御機の二〔天七代床神酒の紋〕【1】ここだけは紹介しておきたい!|秀真伝(ほつまつたゑ)

マピオン地図
島根県八束郡八雲町周辺 ( いつもNAVIによる広域地図
 ⇒ 公式サイトはこちらです。

御機の二「天七代(あめななよ)床神酒(とこみき)」紋

『秀真伝(ほつまつたゑ)』の目次はこちら

御機の二「天七代(あめななよ)床神酒(とこみき)」紋の概略

【1】床神酒(とこみき)の由来をキッカケに神代七代の説明へ・・
【2】国常立尊の常世国から3代治まる
【3】4代目、大濡煮尊と少濡煮尊
【4】5代目、大殿内尊と大戸前尊
【5】6代目、面足尊と惶根尊
【6】7代目、伊弉諾尊と伊弉冉尊
【7】笹気と常世の井の口

(※)〔註99〕少波神に因む酒波

   〔註100〕佐々木山

◆ 一般的に神代七代とは

 (1)国之常立神(くにのとこたちのかみ)
 (2)豊雲野神(とよぐもぬのかみ)
 (3)宇比邇神(うひぢにのかみ)・須比智邇神(すひぢにのかみ)
 (4)角杙神(つぬぐいのかみ)・活杙神(いくぐいのかみ)
 (5)意富斗能地神(おおとのじのかみ)・ 大斗乃弁神(おおとのべのかみ)
 (6)淤母陀琉神(おもだるのかみ) ・阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)
 (7)伊邪那岐神(いざなぎのかみ)・伊邪那美神(いざなみのかみ)
 (左側が男神、右側が女神)
 ・・・といわれる・

【1】床神酒(とこみき)の由来をキッカケに神代七代の説明へ

 『秀真伝』御機の二「天七代(あめななよ)床神酒(とこみき)」紋(鳥居礼編著、八幡書店、上巻P223-223 )
このときは 御子(みこ)忍仁尊(おしひと)の 「忍仁」の「仁(ひと)」の字は、天君が秀真の教えの一(ひ)から十(と)までを心尽くし実践することから「一十(ひと)」という音を御名に付けるという独特の意義をもつもので、「仁(ひと)」の字は、忍穂耳尊以外、天照神の若仁(わかひと)、瓊々杵尊の清仁(きよひと)をはじめ、代々の天君の諱として踏襲されている。人の音義も「一十(ひと)」に同じ。
嫁(とつ)ぎ前(まえ) 高木命(たかぎ)が床神酒(みき)の 『日本書紀』などでは、「とつぐ」というと妻となるという意味に多く使われるが、『秀真伝』では妻を娶ることに多く使われる。なお、「とつぐ」は「瓊嗣ぐ」の義と考えられる。
紋(あや)請えば    

【2】国常立尊の常世国から3代治まる

 『秀真伝』御機の二「天七代(あめななよ)床神酒(とこみき)」紋(鳥居礼編著、八幡書店、上巻P464-465 )
  神の教ゑは 小笠原長武の『おやのひかり』では、・・天照神が語ったように記している。たしかに天照神の語った教えというものが本書の大きな部分を占めており、本紋の眼目である「床神酒」の叙述でも、伊弉諾尊・伊弉冉尊の代にかなりの比重がさかれていることから、それまでの伝承を踏襲した形で、天照神が「床神酒」のわけを語ったという解釈を導くことも不可能ではない。
「古(いにしえ)の 天地(あめつち)ウビの いわゆる天地開闢の様子を記した部分。 14-4、15-5、16-3、18-3・4・5、19-3、21-12、22-2。17-2、28-2、37-20。 「天地ウビ」他の箇所には「アワウビ」「ウビお地球」「アホお天 ウビを地球」「アワウビの アワは清くて 宗陽神 ウビは濁りて 源陰神」とみえる。「アホ」と「アワ」は同質のものである。さらに18紋には、「ウビコ煮ゑ 煮上がる山ぞ」(18-3)とみえる。「アワ」は清らか、陽と関係する。14紋に「陽は清く 軽く巡る」(14-4)とあることから「アワ」はさらに軽きことと関係してくる・・・。このようなことから「天地ウビ」とは「天地アワウビ」の「アワ」が省略されたこのと考えてよいだろう。
極(きは)無きに 兆(きざ)し分るる 兆し」とは天御祖神の初の一息のこと。初の一息が吹き、天地、アワウビ、陰陽などが分かれていく。
アウの陰陽(めを) 陽(を)は天(あめ)となり 「アウの陰陽」の「アウ」は「アワウビ」の節略か、天御祖神を意味する「アウワ」の節略か?
「陽は天」を他の原文から考察すると次のような一貫した関係にある。
陽-アワ-天-日-清-軽-ウル-ゾ苗-中心-赤宮-ヲセ-先行性-左回り。
陰-ウビ-地-月-濁-重-ナミ-ロ苗-心葉-白宮-イモ-後行性-右回り。
日の輪なる 陰(め)は地(くに)となり  
月となる 神その中に この「神」とは、人身としての神人である。
生(あ)れまして 国常立尊(くにとこたち)の 始源神(しげんしん)としての天御祖神アウワの転生神と考えられる。本紋だけをみると、まず国常立尊が出現したように記されているが、実は天御祖神の転生として、天御祖神がはじめて出現し、のち国常立尊が地上に現れたことが18紋の記述などからわかる(18紋註14参照)。
なお「クニトコタチ」の「クニ」は「アメノミナカヌシ」の「アメ」に対する語である。
常世国(とこよくに) 八方(やも)八降(やくだ)りの 常世国は、古代日本人の代表的世界観を示す用語として早くから注目され、多くの学者によって取り上げられてきた主題である。
常世国そのものが、当初は日高見国をさすものではなく、天地開闢当時はじめて生み出された世界の8つ国々の汎称であったのであり、その後、時代が下るに連れて、世が乱れ、かろうじて常世国の風儀を残し伝えていたのが日高見国であったことから、特に日高見をさすようになったということが本書の記述からも容易にうかがわれる。
世界の八方に8人の御子を生んだという「八方八降り御子」とは18紋に「国常立尊の 八降り子 何(なに)国狭槌尊(くにさづち) 八方主(やもぬし)と 成りてトホカミ ヱヒタメの」(18-6)とあるトホカミヱヒタメ八神のこと。15紋に「国常立尊の 八方お巡りて 西の国 玄圃積みて カに当る 名も赤県の豊国主尊(とよくんぬ)」(15-22)という記述から、八御子神のうちカの神は崑崙山を中心とする国を治めていたことがわかる。
(※)なお脚摩乳命・手摩乳命は八女を生んでいる。
御子(みこ)生(う)みて みなその国お  
治(をさ)めしむ これ国君(くにきみ)の 国常立尊の御子のトホカミヱヒタメ八神が、国君の起源とする重要な箇所
はじめなり 世嗣(よつぎ)の神は  
国狭槌尊(くにさづち) 狭霧(さぎり)の道お 国常立尊の八降りのトホカミヱヒタメ八神の称え名。
「狭霧の道」国常立尊の常世の道に次ぐ道。『三笠紀』残篇「高天原成る紋」に「御祖神 幣染むる 春秋の 息は管より 狭霧なす ヱは譲る霧 日お招き 冬一陽返す トは夏に 月の陰返す 春秋ぞ 天譲る日は 天の狭霧 国譲る月 埴の狭霧 てれば讃ゆる 御中主神 天霧に乗りて 八方に行き 日月の道お 譲り埴に 県の神の 色国と 名付け天の道 埴の道も 葦のごとくに 立つゆえに」(み6-10)とあり「天(あ)の狭霧」と「天(あ)の道」「埴(は)の道」などの言葉がみえる。小笠原通當の『秀真政伝』に「サギリノミチオ、とハ八神道と申す事なり。天御祖神の御勅命を申なり。天の命を教えても受けずして、盗人を成し或ハ悪魔を成ものハ、椿の狭槌を以打殺して、国を治めよとの御勅命なり」と記されている。
この天御祖神の教えの伝承により、伊弉諾尊・伊弉冉尊は矛を以て国を治め、天照神は八重垣剣を作らせて国を治めた(23紋など参照)。
受けされば 狭槌(さづち)に治む 「狭槌」はあて字。「サヅチ」の「サ」は「さやけ」や「さわやか」に通じる語であろう。「清雄鹿」の「サ」と同義。
八御子神(やみこかみ) 各々(おのおの)御子(みこ)お  
五人(ゐたり)生む 八方(やも)の世嗣(よつぎ)は  
豊国主尊(とよくんぬ) 天(あめ)より三(み)つの 「天」とは国狭槌尊の天君のこと。18紋の「国に生む子は 三行(みくだ)りの 君臣民ぞ」(18-6)の記述と同じことを意味している。この君・臣・民の三位こそ、日本文化の底流にある本質である。
業(わざ)お分(わ)け 君(きみ)臣(とみ)民(たみ)の  
三行(みくだ)りの 神(かみ)は百二十(もふそ)の  
御子(みこ)ありて 天成る道は 天界高天原に坐す御祖神に連なる政事の道、天君の踏み行うべき道。この「天成(あめな)る道」は本書および『三笠紀』に記されたもろもろの教えや、道の総称として使われていると考えられている。・・・。なお、18紋に「人成る道は トお用ひ そのもとは ロ手」(18-8)とみえ、「天成る道」に対し、「人成る道」というものも存在したことがうかがえる。これらは中国思想における「天之道」「人之道」とは異なる固有思想である。
女(め)もあらず 三代(みつよ)治(をさ)まる これはこの時代まで女神が存在せず、男神ばかりであったという意味ではない。・・・。この「女もあらず」とする三代の神の次は大濡煮尊であるが、このときに婚礼の制が確立し「諸民もみな 妻定む 天成る道の 備わりて」とあることから、「天成る道は 女もあらず」とは、天成る道に、女の道、妻の道が定まっていなかったと考えるのが妥当である。
「三代」とは、国常立尊、国狭槌尊、豊国主尊の三代。

【3】4代目、大濡煮尊と少濡煮尊

 『秀真伝』御機の二「天七代(あめななよ)床神酒(とこみき)」紋(鳥居礼編著、八幡書店、上巻P465-467 )
真栄木の 植ゑ継ぎ五百(ゐも)に  
満つるころ 世嗣(よつぎ)の男神(をかみ)  
大濡煮尊(うびちに)の 少濡煮尊(すびち)を入(い)るる 大濡煮尊が少濡煮尊を妻と定めたということ。
幸(さいあい)の その本居(もとおり)は 豊かに栄えるその由来は
越国(こしくに)の ヒナルの岳(だけ)の 人成るの岳の略か。あるいは雛るの岳の意か。
『秀真政伝』に「越前雛ヶ嶺」とみえる。
神宮(かんみや)に 木の実お持ちて 木の実をお持ちになった御子が生まれた
生(あ)れませば 庭に植ゑ置く  
三年(みとせ)のち 三月(やよゐ)の三日(みか)に 3年後の3月3日に
花も実も 百(もも)成るゆえに 花と実が100個づつなった。
桃の花 二神の名も 百(もも)の数にちなみ、桃(もも)と名付けた
桃雛木尊(ももひなき) 桃雛実尊(ももひなみ)なり  
(ひな)はまだ 人(ひと)成(な)る前(まえ)よ ヒナ」とはヒトに達していない、ヒトでないという義か。ヒトは一から十の教えを全うする「一十」の義
君(きみ)はその 木の実によりて  
男神(をかみ)は 女神(めかみ)はとぞ  
名付(なづ)きます 人(ひと)成(な)るのちに  
三月(やよい)三日(みか) 神酒(みき)造(つく)り初(そ)め  
奉(たてまつ)る 桃(もも)下に酌め(く)る  
神酒(みき)につき 移り勧(すす)むる 「ミキ」という名なので、実である女神からまず飲み、木である男神が次に飲むということを指している。
女神(めかみ)まづ 飲みて勧(すす)むる  
のち男神(をかみ) 飲(の)みて交(まじ)わる  
床(とこ)の神酒(みき) 身(み)暑(あつ)ければや  
明日(あす)御朝(みあさ) 寒川(さむかわ)浴びる 神奈川県高座郡寒川町に旧国幣中社の寒川神社がある。祭神は寒川比古命と寒川日女命の二神である。『日本総国風土記』によれば雄略天皇の御代に幣帛を奉納したことが記されているので創建は極めて古いとされている。
本書の伝承と関連するであろうか。
袖(そで)濡(ひ)ぢて 大小(うす)の煮心(にごころ) 「煮心(にごころ)」は熱く燃え上がった心。その熱き心が寒川を浴び冷えて一連の神儀が完成されたので「全きとて」と記されている。
「大小(うす)」は、男神は衣が大いに濡れ、女神は少しく濡れたという意味。
全(また)きとて 名も大濡煮神(うびちに)と  
少濡煮神(すびちかみ) これもウビ似る 本書の中でも特に深い解釈を要するところである。
十八紋に「ウビお地球(くにたま)」(18-3)、「ウビコ煮え 煮上がる山ぞ ノ手結び 野風に乾く」(18-4)などとあることより、「ウビ似る古事」の内容は、天地開闢のとき、アワ、ウビが分化して陽神、陰神が生じた。アワは天となり、煮上がるウビは風に冷えて地となり山となった。
これがのちの世、男の道・女の道が確立し婚儀が制定され、三々九度の床神酒を飲み交じり、交じり終えて熱き身と煮えた心を冷やし一十の道を全うしたのであり、それは天地開闢の一連の古事と全く同一のものであった、ということになる。
古事(ふること)や 大(おお)き少(すく)なき  
ウスの名も この雛形(ひながた)の このような桃雛木尊、桃雛実尊の故実がのちの風儀の雛形となった、三月三日の雛祭りのもととなったという意。
男(を)は冠(かんむり) 大袖袴(うほそではかま) 装束がこのとき定まったことを示している。
女(め)は小袖(こそで) 上被衣(うはかつき)なり  
このときに みな妻入れて  
八十連(やそつづ)き 諸民(もろたみ)もみな 本紋〔2-5〕に「八百(やも)続(つづ)きまで」とみえる。
多くの臣民が一勢に妻を定めたことをいうのか、その風習が永く続いたことを象徴的にいっているのか難しいところである。
妻定む 天(あめ)成(な)る道の  
備わりて たぐひなるより 「たぐひ」は組のこと、夫婦が組となって生活することが定まったときより、ということか
年(とし)数え 五百(ゐも)継(つぎ)天(あま)の 国常立尊より天真栄木を植え継ぎ植え継ぎして、五百本に達したということ。つまり三千万年経たことになる。
真栄木や    

【4】5代目、大殿内尊と大戸前尊

 『秀真伝』御機の二「天七代(あめななよ)床神酒(とこみき)」紋(鳥居礼編著、八幡書店、上巻P467-469 )
  五世(ゐつよ)の神は  
大殿内尊(おおとのち) 大戸前尊(おおとまえ)なり 『日本古典文学大系・日本書紀』の補注によれば、「は男性を表し、は女性を表す。は、ヲヂ、チチなどの、チと関連し、はメ(女)と通用する」などと記されているが、これは以下の本文の記述にあるように、夫婦となる前は男神は殿の内に居て、女神は戸の前に居て同席せずとの教えを示した名であることがわかる。これにより、男神を御殿と称え、女神を御前と称えるのちの風儀となったのである。
角樴尊(つぬぐい)は 大殿(おおとの)に居て  
活樴尊(いくくい)お 戸前(とまえ)に相(あひ)て  
妻となす 故(かれ)男(を)は殿(との)ぞ  
女(め)は前(まえ)と 八百(やも)連(つづ)きまで  

【5】6代目、面足尊と惶根尊

 『秀真伝』御機の二「天七代(あめななよ)床神酒(とこみき)」紋(鳥居礼編著、八幡書店、上巻P469-469 )
六代(むよ)の嗣(つぎ) 面足(おもたる)の神 面足尊という名は、その事跡に由来する神名であろうと考えられる。なお、『秀真政伝』および後文の記載より、北は東北地方から、南は九州まで国が生まれていたことがわかる。
惶根尊(かしこね)と 八方(やも)お巡(めぐ)りて  
民(たみ)お治(た)す 近江(をうみ)安曇(あつみ)の 『秀真政伝』に「近江国高嶋郡安曇の川中島に天中柱を立て」とみえる。
 志呂志神社の由緒書きに照らすとこの川中島志呂志神社の旧跡地である可能性がある。
 「 明和7年火災にて村内8分通り焼亡のとき悉く焼失、延喜式内の神社にして住昔川中島の白州に鎮座し所知食天皇ゆえに志呂志の天皇と称し奉り白州の神社とも申せし由。
 明治9年村社に加列。」
 とみえる。
 こういう由縁があってこそ瓊々杵尊は第二次天孫降臨のルートに入れられたのかもしれない。
中柱(なかはしら) 東(ひがし)は山本(やまと) 日高見のことを、大山本日高見の国とも称した。
日高見(ひだかみ)も 西(にし)は月隅(つきすみ)  
葦原(あしはら)も 南(みなみ)阿波(あわ)素戔(そさ)  
北は根(ね)の 大和(やまと)細矛(ほそほこ)  
千足(ちたる)まで およべど百万穂(もよほ)  
嗣子(つぎこ)無く 道(みち)衰(おとろ)ひて 子孫の繁栄と政事の繁栄は一体であるとする日本伝統の本質を示している重要な部分。
弁(わいため)無(な)   弁(わいため)とは生活の規範、分別、わきまえのこと。

 志呂志神社の旧跡地は「川中島」にあったのだという。


大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )

滋賀県高島市安曇川周辺の地図

【6】7代目、伊弉諾尊と伊弉冉尊

 『秀真伝』御機の二「天七代(あめななよ)床神酒(とこみき)」紋(鳥居礼編著、八幡書店、上巻P469-469 )
  時(とき)に天(あめ)より 天とは宮中に坐す面足尊のこと。
二神(ふたかみ)に 『壺(つぼ)は葦原(あしはら) 祭政上の要所のこと。
日高見の方壺(けたつぼ)
原見山のハ壺(はつぼ)
近江の瀛壷(おきつぼ)
千五百(ちゐも)秋(あき) 汝(いまし)用(もち)ひて  
治(し)らせ』とて 瓊(と)と矛(ほこ)賜ふ (と)と(ほこ)とは別々の神器で二十三紋に「瓊(と)は璽(をして) 矛(ほこ)は逆矛(さかほこ)」〔23-6〕、「通(とほ)る真(まこと)の 瓊(と)の教(をし)ゑ」〔23-6〕とあり、「瓊」は璽からなるものであることがわかる。
さらに『神勅基兆伝太占書記』の「太占図」下註に従えば「太占図」そのものを二神に授けたことになる。
『日本書紀』には「天瓊矛(あめのぬぼこ)」、『古事記』には「天の沼矛(ぬぼこ)」とあるがどちらも誤伝である。
二神(ふたかみ)は 浮橋(うきはし)の上(ゑ)に 浮橋」とは橋渡しのこと
探(さぐ)り得(う)る 矛(ほこ)の滴(しづく)の  
オノコロに 宮殿造り ヲノコロは十八紋にその伝承の詳細が記されている。『秀真伝』の奥儀中の奥儀。このオノコロの4文字の中に天地開闢の伝承が込められている。十八紋に、「の璽(をして) 野風(のかぜ)に乗れる 轡(くつわみ)の 音(おと)はコオコオ踏む跡の 野に人生みて 乗るは手 根地(ねわ)に喜ぶ 根地(ねわ)は手 人なる道は を用ひ そのもとは手 ヲノコロの 四つは地(わ)に合(あ)ひ 国(くに)治(をさ)む 業(わざ)とこの真手(まて)」〔18-8〕とある。
ヲノコロ」は天御祖神が、この地上にはじめて国を生み経営したことを示している。
その開闢時の風儀を二神が再び復古しているのである。
宮殿は八尋の殿のこと。
大弥真瓊(おおやまと) 万物(よろもの)生(う)みて 瓊の教えにより、弥々真の道が通ったので「弥真瓊」の国号ともなった。
人草(ひとくさ)の 御食(みけ)も蚕飼(こか)ひも 「人草」とは民のこと。
道(みち)成して 弁(わいため)定(さだ)む 生活の規範、分別、わきまえ。
功(いさおし)や 天の神代(かみよ)の  
七代目(ななよめ)お 嗣(つ)ぐ糸口(いとくち)は  
常世神(とこよかみ) 木の実(み)東(ひがし)に 「常世神」とは国常立尊のこと。28紋に「種植ゑて 明れば生ゆる 真栄木お 葉木国宮に 国常立尊の 植ゑて国名も 日高見の」(28-2・3)とあり、常世神が植えた木の実とは古代暦の天の真栄木の種であることがわかる。
植(う)ゑて生む 葉木国(はごくに)の神  
日高見(ひだかみ)や 高天原(たかま)に祭(まつ)る 天界にして言霊の四十九の神々が鎮座するところを高天原といい、また、この地上にてそれら元明けの神々を祭る聖地をも高天原というように、高天原については二つの意味がある。
天御中主神(みなかぬし) 橘(たちばな)植(う)ゑて 本書によれば国常立尊の前身と考えられるが、『三笠紀』の所伝は、『秀真伝』とは異なっていて難解な点とされる。
橘は祭政の事始めの神籬(ひもろぎ)依代(よりしろ)として重要な神木。
後世の「たてばな」と関係するものと考えられる。
生(う)む御子(みこ)の 高皇産霊(たかみむすび)お  
諸(もろ)讃(たた)ゆ 木(き)の常立尊(とこたち)や 「木の常立」とは、第一代高皇産霊の称え名。
その御子(みこ)は 天鏡神(あめかがみかみ)  
筑紫(つくし)治(た)す 大濡煮尊(うひちに)も受く 大濡煮尊も教えを受けた、という意味。
この御子(みこ)は 天万神(あめよろづかみ)  
素阿佐(そあさ)治(た)し 沫蕩尊(あわ)析蕩尊(さく)生めば 素阿佐は四国のこと。
沫蕩尊(あわなぎ)は 根(ね)の白山本(しらやまと)  
千足(ちたる)まで 法(のり)も通(とほ)れば  
生む御子(みこ)の 諱(いみな)高仁尊(たかひと) 伊弉諾尊のこと
神漏岐(かみろぎ)や 高皇産霊(たかみむすび)の 神漏岐は男性祖神の意と解される。
「カミ」は神であり、「ロ」は十八紋に「人成る道は トお用ひ そのもとはロ手」〔18-8〕とあり、瓊の教えと同質の語義をもつと考えられ、「ギ」は木の意味の「キ」で男性を表すものと思われる。
五世(ゐつよ)神(かみ) 諱(いみな)玉杵(たまぎね)  
豊受神(とようけ)の 姫の伊佐子(いさこ)と  
浮橋(うきはし)を 速玉之男命(はやたまのを)が 『日本書紀』「神代上」四神出生章、第十・一書に黄泉国において唾く時に化生した神として「号(なづ)けて早玉之男(はやたまのを)と曰(まう)す」とみえる。
出雲国意宇郡の速玉神社、紀伊国の熊野速玉神社などがこの神を祀る。
渡(わた)しても 解(と)けぬ趣(おもむ)き  
解き結ぶ 事解之男命 速玉之男命と同じく『日本書紀』「神代上」四神出生章、第十・一書に「次に掃ふ神を、泉津事解之男と号(なづ)く」とみえる。
紀伊国熊野三山の祭神の中に同神を祭る。
方壺(けたつぼ)の 西南(つさ)の筑波(つくば)の  
伊佐宮(いさみや)に 諾(うなづ)き編(あ)みて  
伊弉諾尊(いさなき)と 伊弉冉尊(いさなみ)となる  
二神の 交(まじ)わるときに  
床(とこ)神酒(みき)や 床(とこ)は瓊(と)矛(ほこ)に 「床(とこ)」の語源説を載せている。
「トコ」というのは瓊(と)の教えの「ト」、子の「コ」という意味であるとする。
子お求む    

【7】笹気と常世の井の口

 『秀真伝』御機の二「天七代(あめななよ)床神酒(とこみき)」紋(鳥居礼編著、八幡書店、上巻P471-472 )
  笹気(ささけ)は常世(とこよ)  笹気は酒のこと。
 竹(笹)に雀が籾(もみ)を入れるのを見て作ったことに因った名。
 後世「ササ」ともいう。
 『秀真政伝』に「故実を以、今に酒造家に新酒出来のしるしに門に、竹笹を建なり」とある。
 常世については、この場合いく通りかの解釈が成り立つ。
 第一は「常世」を日高見国と狭義に解し、次行の「井の口」を、その日高見の某所とする考え方。
 第二は、小笠原通當が『秀真政伝』において、「近江国高嶋郡猪口村」と比定したことに基づき、「井の口」を近江国とする考え方。
 そのときに、「常世国」を広義に解し、国常立尊の常世の道の政治風儀を伝えた土地とする考え方、あるいは、「常世」を国常立尊の常世の道の政事が行われていた大濡煮尊の御世とする考え方などが導き出せる。
井(ゐ)の口(くち) 少波神(すくなみかみ)の  小笠原通當は『秀真政伝』において、「近江国高嶋郡猪口村」、現在の滋賀県高島市新旭町安井川井之口にこれをあてるが、本書の文脈からは単純に近江井の口と断定しがたい。
 なお、この井の口には、延喜式内の大荒比古神社がある。
 ただし、祭神は豊城入彦命(崇神天皇の第1皇子)、大荒田別命(崇神天皇の四世孫)二座に、後年、近江源氏佐々木の一族が合祀した 少彦名命、仁徳天皇、宇多天皇、敦実親王の四座であり、少波神との関連はほとんどうかがうことができない。
竹株(たけかぶ)に 雀(すずめ)が籾(もみ)お 『秀真政伝』に「少名味神大竹を好みて藪を造玉ふに或秋稲かふじを雀が竹切り株に入りて酒を造りて呑しを准考て麹を造りて竹筒に入り初めて酒を造玉ふ」
入(い)るお見て 神酒(みき)作(つく)り初(そ)め  
勧(すす)めけり 桃雛木尊より  
笹波神(ささなみ)と 名(な)お賜(たま)ふより 笹波神は〔註99〕を参照
名も笹気(ささけ) その神(かみ)居(い)ます  
笹気山(ささけやま) 九九(ここ)の酌(くみ)とは 笹気山は〔註100〕を参照
九九(ここ)の酌(くみ)とは、三々九度のこと。
三月三日(やよいみか) 盃(さかつき)生める 盃は逆月のこと
神の名も 雛岳(ひながたけ)神とぞ 桃雛木・桃雛実二尊のこと。
讃(たた)ゆなりけり」    

 〔註99〕笹波神(ささなみかみ)

 この少波神(すくなみかみ)の賜ったササナミという神名は、近江国高島郡川上荘酒波(現在滋賀県高島市今津町酒波)と関連するかもしれない。
 『高島郡誌』等の記すところによれば、当地にある旧郷社日置神社は、元酒波岩剱大菩薩と称されたとあり、酒波神(さなみかみ)との関連を推測せしめるに充分である。
 ただし、祭神は素戔嗚命・日置宿禰命・稲田姫命・武甕槌命・天櫛日命・大国主命・武内宿禰・源頼道公の八柱であり、笹波神(ささなみかみ)はみられない。
 また、同社の由緒に関しても『高島郡誌』には「縁起に云ふ、腹赤ノ池に大蛇あって人民を悩ます、第11代垂仁天皇(紀元前29年-紀元後70年--すいにんてんのう)の時、素盞鳴尊・稲田姫命示現あって退治し給ふ。
 其時の大蛇の尾より得たる剣を投げて留まりし里に岩剣の神と崇め、頭角を谷河に投げ入れ其流れ留まりし所を角山と号し角神を祀る。
 武内宿禰霊夢によりて社殿を創建する云々」
 と記すのみである。
 なお、同郡百瀬村森西(現在高島市マキノ町森西)に所在する旧村社大處神社の摂社に酒波神社(元酒波大菩薩と称されたという)があり、祭礼の際に、笹粽(ささちまき)濁酒(にごりざけ)鮒(ふな)大豆大根漬けなどを献進するのを例としたと伝えられている。
 あるいは、この社の方に酒波神は関連するように思われないこともないが、同書によれば、貞和5年(1349年)酒波村より勧請されたとあるので、これでは時代が新しすぎて疑問である。
 今しばらく断定を差し控える。
 なお、酒波は、後世近江の国の一名とされ、和歌に詠まれた楽浪(佐々名実)という言葉とも関連するかもしれない。
 その点、注意を要する。

 〔註100〕笹気山(ささきやま)

『秀真政伝』に
 「其神孫東近江の佐々木山に往玉ふ。山本に佐々木の神社ありて元祖笹気の神を祭」
 とみえる。
 ここにいう佐々木山とは、観音寺山の西南部の崎が細い丘になって安土町を囲むようになっている標高154メートルの山のことである。
「佐々木の神社」というのは、この山の低地にかけて広がる森を背景に所在する佐々木神社(現在の滋賀県蒲生郡安土町常楽寺にある)のことを指すようである。
 この佐々木神社は、延喜式内社の由緒をもつ古社であり、中世近江国内で権勢を誇った近江源氏佐々木氏の氏神になったことは、史に明らかであるが、その由緒については、寒川辰清の『近江国輿地志略』所引「佐々木社記」に
 「近江国蒲生郡佐々木明神者、延喜式所載沙々貴神社是也。伝称、此社祀少彦名命且奉崇仁徳天皇、今不得其縁起、則未詳其由来」
 と記されているように、今日管見に入る資料の範囲内では一切不明とされている。
 現在の祭神は、少彦名命・大彦命・仁徳天皇・宇多天皇・敦実親王の4座とあり、小笠原通當のいう「元祖笹気の神」である少波神とは、一見まったく無縁の社のようにもみえるが、同社の社名の表記の一つに「篠笥」とするものもあり、竹筒より笹気を造った少波神と同社の間になんらかの関連が存在し得るかもしれない。
 あるいは、現在同社に少彦名神として祀られている神こそ、本来は少波神であったかもしれない。
 『秀真政伝』によれば
 「佐々木の神社ありて、元祖笹気の神祭後の神代に、少彦名神此宮にて和礼を教」
 とあり、『秀真伝』において少波神と少彦名神は時代を異にするとはいえ、まったく無縁の神ではなかったことを記している。
 後世、これが因となって、少波神と少彦名神の二神を同一神とみなす訛伝が生じるに至り、少波神の神名は忘れ去られ、あるいは同一視され、代わって、少彦名神が同社の祭神とみなされるようになったという可能性も否定しがたいように思われる。
 ただし、これはあくまでも小笠原通當の『秀真政伝』の説が正しいものとした場合の話であって、本書の原文そのものの解釈からこのような結論を導くことができるかどうかは、今後の検討に譲る。