彦主人王御陵(ひこうしおうごりょう)【1】ここだけは紹介しておきたい!|滋賀県

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滋賀県高島市安曇川町田中1815-3( いつもNAVIによる広域地図
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 平成22(2010)年5月3日(月)、高島市の拝戸を中心に『秀真伝』の継承

水尾神社水尾神社の北本殿跡佐田神社三尾神社跡田中神社三重生神社彦主人王御陵(ひこうしおう)
第26代継体天皇の胞衣塚神代文字石の安閑神社南古賀の御霊神社

第26代継体天皇の父・彦主人王御陵(ひこうしおうごりょう)

第26代継体天皇の父・彦主人王御陵(ひこうしおうごりょう)

三上山

 以下は秀真伝序説二「伝来享受・諸本」の第26代継体天皇(507年3月3日 - 531年3月10日)からの引用

 速総別皇子(はやぶさわけのおうじ)が『秀真伝(ほつまつたゑ)』の根幹思想である天成る道を学んだことによって、玄孫(やしゃご)である彦太尊(ひこふとのみこと)、すなわち第26代継体天皇(507年3月3日 - 531年3月10日)がその思想を受け嗣ぎ、天つ日嗣を知ろしめたのち、天成る道によって国を治めた。
 ・・・・

 (旧、産所-さんじょ)の三尾神社のものとして伝わる『和解三尾大明神本土記』より

 其子太程ノ皇子、諱一成ト名ツク。其子枝裴皇子、諱頼一ト名ツク。其子淡海主人、諱一元ト名ツク。コノ君、三尾氏七世ノ孫振姫(六世三聞大一太范王ノ女振姫ナリ)、容顔美麗ナルヲキキ玉ヒテ、使者ヲツカワシ、三国ノ坂井に聘テ、水尾宮ニ納テ妃トシ、遂ニ、三子ヲウメリ

 とあり、この三子の一人こそ、のちの継体天皇であるとする。

 さらに『和解三尾大明神本土記』には、次のようなことも記されている。
 妃が臨月になった時、三尾大明神が一元王(かずもとおう)の夢に現れ、皇位を継承する皇子が生まれるので、お産にあたり父母ともに謹慎せねばならないと告げた。
 そこで、一元王(かずもとおう)は、神職の山崎氏を招いて相談したところ、山崎氏は山崎社の拝殿をもって産所とし、自らは南天に向かい安産を祈り、一元王(かずもとおう)は北に360歩離れた仮宮にて北極星に祈り、これによって三つ子を産んだというのである。
 この「産所」とは、のちの近江国高島郡産所村にあったとされる三尾神社跡のことであろう。
 滋賀県高島郡高島町下拝戸に鎮座する水尾神社の社記によれば、のちに継体天皇の両親を北の仮社跡に祀って三重生神社(みおう)と三重生(みえなり)の地名が残っているとする。興味深いことに、地元ではこの三重生の地は縁起のよい安産の場所として知られ、昔神道が盛んだったころは、臨月の女子がこの村に来てお産をし、産後75日してから帰ったということが伝えられている。この75日というのは、おそらく『秀真伝(ほつまつたゑ)』26紋(26-5)に記される、鵜葺草葺不合尊が生まれたときに、お産の神である勝手神(かってかみ)が彦火々出見尊に、
「君は産屋を覗いてはなりません。4月の望の日より75日間、日ごとに卯葺草(うがや)の産湯をお上げください。これは古より伝わる教えにございます」
 と進言した旨が記されていることと関連するものと思われる。
 三重生の地にて、産後75日過ごしたというのは、ただ居ただけでなく、薬草による産湯をつかわせていたのではないだろうか。
 また、安曇川町の伏原付近には第26代継体天皇の胞衣塚が残っている。
 元来新生児の胞衣は、その処理次第によって産婦に禍いをおよぼしたり、後日の出産に祟るとされ、日取りや方角に注意したり、それを行う物も定められているというような忌避すべき存在とされるが、これは『秀真伝(ほつまつたゑ)』にみえる胞衣の伝承が時代が下るにしたがい変質したものとみなせよう。

安土山からみる三上山

三上山からは生駒山(奈良県)と安土山を望める

 三上山からは第一次天孫降臨の舞台となった生駒山が望める。
 天照大神と素戔嗚命の天之誓約に関連がありそうな沖島を望むことができる。
 しかも火の国の中心を象徴する安土山を望むことができる。
 紀元前1,290,607年、瓊々杵尊は絶妙なポイントに三上山を造成されたのだろう。

彦主人王御陵(ひこうしおうごりょう)の地図

三尾神社跡(みお)