平成23(2011)年8月16日(火)、桜井市での神武天皇の史蹟
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桜井市の鳥見山中の祭祀遺跡
参拝履歴
桜井市の鳥見山中図
桜井市の鳥見山中への案内板
桜井市の鳥見山中の霊畤拝所
歌碑
桜井市の鳥見山中の「白庭」碑
桜井市の鳥見山中の「霊畤」碑
桜井市の鳥見山中の頂上
桜井市の鳥見山中の「白庭」の位置づけ
◆ 神武天皇即位四年春鳥見山中に霊畤(まつりのには)を築かれ、天皇みづから皇祖天神を祭祀された「下小野榛原(しもつおのはりはら)という」とあるのは、「神武天皇大和進入」の推定では、宇陀市の「墨坂伝承地」にあたる。
「上小野榛原(かみつおのはりはら)」が宇陀市鳥見山公園内の「鳥見社」に当たるのであろう。
神武天皇即位の大礼のとき、星の使いをされた天富命が、祭主になっている。
第10代祟神天皇のとき、「下小野榛原(しもつおのはりはら)」に相当していた宇陀市の「墨坂伝承地」に祀られていたものが、宇陀市の墨坂神社に祀りかえられた。
宇陀市というのは、「星の使い」に深く関わる土地であることも示されたのだと思う。
「鳥見山中霊畤」伝承地に選ばれればそれだけでも名誉なことであった。
その影響を受けて、奈良県内には「鳥見山中霊畤」伝承地が6箇所あることになった。
紀元前1,552,847年の第一次天孫降臨と神武天皇即位後4年では時間の開きが155万年もある。
神武天皇即位四年春鳥見山中に霊畤(まつりのには)は宇陀市のものが有力であるにも関わらず、桜井市になぜ、鳥見山と等彌神社の伝承が残るか今まで判らないままでいた。
神武天皇即位四年春鳥見山中に霊畤(まつりのには)の「下小野榛原(しもつおのはりはら)」とあるのは、天富命の住居に注目すれば宇陀市の「墨坂伝承地」と墨坂神社である。
「上小野榛原(かみつおのはりはら)」が宇陀市鳥見山公園内の「鳥見社」に当たる。
それでは、桜井市の鳥見山と等彌神社に伝承されている霊畤(まつりのには)伝承は何か、という問題が残る。
饒速日尊(国照宮)が天之火之明尊の喪祀りを行われるとき、御尊骸をどこに納めたのか、という問題意識は私が日本各地を周り始めた当初からもっていた。
この白庭(あるいは白庭山)か鳥見山頂上の「霊畤」が天之火之明尊の御尊骸を納められた場所だと思う。
もし天に引き上げられたとするなら、桜井市の鳥見山頂上付近の小丘の白庭山や鳥見山頂上の「霊畤」から引き上げられたのだ。
埋葬されたするなら、桜井市の鳥見山頂上付近の小丘の白庭山や鳥見山頂上の「霊畤」に納められたのだ。
どちらの観点から眺めてきても、桜井市の鳥見山は有力な候補地足りえる。
しかも生駒市の「白庭」伝承は強さを持っている。
しかし、生駒市の伝承の強さは「弓矢など」伝承の強さであって、御尊骸を納めたという伝承ではない。
天之火之明尊が神上がられた紀元前898,627年頃、大和は湖で大和湖という様相だったようだ。
生駒山から大和三山まで湖水になっていたらしい。
大和湖周辺の神宿れる場所を「白庭」と呼んでいたと考えられるかもしれない。
だから生駒市にも白庭伝承があり、桜井市の鳥見山にも白庭伝承がある。
紀元前1,552,847年に天之火之明尊が生駒山北麓の哮峯に降臨し、翌日に磐舟神社に再降臨された。
こうして、天之火之明尊の天孫降臨伝承が生駒山北麓の哮峯と磐舟神社の2箇所に残されることになった。
天之火之明尊の養子に入った饒速日尊(国照宮)は第一次天孫降臨から65万年後の紀元前898,627年頃、交野市の磐船神社に降臨され、神武天皇と長髄彦の決戦後に神上がられた。
そして、御尊骸は石切神社(上の社)の裏にある宮山に納められた可能性が高い。
第一次天孫降臨における天之火之明尊の降臨場所、饒速日尊(国照宮)の降臨場所、天之火之明尊と饒速日尊(国照宮)が神上がられた場所、それぞれ特定できたと思う。
天照神の意向に基づいて天孫降臨された天之火之明尊の降臨地は、天之火之明尊が降臨されたその瞬間に誰も犯すことの出来ぬ聖地になってしまう。
だから神武天皇でも突破できない。
長髄彦がご神意に反することを行っていたとしても、神がいったん決定を下された陣容をコロコロ変えていいわけがない。
長髄彦に審判を下せるのは、饒速日尊か天照神の意向を汲んだ勅使のみであった。
神武天皇のときは、天照神が神上がられてから6万年経ているので、天照神の勅使を受けるには無理があった。
天照神は、第一次天孫降臨以前に、大和統治のための補助路として、八咫烏命が守ってこられた熊野(和歌山)から大台ケ原(奈良)を越える「飛鳥路」を残されていた。
天之火之明尊は第一次天孫降臨の時、「飛鳥路」を利用されなかったので、この「飛鳥路」は「天照神」の加護がそのまま残されているものだったらしい。
こうして、神武天皇は天照神が切り開かれた「飛鳥路」を通って吉野を通り、大和に入ることが出来たのだ。
しかし、神武天皇は大和に入ることができても、長髄彦に審判を下せていない。
審判を下すことが出来たのは饒速日尊だったという事実のもつ意味を、もっと深く捉えておく必要があったらしい。
「上小野榛原(かみつおのはりはら)」が宇陀市鳥見山公園内の「鳥見社」に当たるのであろう。
神武天皇即位の大礼のとき、星の使いをされた天富命が、祭主になっている。
第10代祟神天皇のとき、「下小野榛原(しもつおのはりはら)」に相当していた宇陀市の「墨坂伝承地」に祀られていたものが、宇陀市の墨坂神社に祀りかえられた。
宇陀市というのは、「星の使い」に深く関わる土地であることも示されたのだと思う。
天富命の伝承を踏まえた大田種子の記述に従えば、上のようになるのが自然な気がする。
しかし、皇紀2600年祭のとき、奈良県のそれぞれの町の名誉をかけて関連する町々で大論争を巻き起こしたといわれる。「鳥見山中霊畤」伝承地に選ばれればそれだけでも名誉なことであった。
その影響を受けて、奈良県内には「鳥見山中霊畤」伝承地が6箇所あることになった。
◆ 桜井市の鳥見山は「白庭」伝承を持っている。
桜井市の鳥見山は「白庭」伝承をもっており、神武天皇即位四年の伝承と絡めて語るには不適切な観が拭えない。紀元前1,552,847年の第一次天孫降臨と神武天皇即位後4年では時間の開きが155万年もある。
神武天皇即位四年春鳥見山中に霊畤(まつりのには)は宇陀市のものが有力であるにも関わらず、桜井市になぜ、鳥見山と等彌神社の伝承が残るか今まで判らないままでいた。
神武天皇即位四年春鳥見山中に霊畤(まつりのには)の「下小野榛原(しもつおのはりはら)」とあるのは、天富命の住居に注目すれば宇陀市の「墨坂伝承地」と墨坂神社である。
「上小野榛原(かみつおのはりはら)」が宇陀市鳥見山公園内の「鳥見社」に当たる。
それでは、桜井市の鳥見山と等彌神社に伝承されている霊畤(まつりのには)伝承は何か、という問題が残る。
山頂付近にある「白庭」が鍵だと思う。
紀元前1,552,847年の第一次天孫降臨を遂行された天之火之明尊は、第一次天孫降臨から65万年後の紀元前898,627年頃神上がられ、火明命(瓊々杵尊の長子)の長子・国照宮が天之火之明尊(あめのほのあかり)の養子として天下られている。
饒速日尊(国照宮)が天之火之明尊の喪祀りを行われるとき、御尊骸をどこに納めたのか、という問題意識は私が日本各地を周り始めた当初からもっていた。
この白庭(あるいは白庭山)か鳥見山頂上の「霊畤」が天之火之明尊の御尊骸を納められた場所だと思う。
天之火之明尊の御尊骸は天に引き上げられた、とも伝えられている。
天之火之明尊の御尊骸が天に引き上げられたとするのなら、どこから引き上げられたかという問題となっても現れてくる。もし天に引き上げられたとするなら、桜井市の鳥見山頂上付近の小丘の白庭山や鳥見山頂上の「霊畤」から引き上げられたのだ。
埋葬されたするなら、桜井市の鳥見山頂上付近の小丘の白庭山や鳥見山頂上の「霊畤」に納められたのだ。
どちらの観点から眺めてきても、桜井市の鳥見山は有力な候補地足りえる。
大粒の汗を垂れ流しながら、山を一歩づつ踏みしめて登って行くと感じてくるものがある。
「白庭」伝承は生駒市にもある。しかも生駒市の「白庭」伝承は強さを持っている。
しかし、生駒市の伝承の強さは「弓矢など」伝承の強さであって、御尊骸を納めたという伝承ではない。
天之火之明尊が神上がられた紀元前898,627年頃、大和は湖で大和湖という様相だったようだ。
生駒山から大和三山まで湖水になっていたらしい。
大和湖周辺の神宿れる場所を「白庭」と呼んでいたと考えられるかもしれない。
だから生駒市にも白庭伝承があり、桜井市の鳥見山にも白庭伝承がある。
神武天皇即位四年春の鳥見山中に霊畤(まつりのには)の本質は、「御祖神」を祀ることにあった。
だから、桜井市の鳥見山頂上で第一次天孫降臨の「御祖神」にあたる天之火之明尊を祀り、宇陀市の鳥見社で「御祖神」として鵜葺草葺不合尊を祀られたのだ。
(※)下の地図は『少年つぶやきぐさ』からの引用です。
紀元前1,552,847年に天之火之明尊が生駒山北麓の哮峯に降臨し、翌日に磐舟神社に再降臨された。
こうして、天之火之明尊の天孫降臨伝承が生駒山北麓の哮峯と磐舟神社の2箇所に残されることになった。
天之火之明尊の養子に入った饒速日尊(国照宮)は第一次天孫降臨から65万年後の紀元前898,627年頃、交野市の磐船神社に降臨され、神武天皇と長髄彦の決戦後に神上がられた。
そして、御尊骸は石切神社(上の社)の裏にある宮山に納められた可能性が高い。
第一次天孫降臨における天之火之明尊の降臨場所、饒速日尊(国照宮)の降臨場所、天之火之明尊と饒速日尊(国照宮)が神上がられた場所、それぞれ特定できたと思う。
第一次天孫降臨の降臨場所を特定してみて思うのだが、神武天皇が、生駒山から二上山(南に磐舟神社がある)にかけてのラインから大和に入ることは不可能だったのだ。
天照神の意向に基づいて天孫降臨された天之火之明尊の降臨地は、天之火之明尊が降臨されたその瞬間に誰も犯すことの出来ぬ聖地になってしまう。
だから神武天皇でも突破できない。
長髄彦がご神意に反することを行っていたとしても、神がいったん決定を下された陣容をコロコロ変えていいわけがない。
長髄彦に審判を下せるのは、饒速日尊か天照神の意向を汲んだ勅使のみであった。
神武天皇のときは、天照神が神上がられてから6万年経ているので、天照神の勅使を受けるには無理があった。
天照神は、第一次天孫降臨以前に、大和統治のための補助路として、八咫烏命が守ってこられた熊野(和歌山)から大台ケ原(奈良)を越える「飛鳥路」を残されていた。
天之火之明尊は第一次天孫降臨の時、「飛鳥路」を利用されなかったので、この「飛鳥路」は「天照神」の加護がそのまま残されているものだったらしい。
こうして、神武天皇は天照神が切り開かれた「飛鳥路」を通って吉野を通り、大和に入ることが出来たのだ。
しかし、神武天皇は大和に入ることができても、長髄彦に審判を下せていない。
審判を下すことが出来たのは饒速日尊だったという事実のもつ意味を、もっと深く捉えておく必要があったらしい。
【3】天鈴58年1月1日、橿原の宮で神武天皇の即位の大礼、11月大嘗ヱ
『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の三十〔天君都鳥の紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P263-268 )
今(いま)天君(あまきみ)の | ||
位(くらい)なる | 昔(むかし)は御上天君(みうゑ) |
御上天君とは瓊瓊杵尊のこと。 24紋に 「三種神宝お分けて 授く心は 永く一つに なる由お 紋に印して」〔24−6〕 と天照神から瓊瓊杵尊への三種神器を分けて授けたこた記されている。 |
分(わ)け授(さづ)く | 今(いま)はなきゆえ | 今はその制がないので、という義。 |
その使(つか)ひ | よりて議(はか)れば | |
みな曰(いわ)く | 日(ひ)の神(かみ)使(つか)ひ | |
道臣命(みちおみ)と | 月(つき)の使(つか)ひは | |
天田根命(あたね)なり | 星(ほし)の使(つか)ひは | |
天富命(あめとみ)と | 忌部(いんべ)賜(たま)わり |
神代以来の氏族。 後世、斎部と改められる。 忌は斎戒の意で、神事に携わる伴部であったのでこの名が付けられたとされる。 伊勢、阿波、讃岐、出雲、筑紫などの忌部があって、中央の忌部氏がこれを統括していた。 その祖を天太玉とする。 天太玉命は『秀真伝』では、高皇産霊高杵尊の子。 太玉命の孫とされる天富命は神武天皇に仕え、神物を調え、阿波忌部を率いて東国を拓殖し、安房国に太玉命を奉祀した。 これが今の安房神社とされる。 斎部氏の長である斎部首は、鏡・玉・矛・盾・木綿・麻・宮殿などを造るのを職としていた。 |
禊(みそぎ)なす | 時(とき)に橿原(かしはら) | |
天皇(すめらき)の | 御世(みよ)新玉(あらたま)の | |
鈴サナト | サヤヱ初日(はつひ)の |
天鈴58年。 日数にキアヱ暦を使用しているのはここで初めてみえる。 |
おめでたも | 筑紫(つくし)の例(ため)し | |
可美真手命(うましまち) | 十種(とくさ)捧(ささ)げて | |
天種子命(あめたねこ) | 神代(かみよ)古事(ふること) | |
奉(たてまつ)る | 七草(ななくさ)糝(みそ)も | |
とんど火(ほ)も | 神在(かみあり)粥(かゆ) | 「とんど火」小正月の火祭り。 |
行(おこな)われ | サアヱ日嗣(ひつぎ)と | 正月14日 |
天富命(あめとみ)は | 別雷宮(わけつちみや)の | |
剣(つるぎ)持(も)ち | 天田根命(あたね)は鏡(かがみ) | |
持(も)ち上(のぼ)る |
【6】天鈴61年(即位4年)、天富命に命じて
鴨社を遷し宇陀市榛原の鳥見山に御祖神(鵜葺屋葺不合尊)を祀る
『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の三十〔天君都鳥の紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P269-270 )
四穂(よほ)二月(きさら) | ネウエのキナエ | 天鈴61年(神武即位4年)2月 |
勅(みことのり) | 「御祖(みをや)の神(かみ)の | 神武天皇の父・鵜葺屋葺不合尊のこと |
都鳥(みやこどり) | わが身(み)お照(て)らし | |
仇(あだ)平(む)けて | みな治(をさ)むゆえ | |
天富(あめとみ)に | 賀茂社(かも)お遷(うつ)させ | |
御祖神(みをやかみ) | 祭(まつ)る榛原(はりはら) | |
鳥見山(とりみやま) | 天田根(あたね)お賀茂(かも)の | |
建祗命(たけすみ)の | 祭(まつ)り嗣(つ)がせて | |
国造(くにつこ)ぞ」 | 正月(むつき)十一日(そひか)は | 天鈴62年(神武即位5年) |
県主(あがた)召(め)し | 神酒(みき)お賜(たま)はる | |
初(はじ)めなるかな |
桜井市の鳥見山中の祭祀遺跡の周辺地図
【3】天鈴58年1月1日、橿原の宮で神武天皇の即位の大礼、11月大嘗ヱ
【6】天鈴61年(即位4年)、天富命に命じて鴨社を遷し宇陀市榛原の鳥見山に御祖神(鵜葺屋葺不合尊)を祀る
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