日置神社 (ひおき)【5】記録に残しておきたいメモ書き|滋賀県

マピオン地図
滋賀県高島市今津町酒波( マピオンによる広域地図
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記録に残しておきたいメモ書き

 紀元前1,290,607年、瓊々杵尊の第二次天孫降臨の足跡

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少波神(すくなみ)と笹波神(ささなみ)〜『秀真伝』(八幡書店、)上巻P262-

(注97)少波神(すくなみ)

 少彦名神(すくなひこなのかみ)とは別の神であるが、後世伝を失し、同一の神とみなされるようになったようで、小笠原長武も『近江国太古八詠』の中で、両神を同一の神とみなしている。

(注99)笹波神(ささなみかみ)

 この少波神(すくなみかみ)の賜ったササナミという神名は、近江国高島郡川上荘酒波(現在滋賀県高島市今津町酒波-さなみ )と関連するかもしれない。
 『高島郡誌』等の記すところによれば、当地にある旧郷社日置神社は、元酒波岩剱大菩薩と称されたとあり、酒波神(さなみかみ)との関連を推測せしめるに充分である。
 ただし、祭神は素戔嗚命・日置宿禰命・稲田姫命・武甕槌命・天櫛日命・大国主命・武内宿禰・源頼道公の八柱であり、笹波神(ささなみかみ)はみられない。
 また、同社の由緒に関しても『高島郡誌』には
「縁起に云ふ、腹赤ノ池に大蛇あって人民を悩ます、垂仁天皇の時素盞鳴尊稲田姫命示現あって退治し給ふ。其時の大蛇の尾より得たる剣を投げて留まりし里に岩剣の神と崇め、頭角を谷河に投げ入れ其流れ留まりし所を角山と号し角神を祀る。武内宿禰霊夢によりて社殿を創建する云々」
 と記すのみである。
 なお、同郡百瀬村森西(現在高島市マキノ町森西)に所在する旧村社大処神社の摂社に酒波神社(元酒波大菩薩と称されたという)があり、祭礼の際に、笹粽(ささちまき)濁酒(にごりざけ)鮒(ふな)大豆大根漬けなどを献進するのを例としたと伝えられている。あるいは、この社の方に酒波神は関連するように思われないこともないが、同書によれば、貞和5年(1349年)酒波村より勧請されたとあるので、これでは時代が新しすぎて疑問である。今しばらく断定を差し控える。
 なお、酒波は、後世近江の国の一名とされ、和歌に詠まれた楽浪(佐々名実)という言葉とも関連するかもしれない。
 その点、注意を要する。

(注100)笹気山(ささきやま)

 『秀真政伝』に
 「其神孫東近江の佐々木山に往玉ふ。山本に佐々木の神社ありて元祖笹気の神を祭」
 とみえる。
 ここにいう佐々木山とは、観音寺山の西南部の崎が細い丘になって安土町を囲むようになっている標高154メートルの山のことである。
「佐々木の神社」というのは、この山の低地にかけて広がる森を背景に所在する佐々木神社(現在の滋賀県蒲生郡安土町常楽寺にある)のことを指すようである。
 この佐々木神社は、延喜式内社の由緒をもつ古社であり、中世近江国内で権勢を誇った近江源氏佐々木氏の氏神になったことは、史に明らかであるが、その由緒については、寒川辰清の『近江国輿地志略』所引「佐々木社記」に
 「近江国蒲生郡佐々木明神者、延喜式所載沙々貴神社是也。伝称、此社祀少彦名命且奉崇仁徳天皇、今不得其縁起、則未詳其由来」
 と記されているように、今日管見に入る資料の範囲内では一切不明とされている。
 現在の祭神は、少彦名命・大彦命・仁徳天皇・宇多天皇・敦実親王の4座とあり、小笠原通當のいう「元祖笹気の神」である少波神とは、一見まったく無縁の社のようにもみえるが、同社の社名の表記の一つに「篠笥」とするものもあり、竹筒より笹気を造った少波神と同社の間になんらかの関連が存在し得るかもしれない。

 あるいは、現在同社に少彦名神として祀られている神こそ、本来は少波神であったかもしれない。
 『秀真政伝』によれば
 「佐々木の神社ありて、元祖笹気の神祭後の神代に、少彦名神此宮にて和礼を教」  とあり、『秀真伝』において少波神少彦名神は時代を異にするとはいえ、まったく無縁の神ではなかったことを記している。
 後世、これが因となって、少波神少彦名神の二神を同一神とみなす訛伝が生じるに至り、少波神の神名は忘れ去られ、あるいは同一視され、代わって、少彦名神が同社の祭神とみなされるようになったという可能性も否定しがたいように思われる。
 ただし、これはあくまでも小笠原通當の『秀真政伝』の説が正しいものとした場合の話であって、本書の原文そのものの解釈からこのような結論を導くことができるかどうかは、今後の検討に譲る。

天照大神と素盞鳴尊の誓約〜『新月の光』(八幡書店、木庭次守 編)上巻P332-

 天照大神と素盞鳴尊の誓約はカスピ海を中心に行われたのである。カスピ海以東アジアは天照大神の御領分、以西ヨウロッパは素盞鳴尊の御領分であったのでその中心で行われたのである。現今の琵琶湖は型である。
 伊邪那美命の後をうけて地教山即ちヒマラヤ山で治めていられた素盞鳴尊は、コーカス山へおいでになりヨーロッパ方面へおいでになって治めていられたのである。
 奥蒙古に行くと天照大神様そのままの服装を今でもやっているのである。
 (昭和17年10月12日 大本農園有悲閣にて)

(参照)『霊界物語』第15巻第10章「神楽舞」。第12巻第16章〜26章、第29章。