平成21(2009)年4月25-26日、神武天皇「大和討ち」宮瀧から宮城(みやしろ)まで

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平成21(2009)年4月25-26日、神武天皇「大和討ち」宮瀧から宮城(みやしろ)

 「神武天皇大和討ち」に基づいて参拝。

 『 新版 ひふみ神示』下巻 所収 五十黙示録第二巻碧玉之巻第十帖より

 神武天皇の岩戸しめは、御自ら人皇を名乗り給ふより他に道なき迄の御働きをなされたからであるぞ。
 神の世から人の世への移り変わりの事柄を、一応、岩戸にかくして神ヤマトイワレ彦命として、人皇として立たれたのであるから、大きな岩戸しめの一つであるぞ。

 記憶が想起されてくるようだ。

 14神社で祝詞奏上

平成21(2009)年4月25日(土曜日)、吉野の宮瀧から穿邑(うがちむら)まで
平成21(2009)年4月26日(日曜日)、三島神社から宮城(みやしろ)まで、そして笑ヶ嶽の屑神社へ

平成21(2009)年4月25日(土曜日)、吉野の宮瀧から穿邑(うがちむら)まで・・

 平成21(2009)年4月25日(土曜日)、奈良の針インターを降りると雨!
 神社周りをしていて、雨に当たることは極めて少ない。

 「ご神意に沿っていないのなら中止にすべきなのかもしれない」

 と思った。

 すると、

「今回の行程の全てを記憶に留めよ、
 どこで何がどういう風に起こるか記録せよ」

 という声が聞こえる。

 過去の縮図が現れてくると同時に、未来への予言になっているのかもしれないと思った。

宮滝(宮瀧) 奈良県吉野町(吉野郡)宮滝

 カーナビに設定した宮滝(宮瀧)遺跡に9時過ぎに着いた。

 派出所の左前に案内看板が立っていた。
 依然雨・・

 宮滝(宮瀧)遺跡を有名にしたのは「壬申の乱」だ。

 大化の改新(645年)を推し進めた中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は即位し、天智天皇となった。
 天智天皇の死後の皇位は皇弟・大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)が継承することになっていたが、天智天皇の心が天智天皇の太子・大友皇子(おおとものみこ)に継承する方向に傾いていったため、天智天皇の死後、吉野宮瀧において挙兵した。
 壬申の乱(じんしんのらん)とは天武天皇元年(672年)に起きた日本古代最大の内乱であり、天智天皇の太子・大友皇子(おおとものみこ、明治3年(1870年)、弘文天皇の称号を追号)に対し皇弟・大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである。
 反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱であった。
 天武天皇元年は干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたるためこれを壬申の乱と呼んでいる。

 多くの人はあまり疑問に感じないようなのだが、

 問題は、なぜ皇弟・大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)が吉野の宮滝(宮瀧)で挙兵するのか?
 という一点に置かれる。
 吉野宮滝(宮瀧)が挙兵の宣言地に選ばれるだけの理由がなければならないはずである。

 私の感覚では、神武天皇の宮滝(宮瀧)での伝承がなければ、挙兵の宣言地に選ばれなかったような気がする。

十二社神社 奈良県吉野町(吉野郡)宮滝
 歴史民族記念館の手前にある十二社神社は、吉野川の向かいに構える象山(きさやま)を遥拝する位置にあり、眼下に宮滝(宮瀧)遺跡をみることが出来る。
 こういうロケーションは仮宮の本陣を置くには変えがたいものがある。

 私なら、宮滝(宮瀧)の仮宮を十二社神社から歴史民族記念館の近辺に置いただろう。

宮滝(宮瀧)遺跡

平成21(2009)年4月25日(土曜日)、石穂別命の宮へ・・・

 宮滝(宮瀧)遺跡を後にして、石穂別命を祀る岩神神社に向かった。
岩神神社 奈良県吉野郡吉野町矢治
 祝詞を奏上していると、
「次はどこに行かれるのか?」
 と尋ねられた。
 石穂別命の本拠地と伝えられる大蔵神社川上鹿塩神社に参拝に行く旨を告げた。
 岩神神社を出発し、大蔵神社に向かっていると、妻が「竹の子」を発見!
 近くのお寺さんが朝取れた竹の子を近所の方たちに無償で提供しているものだった。
 石穂別命のプレゼントと思い、2本ゲット。
 東京に戻って調理すると、味が深くてさっぱりしているとても美味しい物だった。

 感謝!感謝!

大蔵神社 奈良県吉野郡吉野町南国栖343
川上鹿塩神社 奈良県吉野郡吉野町樫尾423
 目的の大蔵神社川上鹿塩神社はあいにくの雨のために参拝できず。
 2つの神社ともに山の中腹と頂の方にあったからだ。
吉野川流域

平成21(2009)年4月25日(土曜日)、高鉾神社・吉野山口神社と宮奥の剣主神社・・・

 高鉾神社・吉野山口神社へ車を回した。
 吉野を離れると、雨が上がった。
 雨上がりのスガスガしさが漂っている。
高鉾神社(向かって右側奥)
吉野山口神社(向かって左手前)
奈良県吉野郡吉野町山口634
 吉野山口神社(向かって左手前)・高鉾神社(向かって右側奥)に着いた。
 祝詞をそれぞれのご神前で祝詞を奏上すると、それぞれのご祭神が、両手を組み、組んだ右手を顎に当てて考え込んでいるようだ。

 次、宮奥へ向かった。

剣主神社 奈良県宇陀郡大宇陀町宮奥116
 白い石が御神体である。
 祝詞を奏上すると
「今も昔もあなた様に従います」

 と言われる。

宇陀川上流の宮奥ダム 奈良県宇陀郡大宇陀町宮奥
 宮奥は宇陀川の最上流にあたり、記憶という点で極めて大事な場所である。

宮滝から宮城

平成21(2009)年4月25日(土曜日)、宇陀の高城(たかぎ)と桜実神社・・・

 宇陀の高城(たかぎ)に向かった。
宇陀の高城(たかぎ) 奈良県宇陀市菟田野区佐倉
 宇陀の高城(たかぎ)とは、「古事記」によると、神武天皇東征時、八咫烏に導かれて熊野から大和国へ進軍した皇軍が、ここで休息をするために築いた我が国最古の城跡と伝えられる。
 宇陀の高城(たかぎ)を見た展地(てんち)は、
「お父さん、ここは去年の12月ごろ(小学校5年生の時)、夢で一度来たところだ」
 と言った。

 神武天皇は、兄猾(えうかし)を制するために陣を張った。  

桜実神社(さくらみ) 奈良県宇陀市菟田野区佐倉764
 口伝によれば、神武天皇東征の砌(みぎり)、皇軍が「菟田の高城」に駐屯して、その四方に定めた神籠の1つで、神社明細帳によると、当社は「天王宮」とも称し、宇陀市菟田野佐倉小字ミヤの「八坂神社」と同境内社の「愛宕神社」、小字紅葉の「十二社神社」と同境内社の「秋葉神社」、小字嶽(だけ)の「弁財天」を合祀している。
 この神社の地はオトウカシの推定領域とエウカシの推定領域の境界線上の丘陵上にある。

 桜実神社(さくらみ)には、神武天皇が植えられたという「八つ房杉」があった。  

 神武天皇の御代から2700年近くもここにある。
「八つ房杉」は、
「私の知っている全てを教えよう」
 という。
 興味関心が私と合致し、学識造詣の深い「しかるべき人」がいてくれたらいいのだが・・
「八つ房杉」の知っていることをお伝えすることができるかもしれない。

宇陀の高城

平成21(2009)年4月25日(土曜日)、宇賀神社と穿邑顕彰碑・・・

 宇陀の高城(たかぎ)から、兄猾(えうかし)の本拠地・宇賀神社に向かう。
宇賀神社(うが) 奈良県宇陀市菟田野区宇賀志
 兄猾(えうかし)が神武天皇を罠に嵌めて討ち取ろうとした場所である。
 しかし、弟猾(おとうかし)に見抜かれて、返り討ちにあった。

 兄猾(えうかし)を制したあと、穿邑(うがちむら)に宮を設けた。  

穿邑顕彰碑(うがちむら) 奈良県宇陀市菟田野区宇賀志
 穿邑顕彰碑(うがちむらけんしょうひ)に到着して、祝詞を奏上し始めると急に雨。
 祝詞を終え、車で宿に向かい始めると雨が止む。
 25日(土曜日)は、吉野の宮瀧と穿邑顕彰碑(うがちむら)の2箇所で雨。
 この調子だと明日も雨かもしれない。

 穿邑顕彰碑(うがちむらけんしょうひ)の場所↓
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 平成21(2009)年4月25日(土曜日)の宿泊は  

   大和平群 簡保の宿  奈良県生駒郡平群町上庄2-16-1(0745-45-0351)

平成21(2009)年4月26日(日曜日)、血原伝承の三島神社と宮城(みやしろ)まで

 翌日、血原伝承が残っているという内牧の三島神社を訪ねた。
 宿では晴れていたのだが、目的地に近づくに従って雨。
三島神社 奈良県宇陀市榛原区内牧1151番
 祝詞を奏上後、雨が上がる。

三島神社への地図

 もう一つの血原伝承の残る血原橋に向かう。  

血原橋 奈良県宇陀市室生区田口元上田口
 ここには宇賀神社や三島神社のような神社が失われてしまったのだろう。
 しかし、地名に「血原」とシッカリと記録されている。
 歴史は、山の名や川の名、あるいは地名として残したほうがシッカリとした記憶に残る。
 晴れ間と雨が交互に絡まった天気。

血原橋の地図

 宮城(みやしろ)に向けて車を走らせる。  

熊野神社 奈良県宇陀市室生区黒岩189番
宮城(みやしろ) 奈良県宇陀市室生区黒岩
 宮城(みやしろ)に近づくにつれて雨。
 この天気では、「高原」といわれる宮城(みやしろ)へは行けそうにない。
 地図によると宮城(みやしろ)の麓には熊野神社がある。
 熊野神社に立ち寄り祝詞を奏上した。
 やはり、雨。

 ・・これでは、私の体がもたない。  

宮滝から宮城への地図

平成21(2009)年4月26日(日曜日)朝原祈祷の準備と笑ヶ嶽

 神武天皇の3つの宮(宮瀧・穿邑・宮城)での祝詞奏上は全て雨。
 それ以外の場所での祝詞奏上は基本的に晴れ。

 恨み呪いがシコリとなって残っているのかもしれない。  

 宇陀とはそういうところなのだろうか?

 このままでは私がもたない、と思った。  

 惣社水分神社・宇太水分神社(上社)・宇太水分神社(下社)・御井神社(饒速日尊降臨伝承地)を周るのではなく、心願を通すために朝原祈祷の推定地である神戸神社(かんべ)と笑ヶ嶽を探しに行こうと思った。

 そうしないと私がもたない。  

神戸神社(かんべ) 奈良県宇陀市大宇陀区大東453番
 神戸神社(かんべ)で祝詞を終えて帰路を歩いていると、車道の一軒手前の家のお婆さんが竹の子を取っていた。今日の夕ご飯に使うのだろうか。
 昨日の大蔵神社へ向けて車を走らせているとき、竹の子を頂戴したことを思い出した。
 こういう微妙なシンクロは味わい深くていい。
 神戸神社(かんべ)での祝詞を終えて、嬉河原にあるという笑ヶ嶽を探しにいく。
 嬉河原だろうと思える場所で除草作業をしているお爺さんに笑ヶ嶽の所在を聞いた。
「笑ヶ嶽はあれだよ、奥に頂上があり、全部で4つの峰からなる」

 即答だった。  

笑ヶ嶽 奈良県宇陀市大宇陀区嬉河原
笑ヶ嶽の東北麓にある
屑神社
奈良県宇陀市大宇陀区嬉河原
http://megu0438.hp.infoseek.co.jp/20071202many...4.html
http://kamnavi.jp/jm/kuzukami.htm
http://kamnavi.jp/as/uda/uresi.htm

 以下「神武大和討ち」の笑ヶ嶽でのあらすじ

 兄磯城(えしき)の軍が磐余邑(いわれのむら)にあふれていた。
 敵の拠点はみな要害の地にあり、道は絶え塞がれていて通るべき処がなかった。
 その夜、神武天皇は神に祈って眠った。
 すると高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)が夢に現れて言った。
「天香具山の社の中の土で天平瓦を八十枚作りなさい。あわせて御神酒を入れる器を作り天神地祗(あまつやしろくにつやしろ)を祀り敬いなさい。また厳呪詛(いつのかしり)をしなさい。そうすれば敵は自ら降伏し従うでしょう。」

 弟猾(おとうかし)も同じことを進言してきた。

 椎津根彦(しいねつひこ)、弟猾(おとうかし)を天香具山へ派遣した。
 そこで椎津根彦(しいねつひこ)は卑しい衣服と蓑笠をつけ老人に化けさせ、弟猾(おとうかし)には箕を着せて老婆に化けさせて天香具山に向かわせた。
 このとき敵軍は道を覆い通る事も難しかった。

 しかし椎津根彦(しいねつひこ)が神にうかがいを立てた。

「我が君がこの国を良く治める事が出来る人物で有れば、道は開けるだろう。それが出来ぬ人物で有れば敵が道を塞ぐだろう。」

 敵は

「なんて汚い翁と媼だ。」
 とあざけり笑い、二人に道を開けた。
 そして無事に山から土を持って帰ることが出来たのである。

 笑ヶ嶽とは、ご神意が通るかどうかを極める要(かなめ)なのかもしれない。

 笑ヶ嶽の東北麓にある屑神社で祝詞を奏上した。

 春の宇陀に清々しい夕(ゆうべ)となった。

 東京に向けて車を走らせようとすると、親戚の子が無くしたお財布(5000円が入っている)が車の中から出てきたという。

朝原伝承地
 神武天皇「大和討ち」の宇陀市での全体像
神武天皇「大和討ち」

 平成21(2009)年4月26日(日曜日)に帰京  

今回の旅行で訪問できなかった神社

惣社水分神社 奈良県宇陀郡菟田野町上芳野648
宇太水分神社(上社) 奈良県宇陀市菟田野区古市場245
http://www1.odn.ne.jp/udanomikumari/
第2殿に速秋津彦命が祀られている
宇太水分神社(下社) 奈良県宇陀市榛原区下井足635番地
御井神社
(饒速日尊降臨伝承地)
奈良県宇陀市榛原区檜牧964