神社に掲載されている由緒書き
神社のホームページに掲載されている由緒書き
足羽神社の由緒より
五世紀後半ごろ、男大迹王(後の継体天皇)が越前でお過ごしの間に越前平野の大治水事業をされますが、まずその初めに朝廷に祀られている大宮地之霊(坐摩神)を足羽山に勧請し、諸事の安全を祈願したのが足羽神社の起源とされています。第26代天皇として即位をされ越前を発たれる時に、「末永くこの国の守り神とならん」と、自らの生御霊(いきみたま)を鎮めて旅立たれて行かれました。
それから継体天皇が主祭神として本殿中央に祀られています。
足羽神社では古来朝廷を初め、世々の将軍、国主等によって尊崇の祭典を連綿と執り行ってきました。
中でも桓武天皇、文徳天皇、朱雀天皇におかれては神位を授けられ、宇多天皇におかれては右大弁(律令制の官名)によって、毎年11月に17日間の「鎮魂祭斎行之儀」を宣下せられました。
また世々に御厨地を置かれるなど、その神田地や臨時祭、神職等に関して、源頼朝を初め、将軍足利家、国主朝倉家等々の古文書や国史旧記等に歴然と記されています。
そうして中古以来は武家伝奏執奏の社格にて、江戸時代社主44代に至るころには、41人が奉仕していました。
しかし天正兵乱の際、社家の多くは滅び、神田は廃れ、神域もわずかに残るのみとなりますが、柴田勝家がこの国を治めるに当たり、足羽の神を深く尊信して、社殿を修理し祭供をされる事により、昔の規模には及ばずとも、著しくその社格を落とすまでには至りませんでした。
その後は国主松平家代々の崇敬が深く、永世の神供物として毎年米二十俵を献じたり、創立御鎮祭の年を紀元とし、50年毎に「勅許宣命」並びに「御宸筆」を受け式年大祭を斎行するのを定例とされました。
北朝貞和5年に下賜された光明天皇御宸筆「大宮地」と、文政12年5月の例大祭を以って下賜された仁孝天皇御宸筆「大宮地之霊」の額字がそれぞれ国宝に指定されていましたが、先の大戦にて他の文化財とともに宝物庫ごと焼失しました。
近年では明治33年の橋南の大火、昭和20年の福井空襲、同23年の福井大震災などにより社殿は焼失倒壊しましたが、その度に再建され昭和34年に整備完了となりました。その後は昭和51年に御鎮座1500年に当るのを以って大祭をあげています。
平成19年には継体天皇御即位1500年を奉祝し、本殿幣殿拝殿の増改修、社務所増改築をはじめ境内整備を行い、記念大祭を斎行しました。
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