狭井河之上顕彰碑(さいがはのほとり)【1】ここだけは紹介しておきたい!|奈良県

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奈良県桜井市茅原の狭井神社の北( いつもNAVIによる広域地図
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 三種神宝の分離祭祀が始まった第10代祟神天皇の御世の史跡を中心に

史貴御県坐神社第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮碑大神神社の摂社の檜原神社
第11代垂仁天皇の珠城宮碑穴師坐兵主神社(通称・大兵主神社)相撲神社第12代景行天皇の纒向日代宮碑
大和神社大和神社の摂社の高龗神社渟名城入姫神社
第10代 祟神天皇陵第12代 景行天皇陵狭井河之上顕彰碑

 三輪山登山

大神神社天皇社神坐日向社(みわにいますひむかい)
狭井神社三輪山山頂の高宮神社(こうのみや)高宮神社(こうのみや)の東にある三輪山山頂の奥津磐座

神武天皇 狭井河之上顕彰碑(さいがはのほとり)

神武天皇 狭井河之上顕彰碑(さいがはのほとり)

 最初の訪問は、平成12(2000)8月1日(火)だった。
 朝露に濡れた檜原神社を参拝後、天香具山に向かう途中で見つけたのだ。
 その後、神武天皇顕彰碑が19箇所あることを知って写真に納めはじめ、今回平成24(2012)年5月5日(土)の参拝の写真で奈良県は最後になった。
 → 19箇所の「神武天皇聖蹟顕彰碑」はこちら
 神武天皇が第6代大物主櫛甕玉命の妹と出会われたことを読んだ歌碑だ。
 背景が三輪山。

神武天皇 狭井河之上顕彰碑(さいがはのほとり)

狭井河之上顕彰碑(さいがはのほとり)

【10】橿原宮の造営と后の選定

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十九〔武仁大和討ちの紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P240-242 )
  末(すゑ)治(おさ)まれば  
筑紫(つくし)より 上(のぼ)る天種子命(たねこ)と  
大物主命(ものぬし)に 「都(みやこ)遷(うつ)さん  
国見(くにみ)よ」と 勅(みこと)お受(う)けて  
巡(めぐ)り見(み)る 「橿原(かしはら)よし」と  
申(もふ)すとき 君(きみ)も思(をも)ひは  
同(おな)じく 天富命(あめとみ)おして 『古語拾遺』に、「仍りて、天富命<太玉命が孫なり>をして、手置帆負・彦狭知の二柱の神が孫を率て、斎斧・斎鉏を以って、始めて磐根に宮柱ふとしり立て、高天原に千木高りし、皇孫命のみづの御殿を造り仕え奉れるなり」。
『先代旧事本紀』巻七「天皇本紀」神武天皇即位前己末年三月の条に・・
『記紀』に天富命の記述は見られない。
天富命が神武天皇より忌部の姓を賜ったことが、三十紋〔30-5〕にみえるが、忌部(斎部)は、鏡・玉矛・盾・木綿・麻・神殿などを造るのを職とした。
宮(みや)造(つく)り 后(きさき)立(た)てんと  
諸(もろ)に問(と)ふ 宇佐津彦(うさつ)が申(もふ)す  
「事代主命(ことしろ)が 玉櫛姫(たまくしひめ)と生(う)む  
姫(ひめ)蹈鞴(たたら) 五十鈴姫(ゐそすずひめ)は  
国(くに)の色(いろ) 阿波宮(あはみや)に坐(ま)す  
これよけん」 天皇(すめらぎ)笑(ゑ)みて  
后(きさき)とす 事代主命(ことしろぬし)お  
恵美須神(ゑみすかみ) 孫(まご)の櫛根命(くしね)お  
県主(あがたぬし) 社(やしろ)造(つく)らせ  
メの二十日 祭(まつ)る大三輪(おおみわ) 「メ」は、「メ月」の節略。 「メ月」は、他の箇所に載るその記述と『紀』の記述を比べると10月に相当すると考えられるが、確証を欠くので、本文・口語訳ともにしばらくカタカナ名で表記する。
神奈備(かんなみ)ぞ 神(かん)よりに名(な)も  
神日本(かんやまと) 磐余彦(いわわれひこ)の  
天君(あまきみ)と あまねく触(ふ)れて  
年サナト 橿原宮(かしはらみや)の 天鈴(あすず)58年
初年(はつとし)と 見よ神武仁尊(かんたけ)の  
大いなるかな    

三輪山の全体図

三輪山の詳細な地図

三輪山の周辺の地図  

三輪山から大和三山