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筒城宮(つつきのみや)〜第26代継体天皇が西暦511年10月に遷宮
「筒城宮跡」(つつきのみや)参拝履歴
筒城宮(つつきのみや)〜第26代継体天皇が西暦511年10月に遷宮
平成24(2012)年7月28日(土)の朝5時(日本時間)から、第30回ロンドンオリンピックの開幕セレモニーが行われている。
その実況をラジオで聞きながら、6時15分に交野天神社の鳥居前の樟葉宮跡碑に着いた。
鳥居や石碑の写真撮影をして、6時25分には交野天神社に着いた。
筒城宮(つつき)(つつきのみや)に着いたのは8時前だった。
筒城宮(つつき)(つつきのみや)の参拝を終え、車に乗り込むと聖火がオリンピックスタジアムに入場しようかという場面であった。
ロンドンオリンピックの開幕式に合わせてどういう風に周れるか記録に残しておく。
511年10月、継体天皇は樟葉宮跡(現、貴船神社)から筒城宮へ遷宮
511年10月、継体天皇は樟葉宮跡(現、貴船神社)から筒城宮(つつきのみや)、現在の京都府京田辺市多々羅附近に遷宮します。
正確な場所はわかっていませんが、多々羅地区には「都谷」という地名があり、ちょうど同志社大学のキャンパスにあたるところです。
ここを「筒城宮」の推定地とする説はこれを根拠にしています。
碑は二つ建立されています。
もう一つの「継体天皇皇居故跡」碑は1928年に三宅清治郎によって建立された「安兵衛意志碑」で、これも移設されたものです。
「筒城宮址」は甘露寺受長、「継体天皇皇居故跡」は考古学者浜田清陵の筆になります。
当時朝鮮半島は動乱の様相にあり、軍事力の強化は倭国にとって最大の課題となっていたと考えることができます。
筒城宮が置かれた多々羅という地名は鉄を意味しており、この附近が鉄の産地又は鉄の精製に関わりがあったことが推測されます。またこの地域は木津川に面し、その水利権を押さえ、かつ軍事面でも継体天皇にとって欠かせない要地であったのかもしれません。
この地はまた継体の出自とされる息長氏や神功皇后伝説と関係の深い場所でもあります。
正確な場所はわかっていませんが、多々羅地区には「都谷」という地名があり、ちょうど同志社大学のキャンパスにあたるところです。
ここを「筒城宮」の推定地とする説はこれを根拠にしています。
この附近は、現在同志社大学のキャンパス設置のため、大々的に造成されかつての丘陵の姿は変貌を遂げています。
「筒城宮址」の石碑は、同志社大学キャンパス内の正門に近い丘にあり、説明板も用意されています。
碑は二つ建立されています。
「筒城宮址」碑は、京田辺市郷土史会が1961年に筒城宮跡を顕彰するために建てた石碑で、当初は現在の同志社国際高校の敷地内に建てられましたが、後にこの場所に移設されたものです。
もう一つの「継体天皇皇居故跡」碑は1928年に三宅清治郎によって建立された「安兵衛意志碑」で、これも移設されたものです。
「筒城宮址」は甘露寺受長、「継体天皇皇居故跡」は考古学者浜田清陵の筆になります。
遷宮の理由はもちろんわかっていません。
当時朝鮮半島は動乱の様相にあり、軍事力の強化は倭国にとって最大の課題となっていたと考えることができます。
筒城宮が置かれた多々羅という地名は鉄を意味しており、この附近が鉄の産地又は鉄の精製に関わりがあったことが推測されます。またこの地域は木津川に面し、その水利権を押さえ、かつ軍事面でも継体天皇にとって欠かせない要地であったのかもしれません。
この地はまた継体の出自とされる息長氏や神功皇后伝説と関係の深い場所でもあります。
引用先:http://okhome.fc2web.com/inves/keitai/keitai002.html
説明板・・
「筒城宮址」碑(1961年設置)と「継体天皇皇居故跡」碑(1928年設置)の前に
向かって右から 「筒城宮址」碑(1961年設置)
向かって右から2番目 「継体天皇皇居故跡」碑(1928年設置)
向かって右から3番目(左から3番目)
向かって右から4番目(左から2番目)
向かって右から5番目(左から1番目)
第16代仁徳天皇皇后「磐之媛(いわのひめ)」も、この地に住んだ
立札によると、第16代仁徳天皇皇后「磐之媛(いわのひめ)」も、この地に住んだという。
「磐之媛(いわのひめ)」は葛城山系の東麓、大和側に勢力を誇っていた葛城氏の娘で、四王子を生み、うち三人(履中、反正、允恭)が天皇になった。
皇后の留守中に天皇はついに、八田皇女を娶って宮に入れられた。
皇后は難波(なにわ)の渡りまで帰ってこられたところで、このことを聞かれて、大変お恨みになった。
そして、持ち帰られた御綱葉を海に投げ入れて、岸に船を着けようとされなかった。
天皇は皇后が怒っているのを知らず、自ら難波津に出て、皇后の船をお待ちになった。皇后は難波津に船を着けず、更に川をさかのぼって山背(やましろ)より廻って倭(やまと)に出られた。
翌日、天皇は舎人(とねり)を遣わして、皇后を連れ帰らせようとされた。皇后は帰ろうとせず、奈良の山を越えて葛城を望んで、
そして山背に戻り、筒城岡の南に宮を造って住まわれた。
天皇は臣を遣わして、皇后に帰るよう申し上げさせたが、黙って返答されなかった。臣は雨にぬれ、一晩中、御殿の前に伏して退出しようとしなかった。
その妹で、皇后の側に侍す国依姫は、兄が雨にぬれるのを見て涙を流して、
「筒城宮で、皇后に物を申し上げようとしている兄を見ると、かわいそうで涙ぐんでしまう」
と詠んだ。
皇后が、おまえはなぜ泣くのかと問われたので、
「今、庭に伏して居りますのは、私の兄です。雨にぬれても下がらず、伏したまま、お目にかかろうとしています。ですから私は泣いているのです」
と申し上げた。
皇后は、
「おまえの兄に言って、早く帰らせなさい。私は金輪際、帰らない」
とおっしゃった。
臣は帰って、天皇にその旨を申し上げた。
十一月に、天皇は川をさかのぼり、山背に行幸された。
時に、桑の枝が水に従って流れているのご覧になって、
翌日、筒城宮に参られたが、皇后は会おうとされなかった。
その時、天皇は次の歌をお詠みになった。
「陛下は八田皇女を入れて妃とされました。私はその皇女に副って、皇后で居りたくありません」
と申し上げた。
天皇は、皇后が大変立腹されているのをお恨みになった。
「磐之媛(いわのひめ)」は葛城山系の東麓、大和側に勢力を誇っていた葛城氏の娘で、四王子を生み、うち三人(履中、反正、允恭)が天皇になった。
■ 日本書紀巻第十一・仁徳天皇に、淀川流域を舞台にした物語が載っている。
仁徳30年の秋、「磐之媛(いわのひめ)」は紀国においでになり、熊野岬で祭祠用に御綱葉(みつなかしば:三角葉)を採取して帰ってこられた。皇后の留守中に天皇はついに、八田皇女を娶って宮に入れられた。
皇后は難波(なにわ)の渡りまで帰ってこられたところで、このことを聞かれて、大変お恨みになった。
そして、持ち帰られた御綱葉を海に投げ入れて、岸に船を着けようとされなかった。
天皇は皇后が怒っているのを知らず、自ら難波津に出て、皇后の船をお待ちになった。皇后は難波津に船を着けず、更に川をさかのぼって山背(やましろ)より廻って倭(やまと)に出られた。
翌日、天皇は舎人(とねり)を遣わして、皇后を連れ帰らせようとされた。皇后は帰ろうとせず、奈良の山を越えて葛城を望んで、
難波の宮を通り過ぎ、山背川をさかのぼると奈良を過ぎ、倭を過ぎ、
私の見たいと思う国は葛城の高宮の我が家のあたり
とお詠みになった。そして山背に戻り、筒城岡の南に宮を造って住まわれた。
天皇は臣を遣わして、皇后に帰るよう申し上げさせたが、黙って返答されなかった。臣は雨にぬれ、一晩中、御殿の前に伏して退出しようとしなかった。
その妹で、皇后の側に侍す国依姫は、兄が雨にぬれるのを見て涙を流して、
「筒城宮で、皇后に物を申し上げようとしている兄を見ると、かわいそうで涙ぐんでしまう」
と詠んだ。
皇后が、おまえはなぜ泣くのかと問われたので、
「今、庭に伏して居りますのは、私の兄です。雨にぬれても下がらず、伏したまま、お目にかかろうとしています。ですから私は泣いているのです」
と申し上げた。
皇后は、
「おまえの兄に言って、早く帰らせなさい。私は金輪際、帰らない」
とおっしゃった。
臣は帰って、天皇にその旨を申し上げた。
十一月に、天皇は川をさかのぼり、山背に行幸された。
時に、桑の枝が水に従って流れているのご覧になって、
磐之姫は並大抵のことではお聞き入れにならない私の心恋(うらごひ)の木、
その末桑(うらぐわ)の木が近寄ることの出来ない河の曲り角にあちこち寄っては流れ、寄っては流れて行くその末桑の木が
とお詠みになった。翌日、筒城宮に参られたが、皇后は会おうとされなかった。
その時、天皇は次の歌をお詠みになった。
山背女が木の鍬で掘り起こした大根、その大根の葉がざわつくように、
ざわざわとあれこれ貴女が言われるからこそ、見渡すむこうにある木の茂るように大勢の人を引き連れて貴女に会いに来たものを
皇后は人を介して、「陛下は八田皇女を入れて妃とされました。私はその皇女に副って、皇后で居りたくありません」
と申し上げた。
天皇は、皇后が大変立腹されているのをお恨みになった。
仁徳35年夏、磐乃媛は筒城宮で亡くなった。
御陵は、奈良市佐紀町の佐紀ヒシアゲ古墳である。引用先:http://www.ne.jp/asahi/hayashi/love/ydo10.htm
「筒城宮(つつきのみや)」の地図
今は同志社大学田辺キャンパスになっている。
正門からみえる目前の丘が宮跡。
正門からみえる目前の丘が宮跡。
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