文献に掲載されている由緒書き
『全国神社名鑑』(史学センター)に掲載されている由緒書き
記載ありません。
「おのころ島」にもいくつかの考え方があります
私の捉え方では、伊邪那岐尊と伊邪那美尊が国生みする前は、和歌山県の友が島(沖の島・神島・虎島・地ノ島の4島の総称)が「おのころ島」だったと思われます。
それがある事情のため、伊邪那岐命と伊邪那美命が国生みのとき、淡路島の属島である沼島が「おのころ島」となって現れてしまったのです。
このことについては、四国について語る時が来たら詳しく触れる予定でいます。
それがある事情のため、伊邪那岐命と伊邪那美命が国生みのとき、淡路島の属島である沼島が「おのころ島」となって現れてしまったのです。
このことについては、四国について語る時が来たら詳しく触れる予定でいます。
『日本の神話@天地創成』(P128、伊藤 清司編 · 松前 健編、発行所:ぎょうせい、1983年)
オノコロ島とは、本来、神話の中で語られている想像上の島であったと思われるが、『古事記』の仁徳天皇の段に、難波の崎から眺めるとオノコロ島が見えるという意味の仁徳天皇御製の歌がある。
この歌が本当に仁徳天皇の歌であったかどうかはわからないが、すくなくとも、7、8世紀の頃には、オノコロ島と呼ばれる島が実際あったとしなければならない。
したがって、その所在地をめぐっては平安時代からすでに問題になっており、沖ノ島、沼島、それに淡路島の榎列(えなみ)のオノコロ島神社などがその候補地に上げられていた。
このうち、榎列説は、同じ榎列に鎮座する淡路二之宮の大和大国魂神社の社家が近世になってから、国生み神話に基づいて、この地に建てたものであることがはっきりしているので、この地をオノコロ島と見るのは困難であろう。
また沼島説も、大阪湾から望見できる島ではないので、オノコロ島と比定するのも無理といわなければならない。
そこで、今日最も有力視されているのが沖ノ島説であろう。
沖ノ島は和歌山県の加太港と淡路島の間によこたわる紀淡海峡内の周囲8キロほどの一小島であるが、大阪湾からも遠く望み見ることができ『古事記』の歌の条件にもかなっている。
また、奇岩怪石や岩窟も多い沖ノ島は古くから修験道の聖地として知られているが、おそらく修験道の開基以前からも、この島は淡路や紀伊地方の漁民の間で一種の聖なる地として信仰されていたことも推定されよう。
このようにみてくると、オノコロ島は沖ノ島とするのが最も古い伝承のようで、淡路島からも遥かに望むことのできるこの島が、イザナギ・イザナミによる万物の生誕の地であるように考えられていたのではないだろうか。
この歌が本当に仁徳天皇の歌であったかどうかはわからないが、すくなくとも、7、8世紀の頃には、オノコロ島と呼ばれる島が実際あったとしなければならない。
したがって、その所在地をめぐっては平安時代からすでに問題になっており、沖ノ島、沼島、それに淡路島の榎列(えなみ)のオノコロ島神社などがその候補地に上げられていた。
このうち、榎列説は、同じ榎列に鎮座する淡路二之宮の大和大国魂神社の社家が近世になってから、国生み神話に基づいて、この地に建てたものであることがはっきりしているので、この地をオノコロ島と見るのは困難であろう。
また沼島説も、大阪湾から望見できる島ではないので、オノコロ島と比定するのも無理といわなければならない。
そこで、今日最も有力視されているのが沖ノ島説であろう。
沖ノ島は和歌山県の加太港と淡路島の間によこたわる紀淡海峡内の周囲8キロほどの一小島であるが、大阪湾からも遠く望み見ることができ『古事記』の歌の条件にもかなっている。
また、奇岩怪石や岩窟も多い沖ノ島は古くから修験道の聖地として知られているが、おそらく修験道の開基以前からも、この島は淡路や紀伊地方の漁民の間で一種の聖なる地として信仰されていたことも推定されよう。
このようにみてくると、オノコロ島は沖ノ島とするのが最も古い伝承のようで、淡路島からも遥かに望むことのできるこの島が、イザナギ・イザナミによる万物の生誕の地であるように考えられていたのではないだろうか。
五十黙示録 第06巻 至恩の巻〜『ひふみ神示』
そのかみの天津神はイザナギ、イザナミの神と現われまし、
成り成りの成りのはてにイザナギ、イザナミの命となり給ひて、 先づ国土をつくり固めんとしてオノコロの四音の島をならし
八尋殿(やひろどの)を見立てられたのであるぞ、
これがこの世の元、人民の頭に、東西南北の四方があり
八方と拡がるであろうが、
八十となり、八百、八千と次々に拡がりて
八百万(やをよろづ)となりなるのであるぞ。
成り成りの成りのはてにイザナギ、イザナミの命となり給ひて、 先づ国土をつくり固めんとしてオノコロの四音の島をならし
八尋殿(やひろどの)を見立てられたのであるぞ、
これがこの世の元、人民の頭に、東西南北の四方があり
八方と拡がるであろうが、
八十となり、八百、八千と次々に拡がりて
八百万(やをよろづ)となりなるのであるぞ。
参考文献
『日本の神話@ 天地創成』 伊藤 清司編 ・ 松前 健編、発行所:ぎょうせい、1983年
『日本の神話A 葦原中国』 伊藤 清司編 ・ 松前 健編、発行所:ぎょうせい、1983年
『日本の神話B 天孫降臨』 伊藤 清司編 ・ 松前 健編、発行所:ぎょうせい、1983年
『日本の神話C 神武東征』 伊藤 清司編 ・ 松前 健編、発行所:ぎょうせい、1983年
『日本の神話D 倭猛命 』 伊藤 清司編 ・ 松前 健編、発行所:ぎょうせい、1983年
『日本の神話E 風土記 』 伊藤 清司編 ・ 松前 健編、発行所:ぎょうせい、1983年
『日本の神話A 葦原中国』 伊藤 清司編 ・ 松前 健編、発行所:ぎょうせい、1983年
『日本の神話B 天孫降臨』 伊藤 清司編 ・ 松前 健編、発行所:ぎょうせい、1983年
『日本の神話C 神武東征』 伊藤 清司編 ・ 松前 健編、発行所:ぎょうせい、1983年
『日本の神話D 倭猛命 』 伊藤 清司編 ・ 松前 健編、発行所:ぎょうせい、1983年
『日本の神話E 風土記 』 伊藤 清司編 ・ 松前 健編、発行所:ぎょうせい、1983年
Copyright (C) 2002-2013 「月の光」成田亨 All Rights Reserved.
お問合せはこちらのメールフォームからお願いします。※当サイトのテキスト・画像等すべての転載転用、商用販売を固く禁じます。