4番目の磐余玉穂宮(いわれのたまほ)〜第26代継体天皇が西暦526年に遷宮【1】|奈良県

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奈良県桜井市池之内付近 ( いつもNAVIによる広域地図
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筒城宮(つつき)弟国宮(おとくに)があったとされる乙訓寺磐余玉穂宮(いわれのたまほ)

4番目の磐余玉穂宮(いわれのたまほ)〜第26代継体天皇が西暦526年に遷宮

磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)の参拝履歴

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4番目の磐余玉穂宮(いわれのたまほ)〜第26代継体天皇が西暦526年に遷宮

磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)

大和の磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)へ都を遷した

 継体天皇は治世20年目(526年)の秋9月13日、山城国乙訓にあった弟国宮から大和の磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)へ都を遷した。
 実に即位から20年目のことであり、ようやく王城の地に宮を築くことができたことになる。

 その所在地は、現在の奈良県桜井市池之内付近であろうとされている。

 磐余(いわれ)とは、現在の桜井市南西部の池之内、橋本、阿部から橿原市の東池尻町を含む同市南東部にかけての古地名である。
 第17代 履中天皇の時代に磐余に潅漑用の巨大な池が築かれた。

 磐余の池である。

 桜井市の池之内集落の中に小高い丘があり、その頂上に稚桜神社(わかざくらじんじゃ)が鎮座している。
 もともとこの丘は西北に延びる低い丘陵だった。
 その先端部分を断ち切って米川の水を流し、西方の字「島井」というところに堤防を築き溜め池としたのが磐余池である。
(注 磐余池の所在については、現在の桜井市の谷遺跡の西側にあったとする千田稔氏の説もある)。
 その磐余池の周囲に4つの宮殿が存在したことが記紀の記録から知られている。
 第17代履中天皇の磐余稚桜宮(いわれのわかざくらのみや)、
 第22代清寧天皇の磐余甕栗宮(いわれのみかぐりのみや)、
 第26代継体天皇の磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)、
 そして第31代用明天皇の磐余池辺双槻宮(いわれのいけのべのなみつきのみや)である。

 だが、いずれの宮跡も特定されいない。

 わずかに伝承に基づいて、磐余稚桜宮(いわれのわかざくらのみや)は上に述べた稚桜神社に、磐余池辺双槻宮(いわれのいけのべのなみつきのみや)は現在の吉備池の北に位置する春日神社に比定されているにすぎない。
 では、継体天皇が都とした磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)は何処に位置していたのだろうか。

 桜井市の阿部木材団地を東西に横切る道路がある。

 その道を橿原市に向かって進むと、桜井市と橿原市の境界を流れる米川にかかる「ささほはし」がある。
 橋の上に立って川の上流を見ると、こんもりと樹木の茂った丘が見える。
 物部氏の始祖・饒速日尊(にぎはやひのみこと)の3世の子孫にあたる出雲色男命(いずもしこおのみこと)を祭神として祀る稚桜神社が、頂上に鎮座している丘である。
 石段の参道を上り、稚桜神社の社殿の前に立つと、四方に眺望が開ける。
 いかにも履中天皇が宮を築きそうな場所である。
 この稚桜神社から約300mほど西南の位置に似たような小高い丘がある。
 東側半分は畑地になっているが、西の半分はクヌギ林で北側の傾斜地には孟宗竹が生い茂っている。
 土地の人々は、この丘を「おやしき」跡と呼んでいる。
 実はこの丘が磐余玉穂宮の跡地だという伝承がある。
 伝承の真偽のほどは分からないが、仮にその丘の上に宮があったとすれば、稚桜神社の境内と同様に四方に眺望が効き、前面には満々と水を蓄えた磐余の池があったはずである。
 継体天皇は晩年の5年をこの宮で過ごした。

 引用先:http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/2004_11_19.htm

■ なお磐余稚桜宮は桜井駅の南に位置する若桜神社とする説もある。

 引用先:http://okhome.fc2web.com/inves/keitai/keitai003.html

準備中・・

磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)

4番目の磐余玉穂宮(いわれのたまほ)といわれる「おやしき」の地図