魚見岩【1】ここだけは紹介しておきたい!|奈良県

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奈良県東吉野村(吉野郡)小 ( マピオンによる広域地図
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 大台ケ原から宮滝までの「大和討ち」の時の行程

大台ケ原の牛石ヶ原大迫ダム
井光神社の里宮岩戸の滝井光神社の奥宮井氷鹿(いひか)の井戸加弥比加尼(かみひかね)の墓
御船の滝大塔神社大蔵神社川上鹿塩神社岩神神社十二社神社宮滝

 「大和討ち」の時の行程とは別に、神武天皇即位4年、鳥見山霊畤(まつりのにわ)の時の行程がある

阿陀比賣神社川上鹿塩神社大塔神社
神武天皇聖蹟 丹生川上顕彰碑丹生川上神社(中社)の本宮魚見岩神武天皇聖蹟 鳥見山顕彰碑

 丹生川上神社(中社)の関連地

丹生川上神社(中社)丹生川上神社(中社)の本宮にあたる丹生神社神武天皇聖蹟 丹生川上顕彰碑魚見岩

 朝原祈祷の5つの伝承地(南から)

神武天皇聖蹟 丹生川上 顕彰碑魚見岩(うおみいわ)神部神社(かんべ)八坂神社阿紀神社丹生神社

 神武天皇、「大和討ち」の目次はこちら

魚見岩

魚見岩

 「 朝原 」 伝承地

 朝原には以下の伝承地がある(南から紹介)。
〔1〕丹生川上神社中社
 神武天皇が天神の教示で天神地祇をまつり、厳甓を川に沈めて戦勝を占った聖地という。
〔2〕神戸神社(宇陀市大東)
 神戸神社のすぐ東を宇陀川が北に向けて流れている。
 また、神社の東の丘陵は「鏡作」と称しており、ここには水銀の路頭鉱床がある。
 宇陀川流域はこのような路頭鉱床が多い。
 水銀鉱床即ち辰砂はの原料であり、硫化水銀である。
 は古代において塗料・防腐剤として使われている。
 弥生式土器の表面の塗料もである。  ともいい、を産する地を丹生という。
 宇陀川は朱を産するので古代丹生川と呼ばれていた可能性がある。
〔3〕八坂神社(宇陀市本郷)
 境内に朝原神社がある。
〔4〕阿紀神社(宇陀市迫間)
 神武天皇東遷の時、神夢に依つて椎根津彦命(しいねつひこ)と弟迦斯(おとうかし)の二人に命じて天の香山の埴土を取り土器と壼を作らせて多数の器に天の甜酒を入れ、神戸の社(当社)の木々の下に備ヘて天神地祇を祭った。
〔5〕丹生神社(宇陀市雨師)
 社前の掲示板には「佐野命が丹生川上に陟って天神地祇を祭り、莵田川の朝原で呪いをしたと日本書記にあるが、その莵田川の朝原の地がここである。」と記されている。
 1km南を莵田川が流れている。
 吉野から分遷したと言われている

 佐野命が宇陀で戦闘をする前に朝原で祈祷をしているのであるから、その地は戦場の近くで、佐野命・弟猾(おとうかし)の防衛線の及ぶところだろう。
 この点から考えると、
〔5〕は墨坂の近くでこのときはまだ敵地に深い、
〔1〕は戦場から離れすぎているので、共に候補から脱落する。
〔2〕〔3〕〔4〕は、いずれも高倉山周辺で互いに近い位置にあるので、いずれかの神社が朝原祈祷の神社であろう。
〔3〕〔4〕は、八十梟師軍を佐野命軍が追い込んで殲滅した横枕と呼ばれている場所のすぐ近くである。
 朝原祈祷後の神武天皇の和歌によって饒速日尊が退却したことを鑑みると、音羽山・経ヶ塚山を眺めることが出来、軍を留め置くことの出来る〔4〕阿紀神社こそが朝原祈祷の神社であろう。

【伝承アリ】大台ケ原、井光(いひか)、五社峠、白倉山、宮滝への連続的伝承。

(※)吉野をめぐって、『日本書紀』と『古事記』の記述の違いが出てくるのは、神武天皇が井光(いかり)に二度来られている(後述)からだろう。

 大台ケ原で県境越えとなり吉野川流域に入る。  

 経ヶ峰から現在の大台ケ原ドライブウエーに沿って尾根筋を歩き、伯母が峰に出る。
 そこから北西方向の尾根に沿って下り、吉野川上流の大迫ダムに出る。

 大台ケ原を出発し、大迫ダム周辺を過ぎた辺りで苞苴擔(にへもつ)の子に会ったのか?  

 吉野川に沿って下ると北和田に着く。
 大台ケ原からここまで約15km。
 吉野川で最初に出あったのが、苞苴擔(にへもつ)の子と古事記は伝える。
 しかし、苞苴擔(にへもつ)の子に出会った場所は、古事記によると吉野川の川尻(川下)とある。
 吉野川の下流であれば位置が大きくずれるので、苞苴擔(にへもつ)の子に会ったのは神武天皇即位後に吉野に来られた時のことなのではないか。

 大台ケ原から井光まで  

 吉野川の上流からから川沿いに下り、約3kmで井光川(いひかがわ)との合流点に着く。
 ここで、井氷鹿(いひか)に出会ったのであろう。
 この行程は2日程度であろう。

 【伝承アリ】井光から南国栖まで  

 井光からは川に沿って下り、大滝から五社峠を越えて降りたところが南国栖である。
 行程12kmでここまで1日であろう。
 ここで、石穂押分命の子に出会った。
 彼は、衣笠山の頂上より遥かに高見山を指してその付近の情勢を神武天皇に奏上したと伝えられている。
 神武天皇はここから、大和への侵入経路を確認したことであろう。

 【伝承アリ】南国栖から宮滝まで  

 南国栖から川沿いに約7km下ると宮滝に着く。
 神武天皇が大和に侵攻するにはまだ各地に長髄彦の反乱軍が多い。
 日向から連れてきた人々の多くは二木島の遭難で失われており、高倉下が人数を多く派遣してくれはしたものの長髄彦の反乱軍を押し切るほどの戦力には程遠い。
 幸いにもこの段階で長髄彦の反乱軍にとって神武天皇は消息不明になっており、警戒を解いていたと思われる。長髄彦の反乱軍に所在を知られるのは時間の問題であるが、それまでに、周辺の豪族を長髄彦の反乱軍を鎮圧する方に動かさなければならない。
 その本拠地として選んだのが宮滝の地である。
 ここに宮を作ることにより、熊野越えは終わる。
 全行程約100kmで、10日前後を要したと思われる。
 神武天皇は戊午8月2日には兄猾、弟猾を呼んでいるので、7月中には宮滝に着いていたと思われる。戊午8月2日は現在の10月中旬である。

 宮滝を拠点として天皇は周辺豪族を協力させ、大和進入の準備をするのである。  

 【地図】井光(いかり)から宮滝までの地図

宮瀧の周辺図

高城岳から、宇陀〜大和盆地の様子を探る・・

 宇賀神社穿邑の宮、そして三島神社田口の血原橋宮城(みやしろ)を制圧し、周辺の豪族たちが恭順したので、高城岳(たかぎだけ)に望楼を造り、宇陀から大和盆地の様子を探った。

 長髄彦の反乱軍の豪族たちは、宇陀と桜井の境の国見丘(くにみのたけ)に防衛線を張っている。

 八十梟師(やそたける)が、
 その最前線に出陣して来ており、桜井市外山(とび)に軍を集めている。
 後の弟猾(おとうかし)の本拠地になった大宇陀区下竹周辺を経由し反撃しようとしているらしい。
 八十梟師(やそたける)は軍を二つに分けた。
 別動隊を粟原川を遡り桜井→忍坂→男坂→岩室へと進軍させ、磐余邑に隠した。
 主力軍は音羽から経ヶ塚山山麓(国見原)に陣を張った。

かぎろひの丘からみる音羽山と経ヶ塚山

音羽山と経ヶ塚山

 兄倉下(ゑくらじ)軍と弟倉下(おとくらじ)軍は、

 桜井市から榛原の墨坂(現在の西峠付近)に陣を張り、墨を起こしてこの周辺にやってきた佐野命軍に炭火を浴びせようとしていた。

 神武天皇は、高倉山まで進軍した。

神武天皇は、高倉山まで進軍した・・

 9月5日
 磐余彦尊は莵田の高倉山の頂に登って国中を眺めた。
 国見丘(くにみのたけ)には、八十梟帥(やそたける)だけではなく、さらに、饒速日尊(にぎはやひのみこと)もやってきているようだ。

 11月初旬頃、

 兄磯城(えしき)の軍は磐余邑(いわれのむら)にあふれていた。
 敵の拠点はみな要害の地にあり、道は絶え塞がれていて通るべき処がない。

 その夜

 神武天皇は神に祈って眠った。
 すると、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)が夢に現れて言った。
「天香具山の社の中の土で天平瓦を八十枚作りなさい。あわせて御神酒を入れる器を作り天神地祗(あまつやしろくにつやしろ)を祀り敬いなさい。また厳呪詛(いつのかしり)をしなさい。そうすれば敵は自ら降伏し従うでしょう。」

 翌日、弟猾(おとうかし)も同じことを進言してきた。

 こうして、椎津根彦(しいねつひこ)、弟猾(おとうかし)を天香具山へ派遣することになった。
 椎津根彦(しいねつひこ)は卑しい衣服と蓑笠をつけ老人に化けさせ、弟猾(おとうかし)には箕を着せて老婆に化けさせて天香具山に向かわせたのだった。

 敵軍は道を覆い通る事も難しかしい。

 椎津根彦(しいねつひこ)は御神意を問うた。
「我が君がこの国を良く治める事が出来る人物で有れば、道は開けるだろう。それが出来ぬ人物で有れば敵が道を塞ぐだろう。」

 椎津根彦(しいねつひこ)、弟猾(おとうかし)は意を決し、反乱軍の真っ只中を通る、

「なんて汚い翁と媼だ。」
 とあざけり笑い、反乱軍は二人に道を開けた。
 そして無事に天香具山の社の中の土を持って帰ることが出来たのである。

 笑ヶ嶽とは、道を通していいかどうかを見極める最大の関門になっていたらしい。

 磐余彦尊は大いに喜んでこの土で天平瓦や御神酒の器を作らせ、丹生(にふ)の川上に行って天神地祗を祀った。

魚見岩

魚見岩

 魚見岩の説明書

魚見岩の説明書

 魚見石の由来

 神武天皇御東征の砌、丹生川上の地に於いて天神地祇を祀り大和平定の成否を問われ、厳瓮(いつべ)を丹生川上神社神域の夢渕に沈められるや、やがて吉兆あらわれ大小の魚、木の葉の如く酔い流れ尊い神助の瑞祥を得られた。
 その魚の流れる様を臣の椎根津彦(しいねづひこ)が見届けた場所を、古くより魚見石と言い伝える。
 昭和12年5月史蹟顕彰の為、石碑を建立するも両三度の災禍を蒙り、川筋の景観一変せるを以て小区(おむら)篤志の協賛により碑を高所に遷し、顕彰の意を継ぐ。
 昭和56年8月6日造成
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 莵田川の朝原で水沫(みなは)の様にかたまり着くところがあった。

 磐余彦尊は神意を占った。
「私は八十の平瓦で水なしに飴を作ろう。もし飴が出来れば、武器なしに天下を治めることが出来るだろう。」
 はたして飴はたやすく作ることが出来た。

 さらにまた神意を占った。

「私は今御神酒を入れた器を丹生の川に沈めよう。もし大小の魚が全部酔って、ちょうどまきの葉が流れる様に流れたら自分は天下を治めることが出来るだろう。もしそうならなければ、事を成し遂げることは出来ないだろう。」

 はたして器を投げ込んでしばらくすると魚が浮き上がってきて流されていった。

 椎根津彦がその事を報告すると、磐余彦尊は大いに喜んで、丹生の川上の沢山の榊を根こぎにして諸神にお祀りした。
 このときから祭儀の際に御神酒瓶の置物が置かれるようになった。

朝原祈祷の後、和歌が饒速日尊に届けられ、饒速日が退却・・

 朝原祈祷の後、神武天皇がお作りになられた和歌を聞いて饒速日尊が退却することになった。
  国見(くにみ)が丘に 桜井市と宇陀市の境界をなす音羽山のこと。
軍(いくさ)立て 作る御歌(みうた)に  
神風(かんかぜ)の 伊勢(いせ)の海(うみ)なる  
古(いにしえ)の 八重(やえ)這(は)ひ求む 古え、千暗の罪を免れ下民となって各地を放浪していた素盞鳴尊のこと。
細螺(しただみ)の 吾子(あこ)よよ吾子(あこ)よ 「細螺」とは、そろばん玉の形をした高さ2cmくらいの巻貝(食用)のこと。
細螺(しただみ)の い這(は)ひ求めり 細螺(しただみ)と「下民(したたみ)」を掛けている
討(う)ちてし止(や)まん    
この歌お 諸(もろ)が歌(うた)えば  
仇(あだ)が告(つ)ぐ 暫(しばし)し考(かんが)ふ  
饒速日命(にぎはやひ) 「流浪男(さすらを)よす」と 素盞鳴尊が流浪男(さすらを)になったことをさす。
雄叫(おたけ)びて また一言(ひこと)がも  
「天(あめ)から」と 軍(いくさ)お退(ひ)けば 神武天皇の軍勢が天意を受けた正当なものである、と認識するに至った。
味方(みかた)笑(ゑ)む    
 『秀真伝(ほつまつたゑ)』下巻御機の29「武仁尊大和討ちの紋」(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P235-236 )より。

朝原祈祷の後の饒速日尊の退却を受け、八咫烏命を兄磯城と弟磯城に派遣

 饒速日尊の退却を受け、神武天皇は兄磯城(えしき)に使者を出したが、兄磯城(えしき)は返答しない。

 さらに、神武天皇は八咫烏(やたのからす)を遣いに出した。

 八咫烏(やたのからす)は兄磯城の陣営に行って鳴いた。
「天神の子がお前を呼んでいる。」

 兄磯城(えしき)は

「天神が来たと聞いて、慌ただしいときに何故烏がこうも五月蠅いのか。」
と怒って弓で射た。烏は逃げ去った。

 次に弟磯城(おとしき)の家に行って鳴いた。

「天神の子がお前を呼んでいる。」

 弟磯城(おとしき)は

「私は天神が来られたと聞いて朝も夜も畏まっていた。烏よお前がこんなに鳴くのは良いことである。」
 と言って、皿八枚に食べ物を盛って烏をもてなした。

 そして、弟磯城(おとしき)は八咫烏(やたのからす)に導かれて磐余彦尊のもとに参じた。

 弟磯城(おとしき)は状況を告げる。

「我が兄の兄磯城(えしき)は、天神の御子が来ると聞いて、八十梟師(やそたける)を集めて、武器を整えて決戦しようと考えています。磐余彦尊も速やかに準備された方が良いと思います。」

「聞いての通り、兄磯城(えしき)はやはり我々と戦うつもりらしい。どうすればよいか。」

「兄磯城(えしき)は知恵者です。まず弟磯城(おとしき)を使者に出して降伏を進めてはいかがでしょう。あわせて兄倉下(えくらじ)と弟倉下(おとくらじ)も諭させて、それでも従わぬ場合に戦いを仕掛けても遅くないでしょう。」

 磐余彦尊はこの案を取り入れて弟磯城(おとしき)を遣いに出して降伏を進めた。

 だが兄磯城(えしき)は承知しなかった。

八十梟師(やそたける)軍の方から戦いは仕掛けられた・・

 八十梟師(やそたける)軍の方から戦端が切り開かれた。

 八十梟師(やそたける)軍は国見丘に本陣を張り、磐余に別働隊を控えさせている。
 迫間のメメ坂に女軍を配置し、その女軍をけしかけ、大東の佐野命軍本体を陽動した。
 佐野命軍が女軍に襲い掛かったとき、磐余の別働隊がその背後を襲い、国見丘の本隊と別働隊で挟撃し佐野命軍を殲滅する作戦であった。
 ところが、高城岳で八十梟師軍の動きを察知していた佐野命軍はこの陽動作戦には乗らず、母里に控えさせていた別働隊を磐余に隠れている八十梟師軍の別働隊に北側の小附付近から襲撃させた。
 磐余邑にいる八十梟師(やそたける)の別働隊は人数的に有利ではあったが、不意をつかれ体制を整えるまもなく、南へ逃避することになった。
 迫間周辺に達したとき、今度は南から佐野命軍本隊の襲撃を受けた。
 別働隊は神武天皇軍に挟撃される形になり、本隊の控える国見丘に向けて逃げ落ちようとしたのだが、本郷の横枕でその多くは戦死した。
 国見丘の八十梟師軍本隊は、別働隊が挟撃されているのに気づくのが遅く、手の打ちようがなかったのだ。

 10月1日(現在の11月中旬)に、

 佐野命は迫間の阿紀神社の地に本拠を構え、国見丘の八十梟師軍本隊を鎮圧した。

 【地図】神武天皇「大和討ち」の宇陀全体図

神武天皇「大和討ち」の宇陀全体図

『日本書紀』と『古事記』の記述の違いは、天皇が井光に二度来られているから

 最初に井光(いひか)に来られたのは「大和討ち」の時の紀元前663年(即位前3年)天鈴(あすず)55年、
 次が紀元前657年(即位4年)天鈴(あすず)61年の鳥見山霊峙(まつりのにわ)の時期であろう。

 この2つの事実の混同のため、『日本書紀』と『古事記』では熊野山中を抜けるコースが異なっている。  

 【日本書紀における熊野山中を抜けるコースは北から南だ】  

 日本書紀では、宇陀の穿邑に到着し、兄猾(えうかし)を制圧した後、吉野川沿いで、井氷鹿(いひか)、石穂押分命の子、苞苴擔(にへもつ)の子と出会ったと記録されている。
 その出会ったといわれている場所は、井氷鹿(いひか)が吉野郡吉野町飯貝、石穂押分命の子が国栖、苞苴擔(にへもつ)の子と出会った所が、宇智郡阿陀村(五条市阿田町)の地域と考えられている。
 この経路は北から南への流れとなっており、実際の神武天皇の南から北への流れとは逆になっている。
 また、飯貝、阿田ともにその地域に出会いを裏付ける伝承を伴っていない。
 また、蟹井神社に神武天皇が来たとき、五条市近辺にいた長髄彦反乱軍の行動をつかんでいるはずであり、五条市近辺に立ち寄れるとも思えない。もし、五条市近辺に立ち寄れるならば、蟹井神社から、あるいは和歌山市から紀の川沿いに大和に侵入しているはずである。

 このように、順路、伝承の点から推察して明らかに古事記の方が正しいと思われる。  

 神武天皇は十津川沿いに大和に侵入したという説も存在するが、この経路上に神武天皇通過伝承地は存在せず、また、吉野川沿いに比べてかなり危険なコースである。
 このような点から考慮すると吉野川沿いのコースが有力となる。

 では、日本書紀のコースは一体何なのであろう。  

 その元となる伝承があったはずである。
 それを解明するのが、井光神社の伝承である。

 井光神社の伝承では  

「大台山を通りそして紀ノ川を下り、神の瀬という井光川の美しさに足をゆだねて井光山の神武道へと進まれました。」(A伝承)
 とあるが、これは、明らかに南から北への移動である。

 その次の具体的な経路を示す伝承は  

「鷹飼(たかがい)と言う岩倉の下を歩き、榊の尾から占め木の尾、合社谷を経て、やすん場、白倉山を通り、古皇(ふるっこ)とも血の池または布穴(ぬのあな)とも云う、奥の宮の井戸のような大きな窪みが光り輝いている所を通りかかる」(B伝承)
 全ての地名の位置が解明できたわけではないが、合社谷は五社峠、近くには白倉山がある。その後に井光を通っているのであるから、この経路は明らかに北から南への経路となっている。

 A伝承が古事記で、B伝承が日本書紀に沿っているのである。  

 これより、神武天皇は井光に二度来たと解釈される。

 それを裏付けるのが、大塔宮(奥の院)の伝承である。  

 「大塔宮は、皇祖神武天皇をも祭り、古来より矢塚と奉申。神武帝皇居、吉野に被為御定諸方群賊を亡し、遷幸あらせ賜ふに勝利の御矢を納めたまいしところ」
 井光(いかり)の大塔宮に神武天皇がやってきたのは戦いで勝利を治めた後であり、「神武帝皇居」とあるので、天皇に即位した後であると思われる。

 おそらく神武天皇4年の鳥見山霊峙の時期に近いのであろう。  

 この時神武天皇は吉野に宮を構え、大和進入時に協力してくれた豪族たちを訪問して労を労ったものであろう。
 この時の記録が日本書紀に取り込まれて、古事記と日本書紀の記録の違いを生んだものと判断する。

 古事記に記録されている「熊野越えで吉野の川尻へ出た」という点  

 神武天皇の大和侵入経路で古来より問題になっているのが、古事記に記録されている「熊野越えで吉野の川尻へ出た」という点である。
 川尻とは河口を意味し、五条市付近より紀ノ川の上流を吉野川ということから吉野の川尻とは五条市付近を指すのが一般である。
 熊野から五条市へ出るには十津川を遡るルートしかないが、このルートは危険な上に伝承を伴っていないなどの矛盾点もある。
 それに対して、天皇即位後に吉野の川尻に出たというのは大変合理的である。
 この当時の天皇の宮は柏原の神武天皇社あたりと推定されており、御所市に所属している。
 この地から吉野に出るには御所から五条市に抜けるようになり、結果として吉野の川尻に出ることになるのである。
 神武天皇が吉野の川尻に出たのは天皇即位4年のことであろう。

井光(いかり)から宮滝までの地図

宮瀧の周辺図