河合神社(かわい) 【3】文献に掲載されている由緒書き|京都府

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文献に掲載されている由緒書き

『全国神社名鑑』(史学センター)に掲載されている由緒書き

 記載ありません。

天照神から瓊々杵尊は「別雷(わけいかづち)」という称号・・

 瓊々杵尊は、比叡山を造成された。
 造成の結果、穀物がたくさん出来るようになったので深泥池(ミゾロ池)と呼ぶようになった。
 深泥池(ミゾロ池)西岸の岩を砕き、小石にして川に流しいれ水をあふれさせ、荒地に水を引き、雷(鳴る神)を別け鎮め、葵葉(あおいば)と桂(かつら)によって軻遇突智神(かぐつちのかみ)と罔象女神(みずはめのかみ)をお生みになった。
 このことから瓊々杵尊は「別雷(わけいかづち)」という称号を天照神から賜った。

 賀茂別雷神社の創祀に関わるものになるかもしれない。

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十四「コヱ国原見山の紋」(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P27-29 )
原治君(はらをきみ) 伊豆崎宮(ゐづさきみや)に 瓊々杵尊
箱根神(はこねかみ) 三年祭りて 天之忍穂耳尊を箱根神として。
瀛壺(おきつぼ)の 峰より眺(なが)め 瀛壺とは近江(滋賀県)のこと
勅(みことのり) 「汝(なんじ)山咋命(やまくひ)  
山背(やまうしろ) 野お堀り土お 山背、山城は京都府南部のこと
こゝに上げ 大日(おおひ)の山お 大日山とは富士山のこと。
遷(うつ)すべし」 一枝(ひとゑだ)に足り 一枝(ひとゑだ)は60年。
一枝(ひゑ)の山 その池水(いけみず) 比叡山
田のゾロに 乗りて稔れば  
ミゾロ池 まゝあり池の 京都市北区上賀茂狭間町の深泥池(みどろいけ)のこと
西岩屋(にしいわや) 実(み)食(は)む礫(ゐしな)お  
稜威(ゐつ)別(わ)けて 流す石川(ゐしかわ)  
塞(せ)き入れて 荒地(あれわ)お生(い)けて  
鳴る神お 別(わ)けて鎮(しづ)むる  
軻遇突智神(かぐつち)と 罔象女神(みづはめ)お生(う)む 貴船神社(奥宮)を罔象女宮といった。
(PP103-105)
愛宕山の愛宕神社若宮の祭神に、雷神と軻遇突智神がいる。
葵葉(あおいば)と (かつら)に伊勢の  
勅(みことのり) 「天(あめ)は降り照り  
全(まつた)きは 雷(いかづち)別(わ)けて  
神(かみ)を生(う)む これ国常立尊(とこたち)の  
新(さら)の稜威(ゐづ) 別雷(わけいかづち)の 別雷天君(わけいかつちのあまきみ)
天君(あまきみ)」と 璽(をしで)賜(たま)わる  
広沢 太田命(おおた)に掘らせ 京都市右京区嵯峨広沢町に広沢池があるが何らかの関係があるか?
また、上賀茂神社(賀茂別雷神社)の東に大田神社があるが何らかの関係があるか?
国となす    

産屋を覗かれた豊玉姫・・

 紀元前898,627年、豊玉姫は敦賀湾の気比の松原(推定地は神明神社)で鵜葺草葺不合尊を生んだ。

 そして、産後の体を休めているとき、彦火々出見尊に産屋を覗かれたことを恥じ、遠敷の宮に鵜葺草葺不合尊を預けおき、罔象女宮(貴船神社の奥宮)に身を隠した。
 翌年紀元前898,626年罔象女宮(貴船神社の奥宮)において、瓊々杵尊が葵葉(あおいば)と桂葉(かつらば)を用いた説得を行い、豊玉姫は心を許すことになった。

 紀元前898,626年のその時、瓊々杵尊から豊玉姫の弟・建祗命(たけずみ)に、

「豊玉姫を養うように」
 と詔が下され、河合の国(河合神社がある一帯か)を賜った。
 河合神社の北側には鴨御祖神社がある。

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十六「鵜葺草葵桂の紋」(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P27-29 )

  君松原に 彦火々出見尊。鵜葺草葺不合尊が生まれた敦賀湾岸の気比の松原。
涼(すヾ)み来て 産屋(うぶや)覗(のぞ)けば  
腹這(はらば)ひに 装(よそ)ひなければ  
枢(とぼそ)引(ひ)く 音(おと)に寝覚めて 枢とは開き戸の、かまちの上下の端に突き出た部分。これが回転軸となって戸が開閉する。
恥(はづ)かしや 弟(おと)建祗命(たけずみ)と 建祗命は豊玉姫の弟で、玉依姫神の父。
六月(みなづき)の 禊(みそぎ)してのち  
産屋(うぶや)出て 遠敷(をにふ)に至り 福井県遠敷郡(おにゅうぐん)。滋賀県と京都府の県境をなす。
御子(みこ)抱き 眉目(みめ)見手(みて)撫でて  
「母は今 恥(はぢ)帰るなり  
真見(まみ)ゆ折 もがな」と捨てゝ  
朽木川(くちきかわ) 上(のぼ)り山超(やまこ)え 滋賀県高島郡を流れる安曇川の中流を朽木川という。
やゝ三日(みか) 別雷山(わけつち)の峰(ね)の 別雷山とは、貴船山のこと。
罔象女神(みずはめ)の 社(やしろ)に休(やす)む 京都市左京区貴船町に鎮座する貴船神社(奥宮)のこと。
= 中略 =  
明(あく)る年 太上(おゝゑ)天皇(すべらぎ) 翌年紀元前898,626年
皇位を退いた瓊々杵尊
別雷山(わけつち)の 葵桂(あおいかつら)お  
袖(そで)に掛(か)け 宮(みや)に至(いた)れば  
姫(ひめ)迎(むか)ふ 時に葉(は)お持(も)ち  
「これ如何(いかん)」 豊玉姫(とよたま)答え  
「葵葉(あおいば)ぞ」 「またこれ如何(いかん)」  
「桂葉(かつらば)ぞ」 「いづれ欠(か)くるや」  
「まだ欠(か)けず」 「汝(なんじ)世(よ)お捨(す)て  
道(みち)欠(か)くや」 姫(ひめ)は畏(おそ)れて  
= 中略 =  
姫(ひめ)は恥(はぢ) 陥(おちい)りいわず  
美穂津姫(みほつひめ) 行幸(みゆき)送りて 奇彦命(奇杵命の子)の妻で子守神の母
こゝにあり 問えば喜び  
答え問う 美穂津姫(みほつ)諾(うなづ)き  
「太上(おゝゑ)君(きみ) 心(こころ)な痛(いた)め  
給(たま)ひぞよ 君(きみ)と姫(ひめ)とは  
日と月と 睦(むつ)まじなさん」  
申すとき 大君(おゝきみ)笑(ゑ)みて  
建祗命(たけづみ)に 豊玉姫(とよたま)養(た)せと  
川合(かわあい)の 国(くに)賜(たま)わりて 下賀茂神社(賀茂御祖神社) の南側に河合神社(祭神:玉依姫神)が鎮座する。
 比叡山の西方に神建祗命が降臨されたと伝わる御蔭山があり、西北麓に御蔭神社がある。さらに西北には高野川が流れている。
 高野の森とはこの辺りか?
谷(たに)お出(で)て 室津(むろつ)に亀船(かめ)の  
迎(む)い待つ 門出(かどい)で送(おく)り  
行幸(みゆき)なす 君(きみ)ゑ大君(ををきみ) 彦火々出見尊に瓊々杵尊が。
遺(のこ)し言(ごと)   遺言を残す。
= 中略 =  
豊玉姫(とよたま)は 別雷山(わけつちやま)に 貴船山で邇々杵尊の喪祭りを行う。
喪(も)は四十八日(よそや) 年(とし)の祭(まつ)りも  
御饗(みあえ)なす 天君(あまきみ)姫お  
尋(たづ)ぬれば 天児屋根(こやね)答えて  
「例(ため)しあり」 三穂津姫(みほつ)に問(と)えば  
「歌(うた)なせ」と 故(かれ)歌(うた)詠(よ)みて  
三穂津姫(みほつめ)が 孫(まご)磯依姫(いそより)お  
遣(つか)わせば 姫(ひめ)迎(むか)ゆるお  
磯依姫(いそより)は 立ちて詠(よ)む歌  
沖つ鳥 鴨着く島に  
わが居寝(いね)し 妹(いも)は忘(わす)らじ  
夜(よ)のことごとも    

玉依姫の父・鴨建祗命と、磯依姫命・・

 豊玉姫が瑞穂宮に戻った紀元前898,625年7月7日に、鴨建祗命に勅命が下った。

 それは、彦火々出見尊の12后の一人である三穂津姫の孫・磯依姫を妻にするようにという内容のものだった。
 三穂津姫の孫・磯依姫は、1年前に罔象女宮(貴船神社の奥宮)にいた豊玉姫に彦火々出見尊の御歌を届けられたことがあった。
 三穂津姫の孫・磯依姫は、鴨建祗命の妻になり、河合の館(河合神社がある)に共に住むようになった。

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十七「御祖神船魂の紋」(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P127-129 )

このときに 瑞穂の宮は  
豊玉姫の ふたたび上る  
喜びぞ 天児屋根(あまのこやね)と  
大物主命(ものぬし)と 真手(まて)に侍(はべ)りて  
道(みち)も延(の)べ 八百万草(やもよろくさ)も  
治(おさ)めしむ 先に積葉命(つみは)と  
武経津命(たけふつ)と 息吹山(いぶき)の宮に  
二十四県(ふそよがた) して治(をさ)めしむ  
秀真路(ほつまじ)は 鹿島神(かしま)押雲命(おしくも)  
日高彦(ひだかひこ) 三島溝咋命(みしまみぞくい)  
原見宮(はらみや)に 百枝県(ももゑあがた)の  
物部(もののべ)と 豊かに治(をさ)む  
筑紫より 雄鹿人(しかど)請(こ)ふゆえ  
神立命(かんだち)お 大物主(ものぬし)として  
波提祗命(はでずみ)と ともに三十二(みそふ)お  
治(をさ)めしむ 故(かれ)に積葉命(つみは)お  
事代主(ことしろ)と 飛鳥の宮に 瓊々杵尊の兄・櫛玉火之明尊のこと
侍(はべ)らしむ 七月(ふづき)弓張(ゆみはり)  
伊勢結び 鴨建祗命(かもたけずみ)に  
勅(みことのり) 「后(きさき)お妻(つま)に  
賜(たま)ふべし 請(こ)ふに任(まか)せん  
建祗命(たけづみ)は 「請(こ)ふは恐(おそ)るる  
天のまま」 三穂津姫(みほつめ)申す  
「十二局(そふつぼね) あれどわが孫  
典侍(すけ)求(もと)め 内侍(うちめ)磯依姫  
知る人ぞ」 父に尋(たづ)ねば 磯依姫の父・子守神のことか
諾(うなづ)きて これ建祗命(たけづみ)に  
賜(たま)われば 河合(かあい)の館(たち)ぞ  

神武天皇の母・玉依姫の誕生・・

 玉依姫は、紀元前178,625年ごろ、河合の館(河合神社がある)で誕生された。

 鴨建祗命と磯依姫は河合の館(河合神社がある)に住んで13鈴(72万年)経つが、子供ができなかった。
 それで、別雷神(賀茂別雷神社のことか)にお祈りされた。
 すると、その夜の夢に玉が現れ、すぐに子供ができたのでした。
 その子を玉より生まれた姫という意味で、玉依姫と名付けられた。
 玉依姫の誕生には、別雷神(賀茂別雷神社のことか)の力が加わっている。

  『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十七「御祖神船魂の紋」(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P139-141 )

これの先 鴨建祗命  
磯依姫(いそより)と 十三鈴(そみすず)までも 72万年経っても子が生まれない。
子無きゆえ 別雷(わけつち)神 瓊々杵尊。玉依姫が瀬見の小川(賀茂川)の辺で遊んでいた時、川上より丹塗矢が流れてきたので取って床に置き、ついに孕んで男子が生まれた。御子の夢の告げにより祭られたのが現在の賀茂別雷神社であるという伝説がある。
祈る夜の 夢に賜(たま)わる  
玉の名も 玉依姫 玉依姫は、紀元前178,625年ごろ、河合の館(河合神社がある)で誕生された。
生みてのち 養(ひた)して齢(よわひ)  
十四鈴(そよすず)に 両親(たらちね)ともに 紀元前118,625年ごろ、
神となる 河合(かわい)の神ぞ  
玉依姫 喪祭りなして  
ただ一人 別雷(わけつち)神に  
また詣(もふ)で 斎(ゆゆ)捧(ささ)ぐれば  
ウツロイが 疑(うたが)ひ問(と)わく  
「姫(ひめ)一人 別雷(わけつち)神に  
仕(つか)ふかや」 答え「しからず」  
また問(と)わく 「世(よ)にちなむかや」  
姫答え 「何者なれば  
落さんや われは神の子  
汝は」と いえばウツロヰ  
飛び上がり 鳴る神してぞ  
去りにける ある日また出(い)て  
禊(みそぎ)なす 白羽(しらは)の矢(や)来て  
軒に刺す 主(あるじ)の汚血(おけ)  
止まりて 思わず男(を)の子(こ)  
生み育つ 三歳(みつ)なるときに  
矢お指して 父というとき  
矢は上る 別雷(わけいかつち)の  
神なりと 世に鳴り渡る  
姫(ひめ)御子(みこ)お 諸神(もろかみ)請(こ)えど  
諾(うなづ)かず 高野の森  比叡山の西方に神建祗命が降臨されたと伝わる御蔭山があり、西北麓に御蔭神社がある。さらに西北には高野川が流れている。
 高野の森とはこの辺りか?
隠(かく)れ住む 別雷神(わけいかつち)の  
祠(ほこら)なし 常(つね)に御影(みかげ)  
祭るなり    

五瀬尊の誕生、玉依姫が五瀬尊の養育・・

 八瀬姫は、紀元前66,043年に五瀬尊を生み、すぐ神上がられた。

 そのため、五瀬尊に御乳を差し上げる御乳姫を求めるお触れが出された。
 そのお触れを見た民が、玉依姫のことを告げた。
 紀元前66,043年、玉依姫が鵜葺草葺不合尊の内侍となり、五瀬尊の養育に当たられた。

 紀元前711年、玉依姫神が内宮となり神武天皇を生む。

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十七「御祖神船魂の紋」(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P137-143 )

  四十九(よそこ)の鈴(すず)の  
九百十一(こもそひ)枝(ゑ) 初穂(はつほ)キアヱの  
初三日(はつみか)に 天児屋根命(こやね)申さく  
「君は今 御祖(みをや)の道に  
治(をさ)むゆえ 人草(ひとくさ)の親(をや)  
天地(あめつち)の 神(かみ)も降(くだ)れば  
御親神(みをやかみ) 世々の御祖(みをや)の  
嗣子(つぎこ)無し 十二(そふ)の后も  
如何(いか)なるや」 時に天君  
「われ思ふ 十三(そみ)鈴(すず)老(を)いて  
種(たね)あらじ」 子守神(こもり)申さく  
「世嗣(よつぎ)文(ふみ) あり」とて天(あま)の  
押雲命(おしくも)に 勅(のり)して世嗣(よつぎ)  
社(やしろ)なす 時に押雲命(おしくも)  
「な当てなし」 天児屋根命(こやね)太占(ふとまに)  
占(うら)なえば 八瀬姫(やせひめ)良けん  
ヤヒの意(ゐ)は 中の屋となる  
シのハラは 母と孕める  
屋(や)の局(つぼね) 内女(うちめ)は中(なか)の  
位(くらい)なり」 年も若葉(わかば)の  
八瀬姫(やせひめ)お 十一(そひ)の后(きさき)も  
みな祝(いは)ふ 押雲命(おしくも)清(きよ)め  
世嗣(よつぎ)社(や)に 祈れば印(しるし)  
孕み得て 十五月(よゐつき)に生む  
五瀬君 八瀬姫(やせひめ)宮(みや)に  
入(い)るる間に つい神となる  
御乳(おち)なくて 触(ふ)れ尋(たづ)ぬれば  
= 上記の「神武天皇の母 玉依姫の誕生・・」に記載 =  
  御触(みふ)れによりて  
申(もふ)さくは 「一枝山(ひゑ)の麓(ふもと)に  
姫(ひめ)ありて 乳(ちち)良きゆえに  
民の子の 痩(や)するに乳(ちち)お  
賜(たま)われば たちまち肥(こ)ゆる  
これ昔 神の子なれど  
隠れ住む 森に五色(ゐいろ)の  
雲起こる 出雲路森(いづもじもり)と  
名付くなり」 諸神(もろかみ)請(こ)えど  
参(まい)らねば 「清雄鹿なされ  
しかるべし」 時に岩倉命(いわくら)  
伺(うかが)いて 遣(つか)いお遣(や)れど  
来(きた)らねば 自(みずか)ら行(ゆ)きて  
招(まね)けども 諾(うなづ)かぬ由(よし)  
返事(かえこと)す 若山咋命(わかやまくい)が  
申(もふ)さくは 「雄鹿人(をしかど)ならで  
来(こ)ぬゆえは 別雷神(わけつちかみ)お  
常(つね)祭(まつ)る 召(め)せば祭(まつ)りの  
隠(かく)るゆえなり」    
勅(みことのり) 山咋命(やまくい)おして  
召すときに 母子(ははこ)上(のぼ)れば  
見給(みたま)ひて 氏名(うじな)お問えば  
姫答え 「親(おや)の建祗(たけずみ)  
磯依(いそより)が 名付(なづ)く玉依(たまより)  
波提(はで)が孫 子は父もなく  
神なりぞ 父が無ければ  
諱(いみな)せず 出雲(いづも)の御子(みこ)と  
人が呼ぶ」 言葉も精(くわ)し  
透(す)き通(とほ)る 玉の姿の  
輝けば 勅(みことのり)して  
内局(うちつぼね) 五瀬尊(いつせ)養(ひた)せば  
御子(みこ)の名も 御毛入(みけいり)御子(みこ)ぞ  
生む御子は 稲飯(いないい)君(きみ)ぞ  
御后(みきさき)と なりて生む御子  
神日本(かんやまと) 磐余彦(いはれひこ)の  
尊なり    

八咫鏡は河合神社、八重垣剣は別雷宮に預けおく。・・

 八咫鏡は河合神社、八重垣剣は別雷宮に預けおく。

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の三十「天君都鳥の紋」(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P261-262 )
天君(あまきみ)の もとは御孫(みまご)の 瓊々杵尊
雷(いかづち)お 別(わ)けて治(をさ)むる  
大御神(ををんかみ) 褒めて御孫(みまご)は 天照神が瓊々杵尊を。
天神(あまかみ)の 顕(あら)はる稜威(いづ)と  
賜(たま)ふ名は 別雷(わけいかづち)の  
天君(あまきみ)と 三種神宝(みぐさ)も別けて  
天御孫(あめみまご) (ひだり)春日神(かすが)と  
(みぎ)子守神(こもり) 世々(よゝ)受け嗣(つ)ぎて  
御祖君(みおやきみ) 筑紫(つくし)降(くだ)るも  
神璽(かみおして) 持ちて離さず  
天押雲命八咫鏡(やたかがみ) 臣(とみ)天押雲命(おしくも)に 天之児屋根命の子で天種子命(あめのたねこ)の父
八重垣剣(やゑかき)は 櫛甕玉命(くしみかたま)に 積葉八重事代主命の子で、蕗根命(ふきね)の養子になる
授(さづ)け置き 御祖神(みおや)筑紫(つくし)に  
日足(ひた)るとき 神の璽(をして)は  
武仁尊(たけひと)に 母(はは)玉依姫(たまより)も  
神(かみ)となる (かがみ)は河合宮(かあひ) 河合神社
八重垣剣(やゑがき)は 別雷宮(わけつちみや)に 賀茂別雷神社
預(あず)け置く