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富士と鳴門の経綸のヒントがある熊本本苑

熊本本苑の全景

熊本本苑の全景

本殿

準備中

ご祭神



富士と鳴門の仕組における大本教熊本本苑の月山不二の位置

 『岡本天明伝 [日月神示]夜明けの御用』(2012年、黒川柚月著 PP362-377)からの引用

東日本大震災(2011.3.11)と富士山爆発の予兆

 今回の東日本大震災(2011.3.11)は、地質学の専門家から
「千年に一度の規模の地震」
 といわれ、貞観11(869)年の「貞観地震」は、東北地方の太平洋側に壊滅的な被害を出した。それに遡る貞観6(864)年に富士山の噴火が記録され、貞観13(871)年には鳥海山噴火の記録がある。
 今後、近い内に必ず起こるとされる「東海地震」も、過去の記録から富士山の噴火を誘発する可能性の大きい地震だ。宝永4(1707)年の「宝永の東海地震」から49日後、富士山が噴火している。
 「2011.3.11」以後の打ち続く群発地震と富士山噴火の脅威に、私たちはこのまま手をこまねいているだけなのか。
 昭和19(1944)年の『日月神示』と出口王仁三郎の談話に、なぜか共通して富士山の噴火の預言が出てくる。そして同じ時期に両者ともに富士塚を造っている。
 今回の東日本大震災(2011.3.11)を経験し、『日月神示』や出口王仁三郎の残した富士山爆発の預言が、改めて真実味を帯びてきた。
 そこで、資料をまとめて考えてみたい。

昭和8(1933)年3月3日、三陸地震の預言

『日月神示』には、この世の「立替」(天変地異)の印(しるし)として、富士山の爆発の預言が述べられている。今回、三陸沖(太平洋岸沖)の広い範囲を震源とした東日本大震災から、富士山の噴火の前兆が報告された。
 三陸沖を震源として大津波を伴った巨大地震は、前回、昭和8(1933)年3月3日に起きた「昭和三陸地震」だ。三陸地震は近代に入ってから、明治29(1896)年6月15日、昭和8(1933)年3月3日に発生している。
 岡本天明は、昭和8(1933)年3月3日の三陸地震のあと、地震被害への見舞いに中国から来日した世界紅卍字会の慰問団に同行して、三陸地方の被災地を逐一回った。
 その後、昭和10(1935)年に天明は中央気象台(現在の気象庁)の国富技師を取材し、富士山の噴火の可能性について調べ『人類愛善新聞』『東京毎夕新聞』に記事を掲載した。
 天明の2つの行動は、今までつながらなかったが、千年前の貞観地震や、東海地震と富士山の噴火の関連を鑑みても、天明の行動の背景は、一緒だったのではないか。
 昭和8(1933)年、出口王仁三郎の三陸地震の折のエピソードを知ると、さらに興味深い背景がわかる。
 『おほもと』(1932年8月号)所収の成瀬言彦筆「地震よ回れ右」から引用しよう。

 「地震発生直前に地震を叱咤し、方向転換」

 昭和67年頃(昭和8年の間違いーー引用者注)の初夏(ママ)であった。東京から聖地への帰途、伊豆湯ヶ島の別院に御滞在中の聖師(出口王仁三郎)をお訪ねした。竹本朝太郎宣使も来合わせて一緒になった。その夜はお言葉に甘えて別院で一泊したが、まだ宵の口のこと、お側にいた78名を相手にお話しに打興じておられた聖師(出口王仁三郎)が、突然ガバと半身を起こされて
「俺が居る!あッちへ行け・・・・」
 と鋭く叱咤なされた。
 不意のこととて私等はビックリした。すっかりベソを掻いてコソコソと別室へ退ろうとすると
「どこへ行くんや」
 と不思議そうに仰る。
「へえ、どうも、まことに・・・・」
 とお答えに困っていると、
「はッはッ」
 とお笑いなされて
「あれはお前等を叱ッたのやあらへんワ。今な、駿河湾に地震が発生しようとしたンや。ドエライ大地震やで、関東大震災の2倍位のもんや、あれが発生したら、大被害や、この辺の家なぞ一軒も助からんわい。それじゃから叱ッて太平洋へ逐いやったんや。しかし三陸方面で多少被害をうける所があるのウ、可哀そうな」
 とのお言葉であった。
 自分等が叱られたので無いとわかると皆晴れやかに戻り、夜半までお話しのお相手をした。
 翌朝のラジオは、
「今払暁岩手県釜石沖に海底地震が発生して海つなみを起こし、釜石の町は海つなみによって大被害をうけた」
 ことを報じた。早速聖師に申し上げると
「どこか少しやられると思うたが釜石であったか、気の毒やな」
 とシンミリ申された。
 ちなみに、この津波で釜石の大本本部は跡形もなく浚われたが、不思議にも御神体もお宮も無事であったという御神徳談がある。

 

 このエピソードは、伊豆の湯ヶ島に湯治で滞在した出口王仁三郎に叱咤され、東海地震のエネルギーが方向転換して、三陸地震になったと語っている。
 出口王仁三郎により、三陸地震と東海地震が関連付けられ、その延長線上には富士山の噴火爆発があった。天明の行動の背景には、王仁三郎の預言があった。

富士と鳴門の仕組

 岡本天明が、神業の歴史上、初めて「富士と鳴門の祭り」をしたのだが、以前この話をしたとき、居合わせた年配の大本信徒は、
「富士と鳴門は経綸だから祭祀ではない」
 と疑問を口にした。
 なるほど大本の教義上、富士と鳴門の仕組は、「仕組」とあるように経綸(神の計画)だから、祭祀の対象にはならないはずだ。
 戦前、大本信徒は、富士山は神体山だから、なるべく登らないほうがよいと言い、富士登山ははばかられた。昭和3(1928)年、出口王仁三郎は四国徳島県を巡教した折、鳴門海峡近くを訪れ、地元の大本信徒から名勝の鳴門にお連れしたいとの申し出に対し、
「鳴門は最後に行く」
 と言い、鳴門に行かなかった。
 出口日出麿も徳島巡教時、王仁三郎の言に倣い、鳴門海峡には足を運ばなかった。
 出口王仁三郎は、そもそも富士と鳴門を禁足地としたのだ(淡路島にも上陸していない)。

 

 戦後、昭和21(1946)年6月4日(旧暦5月5日)、出口王仁三郎は綾部の本宮山「長生殿」基礎跡に至誠所として「月山不二ーつきやまふじー」(築山富士)を造った。
 ところで大本で富士山が造られたのは、これが初めてではない。
 古くは戦前、熊本県鹿本郡植木町の大本九州別院に富士山が築かれた。別院に富士山を造った経緯は、現在はわからない。
 そこで大本熊本本苑(元の九州別院)で富士山を実見した。別院の入り口から入ると、出口王仁三郎の歌碑があり、その前がになっており、わきに富士山(天教山)が築かれていた。
 一見して、富士と鳴門の仕組を、作庭で表現したことがわかる。
 池と富士山の中心にあるのは、王仁三郎の言霊歌碑だ。

 「言霊の誠を筑紫の志満可根(しまがね)に 生かして照さ無 惟神吾波」

 ことたまの まことをつくしの
 しまがねに いかしててらさん かんながらわれは

 の王仁三郎の歌が刻まれている。

 歌碑の前が池になっているのは珍しい造りだ。同じように歌碑の周りが池になっているのは、佐賀県有田の三六歌碑(みろくかひ)しかわからない。ただ富士山が造られたのは九州別院だけだ。
 九州別院歌碑は昭和8(1933)年8月3日に建碑され、9月8日、台湾巡教から帰還した王仁三郎の立会いのもとに除幕されている。
 (※)昭和8(1933)年3月3日に「昭和三陸地震」が起きている。
 九州別院には背後の裏山の切り立った断層から水が湧いていた。その水を引いて三玉池(みたまいけ)を造り、その水をさらに引き、歌碑の周りの鏡池に注ぎ込んでいる。
 富士山は池を掘ったときの土を盛り上げて造った築山である。
 日本庭園の作庭は、石と流水に木々をあしらい、山水明鏡を表現する。
 九州別院の歌碑を含む鏡池や富士山は、特別な聖跡と認識されつつも、祭祀の対象ではない。
 王仁三郎が歌碑を建立したのは、大正10(1921)年、綾部の熊野新宮神社境内に歌碑を建てたのが嚆矢だ。
 歌碑の建碑が加速するのは、昭和6(1931)年9月8日の本宮山歌碑からだ。その後、日本全国に自らの歌碑を建てた。歌碑建立は四十数基に及ぶが、48基の建碑予定が、昭和10(1935)年12月8日の第二次大本教事件で頓挫した。
 石川県小松市串町の大本北陸本苑(旧の北陸別院)にある言霊歌碑は、正面入り口から入った傾斜地に、「明晃殿」跡の背後に建碑された。実見すると、「明晃殿」跡と歌碑の位置関係は、神社の拝殿と本殿の形を造っていた。歌碑は御神体に等しいモニュメントだった。
 歌碑のある場所は、広大な敷地があるにもかかわらず、祭典等で多数の参列者を見込めない傾斜地で、歌碑を建てた理由は、それが目的でないのだろう。霊峰・白山を背後に拝して歌碑が建碑されている。
 歌碑を建てた目的は、日本全国(台湾)と綾部・亀岡を蟇目神法を使って霊的な網でくくっていたとされる。出口王仁三郎の歌碑が、御神体と等しいなら、九州別院の歌碑も同じだ。歌碑の位置づけがはっきりしないのは、祭祀には顕祭(祭式供物を伴う)と幽祭(霊で接する)があるからだ。
 以下に解説するように、王仁三郎が富士山を造ったのは、富士が爆発してもいいよう、祭祀対象として造ったとされる。九州別院の富士山も同じ意図で造ったのだろう。
 出口王仁三郎の造った九州の富士山から思い浮かぶのは、『日月神示』の
「富士はいよいよ動くから、それが済むまで三十里離れた所へ仮に祀りて置いて呉れよ」
(第一巻「上つ巻」21帖)
 の件だ。
 天命はそのため、昭和19(1944)年7月、榛名山の蛇ゲ岳に神を祀った。
 王仁三郎が熊本の九州別院に富士山を造ったのは、熊本は旧の肥後国で「富士の霊返しは『ひ』になる」から肥後の『ひ』にかけ、霊的には富士と『ひのくに』は同じだとして、場所を選んだのだ。
 富士から離れた場所に祀る理由を、富士からの30里の距離と、一方は「富士=火」の言霊に掛けた違いで、つまりこれは、同じ『まつりごと』をやったのだ。
 昭和8(1933)年、出口王仁三郎が九州別院に富士山を造ったのは、三陸地震から富士山の噴火活動が始まると、作庭の型で黙示していたのだ。
 天明らが昭和10(1935)年に富士山の噴火の可能性を取材していたのも、独自の判断ではなく、全て出口王仁三郎からの示唆だろう。当時、天明は『人類愛善新聞』上で王仁三郎の随筆の代筆もしていた。
 笠井鎮夫が『日本神異見聞伝』で、
「昭和初期には王仁三郎氏の側近の一人だったらしく、出口氏の神憑的言動に関する秘話など、彼の口から聞いたことがあります」
 と書いている。
 笠井はこの一節に関して、これ以上何も書いていないので、この一節がずっと謎だった。
 出口王仁三郎から天明にナニを伝えたのか。重要な問題だが、今回やっとわかった。
 それは、富士山の爆発の預言に違いない。
 その型代(かたしろ)は、三枝(みえだ)今朝春(けさはる)が所蔵した『爆発する富士山の図』だろう。出口王仁三郎は特に戦後、『月山不二』を色紙に大量に描いているが、爆発する富士の図柄は、誰に聞いても見たことがないという。
 そんな図を所蔵した三枝(みえだ)は、大本信徒としては歳若く、まったくの無名の存在だった。王仁三郎から、じかにそんな画を拝領できるわけがない。
 元は誰が持っていたのか、当然、天明だろう。大本教事件後、家財道具のあらかたは質屋に入れるほど生活に困窮した天明である。富士山の画もその折に手放したのだろう。
 ちなみに天明の遺品は、死後ある人物が半分持ち出してしまい、至恩郷にほとんど残っていなかった。著者が実見したのは、『人類愛善新聞』100万部発行突破記念の聖師観音のペンダントぐらいだ。

富士山爆発の預言

 昭和19(1944)年6月、『日月神示』が天明に降り、
「 富士はいよいよ動くから、それが済むまでは三十里離れた所へ、仮に祀りて置いて呉れよ。富士は神の山ざ、いつ火を噴くか分らんぞ、神は噴かん積りでも、いよいよとなれば噴かなならんことがあるから、それまでは離れた所へ祀りて呉れよ、神はかまはねど、臣民の肉体大切なから、肉体もなくてはならんから、さうして祀りて呉れ。まつりまつり結構。六月の二十八日、ひつ九のか三。」
   ひふみ神示 第01巻 上つ巻 / (うへつまき)  第二十一帖 (二一)
 と神示された頃、亀岡の中矢田農園にいた出口王仁三郎も、富士の爆発を暗示した発言を残している。

 「富士山の活動」

 富士山の活動が激しくなって、この冬は富士山に雪が積もっていないのである。
(拝聴した中川良康氏は飛行兵であったので早速飛行機で偵察に行ったところ、お言葉の通りであった)

 (昭和19年12月)

 安政元(1854)年、「安政の東海地震」以降、富士山の火山活動(一部で地熱の上昇)は活発化し、昭和30年頃まで地熱が上昇していた。
 戦後、『日月神示』の信奉者たちは、
「麻賀多神社周辺は富士が爆発しても大丈夫だ」
 と、土地を求め転居した。
(現在の富士山のハザードマップでは、成田周辺でも火山灰の影響を受ける)
 ただの集団心理から生まれた杞憂と思っていたが、当時の富士山の活動が実際に活発だったからだ。今回の大震災で、再び富士山の地熱の上昇が観測された。

 「富士山を造る」(月山不二

 駿河の富士山はいつ爆発するかも判らぬから、こちらに造っておく。

 (昭和21年3月6日)

 「富士山爆発の意義」

 ここ(亀岡)と富士山は同じ高さであるので、本宮山に富士山を造ったのである。
 富士山の爆発とは、大本が出たことである。

 (昭和21年8月13日)

 本宮山は、開祖・出口直が帰神した元屋敷の裏山で、大本の聖地である。
 大正10(1921)年7月、念願の本宮山上に天の御三体の神(みろくの神)を祭る御神殿が建立された。
 ところが大正10(1921)年2月12日の第一次大本教事件で無届けの社寺建立は罷りならんと明治初年に通達されたのを盾に、官憲の命令により、御神殿は10月20日から10月27日にかけて完全に破壊された。
 昭和10(1935)年10月27日、出口王仁三郎は本宮山上に天の神を祀る長生殿を再建する第一歩、建築起工式にあたる「長生殿斧始め式」の祭典を挙行した。御神殿の破壊が完了した10月27日の日付を逆手に取ったのだ。
 長生殿は十字型をした基礎だけは完成したが、昭和10(1935)年12月8日の第二次大本教事件で粉々に破壊された。

 

 昭和17(1942)年8月7日、出口王仁三郎は、大本教事件が結審しての釈放後、亀岡の中矢田農園に帰居、翌年の昭和18(1943)年6月、二階屋(有悲閣)から隣の平屋に移り、そこを「熊野館」と命名する。
 昭和18(1943)年10月21日から熊野館の作庭作業を開始し、10月24日、庭に小さな富士と鏡池を造った。富士山鏡池は、富士と鳴門の仕組を表している。
 10月27日、完成した庭を愛でながら熊野館で「伊都能売歌会」が始められた。歌会は月1回の定例会となり、戦時中ながら大本の芸術活動の復興の先駆けになった。
 歌碑の代わりが、伊都能売歌会であることは、容易にわかろう。
 ところで10月20日に、出口王仁三郎の実孫が亡くなっている。孫の亡くなった翌日から造園を始めるなど、普通の神経から考えたら常軌を逸した行動だが、何より日付が重要だったのだ。
出口王仁三郎の一連の行動は、破壊の中から創造を生み出すものである。立替えと立直しを実地で示した。敗戦後、治安維持法廃止により、大本教事件は完全解決した。

 

 昭和21(1946)年旧暦5月5日、綾部の本宮山上、破壊された神殿の残骸を集めて造った月山不二は、この流れを汲んでいる。
 月山不二頂上には、延暦20(802)年の「延暦の富士山噴火」の折、富士山北麓の富士吉田の明見(あすみ)の里に落ちた丸い火山弾を据えた。
 富士と鳴門の型として見れば、綾部の富士月山不二で、鳴門はその後、再掘削された神苑の金龍海となろう。
 熊野館の富士と鏡池は、綾部の月山不二ができるまでの仮鎮座地だったのだ。

 

 一方、天明が初めに祀った富士山は、鳩森八幡神社の富士塚(一の宮)で、自ら富士塚を造ったのは昭和20(1945)年6月の玉川学園の「奥山」に造った富士塚だ。
 天明宅の御神前を「奥山」と称する所以は、出口直の御筆先で、綾部の弥山を奥山とするところからきている。
 御筆先に艮の金神が「須弥山に腰掛け」とあるように、宇宙の中心の神座である。
 奥山=須弥山=富士山なのである。大本では御神前は、初め広前(ひろさき)と言い、奥山とする言い方はない。

大難を無難にする祈り(PP393-396)

 天明は、高田集蔵からスウェーデンボルグの形而上学的な『聖書』解釈「対応学」を教わり、強く影響を受けた。「対応」の言語はフランス語の「correspondances」で、思想の根源は西洋錬金術からきている。戦後、天明は神示の「富士」「甲斐」「尾張」も、形而上学的に解釈している。
 天明の残された文章を読み、近親者の話を聞く限り、天明は比較的バランス感覚のある、分別もしっかりした人物だったと思う。
 ただ富士山噴火の預言を、ずっと真に受けていたところが疑問だったが・・・・。
 しかし、昭和8(1933)年から出口王仁三郎に示唆されていたとすれば、なるほど納得がいく。
 後年、天明は「富士が火を噴く」を、「富士」を「普字」と解釈し、言霊の働きが世に現れるという、形而上学的な解釈をするようになった。
 理解が進むと物理学的な富士山爆発の意味だけでなく、富士に象徴される日本の霊性が火を噴く(出現する)という解釈も可能になる。人々の意識が進むと、大難が小難に振り替えられるのだ。
 前に述べたように霊界の現象は、現界に移写され顕現するまでに差異があるからだ。

 富士山爆発の解釈は、王仁三郎も『新月のかけ』で同じことを述べている。

 (前略)
 富士が爆発するとか、鳴門の仕組みというのはそのまま来るのやないのやで。そのままとったら違うで。

 (昭和17年)

 出口王仁三郎は、富士の爆発は大本が出現したことだと言う。同じく「火の雨が降る」の預言も、それが物理的な火の雨だとしたら、そんなものが頭上に降りかかったら人の身にはたまったものではない。では、火の雨が霊(ひ)の雨だったらどうか。人類の霊性浄化の洗礼になるのではないか。

準備中



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