高鉾神社〔左手前に吉野山口神社がある〕【1】トップページ|奈良県

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奈良県吉野郡吉野町山口634( マピオンによる広域地図
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神武天皇、宮滝から龍門岳方面へ、高鉾神社 〔左手前に吉野山口神社がある〕

 神武天皇、宇陀制圧の前編(→ 後編の山場は笑ヶ嶽を通過できるかどうかだった )

宮滝宇陀の高城桜実神社
宇賀神社穿邑顕彰碑三島神社田口の血原橋熊野神社宮城(みやしろ)高城岳(たかぎだけ)

 宮滝(宮瀧)から菟田の高城までで神武天皇に関わるかもしれない神社

十二社神社岩神神社大蔵神社川上鹿塩神社吉野山口神社高鉾神社剣主神社宮奥ダム

神武天皇、宮滝から龍門岳方面へ・・高鉾神社 〔左手前に吉野山口神社がある〕

吉野山口神社 〔右奥に高鉾神社がある〕

高鉾神社のご祭神

高皇産霊神

天鈴55年、紀元前663年(即位前3年)、宮滝に仮宮を造営し周辺の状況を探る

 天鈴55年、紀元前663年(即位前3年)、
 神武天皇一行は、八咫烏命に導かれ井光を通って吉野の宮滝へ到着し、仮宮を造営する。
 宮滝に仮宮を作った佐野命は、吉野川流域の豪族に協力をさせるために石穂押分命の案内で高倉下命八咫烏命などの諸将を極秘裏に各地に派遣した。
 八咫烏命は石穂押分命に導かれて、吉野川を遡り、新子 → 野々口 → 下出 → 中黒 → 栗栖 → 丹生川上中社を経て高見川流域一帯の豪族を恭順させた。
 佐野命は東端にある高見山に登り、宇陀地方一帯の状況を調べた。
 高倉下は宮滝から吉野川を下って河原屋に至り、津風呂川沿いに川を遡り、山口を経て三茶屋に達した。

 高倉下は三茶屋で、弟猾(おとうかし)に会った。

 弟猾(おとうかし)は快く協力を申し出た。
 弟猾(おとうかし)の協力により宇陀市南部地域の豪族は悉く恭順した。
 高倉下は弟猾(おとうかし)の協力を得て、田原→片岡→平尾→大熊と進んで行き、兄猾(えうかし)に協力を要請しようとした。
 しかし、兄猾(えうかし)は長髄彦の反乱軍に呼応していたのである。
 兄猾(えうかし)は弟猾(おとうかし)を追い返した後、佐野命の存在を大和盆地内の豪族たちに知らせるために使者を派遣した。
 長髄彦反乱軍の豪族たちは榛原・宇陀地方に出陣してくることが考えられたので、弟猾(おとうかし)は高倉下にその時に備えて宮奥の剣根命を恭順させることを提案した。
 宮奥は桜井市方面から多武峰経由で攻め込まれる地であり、この地を押さえておかないと全面戦争になったとき背後を突かれる危険性があったからである。

 剣根命は恭順した。

 高倉下は弟猾(おとうかし)と共に宮滝まで戻りこのことを報告した。
 弟猾(おとうかし)・剣根命は高倉下と共に、宇陀市の大東・守道・和田・佐倉のラインを最前線として防衛ラインを形成することになった。
 長髄彦反乱軍の豪族たちが榛原・宇陀地方に出陣してくると弟猾(おとうかし)の支配地は、長髄彦反乱軍の豪族たちから三方から包囲される形になってしまう。その不利を克服するために、長髄彦反乱軍の豪族たちが軍を配置する前に兄猾(えうかし)を制圧しなければならなかった。

 佐野命は軍を整え、宮滝(宮瀧)を後にした。

 津風呂川沿いに遡り龍門岳で桜井市方面の長髄彦反乱軍の豪族軍の様子を調べた。

 烏の塒屋(からすのとや)山

 神武天皇御東遷の際、頭八咫烏、皇軍をここに導き、暫く滞在した。

 高鉾神社(吉野山口神社の右奥にある)

 祭神 高皇産霊神、神皇産霊神
 高鉾山(龍門岳)を御神体として礼拝し、神武天皇御東遷の際の舊社地であり、この山の山嶺に於いて親しく天神地祇を祀らせられ、御戦勝を祈らせ給う。

 これらの山はいずれも山頂部が見晴らしの良い所である。

 これらの伝承より、佐野命一行は宮滝に仮宮を作った後、周辺の情勢を把握しようとしていたことが伺われる。

長髄彦の反乱を鎮圧するために神武天皇は、宇陀方面から制圧した。

 長髄彦反乱軍の豪族軍は集結しつつあった。
 早く兄猾(えうかし)を討たないと三方から包囲される危険性があることが分かった。

 佐野命は兄猾(えうかし)の本拠地のすぐ近くの佐倉に高城を築いて様子を探った。

 兄猾(えうかし)は部民を集め佐野命軍と戦おうとしたが部民のほとんどは弟猾(おとうかし)に協力を誓っていたので、兄猾(えうかし)に協力を申し出るものは少なかった。
 この戦力では佐野命軍と戦うのは難しいと悟った兄猾(えうかし)は、新殿に天皇を罠にかけるための仕掛けを造り、佐野命軍に恭順を申し出た。
 弟猾(おとうかし)が罠が仕掛けられていることを察知し天皇に進言した。
 しかし、その真偽を確かめてからでないと兄猾(えうかし)を誅することはできないと思った天皇は、道臣命と大久米命に罠の真偽を確かめて、罠が本当であれば兄猾(えうかし)を誅するように命令した。
 道臣命と大久米命が兄猾(えうかし)の屋敷に赴いて罠を確認すると弟猾(おとうかし)の奏上したとおりであった。
 道臣命は怒って部下に命じて兄猾(えうかし)自身をこの罠の中に押し込んだ。
 兄猾(えうかし)は自分の作った罠にかかり死んだ。
 道臣命はその死骸を罠から引き出して部下に切らせた。
 屋敷のそばの宇賀志川が血で真っ赤になったので、この地を血原という。
 兄猾(えうかし)の本拠地は宇賀志の宇賀神社の地である。
 穿邑(うがちむら)〔現在の神武天皇聖蹟菟田穿邑顕彰碑のある位置周辺〕に宮を造った。
 そして、穿邑顕彰碑周辺の宮を拠点として内牧川を遡った。
 三島神社周辺を鎮圧し、田口の血原橋周辺を鎮圧し、宮城(みやしろ)を築いた。

 (※)参考 ⇒ 「神武天皇大和討ち」

高鉾神社 の本殿

高鉾神社 の本殿

吉野山口神社・高鉾神社の拝殿

吉野山口神社の拝殿

吉野山口神社・高鉾神社の鳥居

吉野山口神社の鳥居

神武天皇の伝承の地図

神武天皇の伝承が地図