平成21(2009)年5月3-6日、岐阜県・福井県・滋賀県・京都府

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平成21(2009)年5月3-6日、岐阜県・福井県・滋賀県・京都

平成21(2009)年5月3日(日曜日)、岐阜県の白山関係の神社

白山中居神社
(はくさんちゅうきょ)
岐阜県郡上市白鳥町石徹白2-48
 三馬場の関係がどうなっているのか現場に立って考えてみたかった。
 白山中居神社(はくさんちゅうきょ)は伊邪那岐尊を祀る神社だ。
 そして、天照大神と瓊々杵尊を祭る摂社が本殿の両側にあることから、第二次天孫降臨のとき瓊々杵尊が訪ねた宮だろうと思う。

長滝白山神社
(ながたきはくさん)
岐阜県郡上市白鳥町長滝138
 三馬場の関係がどうなっているのか現場に立って考えてみたかった。
 表日本の長良川を登って長滝の地まで来る。
 白山信仰の表日本の玄関に当たる。
 下の地図に分水嶺(雨水が太平洋と日本海に注がれる分岐)が示されている。

石徹白川と長良川

平成21(2009)年5月3日(日曜日)、福井県の九頭竜川周辺の神社

神明神社 鎮座跡 福井県大野市伊勢
 岐阜県から福井県に入った。
 最初は元伊勢伝承が残っている「神明神社 鎮座跡」に行く予定で車を走らせたが、美濃街道を左折し箱ヶ瀬橋を渡ろうとしたところ、箱ヶ瀬橋の中央に「通行禁止」の標識が立っている。
 九頭竜川に「」が流れ込むものとして期待していたのだったが・・
 行ってはいけないか、あるいは役割を終えているかのどちらかなのだろう。

白馬洞(竜宮伝説がある) 福井県大野市箱ヶ瀬白馬洞
 次、竜宮城伝説の残っている白馬洞に行く。
 箱ヶ瀬橋をユーターンし、美濃街道に戻った。
 50メートルほど行って右折すると白馬洞への道になる。
 すでに閉鎖になっていることは知っていたが、行ける所まで行って、祝詞を奏上しておきたかったのだ。
 九頭竜川に「」が流れ込む場所も役割を終えているのかもしれない。
 九頭竜川周辺が「」と「」の関わりで重大な役割を担ったのは3億年前の国常立尊の時代だったのかも知れない。
 九頭竜川周辺は3億年前の地層の宝庫らしい。

穴馬神社 福井県大野市野尻54-1-2
 穴馬神社は、昭和39年、九頭竜ダムの建設で水没した氏神様をまとめて祀るために作られた。
 ということは、神明神社 鎮座跡白馬洞の竜宮城伝承も全てこの穴馬神社に合流していると考えていいのだろう。

熊野神社 福井県大野市朝日
 九頭竜川と石徹白川の合流ポイントに立つ。
 九頭竜川もテーマであったし、石徹白川もテーマである。
 とても大事な場所だと思える。

和泉 郷土資料館 福井県大野市朝日24−9
 世界最古のティラノサウルスの歯の化石が展示してある。
 なぜ日本から世界最古のティラノサウルスの歯の化石が発見されるのか?
 という疑問が出てくるが、恐竜発祥の地は日本なのではないかという説もあるのだという。
 神代史において白山はとても大きな役割を果たしているのだろう。

九頭龍湖周辺

平成21(2009)年5月3日(日曜日)、平泉寺神社(へいせんじ)

平泉寺 白山神社 福井県勝山市平泉寺町平泉寺56-63
 平泉寺白山神社に着いて、駐車場に車を向けようとするのだが、結構込んでいる。
 中世宗教都市といわれているように現代でも人気の観光地だ。
 こういう場所は早朝に来ないといい写真がとれない。
 今回行って見たいところは、泰澄が伊邪那美命から御言葉を授かった御手洗池だ。
 次が三之宮(祭神:栲機千々姫)だ。
 三之宮のある場所が平泉寺白山神社の奥之宮のような位置にある。
 そのことへの疑問だ。
 別山社の祭神は天之忍穂耳尊、その妻神の栲機千々姫神がどういう経緯で三之宮に祀られることになったのだろう?
 を聞くのはなので、そういう点からも気になっている。

「越前名蹟考」に記載されている平泉寺白山神社の九頭龍 福井県勝山市平泉寺町平泉寺56-63
 「越前名蹟考」には平泉寺白山神社のご祭神に関連して九頭龍のことが記載されている。
 平泉寺白山神社に九頭龍の痕跡が留められているかどうかを探すのも楽しみの一つになっている。


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平成21(2009)年5月3日(日曜日)、福井市舟橋町の黒龍神社(くろたつ)

舟橋町の黒龍神社 (くろたつ) 福井県福井市舟橋町
 「越前名蹟考」は、平泉寺白山神社の白山権現に関係して九頭龍のことを語っています。
〔レ〕寛平元年(889)6月、平泉寺の白山権現が尊像を川に浮かべたこと。
〔レ〕九頭龍がその尊像を頂くように川を流れ下ったこと。
〔レ〕九頭龍が対岸の黒龍大明神(舟橋の黒龍神社だろうと思われます)に流れ着いたこと。

 ・・の3点です。

 今年の平成21(2009)年1月12日、九頭龍発生の原因になった可能性のある神社として、次の3つの神社の整理をしていたとき、凄まじい悪寒に襲われました。
  平泉寺 白山神社(へいせんじはくさん)
  舟橋の黒龍神社(くろたつ)
  毛谷黒龍神社(けやくろたつ)

「この場所を取られてなるものか・・」

 こういうイメージが伝わってきていたのです。

◇九頭竜川沿いを降って車を走らせていると、対岸の病院に似た建物を見て

「ここは夢で一度来たことがある」
 と女房が言い始めます。
 夢の中でその病院に入院していたというのです。

「この場所を取られてなるものか・・」

 というイメージが伝わってきていたように、九頭龍とその子にとって、何かとても大事な場所であるらしいのです。

◇年が明けた平成22(2010)年1月20日から舟橋の黒龍神社(くろたつ)の整理を始めました。

 その翌日の平成22(2010)年1月21日
 目覚めてから、
「たおれろ・・・たおれろ・・」
 という呪いの言葉が聞こえてきます。
 室生寺の子龍の声です。

 断片的な流れから考えると・・

 舟橋の黒龍神社(くろたつ)は九頭龍と九頭龍の子にとって、触れて欲しくない極めて重要な土地であるのかも知れません。
 九頭龍と九頭龍の子にとっては「力の源泉」なのかもしれません。
 この場所を制されると力の源泉を失ってしまう・・
 ・・そういうイメージでしょうか。


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平成21(2009)年5月3日(日曜日)、福井市の北の庄・柴田神社

柴田神社・北の庄城址 福井県福井市中央1-21
 信長の時代、信長の妹・「お市の方」(1547年-1583年6月14日)は苦労されている。
 市姫とも小谷の方(おだにのかた)とも称される。
 浅井長政に嫁ぎ、1男3女の子を得た。
 のちに織田氏家臣の柴田勝家の妻になった。

◇万福丸ー長男

 浅井長政とお市の方との間に生まれた嫡男との説が有力。
 天正元年(1573年)、織田信長の攻撃によって長政が自害した後、長政の家臣団によって万福丸は落ち延びていたが、信長の探索によって捕らえられた。
 お市は助命を嘆願したが、生かしておいては後の災いになることを恐れた信長の命を受けた羽柴秀吉の手により、万福丸は美濃関ヶ原で磔(田楽刺しとの説もある)に処され、その生涯を閉じた。
 享年10とされる(実は磔にされずに江戸時代まで生き残ったという逸話があるが、信憑性は不明である)。

◇茶々(豊臣秀吉側室)ー長女

 淀殿(よどどの、1569年ー1615年6月4日)は、戦国時代(室町時代末期)から江戸時代初頭の女性で、豊臣秀吉(羽柴秀吉)の側室。
 位階は従五位下とされるが、諸説あり。
 本名は 浅井 茶々(あざい ちゃちゃ)および 浅井 菊子(あざい きくこ)。
 子には棄(鶴松、夭折)と拾(秀頼)がある。

◇初(京極高次正室)ー次女

 常高院(じょうこういん、1570年ー1633年9月30日)は、戦国時代から江戸時代前期の女性で、室町時代に守護大名、四職の一つとして繁栄した近江源氏の流れをくむ京極氏当主京極高次の正室である。
 本名は浅井 初(あざい はつ)で、一般に「初」という呼び名で知られる。
 三姉妹のなかで一番格下の家に嫁いだと思われがちだが、新興の豊臣氏や徳川氏に比べ、京極氏は室町時代に数ヶ国の守護を兼ね、四職に列した名門の大名家であり、一番格上の家に嫁いだといえる。
 また、京極氏は実家の浅井氏の直接の主筋に当たる。

◇江(徳川秀忠継室)ー三女

 諱は江(ごう)/小督(おごう)もしくは江与(えよ)とされるが、再婚時に改名した可能性もあり、どの名が正しいのかは確定できていない。
 最初の婚姻は、天正12年(1584年)、秀吉の命により11歳で母の姉(お犬の方)の子・佐治一成へ嫁ぐ。
 しかし一成は、同年の小牧・長久手の戦いにおいて織田信雄(信長次男)を擁立した徳川家康に味方したため、秀吉の怒りに触れ、一成は所領を没収されるとともに江と離縁させられた。
 二度目の婚姻は、秀吉の命により秀吉の甥・秀勝(小吉秀勝。関白豊臣秀次弟)の元へ嫁ぎ、文禄元年(1592年)に完子を産むが、文禄の役で秀勝は死去してしまう。
 三度目は、文禄4年(1595年)9月17日23歳で、徳川家康の嫡男・江戸幕府二代将軍徳川秀忠に再々嫁し、秀忠の正室(継室)となる。
 なお、前夫・秀勝との子である完子は、長姉・茶々の猶子として引き取られた。
 秀忠との間には慶長2年(1597年)の千姫を頭に徳川家光・徳川忠長など2男5女を儲けた。

柴田神社・北の庄城址

 平成21(2009)年5月3日(日曜日)の宿泊かんぽの宿 福井  福井県福井市渕町43-17(0776-36-5793)  

平成21(2009)年5月4日(月曜日)、福井市の足羽山周辺の神社

藤島神社
(足羽山にある)
福井県福井市毛矢3-8-21
 宿を出て、足羽山にある藤島神社から今日のスタートだ。

天魔ヶ池
(足羽山にある)
福井県福井市足羽上町147
 ここが「天魔ヶ池」か。
 第26代継体天皇の立像が、「天魔ヶ池」の西側にデ〜ンッと控えているのにはチョットびっくりした。
 「天魔ヶ池」をメインのつもりで来たのだが、イメージ的には第26代継体天皇の立像がメインになっている。
 第26代継体天皇の立像と「天魔ヶ池」は極めて密接な関係があることが感じ取れる。
 「天魔ヶ池」に豊臣秀吉は陣を張って、柴田勝家とお市の北の庄の攻撃をされた。

第26代 継体天皇の立像 福井県福井市足羽上町147
 第26代継体天皇は今年の旅行では密接に関わっている。
 夏の旅行で琵琶湖西岸を周ったが、そのときも、継体天皇の足跡をたどれる史蹟がいくつもあった。
 機会を得てこのページで整理してみたい。

足羽神社
(あすわじんじゃ)
福井県福井市足羽1-8-25
 第26代継体天皇を祀る。
 皇位を継承される前、継体天皇は九頭竜川の治水を行ったり、殖産に努めている。
 そのメイン神社としてここの足羽神社がある。
毛谷黒龍神社
(けやくろたつ)
福井県福井市毛矢3-8-21
 九頭龍の子は、舟橋の黒龍神社(くろたつ)で生まれて、この毛谷黒龍神社(けやくろたつ)の周辺で育った。
 舟橋の黒龍神社(くろたつ)毛谷黒龍神社(けやくろたつ)に一年以上も関わってきて、直感的に確信できるようになった。
 この箇所は、1月22日(金)に記録しました。

足羽山周辺

平成21(2009)年5月4日(月曜日)、福井県敦賀市

気比神宮の【土公】 福井県敦賀市曙町11
 彦火々出見尊の御尊骸を納められた場所だろう。
 空海や最長が7日間の大業を行った場所でもあるという。

気比神宮 福井県敦賀市曙町11
 祭神は彦火々出見尊であろう。
 九之宮もある。
 九之宮の中に、高野山と比叡山の気比神社を勧請した元宮があるという。

角鹿神社(つぬが) 福井県敦賀市曙町11
 角鹿神社(つぬが)が敦賀(つるが)の由来となった神社である。
 半島からの渡来人を祭っている。
 対馬・壱岐島から佐渡島あたりまでは、半島との交流抜きに語れない場所かもしれない。

手筒山(てづつやま) 福井県敦賀市泉
 氣比神社のご祭神が降臨された山である。
「待っておった」
 と言われたのか
「待っていました」
 と言われたのかどちらかだった思う。
 敦賀湾を望む眺めがいい。

気比の松原 福井県敦賀市
 鵜葺草葺不合尊が誕生された場所の目印になる所だ。

神明神社 福井県敦賀市松島町28-34
 鵜葺草葺不合尊が誕生された場所をあえて特定しようとすると、この場所だろう。
 近郷の神社を合祀するだけの資格を持っている場所なのだ。
 もし、鵜葺草葺不合尊が誕生された神社が残されていないとしても、近郷の神社が合祀されているということを考慮すると、鵜葺草葺不合尊が誕生された神社もこちらに合祀されている理屈になる。
 私たちが参拝したときは地域のお祭りの最中だった。
 こういう祭日に参拝できるのも縁起がいいものだ。

松原神社 福井県敦賀市松原町130-2
 水戸藩の天狗党の志士を祀る。
 幕末に天狗党の愛国の士を斬首にする事件を聞いて、先見の明のあるものたちは幕府の滅亡を感じ取ったという。

常宮神社(じょうぐうじんじゃ) 福井県敦賀市常宮
 三韓征伐の時、  神宮皇后
金崎宮(かねがさきぐう) 福井県敦賀市金ヶ崎町1-1
 常宮神社(じょうぐうじんじゃ)の参拝を終えてもまだ日が明るい。
 先ほどハショッタ金崎宮(かねがさきぐう)に行けると思ったので、急遽車を向けた。
 駐車場につき、神社までどの位かかるか近所の人に聞いたところ
「2時間くらいかかる」
 といわれた。
 2時間では家族で行くには時間がないと思い、私だけの参拝する形になった。
 駐車場から階段を10分程上がっていくとそこが神社だった。
 先ほどの人は、金ヶ崎城跡と勘違いしたのかもしれない。
 建武の中興が失敗し、足利尊氏の追討を受けた後醍醐天皇のお二人の皇子を祀る。

 敦賀周辺の旅行の整理は平成22(2010)年1月29日に終わった。

 平成22(2010)年1月29日に手筒山は血管を象徴しているかも知れないと思った。
 血管が破れ、血が流れるとき一つの命がなくなる。
 つまり、時代が変わってきたのだ。
 敦賀の手筒山(てづつやま)と表記するより血筒山(ちづつやま)と表記したほうが正確かもしれない。

敦賀湾の地図

 平成21(2009)年5月4日(月曜日)の宿泊は予定が組みきれなかった。  

 彦根インターで降りて、「極楽湯」という日帰り温泉に入った。翌朝2時まで仮眠をとり、多賀インターで5時まで休んだ。予定はきつかったが、そのおかげあって大津シノ宮周辺を、6時から参拝できた。

平成21(2009)年5月5日(火曜日)、滋賀県大津市

大津シノ宮を探せ! 滋賀県大津市園城寺町
 平成21(2009)年4月18日(土曜日)、寝苦しさのなかで目を覚ますと
「宮を探せ・・」
 という言葉を聞いたような気がした。
 平成21(2009)年4月19日(日曜日)には、より鮮明な形で聞こえてきた。
大津シノ宮を探せ・・」

 大津シノ宮とは何らかの大きな鍵になっているようだ。

 実際、夏休みに第二次天孫降臨の跡を追ったとき、大津シノ宮の推定地にいっておいたおかげで考察する上で大いに助かっていた。
三尾神社 滋賀県大津市園城寺町246
「うさぎじゃ」
 大津シノ宮を探しているときの天の大神からの助言だと思う。
 答えはすでに用意されていて、そこに到達しようという努力と過程が極めて大事なのだ。
 三尾神社の神使は「(うさぎ)」だった。
「卯の花」にも因むものなのだろう。

長等神社 滋賀県大津市三井寺町4-1
 三尾神社の南側にある神社で素盞嗚尊を祀る。
 長等山の「長等」という名称を持つ神社で気になっての参拝。
 早朝からお祭りの準備をされていた。

天孫神社 滋賀県大津市京町3-3-36
 近江四之宮と呼ばれるところに「大津シノ宮」という記憶の痕跡があるのだろうか。
 近江一之宮、建部神社
 近江二之宮、日吉大社
 近江三之宮、多賀大社あるいは御上神社
 県庁のすぐ近くとあって朝早くでも人通りがある。
 天孫神社に参拝されてから出勤される方が多い。

関蝉丸神社(下社) 滋賀県大津市逢坂1丁目15-6
 祭神が玉依姫神であること、
 摂社として貴船神社あること
 ・・から参拝しておきたかった。
 早朝に大きな道路に車を止め、線路を越えての参拝。
 道路と神社の間を鉄道の線路が分断しているので、往年の趣が失われているかのように思える。

三井寺 滋賀県大津市園城寺町246
九頭龍が住んでいるという伝承が残っているし、三井明神が降りられたという影向石も残っている。

三井寺の金堂 滋賀県大津市園城寺町246
絶対の秘仏・身丈三寸二分の弥勒菩薩を本尊とする金堂。

九頭龍が住んでいる三井寺・閼伽井屋の「三井の霊泉」 滋賀県大津市園城寺町246
九頭龍が住んでいるという伝承が残っている。

三井寺の影向石(ようごういし) 滋賀県大津市園城寺町246
三井明神が降りられた影向石(ようごういし、神仏の降臨した岩石の意)もある。

近江神宮 滋賀県大津市神宮町1-1
天智天皇が造営された。

唐崎神社(からさき) 滋賀県大津市唐崎1-7-1
大祓祝詞にある「大津辺におる大船」というように「大津辺」に関わる場所かと思い参拝


大津シノ宮

大津シノ宮の周辺地図

平成21(2009)年5月5日(火曜日)、京都の鞍馬寺から貴船神社へ

梶取社 京都府京都市左京区鞍馬貴船町
 反正天皇(はんぜいてんのう)の時代、黄船に乗る女神が現れた。
 その神はまず、浪花の津に寄り、
 『我は、天皇の母なる玉依姫なり。風雨を司り、国をうるおし、土を養い、また諸人の数々の願いを聞き届けるために示現するものである。我が船が留まる処に祠を造るべし』
 と言い終えると、姫神は再び船に従って、尼崎に寄り、海に入り、そして河に至り、宇治川を遡り、鴨川に移り、ついに奥岸に着き、船を止めた。
 姫神と御伴の神々は岸より上がり、その地に鎮座することになった。
 彼の地の人々はこの黄なる船に乗って海と河を渡ってきた姫神の祠を造り、斎き奉った。
 この祠を『黄船の宮』と云う。
 『ひふみ神示』で玉依姫神龍宮の乙姫とされる。

 鞍馬寺方面と貴船神社方面の分岐にある。

 通過交通のある道路なので、路駐するさいには注意が必要だ。
 子どもたちは危険なので私だけの参拝にした。

貴船神社(本宮) 京都府京都市左京区鞍馬貴船町180
 貴船神社(本宮)への参拝。
 前回鞍馬寺を参拝したときは夕方になっていたので、貴船方面に周れなかった。
 今回は、『秀真伝(ほつまつたゑ)』を読んで論点を整理しての参拝だ。
 高龗神(たかおかみのかみ)が貴船神社の祭神になっていることへの違和感がズ〜っと消えなかったのだが、それはそれとして本宮奥宮と別な神社と考えれば問題ないわけで、罔象女宮としての伝承が失われて、いつの間にか高龗神(たかおかみのかみ)を祀るようになったのだろう。
 瓊々杵尊が雷(鳴る神)を別け、罔象女神と迦具土神を生んだ功績によって別雷大神と呼ばれたのだ。
 『秀真伝(ほつまつたゑ)』の罔象女神と迦具土神の伝承が消えうせ、高龗神(たかおかみのかみ)が残るところに歴史の推移の面白さがある。
 九頭龍や高龗神(たかおかみのかみ)の影響はとてつもなく大きかったのだ。

貴船神社(奥宮)の船形石
豊玉姫神の御陵と推定できる。
京都府京都市左京区鞍馬貴船町
 奥宮では、貴船神社(奥宮)の船形石から参拝。
 豊玉姫神の御尊骸を納めている可能性があり、その場所を守るため、玉依姫神の黄船伝承を被せた可能性があると思う。
 気比神宮(福井県敦賀市)【土公】が彦火々出見尊の御陵墓かもしれないのに対して、この舟形石が豊玉姫の御陵墓である可能性があるだろう。

貴船神社(奥宮) 京都府京都市左京区鞍馬貴船町
 天忍穂耳尊が箱根で神上がられたあと、瓊々杵尊は、天忍穂耳尊の3年の喪祀りを済ませてから、比叡山を造営することになった。
   比叡山を造営してから穀物がたくさん出来るようになったのでミゾロ池(深泥池)と呼ぶようになった。
 ミゾロ池(深泥池)の西岸の岩を砕き、小石にして川に流しいれ水をあふれさせ、荒地に水を引き、雷(鳴る神)を別け鎮め、葵葉(あおいば)と桂(かつら)によって軻遇突智神(かぐつちのかみ)と罔象女神(みずはめのかみ)をお生みになった。
 この功績によって、瓊々杵尊は「別雷(わけいかづち)」という称号を天照神から賜った。
 罔象女神(みずはめのかみ)を祀るものとして、罔象女宮(貴船神社)が設けられた。
 貴船神社は船魂神でもある。
(※)京都の上鴨神社の御祭神は賀茂別雷大神である。

貴船神社(結宮) 京都府京都市左京区鞍馬貴船町
磐長姫を祀る。
 貴船神社(結宮)は磐長姫を祀る。
 『秀真伝(ほつまつたゑ)』の記述には残されていないが、神社の社伝は、木花咲耶姫をおとしめた磐長姫はその後改心し、神上がられるとき、この宮に来られたと伝えています。
 結宮で祝詞奏上していると、
「あなたに祝詞奏上してもらうとキレイに生まれることが出来るからもっと祝詞をあげて」
 とせがまれてしまった。
 磐長姫神は八岐大蛇の転生だとされてる。
 素盞嗚尊が八岐大蛇を退治されてから「安潟神」として祀られたことによって、再び神として現れることができるようになったらしい。
 『ひふみ神示』が伝える「岩の神」は磐長姫神です。

鞍馬寺 京都府京都市左京区鞍馬本町
 貴船神社の参拝を終え、鞍馬寺に向かう頃になると小雨が降りだしてきた。
 前回13年前平成8(1996)年9月5日(木)も鞍馬寺の駐車場に車を止めケーブルカーに乗るころから雨。
 神社の参拝をしていて、雨があがるケースは数多く経験しているが、参拝を始めようとすると雨になるのは数少ない。
 その数少ないなかのうちの一つがこの鞍馬寺だ。
 鞍馬寺は私にとっては、雨に当たる場所なのかもしれない。
 直感的なイメージでは、物質界にあまねく存在するダークマターの降臨場所というイメージなのだが・・
 鞍馬の当て字としては、闇間(くらま)や闇魔(くらま)、暗間(くらま)や暗魔(くらま)といった漢字のイメージが近い。
 「間」が凝り固まって「魔」になった。
 だから私は子どもたちに貴船神社から鞍馬に行ってはいけない、と教えている。
 鞍馬山と貴船山の間に流れる貴船川は、千刃の谷に見える。
 闇間(くらま)や闇魔(くらま)を脱出して、貴船に乗り次の時代に向かうのである。
 貴船から闇間(くらま)や闇魔(くらま)に向かうのでは神の救いをつかめない理屈になる。
 だから、闇間(くらま)や闇魔(くらま)から救いの船(貴船)に乗り込むべし。
 闇間(くらま)・闇魔(くらま)には、日の力をかりて、日の出の東側かあるいは南側から参拝すべきなのだ。

鞍馬寺の魔王殿 京都府京都市左京区鞍馬本町
 鞍馬寺の魔王殿
貴船-鞍馬

 平成21(2009)年5月5日(火曜日)の宿泊アピカルイン京都  

  京都市左京区松ヶ崎橋西詰(075-722-7711)

5月5日(火曜日)、宿(アピカルイン京都)についた。  

 夕食に行って、食券を忘れたので部屋に戻った。
 部屋をあけ、中に入ると
ここまで来たら、もうあなた方しかいません・・
 という声がする。
 私が戻ってくるのを待っていたかのようだ。
 天の大神にも
そなたたち次第じゃ
 と聞いているので、そうなのかも知れない。
ここまで人間の立場でやりあげたら、あとは神々一人ひとりの問題・・
これはいつも私が聞いている声だ。

平成21(2009)年5月6日(水曜日)、上賀茂神社から下賀茂神社周辺

河合神社 京都府京都市左京区下鴨泉川町
河合神社の紹介ページ
 玉依姫神を祀られている神社だ。
 1996年、玉依姫神を祀る神社に行かなければならない、と思うものがあって、九州の宮崎神宮に足を運んだのだったが、本当はこの河合神社だったのかもしれない。
 鵜葺草葺不合尊と玉依姫神が神上がられたとき、玉依姫神の御尊骸はここ河合神社に納められたのだろう。

 高校時代、鴨長明の『方丈記』に慣れ親しみ

 行く川のながれは絶えずして しかも本の水にあらず 
 よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくと

 と何遍も読み込んでいたのだった。

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』は、
 鵜葺草葺不合尊が神上がるとき神の璽(をして)は武仁尊(たけひと)に授けられ、玉依姫神が神上がられるとき、(かがみ)は河合宮(かあひ)に納められ、八重垣剣(やゑがき)は 別雷宮(わけつちみや)の賀茂別雷神社に納められた
 と記している。
 『ひふみ神示』で玉依姫神龍宮の乙姫とされる。

賀茂御祖神社(下賀茂神社) 京都府京都市左京区下鴨泉川町59
公式ホームページ
 河合神社から下賀茂神社(賀茂御祖神社)に向かう参道を歩いていると
「そなたが何度も歩いた道ぞ」
 と語りかけてもらった。
 神武天皇は河合神社で生まれ、そして父の鵜葺草葺不合尊が祀られている賀茂御祖神社に参向されていたのだ。
 現在の祭神は賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)であるが、「たけつぬみ」という呼び方からは、玉依姫神の父で豊玉姫の弟・建祗命(たけずみ)の「たけずみ」が近い。
 豊玉姫の弟・建祗命(たけずみ)は豊玉姫と鵜葺草葺不合尊の養育の任に当たられているので、賀茂御祖神社という風に「御祖」で尊称する場合、鵜葺草葺不合尊を示しているのだろう。

出雲井於神社(いずもいのへ) 京都府京都市左京区下鴨泉川町59
公式ホームページ
 賀茂御祖神社(下賀茂神社)の摂社の出雲井於神社(いずもいのへ)

三井神社(みつい) 京都府京都市左京区下鴨泉川町59
公式ホームページ
 賀茂御祖神社(下賀茂神社)の摂社の三井神社(みつい)

井上社(御手洗社) 京都府京都市左京区下鴨泉川町59
公式ホームページ
 賀茂御祖神社(下賀茂神社)の摂社の井上社(御手洗社)

賀茂別雷神社(上賀茂神社) 京都府京都市北区上賀茂本山339
公式ホームページ
 紀元前1,290,607年、瓊々杵尊は八洲めぐりの勅。
 その後、天忍穂耳尊が箱根で神上がられ、天忍穂耳尊の3年の喪祀りを済ませてから、瓊々杵尊は、比叡山を造営する勅を出された。
 比叡山を造営してから穀物がたくさん出来るようになったのでミゾロ池(深泥池)と呼ぶようになった。
 ミゾロ池(深泥池)の西岸の岩を砕き、小石にして川に流しいれ水をあふれさせ、荒地に水を引き、雷(鳴る神)を別け鎮め、葵葉(あおいば)と桂(かつら)によって軻遇突智神(かぐつちのかみ)と罔象女神(みずはめのかみ)をお生みになった。
 この功績によって、瓊々杵尊は「別雷(わけいかづち)」という称号を天照神から賜った。

 紀元前100万年以上前の出来事だろう。

(※)京都の上鴨神社の御祭神は賀茂別雷大神である。

 時代は下って、神武天皇の母・玉依姫神はここの別雷大神に仕えていた。

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』は、
 鵜葺草葺不合尊が神上がるとき神の璽(をして)は武仁尊(たけひと)に授けられ、玉依姫神が神上がられるとき、(かがみ)は河合宮(かあひ)に納められ、八重垣剣(やゑがき)は 別雷宮(わけつちみや)の賀茂別雷神社に納められた
 と記している。

賀茂別雷神社の第一摂社・片山御子神社 京都府京都市北区上賀茂本山339
公式ホームページ
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 神武天皇の母・玉依姫は河合神社にお住まいになられて、上賀茂神社(賀茂別雷神社)にお仕えになられた。
 上賀茂神社(賀茂別雷神社)にお仕えになるのは、玉依姫の父の賀茂建祗命も母の磯依姫も同じであったと思う。

神山(こうやま) 京都府京都市北区上賀茂神山
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参考ページ→ http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/kouyama.html
 別雷大神(瓊々杵尊)が降臨されたと伝えられる。
 神山(こうやま)

深泥池(ミゾロ池) 京都府京都市北区上賀茂狭間町
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 紀元前1,290,607年、瓊々杵尊は八洲めぐりの勅。
 その後、天忍穂耳尊が箱根で神上がられ、天忍穂耳尊の3年の喪祀りを済ませてから、瓊々杵尊は、比叡山を造営する勅を出された。
 比叡山を造営してから穀物がたくさん出来るようになったのでミゾロ池(深泥池)と呼ぶようになった。
 ミゾロ池(深泥池)の西岸の岩を砕き、小石にして川に流しいれ水をあふれさせ、荒地に水を引き、雷(鳴る神)を別け鎮め、葵葉(あおいば)と桂(かつら)によって軻遇突智神(かぐつちのかみ)と罔象女神(みずはめのかみ)をお生みになった。
 この功績によって、瓊々杵尊は「別雷(わけいかづち)」という称号を天照神から賜った。

 紀元前100万年以上前の出来事だろう。

広沢池 京都府京都市右京区嵯峨広沢町
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 広沢池


葛野-賀茂

 平成21(2009)年5月6日(水曜日)に帰京。