天孫神社(てんそん)【3】文献に掲載されている由緒書き|滋賀県

マピオン地図
滋賀県大津市京町3-3-36( マピオンによる広域地図
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文献に掲載されている由緒書き

『全国神社名鑑』(史学センター)に掲載されている由緒書き

 記載ありません。

滋賀県神社庁のホームページの天孫神社のページより

滋賀県神社庁のホームページからの引用

 当社は延暦年間(782〜806)に創祀と伝えられるが、其後の沿革は明かでない。
 古伝によると大同三年(808年)に平城天皇が近江に行幸の際、当社を行在地とてして禊祓された。
 また建久年間近江守守護職佐々木定綱が社殿造営、神田の奉納があった。
 また元亀年間栗太郡青地の城主青地伊予守より社領の寄進があり、豊臣秀吉が大津城築城の際その余材をもって当社を修復された記録がある。
 社号はもと四宮神社、天孫四宮大明神と称され、現在も一般に四ノ宮と呼ばれている、これは彦火火出見尊外三柱と四神を祀る為とか種々説がある。
 当社はもと大津市の中心にあり、その産土神となっているが、鎮座地は周辺にあまり人家はなく湖岸一帯は葦原沼と称され、四宮五座として本社の境域を劃していたが、天正十三年坂本城を此地に移して大津城と改称するに至り、当社はその地主神である為、市街の発展と共に全域下の鎮護神、全町民の産土神となって神威を発揚し、これが十月十日(旧九月十日)四ノ宮祭となり、記録によると曳山祭は慶長年中に始まり、街の発展人口増加に従ってその数を増し、元禄年中に大体現町名が整って、京都の祗園会を彷彿させる神輿二基鉾山十四基による優美な巡行が斎行される様になった。
 尚この祭礼には代官所並総年寄町年寄等の役人も協力奔走し、又大溝藩主分部候よりも特に鎗二本を出して渡御警護に当る等上下崇敬の厚かったことがわかる。
 又当社は日吉山王の信仰と深い関わりがあり、山王祭には当社と日吉神社の間に大榊の神事があり、即ち四月三日の夜当社より日吉神社に多数が赴き、日吉の大榊を持ち帰り、これを「しんの御榊」として拝殿に祀っておき、山王祭の四月十四日にこの大榊を引いて再び日吉神社に返す神事で、この大榊が帰って初めて山王七基の神輿が唐崎に神幸するのである。
 この大榊の神事は、日吉の祭も白鳳年中より延暦九年までは神輿は無く榊を以て渡御していた名残とする説や、当社の氏子が山王信仰の顕現として夜密かに日吉神を榊に遷して盗み帰り崇拝したもの等種々伝えられるが、これを儀式化した神事である。
 明治四十一年神饌幣帛料供進指定
 大正四年県社に列格