御機の二十八〔君臣遺し宣の紋〕【1】ここだけは紹介しておきたい!|秀真伝

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御機の二十八〔君臣遺し宣の紋〕

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御機の二十八〔君臣遺し宣の紋〕の概略

【1】大物主・櫛甕玉命の天真栄木についての質問・・

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十八〔君臣遺し宣の紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P127-170 )
     

【2】天児屋根命の回答、葉木国宮の真栄木から天照神の誕生まで

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十八〔君臣遺し宣の紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P127-170 )
     

【3】天児屋根命の回答、天照神の道奥の学びと天照神の政治と十二局

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十八〔君臣遺し宣の紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P127-170 )
     

【4】天児屋根命の回答、忍穂耳尊の政治、神風伊勢の国、ハタレ真軍の隆起

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十八〔君臣遺し宣の紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P127-170 )
     

【5】天児屋根命の回答、天之火之明尊の飛鳥宮と瓊々杵尊の政治

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十八〔君臣遺し宣の紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P127-170 )
     

【6】天児屋根命の回答、火々出尊の政治と鵜葺草葺不合尊の政治

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十八〔君臣遺し宣の紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P127-170 )
     

【7】天児屋根命の回答、天照神の宇治の宮への遷宮と天照神の遺言

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十八〔君臣遺し宣の紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P127-170 )
     
また天児屋根(こやね) 『汝(なんじ)良(よ)く知(し)る  
竹子姫(たけこ)が子 奇彦(くしひこ)生(う)まれ  
直(す)ぐなれば 授(さづ)く御矛(みほこ)に  
鑑(かんが)みて 御諸山(みもろ)に入(い)りて  
時(とき)待(ま)つも 道(みち)衰(おとろ)はば  
また出(い)でて 興(をこ)さんためや  
汝(なんじ)また 鏡(かがみ)の臣(とみ)は  
軽(かろ)からず 神(かみ)お都(みやこ)に  
留(とど)むべし われも守(まも)らん  
これなり』と 御世(みよ)の御衣箱(みははこ)  
御璽(みをして)と 『汝(なんじ)春日(かすが)よ  
遺(のこ)し物(もの) 多賀宮(たが)に持(も)ち行(ゆ)き 近江国多賀宮の鵜葺草葺不合尊のもとへ
捧(ささげ)げよ』と 親(みづか)らこれお  
授(さづ)けます 『汝(なんじ)良(よ)く知(し)る  

【8】天児屋根命の回答、天児屋根の引退と「魂返の文」

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十八〔君臣遺し宣の紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P127-170 )
     

【9】天児屋根命の回答、折鈴

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十八〔君臣遺し宣の紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P127-170 )
     

【10】鈴木の苗が見つからず天鈴暦の上梓

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十八〔君臣遺し宣の紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P127-170 )
     

【11】宇佐で神上がる田奈子姫

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十八〔君臣遺し宣の紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P127-170 )
     

【12】外が浜の九頭龍

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十八〔君臣遺し宣の紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P127-170 )
     

竹生島の竹子姫と江ノ島神の湍子姫

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十八〔君臣遺し宣の紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P127-170 )
     

【14】天児屋根命の遺言と神上がり

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十八〔君臣遺し宣の紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P192-195 )
  天鈴(あすず)三十三穂(みそみほ)  天鈴33年とは、紀元前685年であり
 神武天皇即位前15年である。
春日神(かすがかみ) 百五十六万(ももいそむよろ)  
二十五歳(ふそゐ)なり 天二枝命(ふたゑ)に曰く  
「わが齢(よわひ) 極(きわ)まるゆえに  
神伯父(かんおじ)お 汝(なんじ)に授(さづ)く 神伯父(かんおじ)とは、奈良町における神祇伯と同じような位か。
勤(つと)め」とて 三笠山(みかさ)に帰(かえ)り  三笠山とは、奈良市の市街地の東にある春日大社後方の山。
 若草山の南にあり、春日山の西峰をなす。
 標高282メートル。
 若草山をさしていうことも多い。
親(たら)祭(まつ)り 「汝(なんじ)天押雲(おしくも)」  
しかと聞(き)け 昔(むかし)仕(つか)えて  
御鏡(みかがみ)お 賜(たま)えばわれら  
左(さ)の臣(とみ)ぞ わが子(こ)ら和(やわ)せ  
たとうれば 春(はる)は濡手葉(ぬるてば)  
夏(なつ)青(あお)く 紅葉(もみじ)は強(つよ)く  
冬(ふゆ)は落(お)つ たとえ落(お)ちても  
な恨(うら)めぞ 陰(かげ)の忠(まめ)なせ  
この愛(め)でる ゆえは飛鳥(あすか)お  斑鳩の地に宮を定めた火之明尊は、翌日飛鳥に遷宮することを決めるという暴挙を行った。
 それに対し諫言した、天古屋根命(春日神)と奇彦命は臣の座から自ら退いた。
落(お)ちたとき 忠(まめ)お忘(わす)れず  
このゆえに 御孫(みまご)に召(め)され  
忠(まめ)なせば つひに鏡(かがみ)の  
臣(とみ)となる また大物主(ものぬし)は  
右(みぎ)の臣(とみ) 初(はつ)良(よ)き秋(あき)の  
弓(ゆみ)剣(つるぎ) かくのごとし」と  
酒(さけ)勧(すす)め その盃(さかづき)お  
請(こ)ば「否(いな) 子(こ)から授(さづ)けぬ」  
時にまた 「鏡(かがみ)の臣(とみ)お  
敬(うやま)うが 遺(のこ)る教(のり)ぞ」と  
神となる 二月(きさらぎ)十一日(そひか) 2月11日に神上がる
天押雲命(おしくも)は 四十八日(よそか)喪(も)に入(い)り  
山背(やましろ)の 忍穂井(おしほい)に納(おさ)む 忍穂井〔6の注41〕
 溥泉の『朝日神紀』に「藤岡忍穂井ト云所ハ、山田原外宮・・」「天村雲命ノ霊ヲ祭ル御井の社の、上・・・」「・・・山ト云、此山ノ麓ノ湧ル。井ノ御水ヲ忍穂井・・」と損傷箇所によって途切れながらも宇治山田の外宮、天村雲命の霊(みたま)を祭る御井のことなどがわかる。
 外宮域内の多賀宮に御井があり、下御井神社と称している。
 これとは別に上御井神社(かみのみいじんじゃ)別名「忍穂井」が藤岡山(外宮敷地内)の麓にあり、度会神主の祖先がこの水を高天原から授けられて日向の高千穂に降り、次に丹波の天の真名井に移され、豊受神の伊勢遷祀とともにこの地に移されたという伝承を有している。
 この上御井の水を御饌に用い、それに異常があるときは下御井の水を使う習わしがある。
 この、高天原ー日向ー丹波の真名井ー外宮という軌跡は、天照神の遷宮経路、すなわち、日高見(高天原)ー丹波の真名井(宮津の宮)ー伊雑の宮に類似している。
東向(ひがしむ)き これ姫神(ひめかみ)の  
罷(まか)るとき 木(き)は山背(やましろ)に  
居(い)ますゆえ 息栖(いきす)の宮(みや)の  
西向(にしむ)きぞ 諸民(もろたみ)慕(した)ひ  
喪(も)に入(い)るは 天(あめ)喪(も)のごとし  
猿田彦命(さるたひこ) 禊(みそぎ)に泡(あは)の  
胸騒(むなさわ)ぎ 太占(ふとまに)見れば  
「斎(ゐ)むの身(み)は 鏡(かがみ)ヱヽなる  
中一人(なかひとり) 憂(うれひ)あり」とて  
これ祭り 受けぬ憂(うれ)いと  
驚(おどろ)きて 宇治(うぢ)に至(いた)れば 伊勢の国の宇治の宮
三笠山(みかさやま) なお馳(は)せ登(のぼ)る 大和の国の三笠山
春日殿(かすがどの) 早(はや)仮納(かりおさ)め 春日社
喪中(もなか)ゆえ ともに喪(も)に入(い)り  
神輿(みこし)なし 明日(あす)枚岡(ひらおか)に  大阪府の東部、生駒山西麓に枚岡神社がある。
 平いらな岡の神津嶽(かみつだけ)の本宮が枚岡の地名の起こりになった。
 奈良市春日野町の春日神社第三殿、第四殿の祭神である天児屋根命と比売神は、この枚岡神社から遷座したものである。
 『延喜式祝詞』の「春日祭」にも枚岡より遷座した旨が記されている。
 
送(おく)るとき 猿田彦命(さるたひこ)が請(こ)えば  
許されて 神輿(こし)開(ひら)くれば  
猿田彦命(さるたひこ) 「われ常(つね)に請(こ)ふ  
魂返(たまかえ)し 御家(おゐゑ)と天二枝命(ふたゑ)  
一文(ひふみ)あり 今(いま)われ一人(ひとり)  
受(う)けざる」と 千々(ちち)にぞ悔(くや)む  
時(とき)に神(かみ) 目(め)お開(あ)き曰(いわ)く  
「汝(なんじ)良(よ)く 忘(わす)れず来(きた)る  
御裳裾(みもすそ)よ 請(こ)ふはこれぞ」と  
授(さづ)けます 猿田彦命(さるた)受け取り  
問(と)わんとす 早(はや)目(め)お閉(と)じて  
答え無し 行幸(みゆき)事(こと)なり  

【15】御裳裾の民、溺れる漁師を助ける猿田彦

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十八〔君臣遺し宣の紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P127-170 )
     

【16】世嗣文を盗み写した長髄彦

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十八〔君臣遺し宣の紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P197-198 )
  先(さき)に香久山(かぐやま)  
長髄彦(ながすね)は 御祖(みをや)天皇(すべらぎ)  
御子(みこ)無(な)きお 天押雲命(おしくも)祈(いの)る 『記紀』にみることのできない、神武東征の重要な要因が記されている。
その文(ふみ)お 請(こ)えど授(さづ)けず  
罷(まか)るのち 天種子命(あまのたねこ)は  
この文(ふみ)お 三笠山(みかさ)に籠(こ)めて  
君(きみ)の伴(とも) 長髄彦(ながすね)は  
その倉(くら)お 密(ひそ)かに開(あ)けて  
写(うつ)し取(と)る 倉人(くらど)見つけて  
これを告(つ)ぐ 天種子命(たねこ)驚(おどろ)き  
君(きみ)に告(つ)ぐ 清雄鹿(さをしか)遣(や)れば  
御子(みこ)答(こた)え 「倉人(くらど)が業(わざ)は  
われ知(し)らず」 これに散(あら)けて  
事代主命(ことしろ)は 伊予(いよ)に留(とど)まる 積葉八重事代主命のこと
積葉八重事代主命の系図

【17】蹈鞴五十鈴姫

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十八〔君臣遺し宣の紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P198 )
その妻(つま)は 伊勢に詣でて 積葉八重事代主命の妻である玉櫛姫
猿田彦命(さるたひこ) 蹈鞴(たたら)なすおば 足で踏んで風を送る大形の鞴。鋳物に用いる。
見に至り そこで姫を生む 伊勢の地で子を産んだ。
逆算すると、
天鈴35年で紀元前683年に当たる。
その妻に 取り上げさせて ウズメ命がその御子を取り上げ、伊予まで送って行かれた。
送り行く 事代主命(ことしろ)笑(ゑ)めば  
猿田彦(さるたひこ) 讃(たた)ゆる姫(ひめ)の 蹈鞴をしていた猿田彦命の妻の助けを得たことに因み
名(な)は蹈鞴(たたら) 五十鈴姫(いすずひめ)なり 神武天皇の中宮

【18】長髄彦の反乱

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十八〔君臣遺し宣の紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P198-199 )
長髄彦(ながすね)が われお立(た)つれば  
著騒(いちさわ)ぐ 故(かれ)に原見山(はらみ) 饒速日命(国照宮)の弟である武照宮のことか
御子(みこ)触(ふ)れて 秀真(ほつま)日高見(ひだかみ)  
糧船(かてふね)お 上(のぼ)さぬゆえに  
多賀の宮 筑紫の宮に 多賀の宮とは、多賀治君の五瀬尊のこと。
行(ゆ)き居(ゐ)ます    

【19】櫛甕玉命の『秀真伝(ほつまつたゑ)』上梓

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十八〔君臣遺し宣の紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P198-199 )
  大物主命(おおものぬし)は 櫛甕玉命
多賀殿(たがとの)に 根(ね)の国(くに)治(おさ)め  
太田命(おおた)おば 日向神殿  太田命は子守神の十二男。
 日向神殿とは、多賀宮で鵜葺草葺不合尊のことを日向の神として祀ったことが27紋〔27-33〕に見える。
 多賀宮の事か。
 あるいは、日向国の宮崎宮の神殿の儀か。
添物主(そえもの)と なして娘(むすめ)の  
美良姫(みらひめ)お 娶(めと)りて生(う)む子(こ)  
直彦(ただひこ)が 天立櫛根命(あたつくしね)は  
幼名(おさなな)ぞ 父の積葉命(つみは)も  
神となる 天鈴(あすず)五十年(ゐそとし)  天鈴50年とは紀元前668年であり神武即位前8年にあたる。
 神武天皇が44歳で、大和討ちに出発される前年に当たる。
十月(かんなづき) 八十四万三千(やそよろみち)  
四十八歳(よそや)なり 今年(ことし)鰐彦(わにひこ)  
百(もも)の八歳(やつ) 妹(いもと)五十鈴姫(いすず)は  
十五歳(とおゐつつ) ともに喪(も)に入(い)り  
四十八日(よそや)のち 阿波(あは)の県(あがた)に  
納(をさ)むのち 自(みづか)ら記(しる)し 櫛甕玉命が、自ら記した『秀真伝(ほつまつたゑ)』28紋分を、という意味。
この文(ふみ)お 社(やしろ)に置(お)くは  40紋に「昔大物主 勅 受けて作れり 阿波宮に 入れ置くのちの 」〔40-34〕とみえ、ここでは「アワ宮」と記されている。
 「アワ宮」をその文字のとおり解すれば、二神がはじめに治めた宮であり、のちの近江国の多賀宮のこととなる。
 28紋に「大物主命は 多賀殿に 根の国治め」〔28-42〕とあることから、大物主櫛甕玉命は、多賀宮(淡宮)から阿波(あは)に行き、父積葉命の葬儀を済ませ多賀に戻り、『秀真伝(ほつまつたゑ)』28紋分を記して宮に納めたのであろうか。
 しかし、和仁估容聡(わにこやすとし)の自序には「璽紀以納置於阿波宮文也」とあり、積葉命の宮に納めたとしている。
 『秀真伝(ほつまつたゑ)』28紋分を納めるのには多賀宮はふさわしい社であろうと思われるが、この点なお一層の考究を要しよう。
ゐづこのためか   いつの世のためか