平成22(2010)年5月2-5日(日-水)【44ヵ所】、滋賀県の旅行記録|聖地 日本の神社

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5月2日、2猿田彦の跡を追う【3ケ所】5月2日、紀元前1,499,704年ごろ、奇彦命が万木に【7ケ所】  

5月2日、紀元前179万年ごろの、伊邪那岐命・伊邪那美命以前【7ケ所】
5月3日、素盞嗚命は青連山で天之誓約【7ケ所】
5月3日、第六代面足尊の妻神・阿夜訶志古泥神の青柳の日吉神社から【2神社】
5月3日、『秀真伝』の継承(1)水尾神社【3ケ所】5月4日、『秀真伝』の継承(2)西万木の日吉神社から田中神社【6ケ所】
5月4日、奥石神社と佐々木山【3ケ所】5月5日、天照大神の天之誓約〜観音寺山・佐々木山【4ケ所】
5月5日、奇杵命(大国主命)と竹子姫【2ケ所】今回参拝できなかった神社【13ケ所】

【44ヵ所参拝】平成22(2010)年5月2-5日(日-水)の滋賀県旅行記録の前に・・

 平成21(2009)年8月8-11日(土-火)、白山登山に代わって第二次天孫降臨の跡を追ったときのことだった。
 旅行3日目の平成21(2009)年8月10日(月曜日)10時ごろ、行過天満宮(ゆきすぎ)阿志都彌神社(あしづみ)の参拝を終え、次の参拝地の志呂志神社(しろし)に向かっている途中のセブンイレブンでトイレと朝食休憩にした。
(※)セブンイレブンの住所:滋賀県高島市新旭町饗庭1629

 そのとき、会社から  

「メールの送受信が出来ないのはなぜ?」
 という問合せの電話があった。
 このころから雨が降り出してきた。
 次の参拝先の志呂志神社(しろし)に行く前に問題の所在の可能性の見当をつけ、その次の長田神社で一応原因は究明できた。
 そして、白鬚神社の参拝を終えたとき、メーラの正常動作を確認できるようになった。
(※)昨年の平成21(2009)年8月10日(月)に車を止めて携帯電話で話していたのは第26代継体天皇の胞衣塚の前だ、と今回の参拝旅行で知った。  

 こういう風になるときは、過去の縮図であると共に未来の予言になっていることが多いと思う。  

 饗庭という土地でトラブルの連絡があったこと、高島市安曇川町三尾里の第26代継体天皇の胞衣塚の前で原因らしいことが解ったこと、長田神社(高島市永田)で問題が解決したこと、白鬚神社(高島市鵜川)での参拝を終えて昼食をしているとき、メーラの設定に問題があったことも解決したこと。
 そして、今回のトラブルを解決するのに関わった3人の人物を忘れてはいけない。

 ところが、トラブルはこれに留まらなかった。  

 年が明けて平成22(2010)年になってから旅行の整理を始めた。
 昨年志呂志神社(しろし)の参拝に行く前にトラブルがおきたのだったが、その志呂志神社(しろし)の整理を始めた平成22(2010)年2月25日(木)2時過ぎからサーバーの不具合が発生し、システムが不安定になった。
 この日に原因を突き止めることができず、翌日の平成22(2010)年2月26日(金)に〔NTFSのファイルシステムのエラー〕と判明。
 昨年のトラブル時にもお世話になたkobaさんの手を煩わせることになった。
 セブンイレブンから志呂志神社(しろし)長田神社大炊神社白鬚神社にかけての一帯の持つ意味を再度暗示されたのだろうと思った。
 さらにkobaさんの役割も暗示していそうだ。

 この地域には何かある。

 あまりにもトラブルの発生がドンピシャリすぎるのだ。

セブンイレブンから志呂志神社(しろし)の地図  

 私は、昨年の旅行整理中に、怒りと憎しみに満ちた夢で目覚めた。  

 旅行整理中の平成22(2010)年2月27日(土)の朝の夢だった。

 私は教師だった。  

 私は同僚の髪の長い女性教師に好意を寄せていた。
 その女性教師があるトラブルに巻き込まれて、ある教室である人物と話し合いをしようとしているらしかった。
 ある人物は教室の窓側に机と椅子を高く積み上げて小高い山のようにしていて、その上で寝そべっていた。
 椅子と机で小高くなった頂上から
「なんだ女じゃねぇか」
「これはいいや」
 と舐めるように見回し、今にも自分のものにしようという雰囲気だった。

 隙間から教室の中を探っていた私は怒り憎しみの感情を抑えきれなくなった。

 教室のドアを開け、そのある人物の胸ぐらをつかみ、
「こうやるとお前なんか命がなくなるのだぞ」
「こうやるとお前なんか死んでしまうのだぞ」
 ・・・と怒り憎しみに満ちて、自分自身が抑えきれなくなっていた。

 目覚めてからも怒り憎しみが抜けきらない、それほど激しいものだった。

◆上の夢は、2月25日(木)2月26日(金)のトラブルと、志呂志神社(しろし)長田神社大炊神社白鬚神社に関わる遠い昔の記憶なのだろうと思った。

 音玉川(小田川)で寝そべっている猿田彦命、詰め寄った鈿女命、覗き見をした彦火々出見尊との関連性。

 女性教師がいる辺りは志呂志神社(しろし)なような気がするが、だとすると、机と椅子を高く積み上げた小高い山は拝戸の水尾神社大炊神社あたりなのだろうか、田中神社三尾神社跡あたりだろうか、と思っている私がいる。
 このあたりで私自身が抑えきれない怒り憎しみに捉われて暴発したことがあったのだろう。
 これまでの私の人生で、中背で弁当箱のような体系の人物に会ったことがあるが、その度にこういう人物に苦手意識を常にもってきたのだ。
 遠い過去のこういう記憶が原因なのだろう。

 滋賀県高島市の安曇川周辺には、私にとって抜き差しならない何かある。

 平成22(2010)年4月11日(日)、第16代仁徳天皇の事蹟を知ってショックを受けた。

 解説-秀真伝序説二「伝来享受・諸本」の引用を開始し、第16代仁徳天皇(313年2月14日 - 399年2月7日)の時代における速総別皇子(はやぶさわけのおうじ)の物語を記述し始めると、平成22(2010)年2月27日(土)に見た夢の場面と状況が似ているのにとても驚くことになった。

 仁徳天皇陵は、鍵穴に似ているので、「鍵穴」として何度か夢で見たことがあった。

 いつの時代の神代かわからないが、遠い昔、成田の家は「神代の鍵穴」の両側を生田の家とともに守護する役目を担っていたらしい。
 その時から仁徳天皇陵は気になる存在になっていたのだが、今日は『秀真伝(ほつまつたゑ)』との関わりにおいて再び強烈に印象付けられることになった。
 第16代仁徳天皇(313年2月14日 - 399年2月7日)は、自分が后に迎えようとしていた雌鳥皇女(めどりのひめみこ)を速総別皇子(はやぶさわけのおうじ)に奪われたこと、速総別皇子(はやぶさわけのおうじ)が『秀真伝(ほつまつたゑ)』を信奉する勢力の代表格になっていること、これらを鑑みて速総別皇子(はやぶさわけのおうじ)の追討の命をだした。
 速総別皇子(はやぶさわけのおうじ)と雌鳥皇女(めどりのひめみこ)は、伊勢神宮へ難を逃れようとしたが、三重県津市白山町の出雲川で亡くなったのだという。

 平成22(2010)年2月27日(土)に見た夢の場面と状況が極めて似ているのだ。

 第16代仁徳天皇が大鷦鷯尊(おおささぎのみこと-後の仁徳天皇)といわれていたころ、弟に菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)という儒学に秀でた弟がいた。
 弟の菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)は、兄の大鷦鷯尊(おおささぎのみこと-後の仁徳天皇)を天皇にするため、自害したのだという。
 私の弟は、自害ではないが18歳で交通事故で亡くなっている。
 本来であれば、成田の家を継ぐ人物であったのだ。

 ただただ、天を仰ぐ・・・

 私の怒りと憎しみによって大地が裂けた・・  

 火の国の中心が安土山の位置に相当し、その安土山から怒りと憎しみの烈火が走り、観音寺山〔繖山-きぬがさやま〕の南側の位置に相当する大地を裂いた。
 志呂志神社(しろし)長田神社大炊神社白鬚神社周辺の出来事がきっかけとなって暴発した火の国の烈火は大地を裂いてしまったが、老蘇の森の星霜を経ることによって鎮静化されてきたものらしい。
 天之誓約の時に天照大神が観音寺山〔繖山-きぬがさやま〕から佐々木山(小中山・常楽寺山)に降臨されたこと、
 時を経て、少彦名命が沙沙貴神社に漂着し、奇杵命(大国主命)とともに民の教化にあたられてこと、
 七代孝霊天皇の時代に石辺大連翁が地裂け水湧いて人が住めないこの地に樹木を植え緑につつんだこと、
 ・・などこの周辺の土地に秘めた物語はとても深い。
 今回の参拝旅行は、それらを確かめるためのものだ。

 怒りと憎しみは、前の宇宙でも克服できなかったことらしい  

 平成22(2010)年4月4日(日)の夜寝るとき、
怒りと憎しみの感情は、前の宇宙でもツマヅイタところだし、今の宇宙でも克服できないでいるところだ
 と告げられた。
 怒りと憎しみの感情の根っこは深いのかもしれない。
 怒りと憎しみの感情はどこからやってくるのか?

野洲川から安土山までの地図  

 今回の行程の目的は、  

 天照大神と素盞嗚命の天之誓約の跡を訪ねること、
 志呂志神社(しろし)長田神社大炊神社白鬚神社で何があったのかを感じ取ること、
 ・・に置かれている。

平成22(2010)年6月17日(木)、旅行の整理をしていて夢をみた

 平成22(2010)年6月16日(水)、夕食を済ませて仮眠をとった。
 夜の10時過ぎ、
「早く阿賀神社の整理をしなければ・・」
 とうなされて目覚めた。

 起きだして、阿賀神社の写真の編集を終わらせてからベットに入った。

 翌朝平成22(2010)年6月17日(木)に見た夢は、遠い昔、同僚の女性との幸福な関わりの夢朝の夢はとても幸福に包まれたものだった。

 私たちは常に並んで学んでいた。

 お互いに好意をもっていることは、お互いが暗黙裡に知っていた。
 そんな彼女が手紙を残して学びの場からいなくなってしまったのだ。

 手紙には

「落ち着いたらご連絡差し上げますので、待っていてください。」
 という趣旨の内容だったと思う。
 落胆しながら私は彼女の手紙の通り待つことにした。

 家庭の事情やらいろんな事情があるのだろう、と思ったからだ。

 そんなある日、食堂のような大きな広間に仲間と一緒に座っているところに、ある婦人がやってこられて、
「あなた、彼女の連絡先をご存知でない」
「至急に連絡を取らなければいけないことがあるのよ」
 私が知らない旨を告げると、私の隣に座った仲間が
「俺が知っているよ」
 と携帯電話のアドレス帳から電話番号を検索した。
 その番号は
「0000-000-0000」
 というものだった。
 ウソっぽい電話番号だと思い、
「彼女の連絡先だったら渋沢が知っていると思うので私が聞いておいてあげますよ」
 と答えた。

 こうして私は彼女の居所と、連絡先を知ることになったのだった。

 彼女の居場所と連絡先を知って私はとても幸福だった。
 彼女は
「落ち着いたらご連絡差し上げますので、待っていてください」
 と手紙を出してくれていたのだが、私の方から会いに行くこともできるのだ、と胸が高鳴った。

 こういう物語が阿賀神社周辺であったのかもしれない。

 そして、この物語の続きが平成22(2010)年2月27日(土)の夢へと続いていったようだ。

 平成22(2010)年2月27日(土)の朝、私は怒りと憎しみに満ちた夢で目覚めた。

 私は教師だった。
 私は同僚の髪の長い女性教師に好意を寄せていた。
 その女性教師があるトラブルに巻き込まれて、ある教室である人物と話し合いをしようとしているらしかった。
 ある人物は教室の窓側に机と椅子を高く積み上げて小高い山のようにしていて、その上で寝そべっていた。
 その椅子と机で小高くなった頂から
「なんだ女じゃねぇか」
「これはいいや」
 と舐めるように見回し、今にも自分のものにしようという雰囲気だった。

 隙間から教室の中を探っていた私は怒りと憎しみの感情を抑えきれなくなった。

 教室のドアを開け、そのある人物の胸ぐらをつかみ、
「こうやるとお前なんか命がなくなるのだぞ」
「こうやるとお前なんか死んでしまうのだぞ」
 ・・・と怒りと憎しみに満ちて自分自身が抑えきれなくなっていた。

 目覚めてからも怒りと憎しみが抜けきらない、それほど激しいものだった。

5月2日(日)【3神社】、猿田彦に縁が深そうな神社

白鬚神社 滋賀県高島市鵜川215(地図→ いつもNAVI
滋賀県神社庁の白鬚神社のページ
 猿田彦大神 を祭神とする。

○ 「寿老人」とくると白鬚神社とくるほど、寿老人は白鬚神社に縁が深いものらしい。

 このことを旅行に出る直前に知った。

 寿老人といえば・・・

 末娘の光宮(みや)が母体に宿るとき、大波の頂上に乗った寿老人が東の海辺から西の岸辺に打ち寄せる映像を見ている。
 白鬚神社の寿老人の摂社は内宮の摂社の真後ろに当たっていることから光宮(みや)にとても縁深い神社だと思えるようになった。

 そのことを確認するために平成21(2009)年8月10日(月)についでの再訪となった。

○前回の平成21(2009)年8月10日(月)に白鬚神社の本殿のような配置になっている岩戸神社で祝詞を奏上すると、「ある女性(スジニ?)」が、鎖のついた鎌を、右手で鎌の柄の部分をもち、左手で鎖の部分をもって、石段を登って岩戸神社に迫ろうとしてきていた。
 この女性はサシミ女のようにも見えるし、「別の女性(スジニ?)」のようにも見える。
 凄まじい執念を発しているようにも見えるが、サシミ女ではないとしたら誰だろう。
 しかし、石段から先には登ってくることは出来ないでいた。

○今回の参拝で、「ある女性(スジニ?)」は石段の登り口に腰掛けて子どもをあやしている。

○今回の参拝旅行では、鎌宮といわれている奥石神社5月4日)に参拝している。
 大祓祝詞に「彼方の繁木が本を焼鎌の鋭鎌もちて打ち払うことのごとく」とあるが、大津の対岸にある繁木とは奥石の森である可能性があり、奥石神社5月4日に参拝)が鎌宮と呼ばれるのは「焼鎌の鋭鎌」に因む名称なような気がする。
 火の国の怒りと憎しみは大地を裂き、奥石の森の地底深く潜り込んでしまった、と捉えた私の直感は正しかったのだ。
 この白鬚神社で、昨年の上のような鎖のついた鎌の映像を見ること自身、鎌宮といわれている奥石神社のある安土町との深いかかわりを窺い知る事ができそうだ。

音玉川(小田川) 滋賀県高島市音羽(地図→ いつもNAVI
 猿田彦命が寝そべっていたといわれる音玉川(小田川)。

 前回の平成21(2009)年8月10日(月)には雨が降っていたため写真を撮ることができなかった。

 今回、音玉川(小田川)の川辺に立ってみると、次の2点で感じるものがある。

(1)猿田彦命は比良山地を背にしていること。

   比良山地は天照大神と素盞嗚尊が天之誓約をされたとき、その間にあった山だ。
   そういう山を背にして猿田彦命は寝そべることができるということだ。

(2)瓊々杵尊一行が北から進んでくるのを、南側で太陽を背にして迎えていること。

 以上の2点から、瓊々杵尊にとって猿田彦尊は絶対的羅針盤と認識できていたのだと思う。

○ 比良山地とは、Wikiより

 南東を琵琶湖で、西と北を安曇川で区切られた、南北約20km、東西約15kmの山地。
 北北東−南南西方向に走る2本の稜線からなり、一般に、西(安曇川)側を「奥比良」と呼び、東(琵琶湖)側稜線のうち、釈迦岳から堂満岳の一帯を「北比良」、それ以南の蓬莱山・権現山の一帯を「南比良」、釈迦岳以北の岩阿沙利山・岳山の連なる標高500〜700mの尾根を「リトル比良」と呼ぶことが多い。

大炊神社 滋賀県高島市音羽465(地図→ いつもNAVI
滋賀県神社庁の大炊神社のページ
 事代主神 を祭神とする。

○前回の平成21(2009)年8月10日(月)大炊神社で祝詞を奏上したとき、

 サシミ女と思われる「ある女性」は、祝詞奏上中に本殿の中に渦状の螺旋を描いて吸い込まれていったように見えた。
 この映像は、「吸い込まれた」と見ることもできるし、「忍び込んでいった」ともみることもできる。  どういう表現の仕方が正確かは不明である。

○今回の参拝では、大炊神社のご神前が瓢箪の口のようになっていて、

 そこから濁り酒のような液体がドクドクと流れ出していた。

高島市の中心  

5月2日(日)【7神社】、紀元前1,499,704年ごろ、奇彦命が万木に・・

与呂伎神社 滋賀県高島市安曇川町青柳(地図→ いつもNAVI
 子守神 勝手神 を祭神としている。

御機の十〔鹿島立ち釣鯛〕の紋の【6】奇彦命と万木の森を参考に推論・・

 奇彦命は、国譲りから55,373年後の紀元前1,499,704年に奇玉火之明尊の第一次天孫降臨のとき大物主に任じられているが官職を辞し(20-9)、大嶋奥津嶋神社(おおしまおきつしま)に蟄居され父と母の宮を祀られたらしい。
 大嶋奥津嶋神社(おおしまおきつしま)に蟄居していると、「瓊々杵尊を守れ」という勅を得て、三穂津姫を妻とし、万木の森(→与呂伎神社)を賜った。
 「万木」滋賀県高島郡安曇川町青柳・西万木付近一帯に、以前は「万木の森」と称する広大な森が存在した。「東万木」とは現在の青柳町の旧名である。

御機の二十四〔コヱ国原見山〕の紋によると、

 高島市安曇川町青柳(旧称、万木の森)には与呂伎神社(よろぎ)が鎮座しており、祭神は子守神と勝手神である。
 地元の人は与呂伎神社(よろぎ)を「コーモリさん」と呼び習わしていて、同社の地名を「古森」と称する。
 このことは吉野山の子守宮を「コーモリさん」と呼び、同地に子守という地名が残ることと類似し、何らかの関係が存在することを示している。
 なお、与呂伎神社(よろぎ)は、同地で最も古い神社として伝えられている。
 この地は、『秀真伝』の記述から子守神(万木麿命)の誕生の地であると考えられる。

大嶋奥津嶋神社(おおしまおきつしま)で祝詞の奏上

「わが宮によく訪ねてくだされた」
 三輪神社で聞いたことのある声なので奇彦命だろう。
 この地で奇杵命(大国主命)と竹子姫が結婚され、奇彦命・高子姫・味耜高彦根命の3人の子を産んだ。
 国譲りから55,373年後の紀元前1,499,704年、奇彦命は、奇玉火之明尊の第一次天孫降臨のとき大物主に任じられているが官職を辞し(20-9)、この地に蟄居され父と母の宮を祀られたらしい。
 間もなく「瓊々杵尊を守れ」といわれ、三穂津姫を妻とし、万木の森(→与呂伎神社)を賜った。
 その地で奇彦命と三穂津姫は、子守神(万木麿命)を産んでいるらしい。

布留神社 滋賀県高島市安曇川町横江413(地図→ いつもNAVI
滋賀県神社庁の布留神社のページ
 布留大神 を祭神とする。

御機の十〔鹿島立ち釣鯛〕の紋の【6】奇彦命と万木の森を参考に推論・・

 奇彦命は、国譲りから55,373年後の紀元前1,499,704年に奇玉火之明尊の第一次天孫降臨のとき大物主に任じられているが官職を辞し(20-9)、大嶋奥津嶋神社(おおしまおきつしま)に蟄居され父と母の宮を祀られたらしい。
 大嶋奥津嶋神社(おおしまおきつしま)に蟄居していると、「瓊々杵尊を守れ」という勅を得て、三穂津姫を妻とし、万木の森(→与呂伎神社)を賜った。
 「万木」滋賀県高島郡安曇川町青柳・西万木付近一帯に、以前は「万木の森」と称する広大な森が存在した。
 「東万木」とは現在の青柳町の旧名である。
 布留神社の布留大神とは「十種の神宝」であるので、奇彦命が天之火之明尊の第一次天孫降臨(大和-奈良県)の政治を祈られたのかもしれない。
 こういう筋で一つの推論が成り立ちうる。

○ 参拝旅行の準備をしている平成22(2010)年4月23日(金)、私は「大蛇のヒレ」のようなものをみている。

 私が見た映像との関わりからみて、十種の神宝の一部が別々に祀られていった可能性を感じる。
 この布留神社には「大蛇のヒレ」が祀られているのだろうか?

 これが第二の推論だ。

第三の推論として、「大蛇のヒレ」を採取した場所が当地である可能性があるのかもしれない。
 田中神社の「八柱御子神」を八岐大蛇の八つ頭とする伝承もあるようなので、そういう流れで布留神社をみると、布留神社において「大蛇のヒレ」を採取したとしてもあながち飛躍した見解にならないかもしれない。
 『秀真伝(ほつまつたゑ)』の記述では、八岐大蛇は早子に転生しているので、早子に転生する前の八岐大蛇がいることが前提になっている。
 この八岐大蛇は高島市で素戔嗚尊に退治され、安潟神として祭られた可能性が高い。
 神が人体を持って現れる前の時代の物語かもしれない。

新旭町の大田神社 滋賀県高島市新旭町太田1468(地図→ いつもNAVI
滋賀県神社庁の新旭町の大田神社のページ
 大年神 菅原道真公 を祭神としている・

御機の十〔鹿島立ち釣鯛〕の紋の【6】奇彦命と万木の森を参考に推論・・

 奇彦命は、国譲りから55,373年後の紀元前1,499,704年に奇玉火之明尊の第一次天孫降臨のとき大物主に任じられているが官職を辞し(20-9)、大嶋奥津嶋神社(おおしまおきつしま)に蟄居され父と母の宮を祀られたらしい。
 大嶋奥津嶋神社(おおしまおきつしま)に蟄居していると、「瓊々杵尊を守れ」という勅を得て、三穂津姫を妻とし、万木の森(→与呂伎神社)を賜った。
 「万木」滋賀県高島郡安曇川町青柳・西万木付近一帯に、以前は「万木の森」と称する広大な森が存在した。「東万木」とは現在の青柳町の旧名である。  奇杵命はこの地で子守神を生んだ。
 そして、子守神はこの地で太田命、箕島命など多くの子を生み育てたのかもしれない。
 瓊々杵尊の第二次天孫降臨のときこの周辺の井関を作られた。

御機の二十四〔コヱ国原見山〕の紋によると、

 与呂伎神社の付近には、太田命、箕島命の二命と関連すると思われる新旭町の大田神社、安曇川町青柳の太田神社、安曇川町三尾里の箕島神社があることが、『秀真伝』の記述において注目される。
 太田命は子守神の十二男、箕島命は十一男。

青柳の太田神社 滋賀県高島市安曇川町青柳1473の飛地(地図→ いつもNAVI
 太田神 宇須賣命 を祭神としている。

御機の十〔鹿島立ち釣鯛〕の紋の【6】奇彦命と万木の森を参考に推論・・

 奇彦命は、国譲りから55,373年後の紀元前1,499,704年に奇玉火之明尊の第一次天孫降臨のとき大物主に任じられているが官職を辞し(20-9)、大嶋奥津嶋神社(おおしまおきつしま)に蟄居され父と母の宮を祀られたらしい。
 大嶋奥津嶋神社(おおしまおきつしま)に蟄居していると、「瓊々杵尊を守れ」という勅を得て、三穂津姫を妻とし、万木の森(→与呂伎神社)を賜った。
 「万木」滋賀県高島郡安曇川町青柳・西万木付近一帯に、以前は「万木の森」と称する広大な森が存在した。「東万木」とは現在の青柳町の旧名である。  奇杵命はこの地で子守神を生んだ。
 そして、子守神はこの地で太田命、箕島命など多くの子を生み育てたのかもしれない。
 瓊々杵尊の第二次天孫降臨のときこの周辺の井関を作られた。

御機の二十四〔コヱ国原見山〕の紋によると、

 与呂伎神社の付近には、太田命、箕島命の二命と関連すると思われる新旭町の大田神社、安曇川町青柳の太田神社、安曇川町三尾里の箕島神社があることが、『秀真伝』の記述において注目される。
 太田命は子守神の十二男、箕島命は十一男。

青柳の太田神社の拝殿右上に「水の神様」「産業の神様」と掲示してあった。

 子守神の十二男・太田命と十一男・箕島命が「井堰」をなしたことによって「水の神様」と呼ばれたのかもしれない。

安曇川 滋賀県高島市安曇川町青柳1880の地点で祝詞奏上(地図→ いつもNAVI
 安曇川

○この安曇川は、島津彦命が「舟」を考案するもととなった川だ。

 天照大神と素盞嗚尊の天之誓約の間にあった比良山地を区切る川でもある。
 そして、豊玉姫がこの安曇川を上って貴船に着いた川でもある。
 この比良山地と安曇川には、何かとんでもないものが隠されていると感じる。

箕島神社 滋賀県高島市安曇川町三尾里558(地図→ いつもNAVI
滋賀県神社庁の箕島神社のページ
 大山積神 を祭神としている。

御機の十〔鹿島立ち釣鯛〕の紋の【6】奇彦命と万木の森を参考に推論・・

 奇彦命は、国譲りから55,373年後の紀元前1,499,704年に奇玉火之明尊の第一次天孫降臨のとき大物主に任じられているが官職を辞し(20-9)、大嶋奥津嶋神社(おおしまおきつしま)に蟄居され父と母の宮を祀られたらしい。
 大嶋奥津嶋神社(おおしまおきつしま)に蟄居していると、「瓊々杵尊を守れ」という勅を得て、三穂津姫を妻とし、万木の森(→与呂伎神社)を賜った。
 「万木」滋賀県高島郡安曇川町青柳・西万木付近一帯に、以前は「万木の森」と称する広大な森が存在した。「東万木」とは現在の青柳町の旧名である。
 奇杵命はこの地で子守神を生んだ。
 そして、子守神はこの地で太田命、箕島命など多くの子を生み育てたのかもしれない。
 瓊々杵尊の第二次天孫降臨のときこの周辺の井関を作られた。

御機の二十四〔コヱ国原見山〕の紋によると、

 与呂伎神社の付近には、太田命、箕島命の二命と関連すると思われる新旭町の大田神社、安曇川町青柳の太田神社、安曇川町三尾里の箕島神社があることが、『秀真伝』の記述において注目される。
 太田命は子守神の十二男、箕島命は十一男。

安閑神社 滋賀県高島市安曇川町三尾里357(地図→ いつもNAVI
 当地で生まれたと伝わる第26代継体天皇の第一皇子で、後の安閑天皇、在位は531-535年とされている天皇を祭神としています。

○地元の方が「神代文字」石として紹介している石があるので参拝。

5月2日(日)【7神社】、紀元前179万年ごろの、伊邪那岐命・伊邪那美命ぐらいまで・・

大荒比古神社 滋賀県高島市新旭町安井川844(地図→ いつもNAVI
滋賀県神社庁の大荒比古神社のページ
 大荒田別命 豊城入彦命
〔配祀神〕少彦名命 仁徳天皇 宇多天皇 敦実親王

御機の二「天七代(あめななよ)床神酒(とこみき)」紋の【7】笹気と常世の井の口によると、

 「 笹気(ささけ)は常世(とこよ) 井(ゐ)の口(くち)の 少波神(すくなみかみ)」について、小笠原通當は『秀真政伝』において、「近江国高嶋郡猪口村」、現在の滋賀県高島市新旭町安井川井之口にこれをあてるが、本書の文脈からは単純に近江井の口と断定しがたい。
 なお、この井の口には、延喜式内の大荒比古神社がある。
 ただし、祭神は豊城入彦命、大荒田別命二座に、後年、近江源氏佐々木の一族が合祀した 少彦名命、仁徳天皇、宇多天皇、敦実親王の四座であり、少波神との関連はほとんどうかがうことができない。

上古賀の熊野神社 滋賀県高島市安曇川町上古賀1391(地図→ いつもNAVI
滋賀県神社庁の熊野神社のページ
 七代目の、伊邪那岐命 伊邪那美命 を祭神とする。

国狭槌神社 滋賀県高島市安曇川町下小川415(地図→ いつもNAVI
滋賀県神社庁の国狭槌神社のページ
 国狭槌命 を祭神とする。

御機の二「天七代(あめななよ)床神酒(とこみき)」紋の【2】国常立尊の常世国から3代治まるによると、

 「国狭槌命」とは国常立尊の八降りのトホカミヱヒタメ八神の称え名。
「狭霧の道」国常立尊の常世の道に次ぐ道。
『三笠紀』残篇「高天原成る紋」に
「御祖神 幣染むる 春秋の 息は管より 狭霧なす ヱは譲る霧 日お招き 冬一陽返す トは夏に 月の陰返す 春秋ぞ 天譲る日は 天の狭霧 国譲る月 埴の狭霧 てれば讃ゆる 御中主神 天霧に乗りて 八方に行き 日月の道お 譲り埴に 県の神の 色国と 名付け天の道 埴の道も 葦のごとくに 立つゆえに」(み6-10)
 とあり「天(あ)の狭霧」と「天(あ)の道」「埴(は)の道」などの言葉がみえる。
 小笠原通當の『秀真政伝』に「サギリノミチオ、とハ八神道と申す事なり。天御祖神の御勅命を申なり。
 天の命を教えても受けずして、盗人を成し或ハ悪魔を成ものハ、椿の狭槌を以打殺して、国を治めよとの御勅命なり」と記されている。
 この天御祖神の教えの伝承により、伊弉諾尊・伊弉冉尊はを以て国を治め、天照神は八重垣剣を作らせて国を治めた(23紋など参照)。

志呂志神社 滋賀県高島市鴨2276(地図→ いつもNAVI
滋賀県神社庁の志呂志神社のページ
 瓊瓊杵尊
〔配祀神〕鴨祖神 玉依姫命
 御由緒
 明和7年火災にて村内8分通り焼亡のとき悉く焼失、延喜式内の神社にして住昔川中島の白州に鎮座し所知食天皇ゆえに志呂志の天皇と称し奉り白州の神社とも申せし由。
 明治9年村社に加列。

御機の二「天七代(あめななよ)床神酒(とこみき)」紋の【5】6代目、面足尊と惶根尊によると、

 面足尊の時代には、『秀真政伝』および後文の記載より、北は東北地方から、南は九州まで国が生まれていたことがわかる。
 面足尊は「惶根尊(かしこね)とともに八方(やも)お巡(めぐ)りて民(たみ)お治(た)」という。
『秀真政伝』に「近江国高嶋郡安曇の川中島に天中柱を立て」とみえる。
 志呂志神社の由緒書きに照らすとこの川中島志呂志神社の旧跡地である可能性がある。
 こういう由縁があってこそ瓊々杵尊は第二次天孫降臨のルートに入れられたのかもしれない。

天皇橋 滋賀県高島市鴨2769(地図→ いつもNAVI
 志呂志神社から、第26代継体天皇の胞衣塚へ行くときにわたる鴨川にかかる橋。

第26代継体天皇の胞衣塚 滋賀県高島市安曇川町三尾里476(地図→ いつもNAVI
 第26代継体天皇の胞衣塚

平成21(2009)年8月10日(月曜日)、第二次天孫降臨の跡を追ったとき、トラブルがあった。

 第26代継体天皇の胞衣塚の前に車を止めて、このトラブル対処の電話をしていたのだ。
 今回初めて第26代継体天皇の胞衣塚行ってみて、改めて因縁の層の深さに感じるものがあった。

波爾布神社(はにふじんじゃ) 滋賀県高島市新旭町饗庭3363(地図→ いつもNAVI
滋賀県神社庁の波爾布神社(はにふじんじゃ)のページ
 波爾山比賣命(はにやまひめ)、彌都波能賣神(みづはのめかみ) を祭神とする。
 『古事記』では波邇夜須毘売神、『日本書紀』では埴山姫(はにやまひめ)、埴山媛、埴安神(はにやすのかみ)等と記されている。
『古事記』によれば、火之迦具土神を生んで陰部に火傷をし苦しんでいた伊邪那美命が糞をしたが、その糞から化生した神が波邇夜須毘古神とこの波邇夜須毘売神である。
 尿から生まれたという弥都波能売神と一緒に肥料の神とされているが、埴は粘土のことで、糞から赤土を連想したものであろう。
 また弥都波能売神と共に和久産巣日神も生まれている。
 しかし『日本書紀』の一書には伊邪那美命が死のうとするとき、埴山媛と罔象女の二神を生み、この二神の間に生まれた稚産霊神の頭上に蚕と桑、臍の中に五穀が生じたとある。これは農業起源説話といわれている。

上古賀の熊野神社に伊邪那岐尊と伊邪那美尊が祀られている。

 この地に、波爾山比賣命(はにやまひめ)、彌都波能賣神(みづはのめかみ)が祀られているところに面白味を感じる。
 何ということはないのかもしれないが、高島市の歴史の深みを考え合わせると参拝しておきたかった。

5月3日(月)【7神社】、素盞嗚命は青連山で天之誓約・・

大處神社(大処神社) 滋賀県高島市マキノ町森西175(地図→ いつもNAVI
滋賀県神社庁の今津町の大處神社(大処神社)のページ
 大地主命 を祭神とする。
 境内社の酒波神社 〔祭神〕素盞嗚尊

大處神社(大処神社)の左側の社を参拝しようとき、

「岩剣大菩薩なり」
 といって不動明王のような、閻魔法王のようなものが右手に剣を立てて鎮座されている映像が飛び込んできた。
 祝詞を奏上すると会社での出来事がシキリと脳裏をよぎっていく。
 会社での振る舞いの仕方は、昨日(日曜日)の『龍馬伝』でみた山之内公の政治の差配の仕方を真似るようにということなのかもしれない。
 悪は伸びるのも早いが、枯れるのも早い。
 そういう物事の成長を見極めた差配の仕方は見事の一言につきた。
 物事には時流がある。
 尊皇攘夷派が力をもっているときは武市半平太が力をもち、公武合体派が台頭してくれば尊皇攘夷派は力を失う。
 しかし公武合体論は結実せず、公武合体論から倒幕論へ傾いていったのだ。
 時流は激変するということの証左。

唐崎神社 滋賀県高島市マキノ町知内924(地図→ いつもNAVI
滋賀県神社庁の高島市マキノ町の唐崎神社のページ
 瀬織津比盗_ 速開都比盗_ 速佐須良比盗_ を祭神とする。
 天智の朝、沿湖七瀬の川社の中の一社と伝えられる。

 高島市の七福神のうち「えびす神」を祀っている。

日置神社 滋賀県高島市今津町酒波855(地図→ いつもNAVI
滋賀県神社庁の高島市マキノ日置神社のページ
 素盞鳴命 日置宿弥命
〔配祀神〕稲田姫命 武甕槌命 天櫛耳命 大国主尊

 昨年平成21(2009)年8月10日(月曜日)、第二次天孫降臨の跡を追ったとき、

 山神社の写真を撮影していないことに気付いて参拝。

酒波寺 滋賀県高島市今津町酒波727(地図→ いつもNAVI
 酒波寺

 昨年平成21(2009)年8月10日(月曜日)、第二次天孫降臨の跡を追ったとき、

 酒波寺の写真を撮影していないことに気付いて写真撮影。

青蓮山(せいれんざん) 滋賀県高島市今津町酒波727(地図→ いつもNAVI
 天之誓約の時、素盞嗚命が降り立たれた山か?

青連山(せいれんさん)に車で向かうとき、小さい蛇を踏んでしまったようだ。

 突き当たりの広場に車を止め、来た道を少し戻り、風林亭(青連山の見晴台)への登り口まで戻る途中、子どもたちが微かに動いている小さい蛇を見つけた。
 どうやら私の車で引いてしまったものらしい。
を踏むなんて縁起でもない」  と思ったのだが、現実は現実。

青連山(せいれんさん)の風林亭について竹生島が見えたときは感激!

 ここ青連山(せいれんさん)が天之誓約の時、素盞嗚尊が降り立たれた山だと感じた。

(※)5月5日、車で観音寺山〔繖山-きぬがさやま〕に行く途中には大きい蛇を踏んでいる。

 天之誓約の時、天照大神は観音寺山〔繖山-きぬがさやま〕から佐々木山(小中山・常楽寺山)に降り立たれているらしい。
 そういう天之誓約に関わる青連山(せいれんさん)観音寺山〔繖山-きぬがさやま〕を踏んでしまっている。
 何か大事なことを考えなければならないような大きな思い出になった。

倭姫の御逗留跡と伝わる檪原神社 (イチハラ) 滋賀県高島市今津町桂626(地図→ いつもNAVI
滋賀県神社庁の倭姫の御逗留跡と伝わる檪原神社のページ
 天照皇大神 豊受大神 を祀る。
 社伝によると、第11代垂仁天皇25年倭姫命が、天照大神を伊勢国に遷された時、この地に御逗留になり、里人が御膳等をお供えしたご縁により、第11代垂仁天皇30年天照大神を祀った。
 又豊受大神を合祀するようになったのは、第45代聖武天皇神亀2年で同時に櫟原神社の社号も与えられた。

○ 倭姫が逗留されるほどの地域になっていることの裏返しだ。

行過天満宮(ゆきすぎ)
阿志都彌神社(あしづみ)
滋賀県高島市今津町弘川1707-1(地図→ いつもNAVI
滋賀県神社庁の行過天満宮(ゆきすぎ)・阿志都彌神社(あしづみ)のページ
 高島市七福神の福禄寿が置かれていることを知って再訪。

 昨年平成21(2009)年8月10日(月曜日)、第二次天孫降臨の跡を追ったとき、

 七福神の福禄寿の写真を撮影していないことに気付いて写真撮影。

5月3日(月)【2神社】、第六代面足尊の妻神・阿夜訶志古泥神の青柳の日吉神社から

青柳の日吉神社 滋賀県高島市安曇川町青柳944(地図→ いつもNAVI
滋賀県神社庁に青柳の日吉神社のページ
 阿夜訶志古泥神 市寸嶋比賣命 橘比賣命 を祭神としている。
 六代目は、面足神(おもたる)で、妃が 惶根尊(かしこねのみこと)

御機の二「天七代(あめななよ)床神酒(とこみき)」紋の【5】6代目、面足尊と惶根尊によると、

 面足尊という名は、その事跡に由来する神名であろうと考えられる。
 なお、『秀真政伝』および後文の記載より、北は東北地方から、南は九州まで国が生まれていたことがわかる。
 「惶根尊(かしこね)とともに八方(やも)お巡(めぐ)りて民(たみ)お治(た)」という。

 『秀真政伝』に「近江国高嶋郡安曇の川中島に天中柱を立て」とみえる。

 志呂志神社の由緒書きに照らすとこの川中島志呂志神社の旧跡地である可能性がある。
 「 明和7年火災にて村内8分通り焼亡のとき悉く焼失、延喜式内の神社にして住昔川中島の白州に鎮座し所知食天皇ゆえに志呂志の天皇と称し奉り白州の神社とも申せし由。
 明治9年村社に加列。」
 とみえる。
 こういう由縁があってこそ瓊々杵尊は第二次天孫降臨のルートに入れられたのかもしれない。

川島の阿志都弥神社 滋賀県高島市安曇川町川島615-1(地図→ いつもNAVI
滋賀県神社庁の阿志都弥神社のページ

 島津彦命 を祭神とする。

 明細書によると、創祀年代不詳であるが旧加茂大明神と称す、明応2年船木城主佐々木能登守社殿を再建す。
 寛文2年本殿、拝殿を再建す、とある。
 明治9年村社に列格。
 尚式内阿志都弥神社については現在論社とされる。

 祭りが終わり、御神輿を仕舞い込むときに当たった。

 地元のお爺さんが出てきて、神様からのお酒だといってお茶碗にお酒を注いでくれる。
 私も女房も、神様からご馳走になったと思って頂戴した。
 ありがたや、ありがたや。

5月3日、『秀真伝(ほつまつたゑ)』の継承(1)水尾神社【3ケ所】 ・・

拝戸の水尾神社 滋賀県高島市拝戸716(地図→ いつもNAVI
滋賀県神社庁の水尾神社のページ
 磐衝別命(いわつくわけのみこと) 比盗_ を祭神とする。
 人皇十五代応神天皇の第十一皇子速総別王も天成神道を学ぶため拝戸に来住されて、その四世の孫・彦主人王は磐城別王の五世の孫振姫を迎えて妃とし、振姫は当社の拝殿を産所として天迹部王、男迹部王、太迹部王の三児を同時に安産されました。
 太迹部王は後の人皇二十六代継体天皇であります。
 河北社は三児出産の時、父の彦主人王が北の仮社を建てて北極星に安産を祈られた仮社跡に、天迹部王が両親を奉祀する三重生大明神を創建されたもので、後年これが河北社として比盗_(振姫命)のみを祀る社となりました。

長田神社 滋賀県高島市永田1203(地図→ いつもNAVI
滋賀県神社庁の長田神社のページ
 事代主神
〔配祀神〕天鈿女命
 を祭神とする。

 前回の平成21(2009)年8月10日(月)に続いての参拝。

 今回の参拝では、サシミ女と思われる女性の気配は感じられなくなっている。

今津町の熊野神社 滋賀県高島市今津町藺生742(地図→ いつもNAVI
滋賀県神社庁の今津町の熊野神社のページ
 熊野久須毘命 を祭神とする。

 天之誓約のとき、素盞嗚尊から3女神が成り、竹生島に降臨したのだという。

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』の時代には、三女神は天照神の姫神として生まれており、宗像命の娘・豊姫に養育された。
 熊野久須毘命の母である宗像命の娘・豊姫は三女神の育ての親に当たり、熊野久須毘命とは育ちの兄弟に当る。
 三女神が成る源となった青連山(せいれんさん)、そして竹生島に縁があるものとして今津町の熊野神社を参拝。

5月4日、『秀真伝』の継承(2)西万木の日吉神社から田中神社【6ケ所】・・

西万木の日吉神社 滋賀県高島市安曇川町西万木783 (地図→ いつもNAVI
0740-32-0651
滋賀県神社庁に西万木の日吉神社のページ
 瓊瓊杵尊 を祭神としている。

西万木の日吉神社は、第二次天孫降臨の時の瓊々杵尊の通過ポイントだろう。

 行過天満宮(ゆきすぎ)・阿志都彌神社(あしづみ)を通り、西万木の日吉神社志呂志神社長田神社大炊神社白鬚神社と通過していったのだと思う。

○この西万木の日吉神社から、和仁估容聡の『秀真伝』の伝来本が発見されたのだ。

◆『秀真伝(ほつまつたゑ)』(八幡書店、上巻PP95-97)〔解説〕の紹介引用・・
 野々村家(水尾神社の神主)に所蔵されていた『生洲問答』『三笠紀』『神勅基兆伝太占書紀』。
 ・・・・・・・
 野々村(水尾神社の神主)が『秀真伝』の存在を知ったのは、慶応年間(1865-1868)、岩谷忠正(井保家の氏神西万木の日吉神社の神主)より容聡(やすとし)の親族が売却した『秀真伝』を見せられて以降のことと思われ、同じく容聡(やすとし)の親族より外部へ流出した『生洲問答』『三笠紀』についてのみ岩谷忠正(井保家の氏神西万木の日吉神社の神主)を介することなく、野々村立蔵(水尾神社の神主)がすでに入手していたというのでは、不自然な感がぬぐい難い。
 同じ容聡(やすとし)の親族より売却されたものが、一方は岩谷家(井保家の氏神西万木の日吉神社の神主)、一方は野々村家(水尾神社の神主)の手に渡ったということも、確かに考えられないことはないが、岩谷家は井保家と同じ西万木にあり、しかも、写本を入手した岩谷忠正は、井保家の氏神である西万木の日吉神社の神主という井保家と浅からぬ関係にあるのに対し、野々村家(水尾神社の神主)は時に当主立蔵が『秀真伝』の伝来と多少縁故のある拝戸の水尾神社の神主とはいえ、岩谷家に比べると地理的に遠く、井保家との関係はさほど深いものではなかったと思われ、井保家より売却された『三笠紀』『生洲問答』を直接入手しうる立場にあったとはとうてい思えない。
 ・・・・・・・
 したがって結論を記すと、野々村家(水尾神社の神主)所蔵の『三笠紀』『生洲問答』についても、『秀真伝』とともに岩谷忠正より入手、それも岩谷ないし岩谷の仲介により井保家より写本そのものを購入したものではなく、『秀真伝』同様書写したものと思われ、容聡(やすとし)系統のものであるとしても、容聡(やすとし)本そのものとみなすことは不可能とはいえないまでも問題が多い。
 ・・・・・・・
 野々村残簡本に関しては・・・最終的結論に関しては、遺憾ながら現時点では差し控えざるをえないが、おおむね岩谷家(井保家の氏神西万木の日吉神社の神主)旧蔵本を野々村立蔵(水尾神社の神主)が書写したものと見られる。

(※)今回参拝に行っての「岩谷」・・についての註

 祭りの後片付けをされていた氏子の方に聞いてみると、西万木の日吉神社は代々「岸」家が宮司をされていたという。
 一時期婚姻関係にあった「岩谷」家が宮司をされていたことがあったが、現在は「岸」家が宮司をされているという。
 そして、岸さんの自宅を教えたいただいた。
 自宅まで行き、お話しを聞こうとしたのだが、ビジネスホテルを経営されているらしく、連休中でもあり忙しそうにみんなが立ち回っておられたので、声を掛けきれずに終わってしまった。

田中の佐田神社 滋賀県高島市安曇川町田中2616(地図→ いつもNAVI
滋賀県神社庁の佐田神社のページ
 佐田彦 を祭神とする。

田中神社 滋賀県高島市安曇川町田中1882-1(地図→ いつもNAVI
滋賀県神社庁の田中神社のページ
 建速素盞鳴尊 奇稲田姫命 八柱御子神 を祭神とする。
 神職は、伊藤家が代々世襲する。

田中神社で祝詞を奏上し、帰ろうとするとき宮司さんに声をかけていただいた。

 松本善之助氏が田中神社に10日間泊まられ、和仁估容聡の手になる伝来本を探されていたとき、宮司の伊藤さんがお手伝いされたというお話を聞くことができた。
 宮司の伊藤さんから教えていただいて和仁估容聡の手になる『秀真伝(ほつまつたゑ)』伝来本の原本を見ることができた。

 神様からのプレゼント。

布留神社のところでも書いたことだが、田中神社は、早子に転生する前の八岐大蛇が素盞嗚尊に退治された場所に関係するかもしれない。
 田中神社の「八柱御子神」を八岐大蛇の八つ頭とする伝承もあるようなので、そういう流れで布留神社をみると、布留神社において「大蛇のヒレ」を採取したとしてもあながち飛躍した見解にならないかもしれない。
 『秀真伝(ほつまつたゑ)』の時代に、早子に転生した八岐大蛇は出雲の簸川で討ち取られている。

田中の三尾神社跡 滋賀県高島市安曇川町田中1899(地図→ いつもNAVI
 三尾神社跡

上小川の藤樹神社 滋賀県高島市安曇川町上小川69(地図→ いつもNAVI
滋賀県神社庁の藤樹神社のページ
 藤樹神社

『秀真伝(ほつまつたゑ)』〜上小川の藤樹記念館 滋賀県高島市安曇川町上小川69(地図→ いつもNAVI
 『秀真伝(ほつまつたゑ)』〜藤樹記念館

平成22(2010)年5月4日(火)【3ケ所】、奥石神社と佐々木山

奥石神社 滋賀県近江八幡市安土町東老蘇1615(地図→ いつもNAVI
滋賀県神社庁の奥石神社のページ
 〔本社〕天児屋根命
 〔摂社〕諏訪明神 建御名方富命 八坂刀売命
  を祭神とする。

奥石神社が大祓祝詞に記載されている神社らしい。

 大祓祝詞に「彼方の繁木が本を焼鎌の鋭鎌もちて打ち払うことのごとく」とあるが、大津の対岸にある繁木とは奥石森である可能性があり、奥石神社が鎌宮と呼ばれるのは「焼鎌の鋭鎌」に因む名称なような気がする。
 火の国の怒りと憎しみは大地を裂き、奥石の森の地底深く潜り込んでしまった、と捉えた私の直感は正しかったのだ。
 誰もそのことを自覚せず、あるいは気付かず何百年、何千年と大祓祝詞を奏上してきたのだろう。
 そのことに気付き奏上した場合の効果は幾百万倍にもなるだろう。

佐々木山 滋賀県蒲生郡安土町小中1−8(地図→ いつもNAVI
 佐々木山。

五社神社 滋賀県近江八幡市牧町786(地図→ いつもNAVI
滋賀県神社庁の五社神社のページ
 下照姫命 大國主命 事代主命 大巳貴命 思兼命 を祭神とする。

 今から160万年前、野洲川周辺に「野洲の宮」と呼ばれた宮があったという。

 昼子姫(稚姫君神・下照姫)が夫の思兼命とともに天之忍穂耳尊の養育にあたられた場所である。
 同時に『秀真伝(ほつまつたゑ)』でいう天之誓約が昼子姫と素盞鳴命の間でなされた場所である。
 天之誓約の場所には2ヶ所ある。
 神が人体をもって現れる前の天之誓約の場所と、人体をもって現れたあとの天之誓約の場所だ。
 五社神社を「野洲の宮」というには野洲川から位置的に離れていると思うが、「下照姫命と思兼命」を祀っているところを見ると、五社神社の創祀に神代の記憶が想起されてきているのかもしれない。
 遠い神代の記憶を偲ぶ姿勢に霊線が通るものだと思う。

平成22(2010)年5月5日(水)【4ケ所】、天照大神の天之誓約〜観音寺山・佐々木山

観音正寺 滋賀県近江八幡市(地図→ いつもNAVI
 観音正寺

観音寺山〔繖山-きぬがさやま〕 滋賀県近江八幡市(地図→ いつもNAVI
 観音寺山。
 観音正寺の山頂駐車場まで車で行ける。
 観音正寺(繖山-きぬがさやま)から(観音寺山・繖山-きぬがさやま)までの登山道はほぼ全体に石段等が整備された歩きやすい道だった。

○車で観音寺山〔繖山-きぬがさやま〕に行く途中、蛇を踏んでしまった。

 5月3日青連山(せいれんさん)にいくときも車で蛇を踏んでしまっている。
 天照大神と素盞嗚尊の天之誓約に関わる2つの山に行く途中で同じように蛇を踏んでしまっている。
 これには何かある。

観音寺山〔繖山-きぬがさやま〕の三角点に立ち、佐々木山を撮影。

 三角点に立っていると大きなクマンバチが2匹、3匹と周回してくる。
 そのため三角点から離れて祝詞を奏上。
 すると、三角点のある位置に天照皇大御神が降り立たれた。
 天照皇大御神の降り立たれる地点なので、人の足で汚されないように、大きなクマンバチが周回していたらしい。
 観音寺山〔繖山-きぬがさやま〕はそういう山なのだ。

佐々木山(小中山・常楽寺山) 滋賀県蒲生郡安土町常楽寺1番
 観音寺山〔繖山-きぬがさやま〕の次に佐々木山(小中山・常楽寺山)を望める地点に移動。
 佐々木山(小中山・常楽寺山)は登る道がハッキリついていないらしい。
 佐々木山(小中山・常楽寺山)に向かって祝詞を奏上すると天照大神が佐々木山(小中山・常楽寺山)に降り立たれた。
 天照皇大御神は神が神を信仰する中心に向かう流れであり、中心の天照皇大御神に向かう流れに呼応して光や音として現れてくる、光として現れてきた場合が天照大神。
 天照皇大御神と天照大神は位置が違う存在だ。
 天照大神が人体を持って現れたのが天照神。

沙沙貴神社 滋賀県蒲生郡安土町常楽寺1番
 8月11日(火曜日)は沙沙貴神社から参拝を始めた。
 日置神社のところでも触れたように、300万年前の大濡煮・少濡煮の御世、日置神社と沙沙貴神社は三々九度の杯(さかずき)の伝承発祥地だったのだろう。
 さらに、沙沙貴神社と日置神社がある辺りは、天照大神と素戔嗚尊が天之誓約をされた場所でもある。
 天照大神は滋賀県蒲生郡安土町の沙沙貴神社(ささき)の奥宮があった山に立たれ、素戔嗚尊は日置神社の奥宮があった山に立ち、琵琶湖を差し挟み天之誓約をされたのだ。
 神と神が互いに誓いを立てる、という点で滋賀県高島市今津町酒波の日置神社と滋賀県蒲生郡安土町の沙沙貴神社(ささき)は日本において群を抜きん出た神社であったのだ。

阿賀神社 滋賀県東近江市小脇町2247
滋賀県神社庁の阿賀神社のページ

平成22(2010)年5月5日(水)【2ケ所】、奇杵命と竹子姫

天之御中主尊神社 滋賀県近江八幡市大字中之庄612番地612(地図→ いつもNAVI
滋賀県神社庁の天之御中主尊神社のページ
 天御中主神 を祭神とする。

天之御中主尊神社で祝詞の奏上すると

「この宮は天之御中主神を祀る宮ではない」
「虚空蔵菩薩と現れる神を祀る宮だ」
 といわれる。

 空海が

「大日如来とともに降り立って・・」
 随行する菩薩を6・7名掲げていたなかに「虚空蔵菩薩・勢至菩薩・・」とあった。
 虚空蔵菩薩を明星天子(金星)と理解するなら、明星天子(金星)とは「ルシファー」の別名である。
 鞍馬山に続き納得できるものがある。

大嶋奥津嶋神社(おおしまおきつしま) 滋賀県近江八幡市北津田町529(地図→ いつもNAVI
滋賀県神社庁の大嶋奥津嶋神社のページ
 大国主神 興津島比賣神 を祭神とする。

○最後の探訪地大嶋奥津嶋神社(おおしまおきつしま)で祝詞の奏上

「わが宮によく訪ねてくだされた」
 三輪神社で聞いたことのある声なので奇彦命だろう。
 この地で奇杵命(大国主命)と竹子姫が結婚され、奇彦命・高子姫・味耜高彦根命の3人の子を産んだ。
 国譲りから55,373年後の紀元前1,499,704年、奇彦命は、奇玉火之明尊の第一次天孫降臨のとき大物主に任じられているが官職を辞し(20-9)、この地に蟄居され父と母の宮を祀られたらしい。
 間もなく「瓊々杵尊を守れ」といわれ、三穂津姫を妻とし、万木の森(→与呂伎神社)を賜った。
 その地で奇彦命と三穂津姫は、子守神(万木麿命)を産んでいるらしい。

平成22(2010)年5月2-5日(日-水)今回は行けない神社

高島市安曇川町四津川の加茂神社 滋賀県高島市安曇川町四津川541(地図→ いつもNAVI
滋賀県神社庁の加茂神社のページ
 玉依姫命 加茂建角見命 を祭神とする。

水尾神社の北本殿跡 滋賀県高島市拝戸434(地図→ いつもNAVI
 人皇十五代応神天皇の第十一皇子速総別王も天成神道を学ぶため拝戸に来住されて、その四世の孫・彦主人王は磐城別王の五世の孫振姫を迎えて妃とし、振姫は当社の拝殿を産所として天迹部王、男迹部王、太迹部王の三児を同時に安産されました。
 太迹部王は後の人皇二十六代継体天皇であります。
 河北社は三児出産の時、父の彦主人王が北の仮社を建てて北極星に安産を祈られた仮社跡に、天迹部王が両親を奉祀する三重生大明神を創建されたもので、後年これが河北社として比盗_(振姫命)のみを祀る社となりました。

彦主人王御陵(ひこうしおう) 滋賀県高島市安曇川町田中1815-3(地図→ いつもNAVI
 彦主人王 振媛 を祭神とする。

三重生神社 滋賀県高島市安曇川町常磐木1239(地図→ いつもNAVI
滋賀県神社庁の三重生神社のページ
 彦主人王 振媛 を祭神とする。

南古賀の御霊神社 滋賀県高島市安曇川町南古賀823(地図→ いつもNAVI
滋賀県神社庁の南古賀の御霊神社のページ
 社伝及古老の口碑によると祭神吉備大臣

八王子神社 滋賀県近江八幡市南津田町6(地図→ いつもNAVI
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 天之忍穂耳命 天之穂日命 天津日子根命 活津日子根命 熊野久須比命 興津島比賣命 中津島比賣命 邊津島比賣命  を祭神とする。

活津彦根神社 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦4272(地図→ いつもNAVI
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 活津彦根命 を祭神とする。

北ノ庄神社 滋賀県近江八幡市北之庄町1098(地図→ いつもNAVI
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 天之忍穂耳命 中津島比賣命 天之穂日命 活津日子根命 興津嶋比賣命 邊津島比賣命 天津日子根命 熊野久須毘命  を祭神とする。

近江八幡市加茂町の加茂神社 滋賀県近江八幡市加茂町1691(地図→ いつもNAVI
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 加茂別雷命 玉依姫命 健角身命 を祭神とする。

新宮神社 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦3319(地図→ いつもNAVI
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 速玉之男神 事解之男神 伊弉冉尊
〔配祀神〕天照皇大神 瓊々杵尊 速須佐之男命 を祭神とする。

沖島の奥津嶋神社 (おきつしま) 滋賀県近江八幡市沖島町188(地図→ いつもNAVI
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 興津島比賣命 を祭神とする。

伊崎不動 滋賀県近江八幡市白王町1391(地図→ いつもNAVI
 平成8(1996)年10月24日(木曜日)の参拝に続いて2回目。
 当時は天之誓約がどこでどのように行われたかが見当つかなかったため、琵琶湖を望める伊崎不動に参拝させていただいたのだった。

馬見岡綿向神社 滋賀県蒲生郡日野町村井(大字)705(地図→ いつもNAVI
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 至恩郷が東にあり、御在所岳を越えると馬見岡綿向神社にでる。
 天穂日命 天夷鳥命 武三熊大人命 を祭神とする。
 社伝によると、
 神武天皇の時、彦健忍雄心命が出雲国より天穂日命に供奉し来り綿向山に鎮祀したという。
 欽明天皇6年、蒲生稲置三磨山部連羽咋に託宣ありて創めて祠を造営す。
 天武天皇12年、篠谷川厩上の地に奉遷す。此地に天夷鳥命の祠がありて合せて祀る。
 更に延暦15年現在の地に遷座する。
 延喜式神明帳に祀する馬見岡神社の論社である。