藤島神社(ふじしま)【2】神社に掲載されている由緒書き|福井県

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福井県福井市毛矢3丁目8-21 (広域地図はこちら
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神社に掲載されている由緒書き

公式ホームページに掲載されている由緒書き(略記)

(※)公式サイトの由緒書きから

 新田義貞公は清和源氏の流れで、八幡太郎義家から10代目の子孫に当たります。
 代々関東の上野(こうずけ)国(群馬県)の新田郡に住んでましたので、新田氏を称し、義貞公は新田氏の嫡男として生まれました。
 後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒そうと二度目の計画をされた元弘の変(1331)後、新田義貞公は、元弘3年(1333)密かに朝廷の命を受けて5月鎌倉に攻め入り、遂に22日執権北条高時の鎌倉幕府を滅しました。
 この日を記念しまして藤島神社では、毎年記念祭を斎行いたしております。
 鎌倉幕府が滅亡してから後、いわゆる後醍醐天皇建武中興の政治が始まりますが、この時足利利尊氏が天皇に謀叛を起し、南北朝の動乱の時代となりましたが、新田義貞公は後醍醐天皇に尽くされ、楠木正公が湊川で戦死された後も、形勢不利の中を延元元年(1336)、天皇の皇子恒良・尊良両親王を奉じて敦賀の金ケ崎に籠城され、翌年3月金ケ崎落城と共に、杣山へ、更に延元3年(1338)足利軍と福井平野で奮闘中、閏(うるう)7月2日灯明寺畷(新田塚)の戦で壮烈なる戦死を遂げられたのであります。
 御年38歳でありました。この閏7月2日を太陽暦に換算しますと、8月25日になりますのでこの日を藤島神社の例大祭と定め、毎年厳粛なる祭典が盛大に行われております。
 この新田義貞公戦死の地から明暦年間(1655〜57)、義貞公の兜が発見されましたので、福井藩松平光通候は萬治3年(1660)そこに「新田義貞戦死此所」と刻んだ石碑を建立されました。これが国の史蹟として指定されている「史蹟灯明寺畷」(新田塚)であります。
 明治初年、この新田義貞公の忠誠に対し神として祀る運動が起こり、明治9年11月別格官幣社藤島神社が御創建されました。
 その後、変遷がありまして同14年同郡牧ノ島に社殿を移したがここもまた水害が甚だしいため同34年5月、足羽山の現在地へ奉遷されたのが今の藤島神社であります。
 御創建以来、御皇室をはじめ各宮家の御崇敬篤く、戦災・震災と二度の災害を被りましたが、全国各地の崇敬者の方々のご奉賛により、昭和31年御創立80周年大祭には檜造りの拝殿が、百年大祭には宝物収納庫を兼ねた参集殿が、650年祭に神符授与所等諸殿の復興がなされ、平成20年御殉節670年祭を迎えます。
 福井市を一望する緑に囲まれた杜は、福井県はおろか全国より詣でる人々が絶えないことは御神慮の広大無限さに只々有難く真に恐懼に堪えない。