麻賀多神社(台方)【5】記録に残しておきたいメモ書き|千葉県

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千葉県成田市台方
 ⇒ 船形の麻賀多神社(奥宮)はこちらです。

記録に残しておきたいメモ書き

 平成18(2006)年4月5日夜、天の大神のお話だった。

「そなたにはワシからの呼びかけが聞えなんだか?」

 聞えたようでもあり、聞えないようでもあった。

 天の大神は、常に私に呼びかけていたのだという。

 まだ弟が生きていた頃なので私が大学2年生(1978年)の初夏の話だったと思う。
 青森に住んでいた私の伯母が神事(かみごと)に凝って、いろんな神のお告げを受けていた。そのお告げの中の一つに、山形の私の実家は成田市台方の麻賀多神社とは切っても切れぬ関係があるのだ、という話があった。
 だから、家族総出でその麻賀多神社に行かなければならない。半強制的に1978年の初夏、成田の親族は麻賀多神社詣でをしたのだった。
 そして伯母は、「この麻賀多神社の縁で私たちは成田の姓を名乗っている」と常々いっていた。

 この麻賀多神社が岡本天明氏が神示を降ろしはじめることになった神社だった。

 これは1978年から17年経過した1995年に、『ひふみ神示』の縁で麻賀多神社を訪ねたときに知った。

 平成18(2006)年4月5日夜、天の大神は、

「ワシがそなたを呼んだのじゃ」
 という。

 当時私が、心すませて天の大神の言葉に耳を傾けていれば、違う人生があったのだといわれる。

 今から30年近くも前の話だ。
 私が遠回りをしているうちに、時が経過し多くの方が亡くなった。
 私に引継ぎすることなく亡くなってしまった。

 その分、多くの方がしなくていい苦労を強いられてしまった。

「そなたが心を閉ざしていたために諸方面に影響が出た」
 その年(1978年)の12月8日に弟は、交通事故で亡くなった。生死とは何かを考えざるを得なくなった私に、翌1979年春、友人が『シルバーバーチの霊訓』を貸して上げようといってきた。
 当時私は、マルクスの『資本論』、ヘーゲルの『大論理学』と格闘中だった。ドイツ語の原書と訳本を同時に広げ唯物弁証法の核心にせまろうとしていた。そういう思想的背景もあって友人の申し出をアッサリ断ってしまった。
 天の大神は『シルバーバーチの霊訓』を素直に借りていれば、違う人生があったのだという。天の大神が当時の私の水準を見極めて、私にハマルものを紹介したはずだったのだという。
「本来であれば、そなたに引き合わせておきたかった者たちが多くおった」
「それを選択してくれなかったため、そなたはしなくてもいい苦労をする羽目になった。そのおかげで、まわりの状況も変えざるを得なくなった。」
「あげくに、失敗するとわかっている結婚をした。当時のそなたの周りにはもっとふさわしい女性がおったであろう」
「無理することなく素直に手を伸ばしてくれれば、すぐそこに全てが用意してあるのじゃ。」
 大学3年生の時、友人の申し出を快く受け入れて、『シルバーバーチの霊訓』を手にする「素直な私」はいなかった。
 当時は、この断るという選択の重みを深く考えなかったが、30年近くたって私の過去の歩みを深く掘り下げるとここが最大のツマヅキだったようだ。
 このツマヅキがあるため、その後の人生の急所どころで全てツマヅクことになった。
 天の大神の元に私の意思で立ち戻ることなし、私の人生は完結しない。この感覚は、幼い頃の私には当たり前だったのだ。
 なんてことしてしまったんだと、絶望に近い悔悟の念にとらわれる。

 26歳(1985年)のとき、私は大学院を中退し、目的を見失い彷徨った。

 この世の物質界の知らず知らずの影響は大きい。

亡くなった青森の伯母は、我家「成田」のルーツは麻賀多神社にあるといっていた。

 参考リンク:印旛沼周辺の神社と古代氏族より
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2.麻賀多神社

 麻賀多神社が分布するのは、印旛沼の東岸から南岸にかけての台地で、成田市台方・船形・米野・佐倉市鏑木町・大蛇町・飯野・飯田・岩名・大佐倉・江原新田・大篠塚・城・太田・高崎・印旛郡酒々井町酒々井・下台、同郡富里町中沢・新橋の4市町18地区に各1社の計18社である。

 これを称して「 麻賀多十八社 」と呼んでいる。

 県内はもとより全国でここだけに分布する神社で、本社は成田市台方の麻賀多神社とされ、『 延喜式 』神名帳に「 印旛郡ー座 小  麻賀多神社 」と記載されている。

 台方から約800メートル北方の船形にある神社は、その奥宮である。

 祭神は本社(台方)が迦具土( かぐつち )神の子の稚産霊( わくむすび )命で、奥宮(船形)は天照大神の妹神という稚日レイ( わかひるめ )命を祀っている。
 なお、成田市台方と船形は『 和名抄 』の印旛郡八代( やつしろ )郷に比定されており、この八代( やつしろ )は麻賀多神社の社( やしろ )を意味するものと考えられる。

 両社の神官である太田家伝来の古文書のうち、明和2年( 1765 )に記された「 延喜式内奥津宮麻賀多神社 」という縁起によれば、日本武尊が東征のためこの地を通ったとき、松杉生い茂る山に登って一本の大杉に鏡を掛け、西に向かって伊勢の大御神を拝んで戦勝を祈念した。 そのおり里民から土地が悪くて穀物が実らないという嘆きを聞き、この鏡を祀れば豊作になることを告げた。
 そこで里民たちがこの鏡を祀ったところ、泉が湧き慈雨が降り、土地は開けて五穀豊穣の地になった。
 その後、応神天皇の時代、印波( いんば )国( 旧印旛郡一帯 )の初代国造となった伊都許利( いつこり )命が霊夢を受け、杉の下より七つの玉を掘り出し鏡とともに祀って一社を創建( 現奥宮 )し、麻賀多真( まかたま )大神と称した。
 降って伊都許利命7代の孫 広鋤手黒彦( ひろすきてくろひこ )が推古天皇16年( 608 )、現在の台方の地に稚産霊命を遷座して大宮殿( 現本社 )と称し、ここに本社と奥宮の二つの麻賀多真大神が成立した。

 しかし延喜18年( 918 )、朝廷の宝物である「 三種の神器 」の一つ八尺瓊勾玉( やさかにのまがたま )と同名であることを遠慮して、麻賀多神社に改名したという。

 日本武尊の東征譚は全国各地にあるが、太田家文書のうち麻賀多神社と日本武尊との関係を記しているのはこの縁起のみで、ほかはすべて印波国造伊都許利命を創建者としている。
 たとえば乾元元年( 1302 )の「 麻賀多明神縁起 」には、神津稷山( こうづあわやま )( 台方 )の麻賀多太神と内宮 千座山瀛津宮( ちくらやまおきつみや )は応神天皇の御宇に神八井耳( かむやいみみ )命8代の孫印波国造伊都許利命が奉斎した太神なりとし、ほかもほとんどがこれに準拠している。 日本武尊はともかくとして、印波国造伊都許利命が創建に深く関与していたことが知れよう。

 伊都許利命については、9世紀初頭の成立とされる『 先代旧事本紀 』の「 国造本紀 」に「 印波国造 軽島豊明( かるしまとよあきら )朝御代。 神八井耳命八世孫伊都許利命定賜国造 」と見えるのが初見であり、命の名が現れる他の諸文献はすべてこの「 国造本紀 」からの引用と思われる。
 軽島豊明とは応神天皇のことであり、命の祖となている神八井耳命は神武天皇の第一子で、多氏系氏族の祖である。
 神官太田家に伝わる嘉元三年( 1305 )の家系図は命を初代として以下連綿と続いているが、命の付記事項に「 応神天皇二十年四月斎祭稚日レイ尊稚産霊尊、仁徳天皇十六年崩 」と書かれている。

 麻賀多神社の神の性格については、前出の「 麻賀多明神縁起 」には、「 麻賀多太神は五穀の神なり。 因ってその山を稷山という。
 瀛津宮は天水の神なり。 天水は五穀の生まれる所由なり。 その山を千座山という。 千は無数。 座は倉にて、多くの五穀を収むる倉廩(そうりん)なり 」とある。
 このことから、麻賀多神社の神は農耕の神と考えられよう。

 以上のことから、麻賀多神社は印波国造一族の守護神として、また当地方( 『 和名抄 』に記載される印旛郡八代郷 )開墾の神として祀ったものであろう。
 その後一族が分散するにともない、その土地にも麻賀多神社を分祀したのであり、現在の麻賀多神社の分布地は古代における印波国造一族の掌握圏内にあったと考えられる。
 そして麻賀多神社が印旛沼を渡った北岸には一社も存在しないことから、印波国といっても沼の北側( 現在の印西町、本埜村、印旛村など )は、国造の強い支配が及んでいなかったといえよう。

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 参考リンク:印旛沼周辺の神社と古代氏族より