神社に掲載されている由緒書き
柴田勝家・お市の方と3人の娘
柴田勝家(〜1583年)
勝家は尾張国愛知郡に生まれ、織田信長の重臣となる。天正3(1575)年8月、越前一向一揆を滅ぼした信長は、越前の大部を勝家に与えた。勝家は北ノ庄に城郭を築き、壮大な天守閣を造営した。
信長の亡き後、天正11(1583)年4月、賤ヶ岳の戦で羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に敗れた勝家は、同月24日北ノ庄城にて、妻のお市の方とともに自害した。墓はお市の方とともに、福井市左内町の西光寺にある。享年62歳と伝えられる。
雲井に掲げよ 山ほととぎす
信長の亡き後、天正11(1583)年4月、賤ヶ岳の戦で羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に敗れた勝家は、同月24日北ノ庄城にて、妻のお市の方とともに自害した。墓はお市の方とともに、福井市左内町の西光寺にある。享年62歳と伝えられる。
時世の句
夏の夜の 夢路はかなき跡の名を雲井に掲げよ 山ほととぎす
信長の妹・「お市の方」(1547年-1583年)
お市の方は、織田信長の妹で絶世の美人といわれ、政略的婚姻により近江の小谷城主・浅井長政に嫁ぎ、1男3女をもうけた。
天正10(1582)年10月、3人の娘を連れて柴田勝家に嫁ぐが、翌年4月24日羽柴秀吉に滅ぼされた。勝家はお市の方に娘と共に城をでるように諭したが、お市の方は娘3人を秀吉の陣におくったのち、北ノ庄城で夫婦静かに盃を交わし、辞世の和歌を残して自害した。画像は淀殿の命によって描かれたもの。享年37歳と伝えられる。
夢路を誘う ほととぎすかな
天正10(1582)年10月、3人の娘を連れて柴田勝家に嫁ぐが、翌年4月24日羽柴秀吉に滅ぼされた。勝家はお市の方に娘と共に城をでるように諭したが、お市の方は娘3人を秀吉の陣におくったのち、北ノ庄城で夫婦静かに盃を交わし、辞世の和歌を残して自害した。画像は淀殿の命によって描かれたもの。享年37歳と伝えられる。
時世の句
さらぬだに うちぬる程も夏の夜の夢路を誘う ほととぎすかな
茶々(淀殿)(1569年ー1615年6月4日)
お市の方の長女・茶々は淀殿とも呼ばれた。
母はお市の方で父は浅井長政。長政は織田信長に滅ぼされた。お市の方は3人の娘をともなって柴田勝家と再婚し、越前北ノ庄へ移ったが、その後、勝家が羽柴秀吉に敗れた時、茶々は2人の妹(お初・お江)と共に難から逃れた。
茶々は秀吉の側室となって寵愛を受け秀頼をもうけたが、慶長19(1614)年徳川家康の大軍と交戦することになり、翌元和元年(1615年)5月8日、秀頼と共に大坂城中で自害した。享年49歳と伝えられる。
母はお市の方で父は浅井長政。長政は織田信長に滅ぼされた。お市の方は3人の娘をともなって柴田勝家と再婚し、越前北ノ庄へ移ったが、その後、勝家が羽柴秀吉に敗れた時、茶々は2人の妹(お初・お江)と共に難から逃れた。
茶々は秀吉の側室となって寵愛を受け秀頼をもうけたが、慶長19(1614)年徳川家康の大軍と交戦することになり、翌元和元年(1615年)5月8日、秀頼と共に大坂城中で自害した。享年49歳と伝えられる。
お初(京極高次正室)ー次女(1570年ー1633年9月30日)
お市の方の二女・お初は姉の茶々と妹のお江と共に秀吉に引き取られ、のちに従兄弟の京極高次に嫁ぎ忠高をもうける。高次は慶長5年(1600年)関ヶ原合戦ののち、若狭国小浜城主(所領9万2千石)となる。
慶長14年お初は夫と死別後、剃髪して常高院と号した。この頃からたびたび淀殿を訪ねている。大坂の陣には徳川家康の命を受け大阪城に使者として入り、姉の淀殿と和平の交渉をした。寛永10年(1633年)8月27日江戸において死去。享年66歳と伝えられる。
慶長14年お初は夫と死別後、剃髪して常高院と号した。この頃からたびたび淀殿を訪ねている。大坂の陣には徳川家康の命を受け大阪城に使者として入り、姉の淀殿と和平の交渉をした。寛永10年(1633年)8月27日江戸において死去。享年66歳と伝えられる。
お江(徳川秀忠継室)ー三女(1573年 - 1626年11月3日)
三女・お江は豊臣秀勝などと再婚した後に、徳川二代将軍秀忠の正室となる。
秀忠との間には二男五女の子宝に恵まれた。長男・家光は三代将軍に、次男は駿河大納言となる。長女千姫は淀殿の長男秀頼の夫人になり、次女は加賀藩前田家の養女、三女は松平に嫁いでいる。四女は・・・。五女・和子は天皇に嫁ぎ中宮となる。寛永3年(1626)年9月15日江戸城において生涯を終えた。享年54歳。
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