文献に掲載されている由緒書き
『全国神社名鑑』(史学センター)に掲載されている由緒書き
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滋賀県神社庁に阿賀神社からの引用
滋賀県神社庁に阿賀神社からの引用
神道に天台山岳仏教と修験道の信仰が相交わり、特殊な信仰形態のもとに、今日の太郎坊信仰が確立された。当社は八日市市が一望出来る赤神山の中復にあり、全山巨岩が多く、見るからに神秘な霊山で、神体山信仰、盤境信仰の発祥の地であるといわれている。
山上には奥津磐境、山麓には辺津磐座と祭祀場がある。
この辺は昔蒲生野と伝えられ、社伝には欽明天皇の御代聖徳太子が、又伝教大師が参籠され、広大なご神徳に感銘され、五十余社の社坊を建立して廟社を守護させられた。
近江の国主佐々木秀義の頃源氏敗れて源義経が奥羽に向かう途次、当山に登り源氏再興を祈願した故事があり(吾妻鏡)義経休憩の「腰掛岩」が保存されている、又頼朝上洛の時、佐々木定綱と共に当社に幣帛を献じた、佐々木氏と織田氏の戦により五十余の社坊は殆んど焼失し、現在成願寺と行万坊、石垣坊の一寺二坊だけが残存している。
郷土史上有名な高句麗よりの帰化人「狛の長者」創建の金桂宮を初め郷土の諸神を明治年間に合祀し全国各地の信者の浄財寄進で、本殿の拡張をはじめ諸殿舎が造営された。
特に昭和四十八年竣工の参集殿は、八棟、千鳥破風、銅板葺、鉄骨コンクリート造りで、地上三階地下一階の荘麗優雅な近代神社建築である。
続いて昭和五十八年に特殊神事保存の目的で、一願成就社が裏参道に造営された。
木造入母屋造り銅板葺で、殿内は本漆塗、極彩色、金箔をほどこし、天井は二尺角格天井九十四枚絵て、国内自生の花九十四種が描かれており、まるで高天原の花園にいるような雰囲気で、自ずと願望が成就できると参拝人が後を絶えない。
明治九年村社に列せられ、同四十二年神饌幣帛料供進指定となり、昭和三十六年別表神社となる。
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