名草山(なぐさやま)【5】記録に残しておきたいメモ書き|和歌山県

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和歌山県和歌山市吉原( マピオンによる広域地図
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記録に残しておきたいメモ書き

玉津島神社の東側にある名草山に感じるものがある・・

 この地には、玉津島神社があり、伊太祁曽神社があり、大国主神社がある。
 名草一族には感じるものがある。
 紀ノ川を遡れば、丹生津姫神社がある。

 以下は、5度の岩戸閉め より

 神武天皇の岩戸しめは、御自ら人皇を名乗り給ふより他に道なき迄の御働きをなされたからであるぞ。神の世から人の世への移り変わりの事柄を、一応、岩戸にかくして神ヤマトイワレ彦命として、人皇として立たれたのであるから、大きな岩戸しめの一つであるぞ。

 『 新版 ひふみ神示 』下巻 所収 五十黙示録第二巻碧玉之巻第十帖より

長髄彦の反乱を鎮めるために神武天皇は東征した・・

 神武天皇は長髄彦の反乱を鎮めるために東征した。

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』下巻P250〜

 名草一族のなかに、長髄彦の反乱に呼応するものがあったし、神武天皇の東征に呼応するものがあった。
 下の引用は、そういう点を考慮にいれて読むべきだと思う。
 実地考証を踏まえて実に良くまとめられていると思う。

神武天皇を迎えるにあたって名草一族は賛成派と反対派に分裂・・

 以下は、神武天皇大和侵入経路 より(※文意を整えるために少し編集してあります)

 伝承をすべてつなぐと次のようになる。
 佐野命がこの地にやってくる前の和歌山市周辺はどのような状況にあったのだろうか。
 五十猛命、大屋津姫、爪津姫が紀伊国に派遣され、彼らがこの周辺地を開拓していることがわかる。
 饒速日尊が近畿地方にマレビトを送り込んだとき、和歌山には天道根命が派遣されてきた。
 そのしばらく後に饒速日尊の長男である高倉下(天香山)命が次々と派遣されてきている。饒速日尊(一言主)自身も立ち寄っているようである。天道根命によりそれまで東倭(出雲)に所属していた紀伊国は、饒速日尊の建国した日本国に所属するようになったものと考えられる。

 これが、伊太祁曽神社にいうところの紀伊の国譲りであろう。

 紀伊国を開拓した五十猛命は年老いて、マレビトとして後からやってきた天道根命に統治権を譲り、伊太祁曽の地に退いた。紀伊国が日本国に所属するようになってから、大和本国と、紀伊国の連絡役が必要になり、八咫烏命(賀茂建角身之命)が活躍した。
 彼はこの関係で熊野山中の地理に詳しかったのである。
 佐野命がこの地にやってくる頃は、天道根命(子孫と思われる)がこの周辺を統治していたと思われる。

 これが名草一族である。

 倭国と日本国の合併の話は紀伊国にも伝わってきており、賛成派、反対派それぞれに分かれて対立していたのであろう。
 名草一族は、佐野命一行と戦闘をしており、反対派であったと考えられるが、名草の名は後の紀伊氏の系図にも残っており大和朝廷の協力者となっている。
 系図によると名草一族と天道根命は同族であり、浜の宮の伝承から天道根命は佐野命に協力している姿が浮かんでくる。反対派と戦う神武軍一行の案内に天道根命が加わっていたように思える。
 また、名草一族の本拠地と考えられる場所は名草山の北東に位置する中言神社の地である。
 この地は五瀬命の御陵の目と鼻の先である。このことは、五瀬命の葬儀を見守っていたか協力していたことを意味し、佐野命一行と対立していたとは考えにくい。

 そこから、賛成派と反対派が対立していたと推定するのである。

 賛成派の本拠地が中言神社の地であり、この名草一族は佐野命が五瀬命の葬儀を行うのに協力をしていたと考えられる。
 伝承をつなぐと、佐野命軍は矢宮神社の陣地を出発し和歌の浦を出航、琴の浦に上陸し船尾から汐見峠を越え、クモ池周辺に攻め込んでいる。

 この経路から判断すると、反対派の本拠地は高倉山周辺ということになる。

 賛成派と反対派は同族と考えられるが、この時、佐野命は矢宮神社の地に滞在しており、反対派の本拠地高倉山との中間地が賛成派の本拠地である中言神社であり、反対派が佐野命一行を急襲するとは考えにくい。
 反対派は賛成派を襲撃したのではあるまいか。
 反対派は佐野命の倭国と日本国との合併に関して意見が分かれ、賛成派が佐野命一行に協力しているのを苦々しく思っていたのであろう。
 佐野命一行は賛成派を援護するため琴の浦から上陸して反対派の背後に回ろうとしてそれを察知した反対派とクモ池周辺で激突したものと考えられる。

 このように考えると、判明しているすべての伝承がつながる。

 男里で五瀬命が亡くなったが、なぜ、男里に五瀬命を埋葬しなかったのだろうか。
 わざわざ、紀伊国で埋葬しているのである。
 男里から和歌山まで当時の水行で2日ほど要すると考えられる。
 推定するに、墓守を任せられる人物が周辺にいなかったためではないだろうか。
 和歌山まで行けば信頼できる天道根命などマレビトが入り込んでおり、彼に墓守を任せることができたのではないだろうか。
神武天皇東征-名草一族の地図
 以下はこれを元に推定した出来事のあらすじである。

 名草一族との戦い

 佐野命一行は、信頼できる天道根命に墓守を頼める和歌山で埋葬するために、男里で亡くなった五瀬命の遺骸を船に乗せて、紀淡海峡を越えて南下し、紀ノ川河口の水門吹上神社の地に5月10日ごろ上陸した。
 この地を拠点とし、名草の中言神社の地にいた天道根命(高齢と思われる)に葬儀を願い出た。
 天道根命は「一行を追い返せ」という合併反対派の意向を無視して葬儀を承知し竈山の地で葬儀を行い、奥地の竈山神社の地に埋葬した。
 合併反対派は、高倉山に拠点を作り同調者を集めた。
 反対派の動きを察知した天道根命は佐野命一行を矢宮神社の地に避難させた。
 まもなく、反対派は中言神社の地に戦いを仕掛けてきた。

 名草彦が応戦する中、佐野命一行は矢宮神社の地に陣を構えて様子を見た。

 戦いは反対派の優勢の中で行われており、佐野命一行は天道根命の要請に応じて戦闘に協力することにした。
 反対派の背後から回り込む作戦をたてた。
 天道根命の案内で矢宮神社の近くの和歌の浦を出航し海岸沿いに南下し毛見浜に上陸した。
 浜の宮で戦勝祈願を行い、琴の浦、船尾と船を進め、船尾に船を着けて上陸した。
 佐野命一行は汐見峠を越えて中言神社を攻めている反対派の背後に回ろうとしたが、それを察知した反対派は佐野命一行を迎え撃った。
 両軍はクモ池周辺で激突した。
 挟み撃ちの形になった反対派は形勢不利となり高倉山に退却した。
 連合軍は退却した反対派を追って、東へと追撃し、宇賀部神社、杉尾神社、千種神社の地に追い詰めて誅した。

 この3神社は反対派の3首領の本拠地だったのではあるまいか。

 このように考えると名草一族が天皇一行に滅ぼされたのに、その後活躍していること、名草一族の本拠地のすぐ近くに五瀬命の御陵があること、その子孫の紀氏が名草一族が記紀で賊扱いされているのに反対した形跡がないことなどが説明できる。

 この戦いは戊午6月23日と思われる。

 日本書紀の日付の記録がほとんど各月15日以内になっており、15日以降の日付になっている記事はきわめて少ない。このことは、古代の1ヶ月は15日までであったことを意味しているが、この記事は23日となっている。日付が誤挿入されたか、何らかのミスがあったものと考えられる。実際は6月初旬頃ではあるまいか。  戦いに勝利した天皇一行は八咫烏命と分かれて、紀伊半島を南下していった。

 以上は、神武天皇大和侵入経路 より(※文意を整えるために少し編集してあります)