菟田の高城(たかぎ)【1】ここだけは紹介しておきたい!|奈良県

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奈良県宇陀市菟田野区佐倉 ( マピオンによる広域地図
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 神武天皇、宇陀制圧の前編(→ 後編の山場は笑ヶ嶽を通過できるかどうかだった )

宮滝宇陀の高城桜実神社
宇賀神社穿邑顕彰碑三島神社田口の血原橋熊野神社宮城(みやしろ)高城岳(たかぎだけ)

神武天皇御東征 菟田高城

宮瀧
 国道166号線から「桜実神社」へ入って来た時、神社の手前に北へ辿る細い道があり、そこを登ると、木立の中にある「神武天皇御東征、菟田高城」へ至る。

 宇陀の高城

 神武天皇東征時、八咫烏に導かれて熊野から大和国へ進軍した皇軍が、ここで休息をするために築いた我が国最古の城跡と伝える。

 桜実神社

 祭神 木花佐久夜毘売
 神武天皇御東遷時、佐野命が植えたと伝えられている八ッ房杉がある。
 口伝によれば、神武天皇東征の砌、皇軍が「菟田の高城」に駐屯して、その四方に定めた神籠の1つで、神社明細帳によると、当社は「天王宮」とも称し、宇陀市菟田野佐倉小字ミヤの「八坂神社」と同境内社の「愛宕神社」、小字紅葉の「十二社神社」と同境内社の「秋葉神社」、小字嶽(だけ)の「弁財天」を合祀している。
 この神社の地はオトウカシの推定領域とエウカシの推定領域の境界線上の丘陵上にある。
 宇陀の高城(たかぎ)を見た展地(てんち)は、次のように私に言った。
「お父さん、ここは去年の12月ごろ(2008年・小学校5年生の時)、夢で一度来たところだ」
 昨年からここには来なければならないようになっていたということか。
宮瀧

天鈴55年、紀元前663年(即位前3年)、吉野の宮滝(宮瀧)に仮宮を造営

天鈴55年、紀元前663年(即位前3年)、
神武天皇一行は、八咫烏命に導かれ井光を通って吉野の宮瀧へ到着し、仮宮を造営する。
 高倉下は弟猾(おとうかし)の協力を得て、田原→片岡→平尾→大熊と進んで行き、兄猾(えうかし)に協力を要請しようとした。
 しかし、兄猾(えうかし)は長髄彦の反乱軍に呼応していたのである。
 兄猾(えうかし)は弟猾(おとうかし)を追い返した後、佐野命の存在を大和盆地内の豪族たちに知らせるために使者を派遣した。
 長髄彦反乱軍の豪族たちは榛原・宇陀地方に出陣してくることが考えられたので、弟猾(おとうかし)は高倉下にその時に備えて宮奥の剣根命を恭順させることを提案した。
 宮奥は桜井市方面から多武峰経由で攻め込まれる地であり、この地を押さえておかないと全面戦争になったとき背後を突かれる危険性があったからである。

 剣根命は恭順した。

 高倉下は弟猾(おとうかし)と共に宮滝まで戻りこのことを報告した。
 弟猾(おとうかし)・剣根命は高倉下と共に、宇陀市の大東・守道・和田・佐倉のラインを最前線として防衛ラインを形成することになった。
 長髄彦反乱軍の豪族たちが榛原・宇陀地方に出陣してくると弟猾(おとうかし)の支配地は、長髄彦反乱軍の豪族たちから三方から包囲される形になってしまう。その不利を克服するために、長髄彦反乱軍の豪族たちが軍を配置する前に兄猾(えうかし)を制圧しなければならなかった。

 佐野命は軍を整え、宮滝を後にした。

長髄彦の反乱を鎮圧するために神武天皇は、宇陀方面から制圧した。

 津風呂川沿いに遡り龍門岳で桜井市方面の長髄彦反乱軍の豪族軍の様子を調べた。
 長髄彦反乱軍の豪族軍は集結しつつあった。
 早く兄猾(えうかし)を討たないと三方から包囲される危険性があることが分かった。

 佐野命は兄猾(えうかし)の本拠地のすぐ近くの佐倉に高城を築いて様子を探った。

菟田の高城

 兄猾(えうかし)は部民を集め佐野命軍と戦おうとしたが部民のほとんどは弟猾(おとうかし)に協力を誓っていたので、兄猾(えうかし)に協力を申し出るものは少なかった。
 この戦力では佐野命軍と戦うのは難しいと悟った兄猾(えうかし)は、新殿に天皇を罠にかけるための仕掛けを造り、佐野命軍に恭順を申し出た。
 弟猾(おとうかし)が罠が仕掛けられていることを察知し天皇に進言した。
 しかし、その真偽を確かめてからでないと兄猾(えうかし)を誅することはできないと思った天皇は、道臣命と大久米命に罠の真偽を確かめて、罠が本当であれば兄猾(えうかし)を誅するように命令した。
 道臣命と大久米命が兄猾(えうかし)の屋敷に赴いて罠を確認すると弟猾(おとうかし)の奏上したとおりであった。
 道臣命は怒って部下に命じて兄猾(えうかし)自身をこの罠の中に押し込んだ。
 兄猾(えうかし)は自分の作った罠にかかり死んだ。

【大伴と久米の軍団が、兄猾(えうかし)を討ち取った時、久米歌(くめうた)を歌っている】

菟田の高城

久米歌

 久米歌(くめうた)

 大伴と久米の軍団が、宇陀の兄宇迦斯(えうかし)を討ち取った時、久米歌(くめうた)を歌っている。
 「宇陀の高城に鴫罠張る
  我が待つや鴫は障らず いすくはし鯨障る
  前妻が肴乞はさば たちそばの実の無けくをこきしひゑね
  後妻が肴乞はさば いちさかき実の多けくをこきだひゑね
  ええ しやこしや こはいのごふそ
  ああ しやこしや こは嘲咲ふぞ」

 現代語訳

 「宇陀の高地の狩り場に鴫の罠を張る。
  私が待っている鴫はかからず、思いもよらない鯨(鷹)がかかった。
  古妻がお菜を欲しがったら、肉の少ないところを剥ぎ取ってやるがよい。
  新しい妻がお菜を欲しがったら、肉の多いところをたくさん剥ぎ取ってやるがよい。
  エー、シヤコシヤ。これは相手に攻め近づく時の声ぞ。
  アー、シヤコシヤ。これは、相手を嘲笑する時の声ぞ。」

 道臣命はその死骸を罠から引き出して部下に切らせた。
 屋敷のそばの宇賀志川が血で真っ赤になったので、この地を血原という。
 兄猾(えうかし)の本拠地は宇賀志の宇賀神社の地である。
 穿邑(うがちむら)〔現在の神武天皇聖蹟菟田穿邑顕彰碑のある位置周辺〕に宮を造った。
 そして、穿邑顕彰碑周辺の宮を拠点として内牧川を遡った。
 三島神社周辺を鎮圧し、田口の血原橋周辺を鎮圧し、宮城(みやしろ)を築いた。

 (※)参考 ⇒ 「神武天皇大和討ち」

菟田の高城(たかぎ)の周辺図

菟田の高城(たかぎ)の案内標識
菟田の高城(たかぎ)
神武天皇「大和討ち」宇陀制圧