御機の二十九〔武仁大和討ちの紋〕【1】ここだけは紹介しておきたい!|秀真伝

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御機の二十九〔武仁大和討ちの紋〕

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御機の二十九〔武仁大和討ちの紋〕の概略

【1】御祖天君の4人の子

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十九〔武仁大和討ちの紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P225-226 )
神日本(かんやまと) 磐余彦(いわれひこ)の  
天皇(すべらぎ)は 御祖天君(みをやあまきみ)  
四つの御子 母は玉依姫(たまより)  
兄宮(あにみや)の 五瀬命(ゐつせ)は多賀(たが)の  
治君(をきみ)なり 御祖天君(みをやあまきみ)  
筑紫(つくし)治(た)す 十年(そとせ)治(をさ)めて  
日足(ひた)るとき 天君(あまきみ)の荷(に)お  
武仁尊(たけひと)に 授(さづ)け吾平(あひら)の  
神(かみ)となる 君(きみ)宮崎宮(みやさき)に  
天種子(たねこ)らと 政(まつり)執(と)るゆえに  
静かなり    


罔象女神と豊玉姫、そして玉依姫

【2】長髄彦の反乱

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十九〔武仁大和討ちの紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P225-242 )
  香久山(かくやま)の臣(とみ)  
長髄彦(ながすね)が ままに振(ふる)えば  
騒(さわ)がしく 原の治君(をきみ)は 原宮の火明梅仁尊(瓊々杵尊の長子で饒速日尊の実父)
糧(かて)止(とど)む 故(かれ)に長髄彦(ながすね) 秀真国と日高見国の糧を止める
船(ふね)止(とど)む 大物主命(おおものぬし)が 長髄彦が大山崎町で川船を妨害したので、大物主の櫛甕玉命(積葉命の子が蕗根命の養子になる)がこれを討とうとした。
討(う)たんとす 多賀(たが)の治君(をきみ)は 五瀬尊
驚(おどろ)きて 筑紫(つくし)に降(くだ)り  
ともに治(た)す 大物主命(ものぬし)一人(ひとり) 大物主の櫛甕玉命(積葉命の子が蕗根命の養子になる)
民(たみ)治(をさ)む    


原治君
櫛甕玉命

【3】神武天皇、「大和討ち」を決心

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十九〔武仁大和討ちの紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P225-242 )
  時に武仁尊(たけひと)  
吾平姫(あひらひめ) 娶(めと)り生む御子(みこ)  
手研耳尊(たぎしみみ) 君歳(きみとし)四十五(よそゐ)  
物語り 「昔(むかし)の御祖(みおや)  
高皇産霊尊(たかむすび) 日高見(ひだかみ)生(う)みて  
四(よ)マス万穂(よろ) 過(す)ぎて天日(あまひ)の  
大御神(ををんかみ) 天成(あめな)る道に 天照神
民(たみ)お治(た)す 御子(みこ)の忍仁尊(おしひと) 忍穂耳尊
譲(ゆづ)り受(う)く 御孫(みまご)清仁尊(きよひと) 瓊々杵尊
また受(う)けて 別雷(わけいかつち)の  
天君(あまきみ)と 天の磐座(いわくら)  
押し開き 稜威(いづ)の道別(ちわき)に  
治(をさ)まりて 御祖(みおや)に仕(つか)ふ  
道(みち)開(あ)きて 光(ひかり)重(かさ)ぬる  
年(とし)の数(かず) 百七十九万(ももなそこよろ) 179万2,470年
二千四百(ふちよもも) 七十穂(なそほ)経るまで  
遠(お)ち近(こ)ちも 潤(うるほ)ふ国(くに)の  
君(きみ)ありて 村も乱れず  
天(あめ)の道 世に流行(はや)る歌  
  乗り下せ秀真路(ほつまぢ) 「乗り下せ」と「宣り下せ」を掛けている
  弘(ひろ)む天(あま)も岩船」  
塩土(しほつち)の 翁(をきな)勧(すす)めて  
「饒速日命(にぎはやひ)が 如何(いかん)ぞ行(ゆ)きて  
平(む)けざらん」 諸臣(もろ)御子(みこ)もげに  
「灼然(いやちこ)」と 「先(さき)に璽(をしで)の 長髄彦が『世嗣の文』を盗み写した制裁
答(こた)えつら 君(きみ)速(すみや)かに  
行幸(みゆき)なせ」 天鈴(あすず)キミヱの 「キミヱ」は51年目の年
十月(かんな)三日(みか) 天御子(あみこ)親(みづか)ら 天鈴51年10月3日
諸(もろ)率(ひ)きて 御船(みふね)の至る  
速吸門(はやすいど) 寄る海人(あま)小船(おぶね) 大分県の速吸門(はやすいど)のある佐賀関に速吸日女神社がある。
伊邪那岐尊が黄泉国から帰って来て禊払いをした速ツ瀬として伝えられる。
天日別命(あひわけ)が 問えば「国神(くにかみ)  
珍彦(うつひこ)ぞ 海(わだ)の釣(つり)にて 大分県佐賀関に椎根津彦神社がある。
神武天皇が大和を制圧された話から地元の人たちが椎根津彦命の屋敷跡に小祠を祀ったと伝えられる。
彦火々出見尊の十二后の系図を引かれた方かもしれない。
聞(き)く御船(みふね) 迎(むか)ふは御船(みふね)」  
「導(みちび)くか」 「あひ」と答えて  
勅(みことのり) 椎(しい)棹(さほ)の末(すえ)  
持(も)たしめて 船(ふね)に引き入れ  
名(な)お賜(たま)ふ 椎根津彦命(しゐねつひこ)の  
曳(ひ)く船(ふね)の 宇佐(うさ)に至(いた)れば  
宇佐津彦命(うさつひこ) 一柱騰宮(ひとあがりや)に 宇佐津彦命は伊吹戸主命の子。
一柱騰宮(ひとあがりや)は諸説ある。
拝田説・・『宇佐雑徴』(敷田年治)、『豊前志』(渡辺重春)
妻垣説・・『日本書紀』『博物誌』
宇佐説・・『八幡宮本紀』(貝原益軒)etc
菟狭(うさ) 顕彰碑
御饗(みあえ)なす 膳(かしわで)に寄る  
宇佐子姫(うさこひめ) 天種子命(たねこ)が妻(つま)と  
父(ちち)に問(と)ひ 筑紫(つくし)のヲシ門(と) 『記』に「竺紫岡田宮」、
『紀』に「筑紫国の岡水門(おかのみなと)に至り給ふ」
とみえる。
崗水門(をかのみなと) 顕彰碑
安芸(あき)の国 チノ宮に越す 『記』に「阿岐国の多祁理宮(たけりのみや) 」、
『紀』に「安芸国に至りまして、埃宮(えのみや)に居します」
とみえる。
 本書の「チノ宮」ももとより、いずれも宮の名称が異なるという問題もあるが、従来の学説では、『記紀』にみえる宮は名称の相違とは関係なく広島県安芸郡府中町に比定されている。
 埃宮(えのみや)・多祁理宮(たけりのみや)顕彰碑
三月(やよひ)には 吉備(きび)高島宮(たかしま)に 岡山県児島郡甲浦村に大字宮ノ浦字高島(現在、岡山市高島)がある。
高嶋宮(たかしまのみや)顕彰碑
中国(なかくに)の 政(まつり)治(をさ)めて  
三年(みとせ)坐(ま)す 内(うち)に整(ととの)ひ  
御船(みふね)行く    

椎根津彦命

【4】五瀬尊・稲飯尊・御毛入尊の神上がり

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十九〔武仁大和討ちの紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P229-242 )
  天鈴(あすず)五十五穂(ゐそゐほ) 天鈴55年2月
二月(きさらぎ)や 早浪(はやなみ)立つる  
瑞岬(みづみさき) 名(な)も浪速(なみはや)の 大阪市東区上町台地の北端から北区天満付近にわたる地域。
『紀』に「難波」
『記』に「浪速」
とある。
難波之碕(なにはのみさき)顕彰碑
港(みなと)より 山(やま)あと川(かわ)お  
遡(さかのぼ)り 河内(かわち)草香(くさか)の 河内ー畿内5カ国の一つ。現在の大阪府の南東部。
草香ー大阪府中河内郡孔舎衛村大字日下、現在東大阪市日下。
盾津(たてつ)顕彰碑
天上諸命(あうゑもろ) 館(やかた)に軍(いくさ)  
整(ととの)ひて 竜田の道は 奈良県北葛城郡王寺町西、龍田山を越え河内国へ出るけわしい古道「龍田越え」のことか。
並び得ず 生駒山(いこま)越(こ)ゆれば 生駒山ー大阪府と奈良県の境にある生駒山地の主峰。
長髄彦(ながすね)が 軍(いくさ)起(お)こして  
「わが国(くに)お 奪(うば)わんやわ」と  
孔舎衛坂(くさえざか) 戦ひ合わす 大阪府中河内郡孔舎衛村大字日下〔現在東大阪市日下〕の山麓地帯から、草香山の北部を越える坂道と推定される。
孔舎衛坂(くさえのさか)顕彰碑
五瀬御子(ゐつせみこ) 肘(ひぢ)お射(い)られて  
進み得ず 天皇(すめらき)触(ふ)れる  
議(はかり)り事 「われは日(ひ)の孫(まご) 『紀』
「今我は是日神の子孫にして、日に向ひて虜を征つは、此天道に逆れり。若かじ、退き還りて弱きことを示して、神祇を礼ひ祭ひて、背に日神の威を負ひたてまつりて、影の随におそひふみなむには。此の如くせず、かつては刀に血らずして、虜必ず自づからに敗れなむ」
とみえる。
日に向ふ 天(あめ)に逆(さか)えば  
退(しりぞ)きて 神(かみ)お祭(まつ)りて  
日のままに 襲(おそ)はば仇(あだ)も  
破(やぶ)れん」と みな「しかり」とて  
八尾(やお)え退(ひ)く 仇(あだ)もせまらず  
御船(みふね)行く 茅渟(ちぬ)の山城(やまき)で 茅渟(ちぬ)ー和泉国(大阪府)南部地方の呼び名。
大阪府泉南市男里で五瀬尊が神上がられたという。
雄水門(をのみなと)顕彰碑
五瀬尊(ゐつせ)枯(か)る 紀国(き)の竈山(かまやま)に 男水門(をのみなと)顕彰碑
竈山神社
境内社に神武天皇社、椎根津彦神社がある。
送(おく)らしむ 名草(なぐさ)の戸畔(とべ)が 和歌山市の名草山付近。
名草邑(なくさのむら)顕彰碑
拒(こば)むゆえ 罪(つみ)して佐野へ 新宮市佐野。
狭野(さぬ)顕彰碑
熊野村(くまのむら) 磐盾(いわたて)越(こ)えて  熊野村ー新宮市付近。
 新宮市の阿須賀(あすか)神社の境内に熊野神邑 (くまぬのかみのむら)顕彰碑がある。
 新宮市の阿須賀(あすか)神社の「あすか」という呼び名は「天照神が切り開いた飛鳥道」に関連する名称だろうか?
 磐盾ー神倉神社のある神倉山をこれにあてる。
沖(おき)お漕(こ)ぐ 旋風(つじかぜ)船(ふね)お  
漂(ただよ)わす 稲飯尊(いなゐ)哭(いざ)ちて 3番目の子。神武天皇の兄。
三重県熊野市二木島町の室古神社(むろこ)に祀られる。
新宮市の王子神社にも祭られている。
「天(あめ)の神 母(はは)海神(わだかみ)や  
如何(いかが)せん 陸(くが)に窘(たしな)め  
また海(うみ)」と 入(い)る鋤持(さひもち)の  
海(うみ)の神 御毛入尊(みけいり)もまた 玉依姫神が一人で生んだ2番目の子。神武天皇の兄。
三重県熊野市甫母町の阿古師神社(あこし)に祀られる。
新宮市の王子神社にも祭られている。
逆波(さかなみ)の 海(うみ)を恨(うら)みて  
神となる    

【5】高倉下命に経津の御魂剣を下賜、八咫烏の導き

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十九〔武仁大和討ちの紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P225-242 )
  天皇(すべらぎ)御子(みこ)も  
恙(つつが)なく 行(ゆ)く荒坂(あらさか)に 三重県南牟婁郡に荒坂村がある。
和歌山県新宮市に熊野荒坂津神社がある。
三重県熊野市二木島から和歌山県新宮市三輪崎に陸路退却し、金光稲荷社のある「おな神の森(おながめの森)」で意識を失う。
明治100年を記念して和歌山県新宮市三輪崎の熊野荒坂津神社が建立された。
イソラなす 丹敷戸(にしきど)拒み 八紋に六ハタレの説明あり。
(上巻PP414-438)
六ハタレは次の如く動物霊を操る。
(1)シム道ー錦大蛇
  金析命が征討。
(2)ハルナハハミチー鵺(ぬえ)アシモチ、トラツグミ
(3)イソラ道ー咬(みづち)とは鱗ある蛇のこと(?)
  経津主命が征討。
(4)キク道ー狐
(5)ヰヅナ道ー猿
  武甕槌命が征討。
(6)アエ道ー天狗
- - - - - - - - - - - -
神武天皇一行が遭難したと聞いて反撃に転じてきた一部の「丹敷戸畔」がいた。
汚穢(をえ)吐(はけ)ば みな疲(つか)れ伏(ふ)し  
眠(ねむ)るとき 高倉下命(たかくらした)に  
夢の告げ 武甕槌命(たけみかづち)に  
勅(みことのり) 「国(くに)さやければ  
汝(なんじ)行(ゆ)け」 神(かみ)に答(こた)えは  
「行(ゆ)かずとも 国平(くにむ)け剣(つるぎ)  
降(くだ)さん」と 神も「宜(う)ゑなり」  
「武甕槌(みかづち)の 経津(ふつ)の御魂剣(みたま)お 『記』の分注に「佐土布都神」「甕布都神」「布都御魂」は「石上神宮」にあるとしている。
倉(くら)に置く これ奉(たてまつ)れ」  
「あひあひ」と 高倉下命(たかくらした)が  
夢(ゆめ)覚(さ)めて 倉(くら)お開(ひら)けば  
底板(そこいた)に 立ちたる剣(つるぎ)  
進(すす)むれば 君(きみ)の長寝(ながね)の  
汚穢(をゑ)覚(さ)めて 諸(もろ)も覚(さ)むれば  
軍(いくさ)立ち 山路(やまじ)嶮(けわ)しく  高倉下命の助力を得て、那智勝浦に進軍し「丹敷戸畔」を討つ。
 「丹敷戸畔の墓」と記した石碑が、那智駅北側の熊野三所大神社に立っている。
 神武天皇一行は、那智から中辺路(熊野古道)を通り熊野大社に向けて出発した。
 和歌山市から「拝ノ峠」を通ってやってきた八咫烏と熊野大社で合流された。
末(すえ)絶(た)えて 野(の)にしぢまひて 奈良県方面に入るにしたがって道が無くなっていった。
天皇(すめらぎ)の 夢(ゆめ)に天照(あまてる)  
神(かみ)の告(つ)げ 「八咫(やた)の烏(からす)お  
導(みちび)きと」 覚(さ)むれば八咫(やた)の 天照神の切り開いた飛鳥道を守ってきたのが八咫烏だったのか?
烏は光の道を守るものらしい。
烏(からす)あり 大祖父(おおぢ)が穿(うが)つ 天照神が切り開いた
飛鳥道(あすかみち) 軍(いくさ)率(ひ)き行(ゆ)く 奈良県宇陀市穿邑と和歌山県那智勝浦の下里にある八咫鏡野に「飛鳥路」

那智勝浦から新宮市への地図

【6】穿村の兄猾(えうかし)・弟猾(おとうかし)

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十九〔武仁大和討ちの紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P232-233 )
道臣命(みちをみ)が 峰(みね)越(こ)え宇陀(うだ)の 奈良県宇陀郡(現在は宇陀市)
穿村(うがちむら) 穿主(うがぬし)召(め)せば 奈良県宇陀郡に宇賀志村がある(現在は宇陀市)。
『記』では吉野川の川尻を経て吉野山に入り、穿(うがち)に至ったとする。
穿村(うがちむら)という呼び方に「大祖父(おおぢ)が穿(うが)つ飛鳥道」という脈絡が内包されているか?
宇賀神社(うが)
菟田穿邑(うだのうかちのむら)顕彰碑
兄(あに)は来(こ)ず 弟(おと)は詣(もふ)でて  
告(つ)げ申(もふ)す 「兄(あに)逆(さか)らえど  
御饗(みあえ)して 謀(はか)るクルリお 仕掛けのこと。「くるり」と回る物ということからの名か
知(し)ろしめせ」 故(かれ)に道臣命(みちおみ)  
捜(さが)すれば 仇(あだ)なすことお  
雄叫(おたけ)びて 「汝(なんじ)が造(つく)る  
屋(や)に居(お)れ」と 剣(つるぎ)よ弓(ゆみ)と  
攻(せ)められて 辞(いな)む処(とこ)なき  
天(あめ)の罪(つみ) 己(おの)がクルリに  
罷(まか)るなり 弟(おと)はもてなす  
君臣(きみとみ)も 吉野(よしの)尾(お)の上(ゑ)の 『紀』に「吉野に至る時、人有りて井の中より出でたり。光りて尾あり。天皇問ひて曰(のたま)はく、『汝は何人ぞ』とのたまふ。対へて曰さく、『臣は是国神なり。名を井光といふ』とまうす。これ則ち吉野首部は始祖なり」
とみえる。
ヰ光(ゐひかり)も 磐別神(いわわけかみ)も 井氷鹿(いひか)の井戸
井光神社 (いかり)
岩神神社(いわかみ)
出(い)で迎(むか)ふ    

【7】高倉山から天香具山へ、丹生川での祭祀、兄磯城(えしき)との決戦

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十九〔武仁大和討ちの紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P233-237 )
  高倉山(たかくらやま)の  菟田高倉山(うだのたかくらやま)顕彰碑
 古来高倉山との伝承がある
城山(かつて高倉山といわれていた)
麓(ふもと)には 兄磯城(ゑしぎ)が軍(いくさ)  
磐余彦尊(いはわれ)の 要(かなめ)に寄りて  
道(みち)塞(ふさ)ぐ 天皇(すめらぎ)祈(いの)る  
夢(ゆめ)の告(つ)げ 「神(かみ)お祭(まつ)れよ  
香久山(かぐやま)の 埴(はに)の葉盤(ひらで)に  
胙(ひもろげ)」と 神(かみ)の教(をし)えに  
なさんとす 弟猾(おとうかし)来(き)て  
磯城梟帥(しぎたける) 葛城(かだき)アカシも  
みな拒(こば)む 君(きみ)お思(おも)えば  
香久山(かぐやま)の 埴(はに)の葉盤(ひらで)の  
胙(ひもろげ)に 天地(あめつち)祭(まつ)り  
のち討(う)たん」 猾(うがし)が告(つ)げも  
夢(ゆめ)合(あ)わせ 「椎根津彦命(しいねつひこ)は  
蓑(みの)と笠(かさ) 簑(み)お持(も)つ猾(うがし)  
翁姥(をぢうば)の 民(たみ)の姿(すがた)で  
香久山(かぐやま)の 峰(みね)の埴(はに)採(と)り  
返事(かえごと)は 御世(みよ)の占形(うらかた)  
夢々(ゆめゆめ)と 謹(つつし)み取(と)れ」と  
勅(みことのり) 街(ちまた)に仇(あだ)の  
満(みち)ち居(お)れば 椎根津彦命(しいねつひこ)が  
祈(いの)りいふ 「わが君(きみ)国(くに)お  
定(さだ)むなら 道(みち)も開(ひら)けん  
必(かなら)ず」と 直(ただち)に行(ゆ)けば  
仇(あだ)も見(み)て 様(さま)お笑(わら)ひて  笑ヶ嶽(わらいがだけ)
 笑ヶ嶽の東北麓にある屑神社(くず)
 衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)と道反之大神(みちかへしのおほかみ)を祭神とする。
避(よ)け通(とふ)す 故(かれ)に香久山(かぐやま)  天香久山(天之香久山・天香山)
埴(はに)採(と)りて 帰(かえ)れば君(きみ)も  
喜(よろこ)びて 厳瓮(いづへ)お造(つく)り 祭事に用いた壷で、神酒を入れる神聖な容器。
丹生川の 宇陀に遷せる 『紀』には、「丹生の川上に陟(のぼ)りて、用(も)て天神(あまつかみ)地祇(くにつかみ)を祭りたまふ」とみえる。
『和州旧跡幽考』『神祇宝典』『吉野郡史料』は、これを丹生川上神社中社付近に比定する。
丹生川上神社中社の社伝によれば、神武天皇が卜占を行った地所を神社近くを流れる丹生川の夢淵のあたりとする。
 丹生川上(にぶのかはかみ)顕彰碑
 朝原祈願伝承地の一つとされる魚見岩
 しかし、『日本書紀通釈』が宇陀郡迫間村(宇陀町迫間)の吾城野にある阿紀神社所在の地とする。
 さらに、『神名帳考証』『神社覈録』『記紀論考』『大和史料』『宇陀郡史料』『大日本地名辞典』などでは、榛原町雨師字朝原の丹生神社付近としているように宇陀郡の地にこれを比定する説も有力である。
 本文後半の「宇陀に遷せる」からすると、むしろ宇陀の地とした方がよいようにも思われる。
朝日原(あさひはら) 天照神(あまてる)豊受神(とよけ)  ここには豊受神の亡骸を納め、近くに天照神の亡骸を納めたことが本書にみえる。
 京都府加佐郡大江町にある豊受大神社皇大神社がそれにあたると考えられる。
 ただし、『紀』には「菟田川の朝原」とあり、『日本書紀通証』『大和史料』『大日本地名辞典』、はこれを榛原町雨師字朝原に鎮座する丹生神社の境内に比定する。
 しかし、兄磯城の陣の配置を考慮すると、阿紀神社が有力な比定地であろう。
二(ふ)祭(まつ)りは 道臣(みちおみ)ぞまた  
神皇産霊(かんみ)孫(まご) 天目一箇神(あめまひ)曾孫(ひこ)  
天田根命(あたね)して 別雷山(わけつちやま)の  
御祖神(みをやかみ) 三日(みか)祭(まつ)らせて 鵜葺草葺不合尊
仇(あだ)お討(う)つ 国見(くにみ)が丘(おか)に 国見(くにみ)が丘(おか)がどこか不明であるが、阿紀神社の南側にある「音羽山と経ヶ塚山 を望めるかぎろひの丘」に軍を駐留させ、歌を歌わせることが出来る。
軍(いくさ)立(た)て 作(つく)る御歌(みうた)に  
神風(かんかぜ)の 伊勢(いせ)の海(うみ)なる  
古(いにしえ)の 八重(やえ)這(は)ひ求(もと)む  
細螺(しただみ)の 吾子(あこ)よよ吾子(あこ)よ 「細螺(しただみ)」は、ニシキウズガイ科の巻貝。そろばん玉の形をし、高さ2センチくらい。肉は食用。キサゴは古名。
ここでは、「下民」と「細螺(しただみ)」を掛けている。
古え、千暗の罪を免れ下民となって各地を彷徨していた素戔嗚尊のこと。
細螺(しただみ)の い這(は)ひ求(もと)めり  
討(う)ちてし止(や)まん    
この歌(うた)お 諸(もろ)が歌(うた)えば  音羽山と経ヶ塚山に向けて、「かぎろひの丘」からみんなで歌を歌った。
仇(あだ)が告(つ)ぐ 暫(しば)し考(かんが)ふ  
饒速日命(にぎはやひ) 「流浪男(さすらを)よす」と  
雄叫(おたけ)びて また一言(ひこと)がも  
「天(あめ)から」と 軍(いくさ)お退(ひ)けば  
味方(みかた)笑(ゑ)む 十一月(ねつき)弓張(ゆみはり) 天鈴(あすず)55年11月弓張月の日
磯城彦(しぎひこ)お 雉子(きぎす)に召(め)せど  
兄(あに)は来(こ)ず また遣(や)る八咫(やた)の  
烏(からす)鳴(な)き 「天神(あまかみ)の御子(みこ)  
汝(なんじ)召(め)す いざわいざわぞ」  
兄磯城(ゑしき)聞(き)き 「厭(いと)うなす神(かみ) 厭うなす神とは忌むべき神という意味で神武天皇のこと。
汚穢(をゑ)ぬとき 仇烏(あだからす)」とて いやな気持ちになっているとき
弓(ゆみ)引(ひ)けば 弟(おと)が屋(や)に行(ゆ)き  
「君(きみ)召(め)すぞ いざわいざわ」と  
烏(からす)鳴(な)く 弟磯城(おとしぎ)怖(お)ぢて  
容(かたち)変(か)え 「神(かみ)に厭(いと)うに  
われ恐(おそ)る ゑゝ汝(なんじ)」とて  
葉(は)盛(も)り饗(あ)え まゝに至(いた)りて  
「わが兄(あに)は 仇(あだ)す」と申(もふ)す  
時(とき)に君(きみ) 問(と)えばみないふ  
弟(と)に諭(さと)し 教(をし)えても来(こ)ぬ  
のち討(う)つも 良(よ)し」と高倉下命(たかくら)  
弟磯城(おとしき)と 遣(や)りて示(し)せど  
受(う)けかわす 道臣命(みちをみ)が討(う)つ  
忍坂(おしさか)と 珍彦神(うづひこ)が討(う)つ  
女坂(おんなざか) 兄磯城(ゑしき)の逃(に)げる  『紀』に「女坂」とみえ、『日本書紀通証』に・・。
 大宇陀町上宮奥付近か.  
梟帥(たける)ども 悉(ふつ)く斬(き)れども  奈良県桜井市吉備、春日神社北側の磐余邑(いわれのむら)伝承地といわれる磐余邑(いわれのむら)顕彰碑
 兵が投降し磐余(いわれ)の由来となった大宇陀区岩室の皇大神社(こうたい)

【8】長髄彦との決戦

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十九〔武仁大和討ちの紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P238-239 )
長髄彦(ながすね)が 戦(たたか)い強(つよ)く  
当(あた)られず 時(とき)にたちまち  
氷雨(ひさめ)降(ふ)る 金色(こがね)鵜(う)の鳥(とり) 『紀』では「金色(こがね)の霊(あや)しき鵄(とび)」となっている。
飛(と)び来(き)たり 弓弭(ゆはず)に止(と)まる 「弓弭」とは、弓の両端の弦の輪をかける所。
 奈良県生駒市上町、出垣内バス停東南の丘にある鵄邑(とびのむら)顕彰碑
その光(ひかり) 照(て)り輝(かがや)けば  
長髄彦(ながすね)が 戦(たたか)ひ止(や)めて  
君(きみ)にいふ 「昔(むかし)天照(あまてる)  
神(かみ)の御子(かみ) 岩船(いわふね)に乗(の)り 天照神の孫の奇玉火之明梅仁尊(飛鳥治君・香久山治君)
天降(あまくだ)り 飛鳥(あすか)に照(て)らす  
饒速日命(にぎはやひ) 妹(いと)御炊屋(みかしや)お  
后(きさき)とし 生(う)む御子(みこ)の名(な)も  
可美真手命(うましまち) わが君(きみ)はこの  
饒速日命(にぎはやひ) 天照神(あまてるかみ)の  
神宝(かんだから) 十種(とくさ)お授(さづ)く  
あに他(はか)に 神(かみ)の御孫(みまご)と  
偽(いつは)りて 国(くに)奪(うば)はんや  
これ如何(いかん)」 時(とき)に皇(すへら)に  
答(こた)えいふ 「汝(なんじ)が君(きみ)も  
真(まこと)なら 璽(しるし)あらんぞ」  
長髄彦(ながすね)が 君(きみ)の靫(ゆき)より  
羽々矢(ははや)手(て)お 天(あめ)に示(しめ)せば  
神璽(かんをして) また天皇(すめらぎ)も  
歩靫(かちゆき)の 出(い)だす羽々矢(ははや)の  
神璽(かんをして) 長髄彦(ながすねひこ)に  
示(しめ)さしむ 進(すす)まぬ軍(いくさ)  
守(まも)り居(い)る 懇(ねんごろ)ろお知(し)る  
饒速日命(にぎはやひ) わが長髄彦(ながすね)が  
生(う)まれつき 天地(あめつち)分(わか)ぬ  
頑(かたく)なお 斬(きり)りて諸(もろ)率(ひ)き  
服(まつろ)えば 君(きみ)はもとより  
国照宮(くにてる)の 忠(まめ)おうつしみ  
磐余彦尊(いはわれ)の 親鮸(おやにべ)お練(ね)り 「鮸(にべ)」は接着剤としての膠(にかわ)を示すほか、愛敬、愛想のこともいう。
ここでは、神武天皇と饒速日命が、親子の愛敬の契を結んだことと、膠(にかわ)を練るとを掛けている。
『紀』に饒速日命をさし「此物部氏の遠祖なり」とみえる。

【9】土蜘蛛たちに鎮圧

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十九〔武仁大和討ちの紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P240-240 )
年(とし)越(こ)えて 居勢(こせ)の祝(ほふり)や  
ソフトべと 猪(ゐ)の祝(ほふり)らも  
土蜘蛛(つちぐも)の 網(あみ)はる者(もの)お  
みな殺す 高尾(たかお)張部(はりべ)が  
背(せひ)低(ひ)くて 足長(あしなが)蜘蛛(くも)の  
大力(おおちから) 岩木(いわき)お振(ふ)りて  
寄(よ)せつけず 多賀(たが)の宮(みや)守(も)る  
大物主(うものぬし) 櫛甕玉命(くしみかたま)に  
勅(みことのり) 大物主命(ものぬし)考(かが)え  
葛網(くずあみ)お 結(ゆ)ひ被(かぶ)らせて  
やや殺(ころ)す    

【10】橿原宮の造営と后の選定

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十九〔武仁大和討ちの紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P240-242 )
  末(すゑ)治(おさ)まれば  
筑紫(つくし)より 上(のぼ)る天種子命(たねこ)と  
大物主命(ものぬし)に 「都(みやこ)遷(うつ)さん  
国見(くにみ)よ」と 勅(みこと)お受(う)けて  
巡(めぐ)り見(み)る 「橿原(かしはら)よし」と  
申(もふ)すとき 君(きみ)も思(をも)ひは  
同(おな)じく 天富命(あめとみ)おして 『古語拾遺』に、「仍りて、天富命<太玉命が孫なり>をして、手置帆負・彦狭知の二柱の神が孫を率て、斎斧・斎鉏を以って、始めて磐根に宮柱ふとしり立て、高天原に千木高りし、皇孫命のみづの御殿を造り仕え奉れるなり」。
『先代旧事本紀』巻七「天皇本紀」神武天皇即位前己末年三月の条に・・
『記紀』に天富命の記述は見られない。
天富命が神武天皇より忌部の姓を賜ったことが、三十紋〔30-5〕にみえるが、忌部(斎部)は、鏡・玉矛・盾・木綿・麻・神殿などを造るのを職とした。
宮(みや)造(つく)り 后(きさき)立(た)てんと  
諸(もろ)に問(と)ふ 宇佐津彦(うさつ)が申(もふ)す  
「事代主命(ことしろ)が 玉櫛姫(たまくしひめ)と生(う)む  
姫(ひめ)蹈鞴(たたら) 五十鈴姫(ゐそすずひめ)は  
国(くに)の色(いろ) 阿波宮(あはみや)に坐(ま)す  
これよけん」 天皇(すめらぎ)笑(ゑ)みて  
后(きさき)とす 事代主命(ことしろぬし)お  
恵美須神(ゑみすかみ) 孫(まご)の櫛根命(くしね)お  
県主(あがたぬし) 社(やしろ)造(つく)らせ  
メの二十日 祭(まつ)る大三輪(おおみわ) 「メ」は、「メ月」の節略。 「メ月」は、他の箇所に載るその記述と『紀』の記述を比べると10月に相当すると考えられるが、確証を欠くので、本文・口語訳ともにしばらくカタカナ名で表記する。
神奈備(かんなみ)ぞ 神(かん)よりに名(な)も  
神日本(かんやまと) 磐余彦(いわわれひこ)の  
天君(あまきみ)と あまねく触(ふ)れて  
年サナト 橿原宮(かしはらみや)の 天鈴(あすず)58年
初年(はつとし)と 見よ神武仁尊(かんたけ)の  
大いなるかな