白鳳伝説の日本武尊陵(羽曳野市軽里)【1】ここだけは紹介しておきたい!|大阪府

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大阪府羽曳野市軽里( いつもNAVIによる広域地図
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 平成23(2011)年8月15日(月)、第16代仁徳天皇陵、第一次天孫降臨の2番目の降臨場所

第16代 仁徳天皇陵(大仙山古墳)第15代 応神天皇陵第14代 仲哀天皇陵日本武尊陵
磐舟神社高貴寺

 日本武尊の三つの御陵

能褒野王塚古墳(三重県亀山市)日本武尊琴引原白鳥陵(奈良県御所市)日本武尊陵(大阪府羽曳野市)

木の枝に白鳳の4つの羽根が落ちていた白鳳伝説の日本武尊陵(羽曳野市軽里)

参拝履歴

木の枝に白鳳の4つの羽根が落ちていた白鳳伝説の日本武尊陵(羽曳野市軽里)

白鳳伝説の日本武尊陵(羽曳野市軽里)

 ヤマトタケルが歿した能褒野の地とされる三重県北部には、ヤマトタケルの墓とされる古墳(白鳥陵)がいくつかあった。
 その中でも鈴鹿市加佐登の「白鳥塚」と呼ばれる円墳が最有力とされていたが、1879年(明治12年)、内務省は亀山市田村町の「丁字塚」と呼ばれる前方後円墳(能褒野王塚古墳)をヤマトタケルの墓に治定し、「能褒野陵」と命名した。
 能褒野陵は全長約90メートル、高さ約9メートルで、三重県北部最大の前方後円墳である。
 1895年(明治28年)、能褒野墓の隣接にヤマトタケルを祀る能褒野神社が創建された。
 その他、白鳥陵が、『日本書紀』に即して日本武尊陵(大阪府羽曳野市の軽里大塚古墳)日本武尊琴引原白鳥陵(奈良県御所市)に比定される。
 また、ヤマトタケルの息子の創始とされる建部大社(滋賀県大津市)や、白鳥と化したヤマトタケルが最後に降り立った地に建てられたとされる大鳥大社(大阪府堺市西区)の主祭神として祀られる。
 どちらもその国の一宮とされる。
 なお、大鳥神社(鷲神社)は各地にあり、大鳥大社はその本社とされる。

白鳳伝説の日本武尊陵(羽曳野市軽里)

白鳳伝説の日本武尊陵(羽曳野市軽里)

ご祭神

日本武命

【2】息吹神の大蛇、日本武尊の能褒野での神上がり

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の四十〔熱田神世お辞む紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P586-591 )
日本武尊(やまとたけ) 荒(あら)ぶる神(かみ)の  
あるお聞(き)き 剣(つるぎ)解(と)き置(お)き  
軽(かろ)んじて 行(ゆ)き過(す)ぐ道(みち)に  
息吹神(いぶきかみ) 大蛇(をおろち)なして 息吹山の神であろうか
横(よこ)たわる 神(かみ)とは知(し)らず  
日本武尊(やまとたけ) 大蛇(をおろち)に曰(いわ)く  
「これ汝(なんじ) あれかた神(かみ)の 「あれかた」おおよそ、あらかた、の義
使(つか)ひなり あに求(もと)むるに  
足(た)らんや」と 踏(ふ)み越(こ)え行(ゆ)けば  
息吹神(いぶきかみ) 氷立(つらら)降(ふ)らして  
光(か)お奪(うば)ふ 強(し)いて凌(しの)ぎて  
押(お)し歩(あゆ)み わずか出(い)で行(ゆ)く  
心(こころ)酔(ゑ)ひ 燃(も)ゆるごとくに  
熱(あつ)ければ 泉(いずみ)に冷(さ)ます  
醒泉(さめがゐ)や 御足(みあし)痛(いた)むお 滋賀県坂田郡米原町に「醒井」の地名がある
やや悟(さと)り 尾張(おはり)に帰(かえ)り  
宮簀姫(みやづめ)の 家(ゐゑ)に入(い)らずて  
伊勢(いせ)の道(みち) 尾津(おづ)の一松(ひとまつ)  『倭名類聚鈔』に伊勢国桑名郡尾津郷がみえ、『延喜式』に尾津神社が載る。
 現在の三重県桑名郡多度度町戸津か
これ昔(むかし) 秀真(ほつま)下(くだ)りの  
御饗時(みあえどき) 解(と)き置(お)く剣(つるぎ)  
松(まつ)の根(ね)に 置(お)き忘(わす)れしが  
永(なが)らえり 故(かれ)に挙(あ)げ歌(うた)  
置忘(おわす)れど 直(ただ)に迎(むか)える  
一(ひと)つ松(まつ) あはれ一松(ひとまつ)  
人(ひと)にせば 衣(きぬ)着(き)せましお  
太刀(たち)佩(は)けましお 荒(あら)ぶる神(かみ)の  
いささに 慰(なぐさ)み行(ゆ)けど  
足(あし)痛(いた)み 三重(みゑ)に曲(まが)れば  
三重村(みゑむら)ぞ 杖突(つえつ)き坂(さか)も  
やや越(こ)えて 能褒野(のぼの)に痛(いた)み  三重県鈴鹿市地方から、鈴鹿郡鈴峰村、亀山市東部にかけての野。
 能褒野王塚古墳(のぼの)能褒野神社(のぼの)がある。
重(おも)ければ 虜(とりこ)五人(ゐたり)お  
宇治(うじ)に遣(や)り 大鹿島命(かしまみこと)の  
添(そ)え人(びと)ぞ 吉備武彦命(きびたけひこ)は  
都路(みやこぢ)え 上(のぼ)せ申(もふ)さく  
「その文(ふみ)に 『花彦(はなひこ)申(もふ)す  
臣(しん)六人(むたり) 勅(みこと)お受(う)けて  
秀真(ほつま)討(う)ち 天(あめ)の恵(めぐ)みと  
厳(いづ)により 荒(あら)ぶる神(かみ)も  
服(まつろ)えば 悉(ふつ)く治(をさ)めて  
今(いま)ここに 帰(かえ)れば命(いのち)  
夕(ゆふ)尽(つ)く日(ひ) 請(こ)い願(ねが)わくば  
いつの日(ひ)か 勅(みこと)返(かえ)さん  
野(の)に伏(ふ)して 誰(だれ)と語(かた)らん  
惜(おし)むらく 真見(まみ)ゑぬことよ  
天(あめ)の宣(のり)かな』    
文(ふみ)止(と)めて 君(きみ)曰(のたまわ)く『われ  
東西(きつ)お平(む)け 事成(ことな)れば身(み)お  
亡(ほろ)ぼせる 彼(かれ)ら休(やす)ます  
日(ひ)も無(な)き』と 七掬脛(なつかはぎ)して  
花(はな)降(ふり)お みな分(わ)け賜(たま)ひ  
歌(うた)詠(よ)めば 熱田(あつた)の神(かみ)と  
早(はや)成(な)ると 斎浴(ゆあ)み衣(は)お替(か)え  
南(さ)に向(むか)ひ 人身(ひとみ)辞(いな)むの  
歌(うた)はこれぞと    
熱田宣(あつたの)り    
辞(いな)むとき 東西(きつ)の鹿路(しかじ)と 「鹿路」天皇の命を受けた勅使として歩んだ道
親(たらちね)に 仕(つか)え満(み)てねど  
精奇城(さこくしろ) 神(かみ)の八手(やて)より  天上高天原の精奇城宮に鎮座する、トホカミヱヒタメ八神の八つの手に他ならない。
道(みち)受(う)けて 生(う)まれ楽(たの)しむ  
帰途(かえさ)にも 誘(いざな)ひ千鳥(ちど)る  
懸橋(かけはし)お 登(のぼ)り霞(かすみ)の  
楽(たの)しみの 雲居(くもゐ)に待(ま)つと  
人(ひと)に答(こた)えん    
百度(もも)歌(うた)ひ ながら目(め)お閉(と)ぢ  
神(かみ)となる なす事(こと)なくて  
営(いとな)みす」 歌(うた)は尾張(おはり)え  
吉備命(きび)上(のぼ)り 文(ふみ)捧(ささ)ぐれば  
天皇(すべらぎ)は 心(ゐ)も安(やす)からす  
味(あぢ)あらず ひねもす嘆(なげ)き  
曰(のたまわ)く 「昔(むかし)熊襲(くまそ)が  
背(そむ)きしも また総角(あげまき)に  
平(む)け得(ゑ)たり 真手(まて)に侍(はべ)りて  
助(たす)けしに 秀真国(ほつま)お討(う)たす  
人(ひと)無(な)きお 忍(しの)びて仇(あだ)に  
入(い)らしめば 明(あ)け暮(くれ)帰(かえ)る  
日(ひ)お待(ま)つに こはそも何(なん)の  
災(わざわ)ひぞ 縁(ゆぐり)も無(な)くて  
あから召(め)す 誰(だれ)臣業(とみわざ)お 「あから」急に
治(をさ)めんや」 諸(もろ)に宣(のり)して  
神(かみ)送(おく)り    

【3】白鳳(しらいとり)と化した日本武尊

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の四十〔熱田神世お辞む紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P591-592 )
  時におもむろ  
化(な)る鳳(いとり) 出(い)づれば諸(もろ)と  
御陵(みささぎ)の 御棺(みひつ)お見(み)れば  
冠(かんむり)と 笏(さく)と御衣裳(みはも)と  
留(とど)まりて 空(むな)しき抜殻(から)の  
白鳳(しらいとり) 追(お)ひ尋(たづ)ぬれば  
大和国(やまとくに) 琴弾(ことひ)き原に  奈良県御所市冨田に白鳥御陵がある。
 日本武尊琴引原白鳥陵
尾羽四(おはよ)枝(えだ) 置(お)きて河内(かわち)の  
旧市(ふるいち)に また四羽(よは)落(お)つる  日本武尊陵(羽曳野市)
そこここに なす御陵(みささぎ)の  
白鳳(しらとり)も つひに雲居(くもゐ)に  
飛(と)び上(あ)がる 尾羽(おは)はあたかも  
神の世の 世箒花(よはきし)ぞこれ  小笠原通當の『神代巻秀真政伝』は「ヨハキシ」を紙花のこととする。
 「ヨハキシ」は「世掃き紙垂」の略で、祓に用いる切麻のことではなかろうか。
 白い鳳の羽があたりに落ちた様相が、あたかも神上がる前に白い切麻で周囲を祓っているようだったのであろう。
 切麻は麻を短く切ったものに五分角ぐらいの白紙を混ぜて用いる。
 別称、小麻。
 また原文の「ヨハキシゾ」は「世は来しぞ」ともとれる。
 二つのことを掛けていっているのかもしれない。
東西(きつ)もみな 治(た)せば罷(まか)れる  
天法(あめのり)ぞ    

白鳳伝説の日本武尊陵(羽曳野市軽里)の地図

難波之碕顕彰碑から第16代仁徳天皇陵

羽曳野市の日本武尊陵から御所市冨田の琴引原白鳥陵の地図

葛城山から三輪山