三輪山の高宮神社(こうのみや)と東の奥津磐座【1】ここだけは紹介しておきたい!|奈良県

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奈良県櫻井市三輪字神峯(三輪山山頂) ( いつもNAVIによる広域地図
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 三種神宝の分離祭祀が始まった第10代祟神天皇の御世の史跡を中心に

史貴御県坐神社第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮碑大神神社の摂社の檜原神社
第11代垂仁天皇の珠城宮碑穴師坐兵主神社(通称・大兵主神社)相撲神社第12代景行天皇の纒向日代宮碑
大和神社大和神社の摂社の高龗神社渟名城入姫神社
第10代 祟神天皇陵第12代 景行天皇陵狭井河之上顕彰碑

 三輪山登山

大神神社天皇社神坐日向社(みわにいますひむかい)
狭井神社三輪山山頂の高宮神社(こうのみや)高宮神社(こうのみや)の東にある三輪山山頂の奥津磐座

三輪山の高宮神社(こうのみや)と東側にある奥津磐座

参拝履歴

三輪山の高宮神社(こうのみや)

三輪山の高宮神社(こうのみや)
 三輪山山頂に鎮座する摂社の高宮神社(こうのみや)(H≒447m)のすぐ上(東側・H≒467)杉木立の中に奥津磐座群(オクツイワクラ)がある。

ご祭神

日向御子神(日向王子)

 第5代大物主の蕗根命で語られる「海原の光り」という場面は、日に向かうことから、日向神という名が、第5代大物主の蕗根命に与えられていたかもしれない。
 大三輪神社の摂社神坐日向社(みわにいますひむかい)周辺が「第6代大物主の櫛甕玉命」が住まわれた土地だとすると、住所の「奈良県櫻井市三輪字御子ノ森」の「御子」とは、日向神の「御子」という意味を持ち合わせてくるだろう。
 三輪山山頂の高宮神社(こうのみや)の祭神が「日向御子神」である点から、「第6代大物主の櫛甕玉命」は、「櫻井市三輪字御子ノ森」にお住まいになられてのち、山頂において「日向御子神」として祭られた可能性がある。
 あくまでも『秀真伝(ほつまつたゑ)』を主流においた解釈である。
系図
 平安後期の史書には、当社祭神を「日本大国主命」(ヒノモトノオオクニヌシorヤマトノオオクニヌシ−大神崇秘書・1119)あるいは「天日方奇日方命」(アメノヒカタクシヒカタ・前記−元要記)とする書がある。
 記紀伝承が「海を光して依り来る神」というオオモノヌシ=日本大国主には、海から昇る朝日のイメージがあり、日神とみることもできる。

三輪山の高宮神社(こうのみや)の東側にある奥津磐座

三輪山の高宮神社(こうのみや)の東側にある奥津磐座

ご祭神

大物主大神(第2代大物主の奇彦命)
〔配祀〕
大己貴神(第5代大物主の蕗根命)
少彦名神(豊祇彦命)
 27鈴木1枝(紀元前1,440,710)ごろから28鈴木ごろ、第2代大物主の奇彦命、天照神から日本大国御魂神の称号と天之逆矛を賜う。
 奇彦命、12万8千歳にして、三諸山の洞に逆矛を持って隠れ神上がる。
(※)奇杵命が生まれたのは紀元前1,560,710年であり、国譲りが行われたのは奇杵命5,620歳の時の紀元前1,555,090年のことである。ということは、奇彦命が生まれたのは、この期間だということになる。
 ここから計算して、奇彦命が12万8千歳のとき神上がられたということは、紀元前1,432,710年から紀元前1,427,090年の間になるはずだ。
 第二次天孫降臨の13万年前のことである。

 大和大国魂神は元来、日の輪の分身(わけみ)であり、天照神に次ぐ御神徳の神でした。  

 その洞にて時を待ち、素直な心の持ち主を見分けよう。 「杉」の語源が「直ぐなる木」であることが推測される。なお、大神神社の社地が古くから大小の杉に蔽われ、「三本杉」を神紋としている点は、本書の所伝の関連で注意を要する点である。

  【系図】素戔嗚尊-奇杵命(大己貴命)-奇彦命(えびす顔)-子守神

【系図】素戔嗚-奇杵命-奇彦命-子守神

三輪登山の地図

三輪山の登山地図  

『大神神社・摂社/神坐日向神社・高宮神社(桜井市)』からの引用

 『大神神社・摂社/神坐日向神社・高宮神社(桜井市)』からの引用

神坐日向神社 奈良県櫻井市三輪字御子ノ森 櫛御方命・飯肩巣見命・建甕槌命
高宮神社(こうのみや) 奈良県櫻井市三輪字神峯(三輪山山頂) 日向御子神(日向王子)
 神坐日向神社(ミワニマス ヒムカイ・以下「日向神社」という)は、延喜式神名帳に、『大和国城上郡 神坐日向神社 大 月次新嘗』とある式内社で、今、大神神社の摂社として三輪字御子ノ森に鎮座するが、本来の日向神社は三輪山山頂・即ち現高宮神社(コウノミヤ・大神神社末社)の地にあったのではないかという。

◆神坐日向神社◆

 大神神社の南約200m。
 山辺の道を南下、平等寺前四辻の少し手前(北)の西側、目立たない参道(地道)を入った奥にひっそりと鎮座する。
 参道入口に小さな表示はあるが、注意しないと見おとす。

〔祭神〕

 今の祭神:クシミカタ・イヒカタスミ・タケミカツチの3柱は、古事記・崇神記に、
 「河内国美努村から見いだされたオオタタネコに、天皇が『そなたは誰の子か』と尋ねたところ、オオタタネコが
 『吾は、オオモノヌシ大神の子・クシミカタの子・イヒカタスミの子・タケミカツチの子・オオタタネコなり』
 と答えた」
とある神々で、祟り神・オオモノヌシを奉祀したオオタタネコの曾祖父・祖父・父、即ち大神神社の祭祀を掌った大神氏(三輪氏・南北朝末期に“高宮”と改姓)の祖神を指す。
 しかし日本書紀・崇神紀には、“オオタタネコはオオモノヌシの子”とあり、上記3神は出ていない。
 また高宮氏系図によれば、
 “大国主命−八重事代主命−○−天日方奇日方命(アメノヒカタクシヒカタ=クシミカタ)−イヒカタスミ−建甕尻命(タケミカジリ=タケミカツチ)−○−○−オオタタネコ”
とある(先代旧事本紀では、オオクニヌシ−コトシロヌシ−アメノヒカタクシヒカタ−以下同じ)。
 系譜に混乱があるにしろ、祭神から見るかぎり、御子の森にある当社は、大神神社の神主・高宮家(大神氏の直系後裔)がその祖神を祀った社と思われる。

◆高宮神社◆

 三輪山山頂に鎮座する摂社(H≒447m)で、すぐ上(東側・H≒467)杉木立の中に奥津磐座群(オクツイワクラ)がある。
 今、山麓にある摂社・狭井神社から登拝することができる(社務所に届け出、その許可が必要)。

〔祭神〕

 高宮社の祭神・日向御子神(日向王子)の“日向”(ヒムカ)とは、“日に向かう”・“日を迎える”・“日を拝する”を意味し、日向御子神とは日神(太陽神)信仰における“日神の御子(王子)”となる。
 しかし、鎌倉時代に伊勢外宮の神官が中心となってまとめた神道五部書の一・倭姫命世紀(鎌倉時代)によれば、崇神天皇6年、宮中から出されたアマテラスを倭笠縫邑に祀ったトヨスキイリヒメは、その後、アマテラスを奉じて丹波の吉佐宮など各地を巡った末に
 「崇神58年(辛巳)、倭美和乃御室嶺上宮(ヤマトミワノミムロミネカミノミヤ、美和之御諸宮ともいう)に還り、二年間奉斎・・・」
したという(この後、ヤマトヒメによる伊勢巡幸遷座に続く)。
 この伝承の真偽は別として、ここでいう“御室嶺上宮”(御諸宮)を当社とみれば、その祭神は伊勢の地に鎮座する以前の日神であるプレ・アマテラス(通常、アマテルミタマ神)を指すとも解される。
 三輪山山頂から拝する冬至の朝日は、山頂から直視できる大和と伊勢の国境・高見山(1249m)の彼方、伊勢の方角から昇ることから、当山頂は冬至の朝日を拝する日向の地であったと解され、三輪祭祀の原点には日神信仰があったと推測される。
 その日向の地に坐す神を日向御子神(あるいはアマテルミタマ)とするのは順当といえるが、別に式内・神坐日向神社(三輪に鎮座する日向神社)があるにもかかわらず、これを高宮神主家の祖神を祀ると思われる高宮神社とするのは解せない。
 なお、平安後期の史書には、当社祭神を“日本大国主命”(ヒノモトノオオクニヌシorヤマトノオオクニヌシ−大神崇秘書・1119)あるいは“天日方奇日方命”(アメノヒカタクシヒカタ・前記−元要記)とする書がある。
 記紀伝承が“海を光して依り来る神”というオオモノヌシ=日本大国主には、海から昇る朝日のイメージがあり、日神とみることもできる。
 日神が伊勢のアマテラス(天つ神)に集約されて皇祖神化し、オオモノヌシ(国つ神)から日神的神格が払拭された後の祭神であろう。

◆神坐日向神社と高宮神社との関係◆

 今、日向神社は三輪字御子の森に鎮座し、三輪山山頂には高宮神社が鎮座するが、明治初頭になって両社の間で神社名を取り違えられたとする説がある(反論もある)。
 この社名錯誤に関して、明治18年(1885)、時の大神神社宮司から明治政府に対して、
 「現高宮社に、弘仁3年(1846・江戸末期)付けの“神ノ峯殿内峯遷坐神坐日向神社幸魂奇魂神霊”と記した標札があるのを証拠に、式内・神坐日向神社は古来から三輪山頂にあったが、維新後、これを高宮神社としたのは誤りだから、訂正してほしい」(大意)
との願いが出されたが、政府から
 「(それを証する)旧記確書等が無いから、従前の通りとする」(大意)
 として却下された、という。
 明治政府の裁可書には「旧記確書なし・・・」というが、実際には
 ・大神崇秘書(1119・平安末期)
  日向神社−−高宮亦上宮(いずれもコウノミヤ)と曰ふ。
        三輪山峯青垣山に在り。
        神殿無く神杉有り、奥杉と称するは是也。
        神名帳に云ふ大神坐日向神社一座、一所日本大国主命(ヒノモトノオオクニヌシ)也。
 ・大神分身類社鈔(1265・足利時代)
  三輪上神社一座−−神名帳に云ふ神坐日向神社一座、大、月次新嘗
               日本大国主命 神体杉木
 などの古史料があり、他の中世から江戸時代にかけての史料・絵図にも、三輪山山頂に鎮座するのは日向神社で、高宮・上宮といったとするものが多く、
 また、大神崇秘書は、
 「(日向神社は)孝昭天皇(第5代天皇)御宇の御鎮座也。天皇元年4月上卯日前夜半、峯の古大杉の上に日輪の如き火気があり、光を放って山を照らす。その暁に神が天降り官女に託宣して、『我は日本大国主命也、今此の国に還り来たれり也。山田吉川比古をして我が広前を崇秘奉れ』と謂った。天皇、この御託宣により、吉川比古命(クエヒコ命8世の後、川辺足尼の子也)に勅して高宮神主と定めた」(大意)
 との鎮座伝承を伝えている。
 この伝承は、鎮座時期を、実在が疑問視されている孝昭天皇の御宇とすること、祭祀氏族・高宮神主をクエヒコの後裔とするなど、今の定説とは異なる記述が見える(高宮神主家は大神氏の後裔という)ことから、後世の創作であろう。
 その内容は、日向神社の祭神が日神的神格をもった神(=日向御子神)であることを示唆している。
 加えて、明治になっても、大神神社摂末社御由緒調査書(明治6年・1873)には、高宮神社について、社伝を引用して
 「祭神は日向御子神なり。本社境内神峯に鎮坐す。   旧平等寺所蔵の古絵図に神坐日向神社と見え、又当社所蔵の古絵図には神上ノ宮(ミワコウノミヤ)と見えたり」
とあり、これらを提示すれば、結論も替わったのかもしれない。
 しかし、日神・アマテラスを伊勢皇大神宮に集約して皇祖神とする明治政府にとって、国つ神の代表としてのオオモノヌシを祀る大神神社に日神的神格があったとするのは認めがたいことであり、たとえ上記諸史料が提示されていたとしても、大神神社の山宮(元宮)的存在である三輪山上の神社を式内・神坐日向神社とは認めなかったのではないか、ともいう(大和岩雄説)。
 ただ、諸史料がいう“高宮あるいは上宮”(コウノミヤ)が、当社の立地状況すなわち“高所(山頂)に坐す宮”を意味するとすれば、山上にある社(山宮)を高宮神社と呼ぶのも間違いとはいえない。

◆山宮と里宮◆

 日向神社と高宮神社の関係を山宮・里宮とする見方がある。
 わが国の古代信仰は、里近くの秀麗な山をカミの山・神奈備山(カンナビ)として仰ぎ見、山頂あるいは山腹にある巨石(磐座)あるいは巨木をカミが降臨する聖地・神木とした、カミ祀りからはじまるという。
 その山頂(あるいは山腹)にあるカミ祀りの場を“山宮”と称し、この山宮を麓から遙拝する場(カミ祀りの場)として設けられた社を“里宮”という。
 三輪の古代信仰について、柳田国男は
 「三輪山の絶頂には大神神社の末社高峯神社(現高宮神社)、一に高宮または上宮、また神峰社ともいう社が今でもある。
 ・・・
 大和志料には、大神崇秘書を引いて、三輪山の峯青垣山にあり、神殿なし、神杉あり、奥の杉と称すると述べている。この霊山の上方、名木の杉のある処が祭場だったのである。
 ・・・
 神を平地の里宮でお祭り申す以前に、まず山頂の清浄なる地において、お迎えする形は多くの社に伝わり、民間の春秋の行事にも残っている。正月には松迎え、盆には盆花採り、いつでも高い処に行って植物によって神を迎えるのが常の習いである。それを三輪の御社ではもう罷めているだけではないか。
 ・・・」(山宮考・1947)
 と記し、山頂の現高宮神社(元日向神社)を神がはじめて降臨した聖地=山宮とみている。
 この三輪山頂を山宮とする見方は、上記・大神崇秘書にいう、「神(日本大国主)が、峯の古大杉に降臨した」とする伝承、すぐ奥にオオモノヌシが鎮まる奥津磐座群があることからも妥当な見方といえる。
 ただ柳田が、里宮としてどの神社を念頭においていたのかは不明だが、麓にある大神神社ではないかと想像できる。
 それは、大神神社の社殿構成などからみて当然といえるが、麓から山宮を遙拝する里宮は各処にあってもいいわけで、現日向神社を里宮とみてもおかしくはない。

◆現日向神社(元高宮神社)◆

 現日向神社の鎮座地を“御子ノ森”という。
 この字名は、山頂に祀る日向御子神を招き降ろした里宮が鎮座することからの地名とも解され、その意味では里宮としての日向神社と称してもおかしくはない。
 しかし、
✓ฺ そこに祀られる祭神が大神氏の祖神・櫛御方命以下の3座であること、
✓ฺ 境内入口の左に高宮神主家の家宅があること、
✓ฺ 当地のすぐ西が高宮区と呼ばれること、
 などから、大神氏の後裔・高宮神主家が、その屋敷内に祀った氏神社が原点ではないかといわれ、その意味では高宮神社とするのが妥当と思われる。
 現高宮神社を式内・神坐日向神社とすることには、明治政府の裁定を是とするなど異論もあるが、素直に、社名と祭神・鎮座地などを勘案すれば、両社の社名は入れ替えられるべきであろう。

奇彦命の神上がり〜『秀真伝(ほつまつたゑ)』から

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十三〔御衣定め剣名の紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、上巻P852-856 )
  時(とき)に大物主命(ものぬし)  
笑(ゑ)み曰(いわ)く 「昔(むかし)大物主(ものぬし)  
賜(たま)わりて 深(ふか)く思(おも)えど  
まだ解(と)けず 今(いま)やふやくに  
これお知(し)る これ八重垣(やゑがき)は  
物部(もののべ)の 名(な)なりと己(おの)が  
緒(を)に応(こた)ゆ てれば皇(すへら)の  
代々(よゝ)の垣(かき) 己(おの)が緒(を)なり」と  
誓(ちか)いなす また勅(みことのり)  
「宜(む)べなるや 奇彦(くしひこ)汝(なんじ)  
御孫(みまご)より 大国主神(をこぬしかみ)の 御孫の瓊々杵尊から大国主神という名を賜る。
賜(たま)う名(な)も まだ足(た)らずわれ  
二神の 賜(たま)ふ逆矛(さかほこ) 天照神が伊邪那岐尊と伊邪那美尊から賜った「逆矛」を奇彦命に授けた。
幸(さいわ)ひに その杵(き)お得(ゑ)れば  
譲(ゆづ)るなり 生(う)まれ素直(すなお)に  
弥真瓊路(やまとぢ)の 教(をし)ゑに叶(かな)ふ  
皇(すべらぎ)の 八重垣(やえがき)の翁(をき)  
賜(たま)ふ名(な)も 日本大国(やまとをヽこ)の  
御魂神(みたまかみ)」 時(とき)に奇彦命(くしひこ) 奇彦命、天照神から「日本大国御魂神」という名を賜る。
大国玉神・大国霊神は、土地の神の国土経営の霊徳に対する崇称として伝えられている。
恐(おそ)れ伏(ふ)し しばし答(こた)えず  
物部(もののべ)ら 「さ受(う)け賜(たま)え」と  
勧(すす)むれど また項垂(うなだ)るお  
天児屋根命(こやね)また 「な深(ふか)恐(おそ)れそ  
受(う)け賜(たま)え われ若(わか)けれど  
子守神(こもり)とは 世々(よよ)睦(むつ)まじく  
君(きみ)のため 中心(なかご)一(ひと)つに  
忠(まめ)なさん」 時に奇彦命(くしひこ)  
敬(うやま)いて 受(う)け頂(いただ)けば  
君(きみ)はまた 太玉命(ふとたま)香久山命(かぐ)に  
勅(みことのり) 「孫(まご)照彦尊(てるひこ)の 第一次天孫降臨を行った御孫の火之明照彦(ほのあかりてるひこ)
翼(はね)の大臣(おみ) 太玉(ふとたま)は世々(よよ)  
祭(まつ)り執(と)れ また香久山(かぐやま)は  
大物主(ものぬし)よ 六十(むそ)の物部(もののべ)  
掌(つかさど)り 民(たみ)お治(おさ)めよ」  
時(とき)にまた 天児屋根命(こやね)子守神(こもり)に  
勅(みことのり) 「今(いま)清仁(きよひと)の 第二次天孫降臨を行った瓊々杵尊
翼(はね)の臣(おみ) 天児屋根(こやね)は世々(よよ)の  
祭(まつ)り執(と)り 子守神(こもり)は世々(よよ)の  
大物主(ものぬし)ぞ ともに守(まも)りて  
民(たみ)お治(た)せ」 また皇孫(すべまご)に  
勅(みことのり) 「汝(なんじ)ら政(まつり) 第一次天孫降臨を行った御孫の火之明尊と第二次天孫降臨を行った瓊々杵尊に
怠(おこた)らず 秀真(ほづま)なるとき  
やヽ安(やす)ぶらん」    
奇彦命(くしひこ)は 大和(やまと)山辺(やまべ)に  
殿(との)造(つく)り 世(よ)お考(かんが)えば  
歳(とし)すでに 十二万八千(そふよろやち)も  27鈴木1枝(紀元前1,440,710)ごろから28鈴木ごろ、奇彦命奇彦命、天照神から日本大国御魂神の称号と天之逆矛を賜う。
 奇彦命、12万8千歳にして、三諸山の洞に逆矛を持って隠れ神上がる。
(※)奇杵命が生まれたのは紀元前1,560,710年であり、国譲りが行われたのは奇杵命5,620歳の時の紀元前1,555,090年のことである。ということは、奇彦命が生まれたのは、この期間だということになる。
 奇彦命が12万8千歳のとき神上がられたということは、紀元前1,432,710年から紀元前1,427,090年の間になるはずだ。
極(きわ)あれば 後(のち)の守(まも)りは  
豊受神(とよけ)法(のり) 魂(たま)の緒(を)入(い)れて  
皇(すべらぎ)の 世々(よよ)守(まも)らんは  
天(あめ)の道(みち) 三諸(みもろ)の山(やま)に  
洞(ほら)掘(ほ)りて 天(あま)の逆矛(さかほこ)  
提(さ)げながら 入(い)りて鎮(しづ)まる  
時(とき)お待つ 直(す)ぐなる主(ぬし)お その洞にて時を待ち、素直な心の持ち主を見分けよう。
見分(みわ)けんと 直(す)ぐな印(しるし)の  
杉(すぎ)植(う)える 大国主(をこ)の御魂(みたま)の 「杉」の語源が「直ぐなる木」であることが推測される。なお、大神神社の社地が古くから大小の杉に蔽われ、「三本杉」を神紋としている点は、本書の所伝の関連で注意を要する点である。
神はもと 日の輪分け身 大和大国魂神は元来、日の輪の分身(わけみ)であり、天照神に次ぐ御神徳の神でした。
勅(ことのり)も 『天(あめ)に次(つ)ぐ』とて  
子守神(こもりかみ) 添物部(そへもののべ)は  
天苫見命(とまみ)なり 事代主(ことしろぬし)は  
積葉命(つみは)なり 瓊々杵(にいんきね)御子(みこ)の  
守(まも)りなりけり    

  【系図】素戔嗚尊-奇杵命(大己貴命)-奇彦命(えびす顔)-子守神

【系図】素戔嗚-奇杵命-奇彦命-子守神

第5代大物主の蕗根命(大己貴と尊称)と第6代大物主の櫛甕玉命(鰐彦命)

『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十七〔御祖神船魂の紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P127-170 )より

これの先 原見(はら)の天押雲命(おしくも) 原見山(富士山)の朝間宮にて勤めていた天押雲命が、近江国多賀の鵜葺草葺不合尊のもとへ召し上げられ、その代わりに、弟の若い日立命が朝間宮に仕えた。
召(め)し上(のぼ)す 弟(おとうと)日立命(ひたち)は  
若(わか)きゆえ 阿波(あわ)の事代主命(ことしろぬし) 現在の徳島県
侍(はべ)る宮(みや) はらからなれば  
西(にし)東(ひがし) 通(かよ)ひ勤(つと)めて  
要(かなめ)しむ 名も積葉八重(つみはやゑ)  
事代主命(ことしろ)が 三島(みしま)に至(いた)り  
原見(はら)に行(ゆ)き また三島より  
伊予(いよ)に行(ゆ)く ついにちなみて  
溝咋命(みぞくい)の 玉櫛姫(たまくしひめ)も 本紋に「三島(みしま)溝咋命 原見宮(はらみや)に 百枝県(ももえあがた)の 物部と 豊かに治む」(二七−二)とある。
孕(はら)むゆえ 鰐船(わに)乗(の)り阿波(あは)え  
帰る内(うち) 生む子の諱(いみな)  
鰐彦命(わにひこ)は 櫛甕玉命(くしみかたま)ぞ 積葉八重事代主命の子の櫛甕玉命は、鰐船で生まれたので鰐彦という諱(いみな)になった。
次の子は 諱(いみな)中彦(なかひこ)  
櫛梨命(くしなし)ぞ 青垣殿(あおがきとの)に  
住(す)ましむる 先(さき)に筑紫(つくし)の  
神立命(かんだち)は 襲緒(そを)の船津(ふなつ)の 襲緒(そを)、鹿児島県曽於郡。船津、鹿児島県姶良郡姶良町船津。
太耳姫(ふとみみ)お 夜須に娶りて  
蕗根命(ふきね)生む のち諸(もろ)ともに 大己貴神社(おおなむち) 〔福岡県朝倉郡筑前町弥永697-3〕において、蕗根命が生まれる。
子守神の長男の神立命(かんだち)は夜須の地で神上がる。
神となる 大物主(おおものぬし)は  
蕗根命(ふきね)なり 豊祇彦命(とよつみひこ)と  
治(をさ)めしむ 野業(のわざ)教えて  
民(たみ)お生(う)む 一人(ひとり)治(おさ)むる  
大己貴命(おおなむち) 自(みづか)ら褒(ほ)めて 奈良県桜井市三輪の大神神社は大物主大神を主神とし、大己貴神、少彦名神を配祀している。
「葦(あし)の根さ 元(もと)より荒(あら)び  
岩根子(いわねこ)も みな伏(ふ)しなびけ  
治(をさ)むるは 八万穂にだれか  
またあらん」 海原(うなばら)光り 「海原の光り」という場面は、日に向かうことから、日向神という名が、第5代大物主の蕗根命に与えられていたかもしれない。
 大三輪神社の摂社神坐日向社が「第6代大物主の櫛甕玉命」が住まわれた土地だとすると、住所の「奈良県櫻井市三輪字御子ノ森」の「御子」とは、日向神の「御子」という意味を持ち合わせてくるだろう。
 三輪山山頂の高宮神社(こうのみや)の祭神が「日向御子神」である点から、「第6代大物主の櫛甕玉命」は、「櫻井市三輪字御子ノ森」にお住まいになられて、山頂に「日向御子神」として祭られた可能性がある。
 あくまでも『秀真伝(ほつまつたゑ)』を主流においた解釈である。
 
顕(あら)はれて 「われあればこそ  
汝(なんじ)その 大凡(おおよそ)になす  
労(いたは)りぞ」 大己貴命(おおなむち)問(と)ふ  
「汝(なんぢ)誰(た)ぞ」 「われは汝(なんぢ)の  
幸御魂(さきみたま) 奇(くし)しゐ術魂(わざたま)」  序註42および43を参照。
 内則五則(省恥悔畏悟)に対応する一霊四魂(直霊・荒魂・和魂・幸魂・奇魂)という考え方に関係しそうな術魂(わざたま)という用語が登場する。
 術魂(わざたま)とは、省みる力を象徴する直霊のことだろうか?
 この術魂(わざたま)を鰐彦の櫛甕玉命(くしみかたま)だとしている。
 三輪山に居られる幸魂が蕗根命を三輪山に呼び寄せているところをみると、蕗根命は荒魂・和魂・奇魂のいずれかの御魂を象徴する神だということになろう。
 蕗根命に先行して三輪山に居られるのは、天照神の命を受けて神上がられた奇彦(えびす神)だ。
 論理の帰結は、幸魂で「愛」を象徴するのは奇彦(えびす神)ということになるのかもしれない。
「畏れ」と「愛」は奇彦(えびす神)の代名詞なのかもしれない。
「さて知りぬ 祭る幸魂(さきたま)  
どこに住む」 「いや神(かみ)住(す)まず  
汝(なんじ)おば 青垣山(あおがきやま)に  
住(す)ませんと 宮造(みやづく)りして  
そこにあれ 子(こ)無(な)きがゆえに 第5代大物主の蕗根命(大己貴命)が三輪山の祭神になる。
第5代大物主の蕗根命は、大己貴命とも尊称されている。
奈良県桜井市三輪の大神神社は大物主大神を主神とし、大己貴神、少彦名神を配祀している。
乱(みだ)るるぞ 事代主(ことしろぬし)が  
兄弟(ゑと)の子(こ)の 櫛甕玉(くしみかたま)お  
請(こ)い受(う)けて 嗣(つぎ)となすべし」  
御教(みおし)ゑに 三諸(みもろ)のそばに  
殿(との)なして 請(こ)えば賜(たま)はる  
儲(もふ)けの子 櫛甕玉命(くしみかたま)と  奈良県桜井市三輪の大神神社は大物主大神を主神とし、大己貴神、少彦名神を配祀している。31紋に「鰐彦命(わにひこ)までが、三輪の神」〔31-16〕とあるから、櫛甕玉命(くしみかたま)が祭神に加わってよいはずだがみえない。
 第5代大物主の蕗根命が「日向神」と呼ばれた可能性があることは指摘した。
 三輪山山頂の高宮神社(こうのみや)の祭神が「日向御子神」である点から、「日向御子神」とは「第6代大物主の櫛甕玉命」の可能性も排除でない。「第6代大物主の櫛甕玉命」が「櫻井市三輪字御子ノ森」にお住まいになられて、「日向御子神」として祭られた可能性がある。
 あくまでも『秀真伝(ほつまつたゑ)』を主流においた解釈である。
 大三輪神社の摂社神坐日向社が「第6代大物主の櫛甕玉命」が住まわれた土地だとすると、住所の「奈良県櫻井市三輪字御子ノ森」の「御子」とは、日向神の「御子」という意味を持ち合わせてくるだろう。
 しかし、摂社の神坐日向社が櫛御方命(くしみなかた)を祭神とする。
 櫛御方命(くしみかた)と
 櫛甕玉命(くしみかた)では一字違うだけだ。
 一番最後の「」があるか、ないかで雰囲気が違ってくる。
若妻(わかづま)の 刺国若姫(さしくにわかひめ)  
諸(もろ)ともに 住(す)ませて主は  蕗根命(大己貴命)の幸御魂が、蕗根命(大己貴命)を青垣山へ招いてくれたので、若妻の 刺国若姫(さしくにわかひめ)と養子の櫛甕玉命(くしみかたま)を奈良県桜井市三輪の大神神社に住まわせて蕗根命は筑紫の統治に努めた。
 大三輪神社の摂社の神坐日向社は、櫛御方命(くしみなかた)を祭神とする。
 櫛御方命(くしみかた)と櫛甕玉命(くしみかた)では一字違うだけだ。
 一番最後の「」があるか、ないかで雰囲気が違ってくる。
筑紫(つくし)治(た)す 日(ひ)足(た)るのときは  
これお告(つ)ぐ 母子(ははこ)至(いた)れば  
遺(のこ)し言(ごと) 「この叢雲剣(むらくも)は 叢雲剣(むらくも)」は、第5代大物主の蕗根命(大己貴命と尊称)の手元に留め置かれていたようだ。
第6代大物主の櫛甕玉尊(鰐彦)に「神武天皇の誕生祝いとして奉げるように」と託した。
生(あ)れませる 御子(みこ)の祝(いわ)ひに 神武天皇の誕生に祝いの品として。
捧げよ」と いいてイモヲセ  
神(かみ)となる 夜須(やす)に納(おさ)めて 神武天皇が誕生する直前に、蕗根命(ふきね)と刺国若姫が夜須で神上がり御亡骸は夜須に納められた。
祭るのち 筑紫(つくし)雄鹿(をしか)の  
勅(みことのり) のちに櫛梨命(くしなし)  
神となる 母に請われて 香川県仲多度郡象郷村下櫛梨に櫛梨神社がある。
祭神は、神櫛皇子命となっている。
雄鹿(をしか)棄(す)つ 故(かれ)に筑紫(つくし)の  
御幸(みゆき)請(こ)ふ    

  【系図】子守神 → 神立命 → 蕗根命 → 櫛甕玉命

【系図】素戔嗚-奇杵命-奇彦命-子守神

三輪山の全体図

三輪山の詳細な地図

三輪山の周辺の地図  

三輪山から大和三山