛門とも呼ばれた。
この山を大蔵山といったこと、鬼に大蔵殿と呼び止められたという話は、元信に関わるものと思われる。
長谷部信連という男によって石川県の加賀・能登と伯耆がつながっている。
山麓の大石見神社は大国主命、八上姫命などを祀る。
因幡で八上姫を娶った大国主命は出雲への帰途、手間山(要害山)で兄弟の八十神の妬みから大怪我をするが、八十神の妬みがおさまるまで大倉山の山中で待ったという。
この故事から孝霊天皇が大和三輪山大明神を勧請し祀ったと伝える。
神社から大倉山の手前のピークに大岩が見えるが、大倉山の御神体が降臨した岩であり、また牛鬼の住処でもあった。この岩が見えるので石見といったという。
上記は鳥取の山から引用。
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この山は大蔵山ともいい、昔大倉神社があり闇山祇命を祀っていたと資料にある。山を守 護する神体は山頂の岩に出現した。また近年まで一町地蔵が立っていてお詣りする人があっ たという。しかしその跡らしきところは見あたらない。
またこんな話も残っている。
第7代孝霊天皇に退治された鬼が住んでいて牛鬼山とも呼ばれた。昔長谷部信連の末裔の元信が山麓を通りかかると、
「大蔵殿」
と鬼に呼び止められ、
「おまえの先祖信連が各地に神社を建てるので住み難くなったのでここを去る」
といって消えた。
長谷部信連といえば反平家を掲げて以仁王とともに決起したが平家に捕らえられ、伯耆の日野氏の元に流された(各地をさまよったという説もある)。信連はやがて鎌倉に帰り関東御家人となり、能登の大屋荘の地頭となった。
その後長谷部信連の末裔は長氏と名乗り、前田利家に重用され加賀百万国の家老の一人となり、3万3千石と小大名並の家禄をもらった。
一方当地に残った子孫の元信は備後の武将となり、大蔵左衛門とも呼ばれた。
この山を大蔵山といったこと、鬼に大蔵殿と呼び止められたという話は、元信に関わるものと思われる。
長谷部信連という男によって石川県の加賀・能登と伯耆がつながっている。
山麓の大石見神社は大国主命、八上姫命などを祀る。
因幡で八上姫を娶った大国主命は出雲への帰途、手間山(要害山)で兄弟の八十神の妬みから大怪我をするが、八十神の妬みがおさまるまで大倉山の山中で待ったという。
この故事から孝霊天皇が大和三輪山大明神を勧請し祀ったと伝える。
神社から大倉山の手前のピークに大岩が見えるが、大倉山の御神体が降臨した岩であり、また牛鬼の住処でもあった。この岩が見えるので石見といったという。
上記は鳥取の山から引用。
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