3番目の弟国宮(おとくにのみや)〜第26代継体天皇が西暦518年に遷宮【1】|京都府

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京都府長岡京市今里三丁目14−7 ( いつもNAVIによる広域地図
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筒城宮(つつき)弟国宮(おとくに)があったとされる乙訓寺磐余玉穂宮(いわれのたまほ)

3番目の弟国宮(おとくにのみや)〜第26代継体天皇が西暦518年に遷宮

「弟国宮」(おとくにのみや)があったとされる大慈山乙訓寺の参拝履歴

3番目の弟国宮があった乙訓寺〜第26代継体天皇が西暦518年に遷宮

弟国宮(おとくにのみや)があった乙訓寺の門

 寺名となっている乙訓(おとくに)は、今から1500年前、葛野(かどの)郡から分離し新しい郡がつくられた際に、葛野(かどの)を「兄国(あにくに)」とし、新郡を「弟国(おとくに、乙訓)」としたことによるともいわれている。
 518年、第26代継体天皇は、筒城宮 (つつきのみや、現在の京田辺市多々羅都谷)から、弟国宮(おとくにのみや、現在の長岡京市今里付近)に遷都したという。
 乙訓寺は当時の宮跡ともいう。

弟国宮(おとくにのみや)があった乙訓寺の本堂

乙訓寺の本堂の説明

乙訓寺の由緒

 飛鳥時代、603年頃、第33代推古天皇の勅命により、聖徳太子(574-622)が乙訓寺を創建したという。
 聖徳太子の自刻という十一面観世音菩薩を本尊とする伽藍を建立させたという(『乙訓寺縁起』)。
 聖徳太子(574‐622)は、飛鳥時代、第31代用明天皇の皇子で高句麗の僧・慧慈(えじ)に学び、第33代推古天皇の皇太子、摂政となる。
 十二階冠位の制定(603)、日本初の成文法となった憲法十七条の発布(604)、遣隋使(600-614)派遣などを行った。

乙訓寺への入口

 奈良時代、784年、第50代桓武天皇による長岡京(784ー794年)遷都に際して、「京内七大寺」筆頭となり、都鎮護の社として大増築された。
 785年、第49代光仁天皇皇子・早良(さわら)親王(桓武天皇実弟)は、藤原種継暗殺に関わったとして乙訓寺に幽閉されている。(『水鏡』)
 奈良時代の早良(さわら)親王(750-785、追号・崇道天皇)とは、第49代・光仁天皇と高野新笠の子に生まれた桓武天皇の実弟である。
 781年、第50代桓武天皇の即位に伴い、皇太子となった。
 桓武天皇とは同母兄弟で、早良親王が弟となる。
 785年、長岡京造宮長官・藤原種継が何者かに暗殺された。
 事件に連座し、早良(さわら)親王の天皇擁立計画があったとされた。
 皇太子を廃され、乙訓寺に幽閉される。
 親王は、淡路国に配流される途中、高瀬橋(守口市高瀬町)付近で、無実を訴え、絶食により憤死した。
 遺体は、都に戻されることはなく、淡路に葬られている。
 事件は、桓武天皇による早良親王排除の謀略であったといわれ、桓武天皇皇子・安殿親王(第51代平城天皇)が皇太子になっている。
 以後、桓武天皇周辺での死者が相次ぎ、都での天変地異、疫病の流行などが起こり、怨霊の祟りと畏れられた。

 これ以降、公家の間に怨霊問題が登場し、公家達を悩ますことになった。

 怨霊問題より、第50代桓武天皇は、794年(延暦13年)に平安京(へいあんきょう)遷都を行った。
 平安京(へいあんきょう)は、現在の京都市中心部に位置しており、1869年(明治2年)に政府が東京に移転してするまで首都機能をもった。

 遣唐使留学僧として唐へ渡った空海は、

 805年、青竜寺の恵果により両界、伝法阿闍梨の灌頂を受け、2年間後に帰国した。
 806年、大宰府・観音寺に住する。
 809年に入京する。
 810年の高雄山を経て、811年、乙訓寺に移り、約1年間任に当たった。
 空海が寺に迎えられたのは、自害した早良(さわら)親王の怨霊を鎮めるためだったともいわれている。
 812年10月27日(旧暦)、乙訓寺を訪れた天台宗開祖・最澄(767-822)は、空海と会っている。

空海と乙訓寺

 弘法大師が中国から持ち帰られた仏典は、最澄も驚くほど、これまで日本にないものばかりであった。
 嵯峨天皇は大師の新しい法に期待され、乙訓寺を鎮護国家の道場として整備された。
 大師はこの寺で仏典を研究される傍ら中国から持ち帰ったみかんの木を栽培されたり、狸の毛で筆を作ったりされた。
 みかんは当時、西域渡りの珍果であった。
 大師は
「沙門空海言さく。乙訓寺に数株の柑橘の樹あり。
 例により摘み取り、来らしむ。・・・」
 としたため、
「・・・よじ摘んで持てわが天子に献ず」
 の詩を添えて、嵯峨天皇に献上された(性霊集)。
 この史実に基づき、今、客殿前にはみかんの大樹がある。
 また「狸毛筆奉献帳(伝空海)」も醍醐寺に現存している。
 また毘沙門天像を刻んでは国家の豊楽を祈られている。

 引用先:http://www.eonet.ne.jp/~otokunidera/newkukai.html

案内板

■合体大師像(本尊)

 秘仏で、姿を拝することはできないが、この寺で永年、お参りの人々に授けられている厄除け札のお姿だと信じられている。
 古文書によると、空海が自分の姿を彫っていると、翁姿の八幡大神(大菩薩)が現れ、
「力を貸そう。協力して一体の像を造ろう」
 とお告げになり、八幡大神は大師をモデルに肩から下、大師は八幡大神をモデルに首から上をそれぞれ別々に彫った。
 出来上がったものを組み合わせると、寸分の狂いもなく、上下二つの像は合体したという。
 この像は制作縁起から「互為の御影」と語り伝えられ、八幡社は今の境内の一角にある。
 奈良時代末期より盛んになった本地垂迹(ほんじすいじゃく)思想・神仏同体説に基づく僧形八幡像といわれ、東寺、薬師寺、東大寺で同じような物が国宝に指定されていて、調査すれば国宝級のものと言われている。

合体大師像(本尊)の八幡社

八幡社

三輪明神

三輪明神

三輪明神

観音

観音

観音

第26代継体天皇の乙訓宮(おとくにのみや)以前の伝承

『日本書紀』の第11代垂仁天皇15年の条に、弟国の地名起源説話が載っている。

 それによれば、丹波国の日葉酢媛(ひばすひめ)は皇后になって、2人の妹は妃になります。あとひとり4番目の妹竹野媛はその容姿が醜かったので出生地の丹波国に返された、といいます。
 その途中、葛野(かどの)で自ら輿から落ちて死んでしまった。
 そこで、その土地が堕国(おちくに)と呼ばれるようになった。
 この地名がなまって弟国(おとくに)になったという。

 弟国はのちに乙訓(おとくに)に改まった。

 乙訓郡と呼ばれる地域は、葛野郡から分離して成立したもので、兄国に対する弟国と解するのが正しいとされている。
 その郡域は、東と南に桂川が流れ、西は摂津・丹波と国境を接し、北は大枝(おおえ)−樫原(かたぎはら)の線である。
 現在の長岡京市と向日市の全域、京都市西京区および南区、伏見区の一部もかつては乙訓郡に属した。
 延暦3年(784)、桓武天皇は長岡京(784ー794年)に遷都し、大内裏をはじめ条坊の建設も進められて、乙訓郡は脚光を浴びた。

 なにも継体天皇だけがこの地に都を営んだわけではない。

 長岡京市の今里というところに、乙訓寺(おとくにでら)という古代の郡名”弟国”を冠した寺がある。
 その寺の周辺には、弥生時代から古墳時代を通じて、この地域の拠点的な集落跡とされる今里遺跡がある。
 現在までのところ、今里遺跡からは継体天皇時代の宮居を思わすような掘立柱建物の遺構は発見されていない。
 しかし、7世紀代の豪族居館と見られる掘立柱建物が見つかっているため、この付近に弟国宮を想定することもあながち不可能ではない。
 乙訓寺は、現在は真言宗豊山派長谷寺の末寺であるが、長岡京遷都(784ー794年)の際に造宮長官藤原種継暗殺事件に関与したとして、延暦4年(785)に早良親王(さわらのみこ)が幽閉された寺として知られている。
 また、本山の長谷寺(奈良県桜井市初瀬)から移したボタンが4月下旬に大輪の花を咲かせまることでも知られている。この寺の周辺から「弟国」と書かれた土器も出土しているとのことだ。
『日本書紀』には、継体天皇の第6番目の妃として、茨田連小望(まむたのむらじこもち)の娘・関媛(せきひめ)の名を上げている。
 乙訓郡には、茨田神社がある。
 茨田連小望(まむたのむらじこもち)の娘は、この弟国に都を置いていた時に、妃に加えられたものと推定されている。
 弟国宮をこの地に営んだのも、あるいは茨田連と何か関係があるかもしれない。

 引用先:http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/2004_11_19.htm

「弟国宮」(おとくにのみや)があったとされる大慈山乙訓寺の地図