御機の四十〔熱田神世お辞む紋〕【1】ここだけは紹介しておきたい!|秀真伝

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御機の四十〔熱田神世お辞む紋〕

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御機の四十〔熱田神世お辞む紋〕の概略

【1】宮簀姫との再会、原酒折宮・・

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の四十〔熱田神世お辞む紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P585-586 )
纒向(まきむく)の 日代宮(ひしろ)の暦(こよみ)  
四十一穂(よそひ)春(はる) 日本武君(やまとたけきみ) 天鈴820年
木曾路(きそじ)より 至(いた)る尾張(おはり)の  
武斗米命(たけとめ)が 孫(まご)の連(むらじ)の  
家(いゑ)に入(い)る 妻(つま)宮簀姫(みやずひめ)  
都(みやこ)より 送(おく)りて父(ちち)が 日本武尊が大和を出発されるとき、それを見送って。
家(ゐゑ)に待(ま)つ 今(いま)君(きみ)ここに  
月(つき)を越(こ)す 君(きみ)曰(のたま)わく  
酒折(さかおり)の 宮(みや)は昔(むかし)の  
原(はら)の宮(みや) なお永(なが)らえり  
わが願(ねが)ひ 遷(うつ)して姫(ひめ)と  
楽(たの)しまん」 連(むらじ)申(もふ)さく  
「臣(とみ)行(ゆ)きて 描(ゑが)き写さん」  
君(きみ)ゑゝす 連(むらじ)下(くだ)りて 君が承諾する。
酒折(さかおり)の 宮(みや)お詳(くわ)しく  
絵(ゑ)に写(うつ)し 返事(かゑごと)すれば 日本武尊に酒折宮の詳細絵図を捧げる

【2】息吹神の大蛇、日本武尊の能褒野での神上がり

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の四十〔熱田神世お辞む紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P586-591 )
日本武尊(やまとたけ) 荒(あら)ぶる神(かみ)の  
あるお聞(き)き 剣(つるぎ)解(と)き置(お)き  
軽(かろ)んじて 行(ゆ)き過(す)ぐ道(みち)に  
息吹神(いぶきかみ) 大蛇(をおろち)なして 息吹山の神であろうか
横(よこ)たわる 神(かみ)とは知(し)らず  
日本武尊(やまとたけ) 大蛇(をおろち)に曰(いわ)く  
「これ汝(なんじ) あれかた神(かみ)の 「あれかた」おおよそ、あらかた、の義
使(つか)ひなり あに求(もと)むるに  
足(た)らんや」と 踏(ふ)み越(こ)え行(ゆ)けば  
息吹神(いぶきかみ) 氷立(つらら)降(ふ)らして  
光(か)お奪(うば)ふ 強(し)いて凌(しの)ぎて  
押(お)し歩(あゆ)み わずか出(い)で行(ゆ)く  
心(こころ)酔(ゑ)ひ 燃(も)ゆるごとくに  
熱(あつ)ければ 泉(いずみ)に冷(さ)ます  
醒泉(さめがゐ)や 御足(みあし)痛(いた)むお 滋賀県坂田郡米原町に「醒井」の地名がある
やや悟(さと)り 尾張(おはり)に帰(かえ)り  
宮簀姫(みやづめ)の 家(ゐゑ)に入(い)らずて  
伊勢(いせ)の道(みち) 尾津(おづ)の一松(ひとまつ)  『倭名類聚鈔』に伊勢国桑名郡尾津郷がみえ、『延喜式』に尾津神社が載る。
 現在の三重県桑名郡多度度町戸津か
これ昔(むかし) 秀真(ほつま)下(くだ)りの  
御饗時(みあえどき) 解(と)き置(お)く剣(つるぎ)  
松(まつ)の根(ね)に 置(お)き忘(わす)れしが  
永(なが)らえり 故(かれ)に挙(あ)げ歌(うた)  
置忘(おわす)れど 直(ただ)に迎(むか)える  
一(ひと)つ松(まつ) あはれ一松(ひとまつ)  
人(ひと)にせば 衣(きぬ)着(き)せましお  
太刀(たち)佩(は)けましお 荒(あら)ぶる神(かみ)の  
いささに 慰(なぐさ)み行(ゆ)けど  
足(あし)痛(いた)み 三重(みゑ)に曲(まが)れば  
三重村(みゑむら)ぞ 杖突(つえつ)き坂(さか)も  
やや越(こ)えて 能褒野(のぼの)に痛(いた)み  三重県鈴鹿市地方から、鈴鹿郡鈴峰村、亀山市東部にかけての野。
 能褒野王塚古墳(のぼの)能褒野神社(のぼの)がある。
重(おも)ければ 虜(とりこ)五人(ゐたり)お  
宇治(うじ)に遣(や)り 大鹿島命(かしまみこと)の  
添(そ)え人(びと)ぞ 吉備武彦命(きびたけひこ)は  
都路(みやこぢ)え 上(のぼ)せ申(もふ)さく  
「その文(ふみ)に 『花彦(はなひこ)申(もふ)す  
臣(しん)六人(むたり) 勅(みこと)お受(う)けて  
秀真(ほつま)討(う)ち 天(あめ)の恵(めぐ)みと  
厳(いづ)により 荒(あら)ぶる神(かみ)も  
服(まつろ)えば 悉(ふつ)く治(をさ)めて  
今(いま)ここに 帰(かえ)れば命(いのち)  
夕(ゆふ)尽(つ)く日(ひ) 請(こ)い願(ねが)わくば  
いつの日(ひ)か 勅(みこと)返(かえ)さん  
野(の)に伏(ふ)して 誰(だれ)と語(かた)らん  
惜(おし)むらく 真見(まみ)ゑぬことよ  
天(あめ)の宣(のり)かな』    
文(ふみ)止(と)めて 君(きみ)曰(のたまわ)く『われ  
東西(きつ)お平(む)け 事成(ことな)れば身(み)お  
亡(ほろ)ぼせる 彼(かれ)ら休(やす)ます  
日(ひ)も無(な)き』と 七掬脛(なつかはぎ)して  
花(はな)降(ふり)お みな分(わ)け賜(たま)ひ  
歌(うた)詠(よ)めば 熱田(あつた)の神(かみ)と  
早(はや)成(な)ると 斎浴(ゆあ)み衣(は)お替(か)え  
南(さ)に向(むか)ひ 人身(ひとみ)辞(いな)むの  
歌(うた)はこれぞと    
熱田宣(あつたの)り    
辞(いな)むとき 東西(きつ)の鹿路(しかじ)と 「鹿路」天皇の命を受けた勅使として歩んだ道
親(たらちね)に 仕(つか)え満(み)てねど  
精奇城(さこくしろ) 神(かみ)の八手(やて)より  天上高天原の精奇城宮に鎮座する、トホカミヱヒタメ八神の八つの手に他ならない。
道(みち)受(う)けて 生(う)まれ楽(たの)しむ  
帰途(かえさ)にも 誘(いざな)ひ千鳥(ちど)る  
懸橋(かけはし)お 登(のぼ)り霞(かすみ)の  
楽(たの)しみの 雲居(くもゐ)に待(ま)つと  
人(ひと)に答(こた)えん    
百度(もも)歌(うた)ひ ながら目(め)お閉(と)ぢ  
神(かみ)となる なす事(こと)なくて  
営(いとな)みす」 歌(うた)は尾張(おはり)え  
吉備命(きび)上(のぼ)り 文(ふみ)捧(ささ)ぐれば  
天皇(すべらぎ)は 心(ゐ)も安(やす)からす  
味(あぢ)あらず ひねもす嘆(なげ)き  
曰(のたまわ)く 「昔(むかし)熊襲(くまそ)が  
背(そむ)きしも また総角(あげまき)に  
平(む)け得(ゑ)たり 真手(まて)に侍(はべ)りて  
助(たす)けしに 秀真国(ほつま)お討(う)たす  
人(ひと)無(な)きお 忍(しの)びて仇(あだ)に  
入(い)らしめば 明(あ)け暮(くれ)帰(かえ)る  
日(ひ)お待(ま)つに こはそも何(なん)の  
災(わざわ)ひぞ 縁(ゆぐり)も無(な)くて  
あから召(め)す 誰(だれ)臣業(とみわざ)お 「あから」急に
治(をさ)めんや」 諸(もろ)に宣(のり)して  
神(かみ)送(おく)り    

【3】白鳳(しらいとり)と化した日本武尊

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の四十〔熱田神世お辞む紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P591-592 )
  時におもむろ  
化(な)る鳳(いとり) 出(い)づれば諸(もろ)と  
御陵(みささぎ)の 御棺(みひつ)お見(み)れば  
冠(かんむり)と 笏(さく)と御衣裳(みはも)と  
留(とど)まりて 空(むな)しき抜殻(から)の  
白鳳(しらいとり) 追(お)ひ尋(たづ)ぬれば  
大和国(やまとくに) 琴弾(ことひ)き原に  奈良県御所市冨田に白鳥御陵がある。
 日本武尊琴引原白鳥陵
尾羽四(おはよ)枝(えだ) 置(お)きて河内(かわち)の  
旧市(ふるいち)に また四羽(よは)落(お)つる  日本武尊陵(羽曳野市)
そこここに なす御陵(みささぎ)の  
白鳳(しらとり)も つひに雲居(くもゐ)に  
飛(と)び上(あ)がる 尾羽(おは)はあたかも  
神の世の 世箒花(よはきし)ぞこれ  小笠原通當の『神代巻秀真政伝』は「ヨハキシ」を紙花のこととする。
 「ヨハキシ」は「世掃き紙垂」の略で、祓に用いる切麻のことではなかろうか。
 白い鳳の羽があたりに落ちた様相が、あたかも神上がる前に白い切麻で周囲を祓っているようだったのであろう。
 切麻は麻を短く切ったものに五分角ぐらいの白紙を混ぜて用いる。
 別称、小麻。
 また原文の「ヨハキシゾ」は「世は来しぞ」ともとれる。
 二つのことを掛けていっているのかもしれない。
東西(きつ)もみな 治(た)せば罷(まか)れる  
天法(あめのり)ぞ    

【4】日本武尊の誕生、熊襲討伐

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の四十〔熱田神世お辞む紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P592-593 )
  この君(きみ)日代(ひしろ)  
天皇(すめらぎ)の 二(ふ)の御子(みこ)母(はは)は  
稲日姫(いなひひめ) 十二月(しわす)の望(もち)に  
餅(もち)つきて 餅花(もちはな)なして  
二子(ふたご)生(う)む 大碓(をうす)餅仁尊(もちひと)  
弟(と)は小碓(おうす) 花彦尊(はなひこ)もこれ  
天(あめ)の名(な)ぞ 大碓(をうす)餅仁尊(もちひと)  
人(ひと)なるのちに 熊襲(くまそ)また  
背(そむ)けば小碓(おうす) 大碓(をうす)餅仁尊(もちひと)  
一人(ひとり)行(ゆ)き 乙女(おとめ)姿(すがた)と  
なり入(い)りて 肌(はだ)の剣(つるぎ)で  
胸(むね)を刺(さ)す 梟師(たける)しばしと  
止(とど)めいふ 「汝(なんじ)は誰(たれ)ぞ」  
「われはこれ いざ天皇(すめらぎ)の  
子(こ)の小碓(おうす)」 梟師(たける)が曰(いわ)く  
「日本(やまと)には われに勝(た)けたは  
御子(みこ)ばかり 故(かれ)御名(みな)付(つ)けん  
聞(き)きますや」 許(ゆる)せば捧(ささ)ぐ  
日本武尊(やまとたけ) 御子名(みこな)を変(か)えて  
討(う)ち治(をさ)む 天(あめ)の誉(ほま)れや  

【5】日本武尊の后と御子たち、そして宮簀姫

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の四十〔熱田神世お辞む紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P127-170 )
     

【6】日本武尊の伊勢に帰還途中の御歌と能褒野での御歌

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の四十〔熱田神世お辞む紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P595-597 )
日本武尊(やまとたけ) 伯母(おば)より賜(たま)ふ  
叢雲剣(むらくも)お 姫(ひめ)が館(や)に置(お)き  
息吹山(いふきやま) 帰(かえ)り伊勢路(いせじ)に  
痛(いた)むとき 館(やかた)お歌(うた)ひ  
  愛(は)しきやしわきべの  
  方(かた)ゆ雲(くも)出立(いた)ち雲(くも)  
遺(のこ)し歌(うた) 御子(みこ)や親族(うから)に  
折合(おりあい)の ツズは「やかた」で はしきしわきべ
たゆくもいちくも
「出(い)で立(た)つ」は 旅家(たびや)に会(あ)える  
まろ人(びと)と 迷(まよ)ひ残(のこ)さぬ  まれびと、まろうどの意。
 ここでは旅人の意か。
諭(さと)し歌(うた) 深(ふか)き心(こころ)の  
導(みちび)きぞこれ    
能褒野(のぼの)にて 神(かみ)なるときに  
遺(のこ)し歌(うた) 宮簀姫(みやづひめ)えと  
愛知田(あいちだ)の 乙女(おとめ)が床(とこ)に  
わが置(お)きし 伊勢(いせ)の剣(つるぎ)の 伊勢国の倭姫から授かった剣と伊勢の道(女男の道)を掛けている。
立(た)ち別(わか)るやわ    
この和歌(わか)は イモセの道(みち)は  
連(つら)なりて 断(た)ち別(わか)るれど  
吊(つり)の緒(を)は 切(き)れはせぬぞと  
導(みちび)きお 立(た)つる天教(あめのり)  
宮簀姫(みやづひめ) 悶(もだ)え絶(た)え入(い)り  
やや生(い)けり    

【7】熱田神宮の起源と日本武尊の御霊の渡御、日本武尊の神託(その1)

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の四十〔熱田神世お辞む紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P597-601 )
  父(ちち)は原見宮(はらみ)の  
絵(ゑ)お写(うつ)し 都(みやこ)に上(のぼ)り  
若宮(わかみや) 願(ねが)ひのままお  
申(もう)し上(あ)げ 愛知田(あいちだ)に建(た)つ 熱田神宮。愛知県名古屋市熱田区。
草薙神剣をご神体にする。
宮(みや)なりて 渡坐(わたま)し請(こ)えば  
勅(みことのり) 大直根子命(たたねこ)祝(いは)ふ  
清雄鹿人(さおしかど) 連(むらじ)神主(かふど)の  
御子(みこ)たちお 行幸(みゆき)の備(そな)え  
厳(おごそ)かに 琴弾原(ことひきはら)の  
御陵(みささぎ)に 落(お)ちし尾羽(おは)四(よ)つ  
旧市(ふるいち)の 尾羽(おは)四(よ)つともに  
持(も)ち来(きた)り 能褒野(のぼの)の冠(かぶり)  
笏(さく)御衣裳(みはも) 御霊笥(みたまげ)に入(い)れ  
白神輿(しらみこし) 日代宮(ひしろ)四十四穂 天鈴823年
三月十日(やよひそひ) 黄昏(たそがれ)よりぞ 3月10日の夕方
神輿(みこし)行(ゆ)き 能褒野(のぼの)お東(ひがし)  

【8】伊勢の蝦夷

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の四十〔熱田神世お辞む紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P601-601 )
  伊勢(いせ)に添(そ)え入(い)る  
蝦夷(ゑぞ)五人(ゐたり) 敬(いやま)いあらず  
倭姫(やまとひめ) 咎(とが)め帝(みかど)え  
進(すす)めやる 三諸山(みもろ)に置(お)けば  
ほどもなく 木(き)お伐(き)り民(たみ)お  
妨(さまた)げる 君(きみ)曰(のたま)わく  
「蝦夷(ゑみし)らは 人心(ひとこころ)無(な)く  
置(お)き難(がた)し ままに分(わ)け置(お)く」  
播磨(はりま)安芸(あき) 阿波(あは)伊予(いよ)讃岐(さぬき)  
佐伯部(さえきべ)ぞ    

【9】稚足彦尊と武内宿禰、景行天皇の后の神上がり、熱田法の葬儀

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の四十〔熱田神世お辞む紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P601-603 )
  四十六穂(よそむほ)の春(はる) 天鈴825年
七草(ななくさ)の 御饗(みあえ)に歌(うた)の  
日数(ひかず)経(へ)る 稚足彦尊(わかたりひこ)と  
武内宿禰(たけうち)と 内(うち)に参(まい)らず  
故(かれ)召(め)して 問(と)えば申(もふ)さく  
「えらく日(ひ)は 遊(あそ)び戯(たわむ)れ 「えらく」喜び楽しむ。楽しんで笑う。楽しみに興ずる。
事(こと)忘(わす)る 狂人(くるえど)あらば  
窺(うかが)はん 故(ゆえ)に御垣(みかき)お  
守(まも)り居(お)る」 君(きみ)聞(き)こし召(め)し  
「いやちこ」と 篤(あつ)く恵(めぐ)みて  
八月四日(はつきよか) 稚足彦尊(わかたりひこ)お  
世嗣(よつぎ)御子(みこ) 武内宿禰(たけうちすくね)  
棟(むね)の臣(とみ) 御子(みこ)と武内(たけうち)  
同(おな)ひ歳(とし) 五十二穂(ゐそふほ)五月(さつき) 天鈴831年5月28日
二十八日(すえやか)に 后(きさき)大郎姫(いらつめ)  
神となる 見送(みおく)り法(のり)は  
熱田法(あつたのり) 大多牟屋別命(おほたんやわけ)  
御食(みけ)炊(かし)ぎ チリ昼飯(ひるめし)と  
盛(も)る平瓮(ひらげ) 布(ぬの)忍姫(おしひめ)  
頂(いただ)かせ 添(そ)ふ多牟屋別命(たんやわけ)  
先駆(さきか)りに 次(つぎ)は姫御子(ひめみこ)  
典侍(すけ)内侍(うちめ) 御下(おしも)青女(あおめ)ら  
三十人(みそり)添(そ)ふ 次(つぎ)元々(もともと)の 元本明のトホカミヱヒタメ八神、および精奇城宮の外の常静天の八色の和幣を象徴するもの。
八色幡(やいろはた) 神祝詞(かみのと)四十八(よそや)  
分(わ)け染(そ)めて 吉備(きび)の家臣(いゑとみ)  
持(もち)ち並(なら)ぶ 建物(たてもの)雲(くも)に  
懸橋(かけはし)と 霞(かすみ)に千鳥(ちどり)  
吉備(きび)播磨(はりま) 兄弟(ゑと)の武彦命(たけひこ)  
世箒花(よはきし)お 真手(まて)に並(なら)べて  
御柱(みはしら)は 内宮(うちみや)の臣(とみ)  
神輿(みこし)前(まえ) 御子(みこ)は御緒末(みをすえ)  
雄鹿人(をしかど)は 遷(うつ)し日(ひ)の大臣(おみ)  
輿(こし)に乗(の)る 諸(もろ)送(おく)りけり  
七月七日(あふみなか) 八坂高依姫(やさかいりひめ)  
内(うち)つ宮(みや)    

【10】第12代 景行天皇の巡狩、日本武尊の神託(その2)

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の四十〔熱田神世お辞む紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P127-170 )
  五十三穂(ゐそみほ)穂積(ほづみ)  天鈴832年。
 収穫を神に報告感謝するのが穂積祭りであり、これはのちの秋祭りオクンチの祭りなどと関係してくると思われる。
 オクンチは9月9日の重陽の節供と関係すると考えられている。
 穂積祭りもこのころ行われたのではないだろうか。
勅(みことのり) 「帰(かえ)り思(おも)えば  
止(や)む日(ひ)無(な)し 小碓(こうす)が平(む)けし  
国巡(くにめぐ)り なさん」と伊勢(いせ)に  
行幸(みゆき)なり 尾張津島(おはりつしま)に 愛知県津島市
至るとき 連(むらじ)迎(むか)えば  
子(こ)のごとく ともに大真(おほま)の  
宮(みや)に入(い)り 親(みづか)ら作(つく)る  
和幣(にぎて)立(た)て 曰(いわ)く「親子(をやこ)の  
ゆぐりなふ 別(わか)れ会(あ)わねば 「ゆぐり」おもいがけないこと、突然な出来事。
忘(わす)られず 親(みづか)ら来(きた)り  
和幣(にぎて)す」と やや久(ひさ)しくぞ  
痛(いた)ましむ その夜(よ)の夢(ゆめ)に  
津島森(つしまもり) 白鳳(しろいとり)なる  
日本武尊(やまとたけ) 曰(いわ)く「大御神(ををかみ)  
素戔嗚尊(そさのお)に 曰(いわ)く如何(いかん)ぞ  
国(くに)望(のぞ)む 天(あめ)宣(の)りなせば  
国(くに)の神(かみ) 教(をし)えの歌(うた)に  
天(あめ)が下(した) 和(やわ)して巡(めぐ)る  
日月(ひつき)こそ 晴(は)れて明(あか)るき  
民(たみ)の両親(たらちね)    
これ解(と)けず 罪(つみ)に落(お)つるお  
息吹戸神(いぶきかみ) 率(ひ)きて神(かみ)とす 〔9−7・8・9・10〕
瓊瓊杵尊(ににね)は その心(こころ)以(も)て  
秀真(ほつま)得(ゑ)て 天君(あまきみ)となる  
羨(うらや)みて 仮(か)りの親子(おやこ)ぞ  
勅(みこと)受(う)け 東西(きつ)平(む)け帰(かえ)る  
神静(かみしづ)か 真見得(まみゑ)て臍血(ほぞち)  
篤(あつ)さ養(た)す 両親(たらち)の恵(めぐ)み  
倦(う)まざるや 折(おり)数(かぞ)え歌(うた)  
わが光(ひか)る 原見(はらみ)つ錦(にしき)  
熱田神(あつたかみ) 元(もと)つ島衣(しまは)に  
織(お)れるか氷川(ひかわ)」    
三度(みたび)述(の)べ 賤(しづ)の姿(すがた)に  
雲隠(くもがく)れ 君(きみ)覚(さ)め曰(いわ)く  
「神(かみ)の告(つ)げ われは賤(いや)しき  これにより、日本武尊が素戔嗚尊の生まれ変わりであることがわかる。
 氷川神は素戔嗚尊のこと。
 両者の諱も花杵、花彦と共通性がうかがえる。
 また日本武尊が女装して熊襲梟師を討ったことと、素戔嗚尊が女装して大蛇を退治したことにも共通性を見ることができる。
 またさらに、素戔嗚尊は大蛇変ずる早子らによって道を迷い、日本武尊は、息吹神変ずる大蛇によって死に至る。
氷川神(ひかわかみ) 元(もと)に帰(かえ)ると  
恵(めぐ)み固(こ)る 迷(まよ)ひお諭(さと)す  
示(しめ)しなり 昔(むかし)曰(いわ)くは  
人(ひと)は神(かみ) 神(かみ)は人(ひと)なり  
名(な)も誉(ほま)れ 道(みち)立(た)つ法(のり)の  
神(かみ)は人(ひと) 人(ひと)素直(すなお)にて  
秀真(ほつま)行(ゆ)く 真神(まことかみ)なり」  
告(つ)げにより 名(な)も熱田神(あつたかみ)  
宮簀姫(みやづひめ) 斎宮(いつき)に比(くら)べ  
神主(かんぬし)も 宮司(みやづかさ)並(なみ)  

【11】第12代 景行天皇の巡狩、相模の阿夫利神社、上総の海蛤、景行天皇の帰還

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の四十〔熱田神世お辞む紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P606-608 )
東路(あづまじ)え 行(ゆ)けば相模(さがむ)に  
御饗(みあえ)なす マシテシ拝(おが)み 穂積テシと桜根マシ。
泣(な)き曰(いは)く 「姫(ひめ)亡(ほろ)ぼして 弟橘姫は日本武尊の御船を救うため身を投げてお亡くなりになっている。
真見(まみ)え得(ゑ)ず」 君(きみ)も涙(なんだ)に  
虎柏(とらがしは) 榊御姿(さかきみすがた) 榊葉と、日本武尊を描いた絵か。
奉(たてまつ)る 君(きみ)見給(みたま)えば  
日本武尊(やまとたけ) 生(い)ける姿(すがた)に  
会(あ)ふごとく 「一度(ひとたび)会(あ)ひて  
よく似(に)たる 彼(かれ)は目黒(めぐろ)」と  
その里お 名付(なづ)け賜(たま)わる  
神姿(かみすがた) 大山峰(おおやまみね)に  
社(やしろ)なす 御船(みふね)上総(かづさ)へ 神奈川県中央部の大山山頂には阿夫利神社があるが祭神は大山祗命。
安房(あほ)の浜(はま) 鶚(みさご)餌(ゑ)食(は)むお  
民(たみ)に問(と)ふ 「あれは海蛤(うむぎ)と はまぐりの古称。
賤(しづ)が食(は)む 膾(なます)もよし」と  
六鴈(むつかり)が 蒲襷(がまたすき)して  
取(と)る海蛤(うむぎ) 膾(なます)になして  
進(すす)むれば 膳伴部(かしわともべ)と  
名(な)お賜(たま)ふ 大彦命(おほひこ)の孫(まご)  
磐鹿命(いわか)なり 鹿島(かしま)神楽(かぐら)の  
獅子舞(ししまひ)お 問(と)えば時彦命(ときひこ) 獅子頭をかぶって行う舞。
唐から伝えられたものとされる。
「これ昔(むかし) 伊予(いよ)に渡(わた)りて  
獅子(しし)食(は)むお 土公(つちぎみ)捕(と)りて 「獅子」ライオンのこととされている。
「土公」猿田彦命。
奉(たてまつ)る 君(きみ)楽(たの)しみの  
神楽獅子(かぐらじし) 八万年(やよろ)鹿島(かしま)に  
ある形(かたち) 障(さわ)り無(な)かれと  
玩(もてあそ)ぶ 猿田(さるた)の神(かみ)の  
名(な)にし合(あ)ふ」 十二月(しはす)に上(のぼ)り  
伊勢の国 いろどの宮に 「いろど」兄弟姉妹のことで、倭姫の宮のこと。
御座(おわ)します 五十四穂(ゐそほ)九月(なづき) 天鈴833年9月
三十日(みそか)には 日代(ひしろ)の宮(みや)に  
帰りますかな   天鈴820年春に日本武尊の神上がり。
天鈴832年9月から12月まで東国の行幸。
天鈴833年4月30日に日代宮に戻る。

【12】大田種子の『秀真伝(ほつまつたゑ)』上梓

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の四十〔熱田神世お辞む紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P608-609 )
このときに 三輪(みわ)の大直根子(たたねこ)  
御世(みよ)の文(ふみ) 編(あ)みて神代(かみよ)の  
秀真路(ほつまじ)と 四十紋(よそあや)なして  
国撫命(くになづ)に 示(しめ)せば互(たが)ひ  
三笠紀(みかさふみ) 三輪(みわ)え示(しめ)して  
相語(あいかた)り 新(あら)たに染(そ)めて  
二家(ふたや)より 上(あ)げ奉(たてまつ)る  
この文(ふみ)は 昔(むかし)大物主命(ものぬし)  
勅(みことのり) 受(う)けて作(つく)れり  
阿波宮(あわみや)に 入(い)れ置(お)くのちの  
世々(よよ)の文(ふみ) まちまちなれば  
見(み)ん人(ひと)も 予(あらかじ)めにて  
なそ知(し)りそ 百千(ももち)試(こころ)み  
遥(はる)かなる 奥(おく)の神路(かみじ)え  
まさに入(い)るべし    
時(とき)天鈴(あすず) 八百四十三穂(やもよそみほ)の  
秋(あき)天日(あめひ) これ奉(たてまつ)る  
三輪(みわ)の臣(とみ) 李聡(すゑとし)畏(おそ)れ  
慎(つつ)しみて染(そ)む