御機の十〔鹿島立ち釣鯛の紋〕【1】ここだけは紹介しておきたい!|島根県

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御機の十〔鹿島立ち釣鯛の紋〕

『秀真伝(ほつまつたゑ)』の目次はこちら

御機の十〔鹿島立ち釣鯛の紋〕の概略

【1】紀元前1,555,088年、出雲に大社(おおやしろ)が建てられていることが発覚

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の九「八雲討ち琴造るの紋」(鳥居礼編著、八幡書店、上巻P492-492 )
二十五鈴(ふそゐすず) 九十三枝年(こそみゑとし)の 大濡煮尊の御世から144万6,011年の夏(紀元前1,555,088年)
サアヱ夏 香久(かぐ)枝(ゑ)萎(しぼ)みて 「香久枝」国常立尊の常世の道の象徴としての橘。
太占(ふとまに)の 「シチリ」は屋漏(やも)り  
激しくて 西北隅(つねすみ)の国 出雲国のこと
見せしむる 緯部(よこべ)帰(かえ)りて 織物の緯糸(よこいと)にちなみ、邪(よこしま)を糾す、目付役的官職。
申(もふ)さくは 「出雲(いずも)八重垣(やえがき) 「八重垣」は八重垣の臣である素戔嗚尊を象徴する言葉である。素戔嗚尊の子の大己貴命ということか、あるいは八重垣の宮に住んでいる大己貴命という義か。
大己貴命 満(み)つれば欠(か)くる  
理(ことわり)が 額(ぬか)を玉垣(たまがき) 「額」は、後世猫の額ほどの庭などと比喩されることから、神殿の庭のことと考えられる。
内宮(うちみや)と これ九重(ここのゑ)に 十一紋に「君九重の 褥降り」(11-8)、「多賀(たが)コフ 壺若宮の 殿門も 高屋甍も 悉く成り」(11-1)とあることから、「九重」は忍穂耳尊の坐す高屋の殿のことと考えられる。その高屋に比肩するような、高い宮を大己貴命が築いたということ。
小笠原通當の『秀真政伝』には、「高さ三十六丈の大宮を建」とある。
現在の出雲大社は、24.2メートル(8丈)で、神社建築の中でも比類のない大規模な建築とされ、さらに、藤原時代の記録によれば、48.5メートル(16丈)、社伝によれば、それ以前は98メートル(32丈)あったとされる。
比(くら)ぶなり」    

【2】紀元前1,555,088年、穂日命の出雲平定に派遣するも、3年経ても復命せず

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の九「八雲討ち琴造るの紋」(鳥居礼編著、八幡書店、上巻P492-493 )
  先(さき)に御子守(みこもり)  
思金命(おもいかね) 信濃(しなの)伊那洞(いなほら) 長野県下伊那郡に阿智という地名および阿智川がある。そして思金命を祭る阿智神社がある。
天霊(あち)の神 よりて七代(ななよ)の 忍穂耳尊の御子守役である思金命が神上がったので、七代高皇産霊を高杵尊が嗣ぎ、東北にて政事を掌り忍穂耳尊を補佐したということ。
伊勢国の天照神が、天の道を教化するのに対し、日高見の高天原は、白人・胡久美の裁判、ハタレ魔軍討伐の審議、出雲の大己貴命の糾明など、司法に関する政務を中心としているようである。
天児屋根命と武甕槌命との婚儀の許可も高天原に求めていることが注目される。
大嘗事(うなめごと) 高杵尊(たかきね)安国(やす)の  
今宮(いまみや)に 多賀(たが)若宮(わかみや) 忍穂耳尊のこと
コフの殿 高皇産霊尊の 「多賀のコウ」(序-5)、「多賀のコフ」(11-1)、「カウの殿」(11-4)、「カウの栲幡」(11-4)、「多賀のカウ」(12-1)など表記上の変化が見られる。
 本書にみられる「カフ」「カウ」と「コフ」という表記上に変化は、本来、長官や守(かみ)などに近い意味で使われていた「カウ」「カフ」という純粋和語と、後世たまたま宮城県の多賀が国府となったことによって国府の訛音としての「コウ」とを、写本時に混同して使用してしまったものではないだろうか。
神議(かみはか)り 「出雲糾すは  
誰よけん」 「穂日尊(ほひのみこと)」と  
みないえば 穂日尊(ほひのみこと)に  
平(む)けしむる しかれど穂日尊(ほひ)は  
国神(くにかみ)に 諂(へつら)い媚(こ)びて 大己貴命に
三年(みとせ)まで 返事(かえごと)あらで  
大背飯 御熊野命(みくまの)遣(や)れど 『日本書紀』に「大背飯(おほそびの)三熊之大人(みくまのうし)、(中略)亦の名は武三熊之大人(たけみくまのうし)を遣わす」とある。
父がまま 帰らねばまた  
神議(かみはか)り    

【3】3年後、天之稚彦を派遣するが高照姫を娶り8年経ても復命せず

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の九「八雲討ち琴造るの紋」(鳥居礼編著、八幡書店、上巻P493-497 )
  遣(つか)はす人は  
天国魂命(あまくに)の 天稚彦(あめわかひこ)と  
極(きは)まりて 高皇産霊尊が  
鹿児弓(かごゆみ)と 羽々矢(ははや)賜(たま)ひて 本居宣長の『古事記伝』に「波波矢は羽張矢にて、羽の広く大なるを云なるべし」とある。
『神道名目類聚鈔』の天羽々矢の項には、「天羽々矢は二羽に作矢なり」とみえる。
平(む)けしむる この神もまた  
忠(まめ)ならず 高照姫(たかてるひめ) 大己貴命の子で、味耜高彦根命の妹
娶(めと)りつつ 葦原国(あしはらくに)お 〔2紋註49〕「葦原」は近江周辺のこと。5紋に二神が葦を引きぬき田となして葦原国を治めたことが記されている。
また23紋に「千五百(ちゐも)の葦も みな抜きて 田となし民も 賑はえば」(23-6)ともある。
宣(の)らんとて 八年(やとせ)経(ふ)るまで 治めようとして
帰(かえ)らねば 名無しの雉子(きぎす) 偵察のための密使
飛び下(くだ)す 天稚彦(あめわかひこ)が  
門(かど)の前 桂(かつら)の末に  
仕業(しわざ)見て ホロロホロロと 密使が、天稚彦の様子をみて嘆いているのを聞きつけての義。
密使を雉に喩え、密使の嘆きを雉の鳴き声に喩えている。
鳴くお聞き 探女(さくめ)が告げに  
「名も無くて 天(あめ)お嘆(な)くや」と  
天稚彦(わかひこ)が 羽々矢(ははや)お射(い)れば  
胸通(むねとほ)り 飛びて高皇産霊尊の  
前に落ち ケンケンも鳴く  
血の羽々矢 高皇産霊尊は  
これお見て 咎(とが)む返し矢  
天稚彦(わかひこ)が 胸に当たりて  
失(う)せにしお 返し矢恐(おそ)る  
本居(もとおり)や 高照姫(たかてるひめ)の  
泣く声の 天(あめ)に聞こえて  
両親(たらちね)の 早死(はやぢ)に骸(かばね)  
引き取りて 喪屋(もや)お造りて  
仮殯(かりもがり) 送る川雁(かわかり) 「殯(もがり)」は死去から葬送までの葬儀。
天稚彦の場合、本葬ではなく、仮の鳥葬が執り行われた。鳥葬は、親族が鳥に変装し、諸役を努める。鳥葬であるのは、天稚彦が使者の雉子を殺したことに関係するか。
生去(きさ)り持(も)ち 鶏(にわとり)箒(はきし) 『秀真政伝』に「きざりもちとハ生去持の意にして、死体を起立頭を持ちて親族縁者より悔ニ来る人々に対面させる事なり」とある。
『日本書紀』に「持傾頭者(きさりもち)」とある。
「鶏箒」『日本書紀』に「持箒者(ははきもち)」とみえ、『秀真政伝』にそのことを「持箒者(ははきもち)とハ世箒花と申て、左右ニ二人紙にて造りし花姿の物を持祈役なり」と説明している。
雀(すずめ)飲(いゐ) 鳩は尸者(ものまさ) 「尸者(ものまさ)」、『秀真政伝』に「尸者(ものまさ)とハ言語(ものもうす)の人といふ事にて、人より悔を申せハ其礼答を申役。或ハ行道の時是ハ何村何町様と申て、死霊ニ聞かしめる役なり」とある。
鷦鷯(ささき)味噌(みそ) 鵄木綿(とびゆふ)祭り 「鷦鷯(ささき)」はみそさざい。
「味噌」は「泣き味噌」などというごとく、弱い者をあざける語。ここでは泣き役のこと。
鵄木綿(とびゆふ)祭り、死者の着せる着物を作る役。
烏塚(からすつか) 八日八夜(やひやよ)悼(いた)み 「烏塚」穴を掘り亡骸を埋める役
八日八夜(やひやよ)、本来ならば48日間の葬祭を行うべきであるが、天稚彦が不忠につき八日八夜の葬儀となった。
喪(も)おつとむ 高照姫(たかてる)の兄  
高彦根命(たかひこね) 天(あめ)に登りて  
喪(も)お訪(と)えば 子の神姿(かみすがた)  
天稚彦(わかひこ)に 瓜(うるり)分け得ず 瓜を真二つに割ったようによく似ていて、見分けがつかない様
血脈(しむ)の者 「君(きみ)は生(い)ける」と  
攀(よぢ)かかり 「八穂玉響(やほたまゆら)」と  
惑ふとき 怒る味耜(あじすき)  
高彦根命 「友なればこそ  
遠(おち)の訪(と)ふ われお亡き身に  
誤(あやま)つは あら穢(けが)らしや  
腹立(はらた)ち」と 喪屋(もや)斬り伏せる  
青葉刈剣(あおばかり) 提(さ)げて神戸(かんど)  
去らんとす 昔(むかし)中山(なかやま) 中山道(なかせんどう)のこと。江戸の日本橋から上野・信濃・美濃の諸国を経由して草津に至る。岡山県津山市東一宮に中山神社がある。祭神は金山彦命。
道開く 金山彦命(かなやまひこ)の  
孫娘(まごむすめ) 下照(したてる)小倉姫(おぐらひめ) このときすでに小倉姫は、和歌姫(昼子姫)より、和歌の奥義書である『雲櫛文』を伝授されているほどの和歌の詠み手であった。
仲人も立てずに、熱烈に求婚の歌を贈るところは思金命に回り歌を贈ってみごとに結婚した和歌姫を髣髴させる。
高彦根命(たかひこね)の 怒り解(と)かんと  
短歌(みぢかうた) 詠(よ)みて諭(さと)せり  
天(あめ)なるや 弟棚機(おとたなばた)の 「天なるや」は、鄙(ひな)に対する言葉。9紋に、小倉姫が近江国の野洲川宮の和歌姫のもとで仕えていたことが載る。
『秀真政伝』には「天上中国なる皇城ニ近の意なり。則是近江多賀の皇宮に近との事なり」とみえる。
浮流(うなが)せる 玉の御統(みすまる)  
御統(みすまる)の 穴玉(あなたま)速(はや)み  
谷二(たにふた)は 足(た)らす味耜(あぢすき) 「谷二」は天稚彦と味耜高彦根命が瓜二つであることの喩え。
「タラ」は父母夫婦の意も含まれる。すなわち私と結婚してくだされば、父母も悦びましょうという深意が含まれている。
高彦根命ぞや    
この歌に 続きも知れり  
高彦根命も 怒(いか)り弛(ゆる)めて  
太刀(たち)収(おさ)め 御瓊(みと)のミヤビお 「御瓊」は真の、の義。ミヤビはこの場合恋情の義。
諭(さと)さんと 答えの歌に  
天下(あまさが)る 鄙(ひな)つめの居(い)は 「天下る」は「天なるや・・」に対する言葉で鄙(ひな)に掛かる。宮中から遠く離れた、の義。
ただ瀬訪(せと)ひ しかは片縁(かたふち) 「ただ瀬訪ひ」、『秀真政伝』に「唯一途に天稚彦の死亡の喪を弔の為に登来りし所なれハ」という解釈が載る。
「片縁」、私はただ喪のためだけに来たという義。小倉姫の求婚が一方的であるということ。「片渕」に掛けている。
片渕(かたふち)に 網張(あみは)り渡(わた)し 片方の岸に立って両岸に網を張ろうとするごとく、あなたの求婚は、一方的であり、また両岸に仲人の浮橋も架けていないという義。
めろよしに 由(よし)より来(こ)ねい  
しかは片渕(かたふち)    
この歌は のちの縁(ゆかり)の この歌によって味耜高彦根命と小倉姫は結ばれたということ。
合(あ)ふ大小(うす)の 鴨居(かもい)と結(むす)ぶ 「合ふ大小の」大濡煮尊と少濡煮尊の婚礼の制定、すなわち雛祭りの起源を示す。「雛振り」に掛かる。
26紋「沖つ鳥 着く島に わが寝(いね)し・・」(26-16)の歌の「」と「」。これは歌の力によって再び結ばれた彦火々出見尊と豊玉姫の話をさす。
雛振(ひなぶり)はこれ    

【4】紀元前1,555,077年、経津主命と武甕槌命の出雲出陣

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の九「八雲討ち琴造るの紋」(鳥居礼編著、八幡書店、上巻P497-501 )
この度は 高皇産霊尊(たかみむすび)の  
臣(とみ)枯(か)れお 除く門出の 臣の不忠
鹿島立(かしまだ)ち 埴(はに)スキ祭る 「カシマ」は、光(か)を告げる門(しま)の義で、宮中の楼門から出立することか。
神議(かみはか)り 経津主命(ふつぬし)よしと  
みないえば 武甕槌命(たけみかつち)が  
進み出て 「あにただ一人  
経津主命(ふつぬし)が 勝りてわれは  
勝らんや」 高き勇みの  
武甕槌命(みかつち)や 経津主命(ふつぬし)添(そ)えて  
鹿島立(かしまだ)ち 出雲(いずも)杵築(きつき)に  
頭槌(かふつち)の 剣(つるぎ)お植(う)えて  
蹲(うずくま)り 詰(なじ)り問ふなり  
「身(み)誇(ほこ)りて 欺(あざむ)く道お  
均(なら)さんと われら遣(つか)ふぞ  
その心(こころ) ままや否(いな)やや」  
大己貴命 答ゑ問はんと  
美保崎(みほさき)の 釣人(つり)え雉子(きぎす)の 「美保崎」島根県八束郡の美保関のこと。同地には美保神社があり、祭神は事代主神、三穂津姫命が祀られている。
稲背脛命(いなせはぎ) 天(あめ)の答えお  
問ふときに 事代主命(ことしろぬし)が  
ヱミス顔 「われ鈴明(すずか)にて 「ヱミス顔」は笑みすの義。事代主命(奇彦命)は俗称を恵比須神という。
「鈴明」伊勢の道の教えと双璧の関係にある。本書中最大の教えの一つの鈴明の教え。天之真栄木である鈴木が日々少しづつ伸び、6万年も長生きするように、欲心を捨てて少しづつ成長し、子孫繁栄を願うことを鈴木の教えが明らかであるという意味で鈴明という。
親(たらちね)に ホロロ鳴けども  
鉤(ち)の鯛(たゐ)ぞ 魚(さかな)と斬るも 鯛(たい)のように奢っているが、しょせん、鉤にかかっていて釣られる運命にあるという意味。
愚かなり 高天原(たかま)は民(たみ)の  
ヱミス鯛(たゐ) 糸かけ巻(ま)くぞ 「いと畏くぞ」と掛けている。
勅(みことのり) わが父(ちち)去(さ)らば  
諸とも」の 返事(かえごと)なせば  
「まだ一人 あり」といふ間に  
現(あら)はるる 建御名方命(たけみなかた)ぞ  
千曳岩(ちびきいわ) ささげて「誰か  
わが国お 忍び忍びに  
落(おと)さんや 出でわが力(ちから)  
比(くら)べん」と 取る手も岩の  
武甕槌命(みかつち)が 捕(と)らえて投(な)ぐる  
葦芽(あしかい)の 恐れて逃ぐる  
信濃湖(しなのうみ) 「すわ」といふとき 「すわ」は、突然の出来事に驚いたり、それを告げたりするときに発する語。それっ、さあ、の義。長野県諏訪市に諏訪大神の上社下社がある。上社本宮は建御名方神。
畏(かしこ)みて 「われお助(たす)けよ  
この所(ところ) ほかえは行(ゆ)かじ  
背(そむ)かじ」と いえば助けて  
立(た)ち帰(かえ)り 問えば答ふる  
大己貴命 その子のままお  
二神(ふたかみ)え 「わが子去りにき  
われも去る 今われ去れば  
誰かまた 敢えて慣れなん  
者あらじ わが草薙の  
この矛に 均(なら)し給え」と  
いひて去る 逆(さか)ふは斬りつ  
服(まつら)ふは 褒(ほ)めて諸神(もろかみ)  
率(ひき)いつつ 天に帰れば  
コフの殿 政(まつり)お執(と)つて  
勅(みことのり) 「汝(なんじ)経津主(ふつぬし)  
アワウワの 通る導き 「アワウワ」小笠原通當はこれを「天神地祇」としている。
盛んなり また武甕槌命(みかつち)は  
鹿島立ち 稜威(いつ)お顕(あら)はす  
物部(もののべ)の 涙(なんだ)柔(やわ)らに  
戻(もど)すより 賜ふ神部(かんべ)は  
鹿島神(かしまかみ)」    

【5】大己貴の津軽へ遷され、津軽で神上がる

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の九「八雲討ち琴造るの紋」(鳥居礼編著、八幡書店、上巻P501-502 )
  時に服(まつら)ふ  
大己貴命 百八十(ももやそ)神お  
率(ひき)ゐ来て 忠(まめ)も日陰(ひかげ) 9紋にみるごとく、大己貴命は、民の病を直し、農耕を指導しあるいは飢えた民に糧を施したりと、陰で民のために心を尽くし苦労していた。それに対する感動の意。
涙(なんだ)あり 高皇産霊尊の  
忠(ただ)し枝(ゑだ) 理(ことはり)あれば  
勅(みことのり) 賜(たま)ふ阿曾辺(あそべ)の 「阿曾辺」青森県西部、津軽平野の南方にそびえる独立峰、岩木山の古称。弘前稽古館の土岐貞範の撰になる「岩木山縁起」(1811年)には、次のように記されている。
「・・・恭惟(おもんみる)に、昔、大己貴尊在り、此の国に降臨す。子180人あり、ここに於いて・・・田中に白光を発するもの有り。これを見るに沼なり。名づけて田光沼と曰う。時に竜女珠を沼中に得て大己貴尊に献ず。乃ち尊大いに悦びて名づけて国安珠竜女と曰い、亦国安珠姫と号す。故に大己貴尊、或いは大国珠尊と称す。・・」
太元宮(うもとみや) 造(つく)る千尋(ちひろ)  
懸橋(かけはし)や 百八十(ももやそ)縫(ぬ)ゐの 小笠原通當は「親族181神」としている。「岩木山縁起」にみえる「子180人」と関連するものか注意を要す。
白楯(しらたて)に 遷国魂(うつしくにたま) 『日本書紀』では「顕国玉神」と記すが、本来は国を遷すという義なのではないだろうか。原文をみると、白楯に国魂を遷したというように、解釈できる。それが大己貴命の称え名となったであろう。
大己貴命 津軽(つがる)大本(うもと)の 青森県中津軽郡岩木町百沢に遷国魂神を祭る岩木山神社がある。同社の創祀に関しては、同社の別当百沢寺九世朝誓が、1694年(元禄7年)に記した「百沢寺光明印縁起」など同社の公式記録によると、795年(延暦15年)になっているが、「岩木山縁起」では、大己貴命が岩木山の頂上に宮を建てたのを、そもそものはじまりとしており、本書の所伝と類似する点が多くみられる。特に、同縁起において、大己貴命の一名を大元命と伝えていることは、本書の「津軽大本の神」との関連で注意を要する。
神となる 穂日尊お  
大本祭り    

【6】奇彦命と万木の森

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の九「八雲討ち琴造るの紋」(鳥居礼編著、八幡書店、上巻P502-502 )
  高皇産霊尊の  
大御言(ををんこと) 汝(なんじ)大物主(ものぬし)  
奇彦(くしひこ)よ 国つ女(め)娶(と)らば  
疎(うと)からん わが美穂津姫(みほつひめ)  
妻として 八十万(やそよろ)神お  
掌(つかさど)り 御孫(みまご)お守り  瓊々杵尊。
 奇彦命は、国譲りから55,373年後の紀元前1,499,704年に奇玉火之明尊の第一次天孫降臨のとき大物主に任じられているが官職を辞している(20-9)。
 平成22(2010)年5月5日大嶋奥津嶋神社(おおしまおきつしま)を参拝した直感では、奇彦命は第一次天孫降臨のとき官職を辞し、大嶋奥津嶋神社(おおしまおきつしま)で蟄居され、父母である奇杵命と竹子姫を祀られたらしい。
 大嶋奥津嶋神社(おおしまおきつしま)は、奇杵命と竹子姫が3人の子(奇彦命・高子姫・味鋤高彦根命)を生み育てられた宮だという。
 間もなくして、「瓊々杵尊を守れ」といわれ、三穂津姫を妻とし万木の森に移られた。
 そして、天照神から天之逆矛を授けられてから、大和国周辺に殿居を築き、奇彦命は、第二次天孫降臨の23万年前の紀元前143万年前ごろ128,000歳で三諸山の洞穴に隠れている(23-36)。
奉(たてまつ)れ」 賜(たま)ふ万木(よろき)の 「万木」滋賀県高島郡安曇川町青柳・西万木付近一帯に、以前は「万木の森」と称する広大な森が存在した。「東万木」とは現在の青柳町の旧名である。
嘗事(なめごと)の 千草(ちぐさ)万木(よろき)の 多くの薬草や薬樹のこと。『秀真政伝』に「古へ天神豊受大神、近江高嶋郡万木村にて千草万木を植えて、其効能を糾し玉ひて万病を治の医術を定玉ひて、今世に伝えて和方と申して神伝の薬方あり」とみえる。
名お正す この宮(みや)治(し)れば  
代々(よよ)の種(たね) 病めるお癒(いや)す  
道お別け    

【7】子守神の御子たち

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の九「八雲討ち琴造るの紋」(鳥居礼編著、八幡書店、上巻P502-504 )
  世嗣(よつぎ)は一人  
万木麿(よろきまろ) 美穂彦命の妻 安曇川町青柳に与呂伎神社がある。『高嶋郡誌』に「青柳村大字青柳字古森(旧島村)に鎮座す。祭神子守神、勝手神。旧古森社と称す。式内与呂伎神社なり。社地は則ち万木の森の遺蹟の存するものと云う。境内236坪。松杉の老樹多し」とみえる。なお、地元の人々は、今でも同社のことを「コーモリさん」「コモリさん」と呼び、同神社の周辺の地名を古森と称している。
陶津身命(すえつみ)が 活玉依姫(いくたまよりめ)  
十八(そや)子(こ)生む 越天智馳命(こしあちはせ)の  
白玉姫(しらたまめ) 十八人(そや)の姫生む  
三十六人(みそむたり) 斎種(ゆたね)養(ひた)せば  
勅(みことのり) 賜ふ璽(をしで)は  
子守神(こもりかみ) 瀬見の小川 「子守神」31紋(31-22)以降参照。奈良県吉野郡吉野町吉野山に子守宮がある。
「瀬見の小川」京都下賀茂神社の境内を流れる小川。
禊(みそぎ)して 茅の輪に糾す 茅または藁をたばねてつくった大きな輪。
六月の大祓のときに鳥居などにかけ、人々にくぐらせて、穢れを祓う。
六月(みなつき)や 民(たみ)永(なが)らふる  
祓いなりけり    
三代大物主御子の名歌   三代大物主とは子守神のこと。一代目は大己貴命。二代目は奇彦命。
子守神(こもり)子(こ)の 兄は神立尊(かんたち)  
次(つぎ)積葉命(つみは) 吉野御子守命(よしのみこもり)  
四つは四手彦命(よて) 次は千早日命(ちはやひ)  
小瀬津彦命(こせつひこ) 七は楢彦命(ならひこ)  
八坂彦命(やさかひこ) 九は武経津命(たけふつ)  
十は千代命(ちしろ) 十一は簑島命(みのしま)  
十二太田命(おおた) 次は岩倉命(いわくら)  
宇陀水分命(うたみわけ) 月葛城(つき)の御子守命(みこもり)  
十六(そむ)鷺巣命(さぎす) 次は桑打命(くわうち)  
弟麿命(おとまろ)ぞ 一姫(いちひめ)は元姫(もとめ)  
玉根姫(たまねひめ) 五十依姫(いそよりひめ)に  
群野姫(むれの) 御衣織姫(みはおるひめ)や  
酢芹姫(すせりひめ) 水垂姫(みたらしひめ)に  
八重子姫(やゑこひめ) 小万木姫(こゆるぎひめ)に  
楉姫(しもとひめ) 三千鶴姫(みちつるひめ)や  
葉揉姫(はもみひめ) 梅散姫(うめちるひめ)に  
麻姫(あさひめ)や 葉桜姫(はさくらひめ)と  
若根姫(わかねひめ) 粟成姫(あわなりひめ)と  
十縒姫(とよりひめ) 総(すべ)三十六神(みそむか)  
子宝(こだから)ぞこれ    
勝手神(かってかみ)世嗣(よつぎ)得る歌   「勝手神」奈良県吉野郡吉野町吉野山に勝手神社がある。子守宮と吉野山の双璧をなす(14紋参照)。
葛城山(かつらぎ)の 一言主命(ひとことぬし) 奈良家御所市森脇に葛城一言主神社がある。
陶津身命(すえつみ)が 安玉姫(やすたま)と生む  
葛城麿(かつらぎまろ) 諱(いみな)安彦命(やすひこ)  
美穂彦命(みほひこ)と 心瓊産霊命(こことむすび)の  
伝(つたえ)ゑ受け 宮内(みうち)に居(お)れば  
大御神(ををんかみ) 璽(をしで)賜(たま)わる  
勝手神(かってかみ) これも世嗣(よつぎ)の  
歌の道かな