第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮伝承地(しきのみずかきのみや)【1】ここだけは紹介しておきたい!|奈良県

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奈良県桜井市金屋( いつもNAVIによる広域地図
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 三種神宝の分離祭祀が始まった第10代祟神天皇の御世の史跡を中心に

史貴御県坐神社第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮碑大神神社の摂社の檜原神社
第11代垂仁天皇の珠城宮碑穴師坐兵主神社(通称・大兵主神社)相撲神社第12代景行天皇の纒向日代宮碑
大和神社大和神社の摂社の高龗神社渟名城入姫神社
第10代 祟神天皇陵第12代 景行天皇陵狭井河之上顕彰碑

 三輪山登山

大神神社天皇社神坐日向社(みわにいますひむかい)
狭井神社三輪山山頂の高宮神社(こうのみや)高宮神社(こうのみや)の東にある三輪山山頂の奥津磐座

第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮伝承地(しきのみずかきのみや)

第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮伝承地(しきのみずかきのみや)

第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮伝承地

◆参拝履歴◆

訪問日:平成24(2012)年5月5日(土)

第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮伝承地(しきのみずかきのみや)

第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮伝承地

第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮伝承地

第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮伝承地(しきのみずかきのみや)

磯城瑞籬宮伝承地(しきのみずかきのみや)

第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮伝承地(しきのみずかきのみや)推定地

 史貴御県坐神社の拝殿の前の庭の西側に、「第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮の跡地であることを示す石標」が建っている。
 実際の宮跡はこの神社の境内ではなく、境内の西側にある天理教会の建物とその北隣りの三輪小学校のあたりにあったと推定されている。
 三輪山周辺地図大和三山と三輪山の地図

三輪山周辺

三種神宝が別々の祭られ始めた端緒は、崇神4(天鈴624)年10月23日の勅命

 三種神宝が別々の祭られ始めた端緒が、崇神4(天鈴624)年10月23日の勅命でした。

 崇神1年、天鈴621(紀元前97)年第10代崇神天皇の即位。
 崇神3年に新都として史貴御県坐神社の西側にある第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮伝承地(しきのみずかきのみや)。

 第10代崇神天皇の御世まで、国常立尊は神璽(かんをして)を神依代として、天照神は八咫鏡を神依代として、大国魂神は八重垣剣(叢雲剣)を神依代として宮中で祭られていました。
 崇神4(天鈴624、紀元前94)年10月23日の勅命によって、豊耜入姫が天照神を笠縫に祭り、渟名城姫が大国魂神を山辺の里に祭り始めました。

 崇神4(天鈴624、紀元前94)年とは、神武天皇のときに集まった三種神宝が、分離した年です。
 神武天皇の即位は「神の世の事柄を一応岩戸に隠されて人皇」として即位されたものなので、大きな岩戸閉めでした。
 第10代崇神天皇4(天鈴624、紀元前94)年の三種神宝の分離祭祀とは、「神の代」から「人の代」へ移ったことの象徴となる出来事といっていいかもしれません。

 三種神宝の分離を決定した宮が、第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮伝承地(しきのみずかきのみや)です。

 崇神4(天鈴624)年10月23日の勅命によって、豊耜入姫が天照神を笠縫に祭り、渟名城姫が大国魂神を山辺の里に祭り始めました。
 崇神5年に疫病が流行り、半数近くの人民が死に絶えます。
 崇神6年に民が離散し始めます。
 そこで、崇神6(天鈴626)年9月16日夜、大国魂神を大和神社へ遷宮し、崇神6(天鈴626)年9月17日夜、天照神を檜原神社(ひばら)へ遷宮します。

 崇神7(天鈴627)年の第2代大物主の奇彦命の神託によって、
 崇神7(天鈴627)年10月1日、大直根子命が大三輪神の斎主、長尾市命(ながおいち)が大国魂神の斎主に任命されました。
 第2代大物主の奇彦命の神託による変更点は、大国魂神の斎主が渟名城姫から長尾市命(ながおいち)に替わったこと。
 第2代大物主の奇彦命の神託の新しい点は、大三輪神の斎主として大直根子命が選任されたこと。
 第2代大物主の奇彦命の神託の変わらなかった点は、豊耜入姫が天照神を笠縫に祭ること。( → 檜原神社

『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の三十三〔神祟め疫病治す紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P374-393 )

三穂(みほ)九月(なづき) 磯城(しぎ)瑞籬(みづがき)に 崇神3年、天鈴623年9月。
「磯城」は、奈良県磯城郡。
「瑞籬」は、『大和志』によると「古蹟在三輪村東南、志紀御県神社西」と見える。
現在の奈良県桜井市金屋付近のこと。
第10代崇神天皇 磯城瑞籬宮伝承地の史貴御県坐神社がある。
実際の宮跡はこの神社の境内ではなく、境内の西側にある天理教会の建物とその北隣りの三輪小学校のあたりにあったと推定されている。
新都(にいみやこ) 四穂(よほ)メ二十三日(すえみか) 崇神4年、天鈴624年10月23日
勅(みことのり) 「御祖(みをや)の授(さづ)く  
三種(みぐさ)もの 国常立尊(くにとこたち)は 神璽 → 国常立尊の依代
神璽(かんをして) 天照神(あまてるかみ)は 八咫鏡 → 天照神の依代
八咫鏡(やたかがみ) 大国魂神(おおくにたま)は 八重垣剣(叢雲剣) → 大国魂神の依代
八重垣剣(やゑがき)と 常に祭りて 「八重垣剣」とは叢雲剣のことか?
『秀真伝』(御機27−27)「この叢雲剣は 生れませる 御子の祝いに ささげよ」と第5代大物主の蕗根命が第6代櫛甕玉命(鰐彦)に託す。
『秀真伝』(御機27−32)「八重垣剣は鰐彦に 授くお姫が 預かりて 別雷宮に 納め置く」
倭姫が御杖代になったとき、八咫鏡と叢雲剣(八重垣剣)を捧持され、伊勢の地にもたらされた。
身(み)と神(かみ)と 際(きは)遠(とほ)からず  
殿床(とのゆか)も 器(うつわ)もともに  
住(す)み来(きた)る やや稜威(いづ)恐(おそ)れ  
安(やす)からず 天照神(あまてるかみ)は  
笠縫(かさぬひ)に 豊耜入姫(とよすき)に 崇神4年、天鈴624年10月23日の勅命。
豊耜入姫が檜原神社(ひばら)で天照神(八咫鏡)を祀る。
その後、天照神(八咫鏡)は倭姫の手によって伊勢の地に遷された。
祭(まつ)らしむ 大国魂神(おおくにたま)は  
渟名城姫(ぬなぎひめ) 山辺の里に 崇神4年、天鈴624年10月23日の勅命。
渟名城姫が大和神社で大国魂神(八重垣剣)を祀る。
祭(まつ)らしむ 石凝留命(いしこりどめ) 石凝留命の孫に、鏡を造らせ複製を宮中に留める
孫(まご)鏡 天目一箇神(あめひとかみ)の 天目一箇神の孫に、剣を造らせ複製を宮中に留める。
孫(まご)剣 さらに造(つく)らせ  
天照(あまて)らす 神(かみ)の璽(をして)と 天照神の顕された神璽(国常立尊)は、複製が造られることなく、そのまま宮中に留め置かれた。
この三種(みぐさ) 天(あま)つ日嗣(ひつき)の 崇神4(天鈴624)年に複製された八咫鏡と八重垣剣、複製されることがなかった天照神の顕された神璽(国常立尊)が三種神宝。
神宝(かんたから)」 五年(ゐとし)疫病(ゑやみ)す 崇神5年、天鈴625年。
疫病が流行り、半数近くの人民が死に絶えた。
半(なか)ば枯(か)る 六年(むとし)民(たみ)散(ち)る 崇神6年、天鈴626年。
民の離散。
勅(ことのり)に 治(た)し難(がた)し枯(か)れ  
つとに起(お)き 罪(つみ)神(かみ)に請(こ)ふ  
二宮(ふたみや)お 新(さら)に造(つく)らせ  
六年(むとせ)秋(あき) 大国魂(おおくにたま)の 崇神6(天鈴626)年秋
神遷(かみうつ)し 九月(なつき)十六日夜(そむかよ) 崇神6(天鈴626)年9月16日夜、
大国魂神の宮遷し、
大和神社
明日(あす)の夜(よ)は 天照神(あまてるかみ)の  
宮遷(みやうつ)し 豊(とよ)の明(あか)りの 崇神6(天鈴626)年9月17日夜、天照神の宮遷し、
→ 檜原神社(ひばら)へ。
色(いろ)もよく いざとも神(かみ)は  
降(くだ)ります イロのツズ歌  
いざ遠(とほ)しゆきのよ  
ろしも大夜(おほよ)すがらも  
七穂(なほ)二月(きさら) 三日(みか)勅(みことのり) 崇神7(天鈴627)年2月3日
「わが御祖神(みをや) 開(ひら)く基(もとひ)は  
盛(さか)んなり わが世に当(あた)り  
汚穢(おえ)あるは 祭(まつ)り届(とど)かぬ  
咎(とが)めあり 蓋(けだ)し極(きわ)めて  
寄(よ)るなり」と 朝日(あさひ)の原(はら)に 朝日原(真名井原)
行幸(みゆき)して 八百万神(やもよろ)招(まね)く  
湯の花の 百襲姫(ももそひめ)して 「湯の花」とは湯立ての神事
宣(のり)ごちに サツサツズ歌(うた)  
去る民(たみ)もツズにま  
つらで汚穢(おゑ)に乱(みだ)るさ  
君(きみ)問(と)ふて 「かく教(をし)ゆるは  
誰(た)れ神(かみ)ぞ」 答えて「われは  
国(くに)つ神(かみ) 大物主命(おおものぬし)ぞ」 三輪山に祭られている。
ここでいう大物主は、大物主の奇杵命・奇彦命・蕗根命・櫛甕玉命のどちらであろうか?
三輪山の祭祀の始まりが、奇彦命が三輪山で神上がったことに求められるとすれば、ここの大物主命は奇彦命であろう。
君(きみ)祭(まつ)る こと兆(しるし)無(な)し  
斎浴(ゆあ)びして 清(すが)に祈(いの)りて  
告(つ)げ申(もふ)す 「われ敬(うやま)えど  
受(う)けざるや」 この夜(よ)の夢(ゆめ)に  
「われはこれ 大物主(おおものぬし)の  
神(かみ)なるが 君(きみ)な憂(うれ)ひぞ  
治(た)せざるは わが心(こころ)あり  
わが裔(はつこ) 大直根子(おおたたねこ)に 大御毛主命の孫か?
大御毛主命のあとをうけ、『秀真伝(ほつまつたゑ)』29紋から40紋までを書き加えた全紋の撰者。
祭(まつ)らさば 等(ひと)しく均(なれ)て  
外国(とつくに)も まさに服(まつら)ふ」  
八月(はつき)七日(なか) 迹速命(とはや)が茅原(ちはら) 崇神7(天鈴627)年8月7日
眼妙姫(めくはしめ) 大水口命(おおみなくち)と  
伊勢麻績命(いせをうみ) 三人(みたり)帝(みかど)に 三人が同じ夢を見た。
迹速命の娘・茅原眼妙姫
大水口命
伊勢国の麻績命
告(つ)げ申(もふ)す 「夢(ゆめ)に神(かみ)あり  
大直根子命(たたねこ)お 大物主神(おおものぬし)の 三輪山に祭られている。
ここでいう大物主は、大物主の奇杵命・奇彦命・蕗根命・櫛甕玉命のどちらであろうか?
三輪山の祭祀の始まりが、奇彦命が三輪山で神上がったことに求められるとすれば、ここの大物主命は奇彦命であろう。
斎主(いわいぬし) 磯長尾市命(しながおいち)お 市磯長尾市とは、神武東征のとき水先案内を勤め、即位後、大倭国造に任ぜられた椎根津彦(シイネツヒコ・神知津彦-カミシリツヒコ・宇豆彦-ウズヒコともいう)の子孫で、大倭直氏(大和連・大和宿禰)の祖とされる。
新撰姓氏禄には、「大和国神別(地祇) 大和宿禰 神知津彦命より出ず
(神武の水先案内を務めたとの記事の後に)天皇之を嘉し、大倭国造に任ず。是大倭直の始祖也」
「摂津国神別(地祇) 大和連  神知津彦命十一世孫御物足尼之後也」
が見える。
大倭直氏は奈良時代を通じて当社の祭祀を司ったが、平安時代には衰微し、中世になると史上から消えたという。
大日本(おほやまと) 国魂神(くにたまかみ)の 大日本国魂神とは第2代大物主・奇彦命に与えられた尊称であるが、崇神天皇のとき大日本国魂神が奇彦命とは別の神格をもって現れたようだ。
天之逆矛の神格化を大日本国魂神と捉えておく。
神代の昔、奇彦命が天之逆矛をもって三輪山で神上がられたが、時を経て、天之逆矛が神格化されて現れてきたのだ。
斎主(いわいぬし) なさば平(む)けべし」  
君(きみ)これに 夢(ゆめ)合(あ)わせして  
触(ふ)れ求(もと)む 大直根子命(おおたねこ)お  
茅渟陶村(ちぬすゑ)に ありと告(つ)ぐれば  
君(きみ)やぞと 茅渟(ちぬ)に行幸(みゆき)し 茅渟は和泉国一帯の古称。
陶村は和泉国大島郡陶器荘。
現在の大阪府堺市東南部、陶器山からその西方にかけての地。
『延喜式神名帳』に「大島郡陶荒田神社」がみえる。
大直根子命(おおたたねこ)に 「誰(た)が子(こ)ぞ」と問ふ  
答えには 「昔(むかし)大物主(ものぬし) 大物主の子守神のこと。
陶津耳命(すえすみ)が 活玉依姫(いくたま)と生む 活玉依姫は子守神の后
大物主(ものぬし)の 大三輪神(おおみわかみ)の ここの大物主は子守神の子の第4代大物主の神立命のこと。
大三輪神とは、第6代大物主の櫛甕玉命のことか?
裔(はつこ)なり」 君(きみ)栄(さか)えんと  
楽(たの)しみて 伊木色雄命(いきしこお)して  
占(うらな)わす これまことよし  
よそ神(かみ)お 問(と)えば太占(ふとまに)  
占(うら)悪(わる)し メ月(つき)初日(はつひ)に 崇神7(天鈴627)年10月1日
「メ月」は、他の箇所に載るその記述と『紀』の記述を比べると10月に相当すると考えられるが、確証を欠くので、本文・口語訳ともにしばらくカタカナ名で表記する。
伊木色雄命(いきしこを) 八十瓮(やそひらか)なし  
これお以(も)て 大直根子命(おおたたねこ)お  
斎主(いわひぬし) 大三輪(おおみわ)の神(かみ)  
長尾市命(ながおいち) 大国魂神(おおくにたま)の  
斎主(いわひぬし) あまねく触(ふ)れて  
神(かみ)崇(あが)め 神名文(かみなふみ)なす 「神名文」とは後の神名帳の原型
神部(かんべ)して 八百万神(やもよろかみ)お  
祭(まつ)らしむ 疫病(ゑやみ)平(む)け癒(い)え  
ゾロ稔り 民(たみ)豊(ゆた)かなり 「ゾロ」稲および畑の穀物

第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮伝承地(しきのみずかきのみや)の周辺地図

三輪山の周辺の地図  

大和三山と三輪山の周辺地図

大和三山と三輪山