「おのころ島」と伝わる「友が島」(地ノ島・神島・沖ノ島・虎島)【1】トップページ|和歌山県

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和歌山県和歌山市加太友が島( グーグルの広域地図
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おのころ島と伝わる「友が島」(沖の島・神島・虎島・地ノ島)トップページ

参拝履歴

訪問日:平成28(2016)年9月24-25日(土-日)
平成13(2001)年8月13日(月)に「友ヶ島」に渡り、8月15日(水)に淡路島の属島である「沼島」に渡った。

「おのころ島」にもいくつかの考え方があります

 私の捉え方では、伊邪那岐尊と伊邪那美尊が国生みする前は、和歌山県の友が島(沖の島・神島・虎島・地ノ島の4島の総称)が「おのころ島」だったと思われます。
 それがある事情のため、伊邪那岐命と伊邪那美命が国生みのとき、淡路島の属島である沼島が「おのころ島」となって現れてしまったのです。
 このことについては、四国について語る時が来たら詳しく触れる予定でいます。

当所神社、當所神社(とうしょ)の拝殿

当所神社、當所神社(とうしょ)

ご祭神

奥津那藝佐毘古 ( おきつなぎさひこ ) 神
奥津甲斐辨羅 ( おきつかひべら ) 神
奥疎 ( おきざかる ) 神

当所神社、當所神社(とうしょ)の本殿

当所神社、當所神社(とうしょ)

『日本の神話@天地創成』(P128、伊藤 清司編 · 松前 健編、発行所:ぎょうせい)

 オノコロ島とは、本来、神話の中で語られている想像上の島であったと思われるが、『古事記』の仁徳天皇の段に、難波の崎から眺めるとオノコロ島が見えるという意味の仁徳天皇御製の歌がある。

 古事記伝に於いて本居宣長はこのオノコロ島の在処について幾つか言及しています。

 それによると古事記の仁徳天皇の段で天皇が淡路島に景行して詠んだ歌が在ります。
「 押し照るや、難波の崎よ、
  出で立ちて、我が国見れば、
  淡島、おのごろ嶋、檳榔の、嶋も見ゆ、

  放つ嶋も見ゆ 」

「押し照るや」は「難波」に掛かる枕詞です。仁徳天皇は難波の高津宮にいました。
「難波の崎を出発して淡路島に着いて我が国つまり本州の方向を見れば淡島・オノコロ島・檳榔の生える島や離れ島が見える」という意味の歌です。

 淡路島からオノコロ島が見える訳ですから、淡路島はオノコロ島ではないことが解ります。

 この歌が本当に仁徳天皇の歌であったかどうかはわからないが、すくなくとも、7、8世紀の頃には、オノコロ島と呼ばれる島が実際あったとしなければならない。
 したがって、その所在地をめぐっては平安時代からすでに問題になっており、沖ノ島、沼島、それに淡路島の榎列(えなみ)のオノコロ島神社などがその候補地に上げられていた。
 このうち、榎列説は、同じ榎列に鎮座する淡路二之宮の大和大国魂神社の社家が近世になってから、国生み神話に基づいて、この地に建てたものであることがはっきりしているので、この地をオノコロ島と見るのは困難であろう。
 また沼島説も、大阪湾から望見できる島ではないので、オノコロ島と比定するのも無理といわなければならない。
 そこで、今日最も有力視されているのが沖ノ島説であろう。
 沖ノ島は和歌山県の加太港と淡路島の間によこたわる紀淡海峡内の周囲8キロほどの一小島であるが、大阪湾からも遠く望み見ることができ『古事記』の歌の条件にもかなっている。
 また、奇岩怪石や岩窟も多い沖ノ島は古くから修験道の聖地として知られているが、おそらく修験道の開基以前からも、この島は淡路や紀伊地方の漁民の間で一種の聖なる地として信仰されていたことも推定されよう。
 このようにみてくると、オノコロ島は沖ノ島とするのが最も古い伝承のようで、淡路島からも遥かに望むことのできるこの島が、イザナギ・イザナミによる万物の生誕の地であるように考えられていたのではないだろうか。

和歌山市伊島の全体図