金崎宮(かねがさきぐう)【3】文献に掲載されている由緒書き|福井県

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福井県敦賀市金ヶ崎町1-1 (広域地図はこちら
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文献に掲載されている由緒書き

『全国神社名鑑』(史学センター)に掲載されている由緒書き

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金崎宮のホームページの由緒書きから

金崎宮のホームページの由緒書きから

 延元元年(1336年)5月、九州で再挙した足利尊氏が京都に攻め寄せると、後醍醐天皇はこれを比叡山に避けられたが、同年10月に至って一旦尊氏の請を容れられ、京都に還幸されることになり、その際天皇は別に新田義貞(にったよしさだ)に命じ、尊良親王(たかながしんのう)・恒良親王(つねながしんのう)を奉じて北陸道の鎮撫、官軍再興のために下向せしめられた。
 新田義貞一行は雪中の木の芽峠を越えて敦賀(つるが)に着き、氣比神宮(けひじんぐう)の大宮司氣比氏治に迎えられその居城、金ヶ崎城に入った。一方足利尊氏は高師泰(こうのもろやす)を総大将として兵六万余もって陸海より金ヶ崎城を攻撃、延元2年正月、杣山城(そまやまじょう)の瓜生保、里見時成等兵五千余も金ヶ崎の急を救わんとしたが、迎撃に遭い、保、時成等戦死、3月6日遂に落城、尊良親王は新田義顕(新田義貞嫡子)以下将士三百余人と共に亡くなられた。尊良親王(たかながしんのう)御年27歳、義顕18歳であったと伝えられる。
 恒良親王恒良親王(つねながしんのう)は、氣比氏治が子息斎晴によって脱出されたが、後に捕らえられて京都に幽閉され、延元3年4月13日毒薬を盛られて亡くなられた。
 御年15歳であったという。
 明治の御代に至り、当地敦賀の人々の熱烈なる請願により、明治23年9月尊良親王(たかながしんのう)を御祭神とし、宮号を金崎宮として官幣中社に加列せらるる旨仰出された。
 同25年11月には恒良親王(つねながしんのう)を本宮に合祀され、同26年5月5日勅使参向せしめられ鎮座祭及び奉告祭を執行、翌6、7日両日に奉祝祭を執行し、以来毎年6日をもって例祭日と定められた。
 しかし、同36年3月、町内よりの出火により本殿以下三棟を焼失、日露戦争後の同39年4月に正還宮再建されたが、この時御本殿は現在の地に移され、建築様式も流造より神明造に改められた。
 昭和57年本殿等の破損著しく改築、桧皮葺の本殿、瓦葺の拝殿等が銅版葺に改められ、現在に至る。