記録に残しておきたいメモ書き
『秀真伝(ほつまつたゑ)』が伝える北津(きたのつ)での彦火々出見尊
◆紀元前1,290,607年(→年表)、瓊々杵尊は八洲めぐりの勅を得て、琵琶湖西岸の鵜川で猿田彦に会い、瑞穂の仮宮を築き、酒折の宮で木花咲耶姫に出会った。
(※)瑞穂の仮宮を築かれるとき、伊邪那岐尊の伝承が残っているところをみると、鵜川の宮と大津シノ宮はあったのかもしれない。
翌紀元前1,290,606年、木花咲耶姫は、火明・火進・火遠(彦火々出見)の順で三つ子を産んだ。
比叡山を造営してから穀物がたくさん出来るようになったのでミゾロ池(深泥池)と呼ぶようになった。
ミゾロ池(深泥池)の西岸の岩を砕き、小石にして川に流しいれ水をあふれさせ、荒地に水を引き、雷(鳴る神)を別け鎮め、葵葉(あおいば)と桂(かつら)によって軻遇突智神(かぐつちのかみ)と罔象女神(みずはめのかみ)をお生みになった。
この功績によって、瓊々杵尊は「別雷(わけいかづち)」という称号を天照神から賜った。
(※)京都の上鴨神社の御祭神は賀茂別雷大神である。
2番目の兄は鵜川宮で釣りを好み暮らされ、彦火々出見尊は大津シノ宮で狩を好み暮らされていた。
2人の暮らされ方から、海幸彦・山幸彦という名前の謂れが出来た場所である。
それに対して、瓊々杵尊は彦火々出見尊を派遣する予定であった。
ところが筑紫の状況を検討してみると、彦火々出見尊を派遣しても納めきれないと判断されたようだ。
急遽、瓊々杵尊自らが筑紫の統治に向かわれることになった。
瓊々杵尊が筑紫に向かわれている間、鵜川宮と彦火々出見尊は福井県の敦賀市で過ごされることになった。
この福井県の敦賀市は『秀真伝』では北津(きたのつ)といわれている場所である。
この北津(きたのつ)が、海幸彦・山幸彦の舞台になった場所である。
海宮に向かう彦火々出見尊に塩土老翁(しおつちのおじ)は笥飯(けひ-弁当箱)を手向けた。
海宮に着いて、無事兄の海幸彦の釣り針を探すことの出来た彦火々出見尊は、海宮で、豊玉姫と結婚された。
しかし、豊玉姫の船は島根県の三保岬沖あたりで難破し、豊玉姫はミゾロの竜の力を得て身重の体で一人岸まで泳ぎきることになった。
そして、産後の体を休めているとき、彦火々出見尊に産屋を覗かれたことを恥じ、罔象女宮(貴船神社の奥宮)に身を隠した。
罔象女宮(貴船神社の奥宮)において、瓊々杵尊が葵葉(あおいば)と桂葉(かつらば)を用いた説得を行い、豊玉姫は心を許すことになった。
(※)豊玉姫の弟・建祗命(たけずみ)に、豊玉姫とその子の鵜葺草葺不合尊を養うようにと詔が下され、河合神社を賜り、京都の鴨御祖神社(祭神:鵜葺草葺不合尊)で養育にあたられることになった。
豊玉姫は、罔象女宮(貴船神社の奥宮)において瓊々杵尊が神上がられた喪祭りを行い、その後再び宮中に戻った。
自分のこれまでを振り返られて、塩土老翁(しおつちのおじ)から「笥飯(けひ)」(弁当)を頂戴し、北津(きたのつ)を発ち、海宮に行ったことから道が切り開かれて来たと感ずるものがあったからである。
北津(きたのつ)の宮は伊奢沙別宮(いささわけのみや)ともいわれており、彦火々出見尊の時代では、伊奢沙別命(いささわけのみこと)とは彦火々出見尊のことだったのだろう。
(※)罔象女宮の舟形石が豊玉姫の御陵墓か
豊玉姫尊にとって罔象女宮(貴船神社の奥宮)は瓊々杵尊から教えを受けたとても貴い場所だったからである。
この神社がどこになっているかは不明であるが、気比の松原の東にある神明神社の近辺にはあったのではなかろうか?
福井県敦賀市に鵜葺草葺不合尊の伝承が少ないのは、鵜葺草葺不合尊は誕生後すぐに京都の鴨御祖神社(祭神:鵜葺草葺不合尊)で養育されたからかもしれない。
(※)瑞穂の仮宮を築かれるとき、伊邪那岐尊の伝承が残っているところをみると、鵜川の宮と大津シノ宮はあったのかもしれない。
翌紀元前1,290,606年、木花咲耶姫は、火明・火進・火遠(彦火々出見)の順で三つ子を産んだ。
◆天忍穂耳尊が箱根で神上がられた。
瓊々杵尊は、天忍穂耳尊の3年の喪祀りを済ませてから、比叡山を造営することになった。比叡山を造営してから穀物がたくさん出来るようになったのでミゾロ池(深泥池)と呼ぶようになった。
ミゾロ池(深泥池)の西岸の岩を砕き、小石にして川に流しいれ水をあふれさせ、荒地に水を引き、雷(鳴る神)を別け鎮め、葵葉(あおいば)と桂(かつら)によって軻遇突智神(かぐつちのかみ)と罔象女神(みずはめのかみ)をお生みになった。
この功績によって、瓊々杵尊は「別雷(わけいかづち)」という称号を天照神から賜った。
(※)京都の上鴨神社の御祭神は賀茂別雷大神である。
◆紀元前1,086,682年、瑞穂の仮宮を正式に宮として造営。
紀元前1,086,682年、瓊々杵尊の「深き思ひの あるにより」、瑞穂の仮宮を正式に宮として造営され、鵜川の昔の跡に鵜川宮を造営し、また昔の跡に大津シノ宮を造営された。2番目の兄は鵜川宮で釣りを好み暮らされ、彦火々出見尊は大津シノ宮で狩を好み暮らされていた。
2人の暮らされ方から、海幸彦・山幸彦という名前の謂れが出来た場所である。
◆彦火々出見尊を筑紫に派遣しようとしたが・・・
瓊々杵尊は筑紫が治まらないので、御子を派遣して欲しいという要請を受けていた。それに対して、瓊々杵尊は彦火々出見尊を派遣する予定であった。
ところが筑紫の状況を検討してみると、彦火々出見尊を派遣しても納めきれないと判断されたようだ。
急遽、瓊々杵尊自らが筑紫の統治に向かわれることになった。
瓊々杵尊が筑紫に向かわれている間、鵜川宮と彦火々出見尊は福井県の敦賀市で過ごされることになった。
この福井県の敦賀市は『秀真伝』では北津(きたのつ)といわれている場所である。
この北津(きたのつ)が、海幸彦・山幸彦の舞台になった場所である。
◆彦火々出見尊(山幸彦)は、兄の海幸彦に謀られて釣り針を無くしてしまう。
塩土老翁(しおつちのおじ)の助言により海宮に赴き、釣り針を探してもらうことになった。海宮に向かう彦火々出見尊に塩土老翁(しおつちのおじ)は笥飯(けひ-弁当箱)を手向けた。
海宮に着いて、無事兄の海幸彦の釣り針を探すことの出来た彦火々出見尊は、海宮で、豊玉姫と結婚された。
◆紀元前898,627年、豊玉姫に子供ができたので北津(きたのつ)に帰還することになった。
まず彦火々出見尊が先触れとしてお一人で北津(きたのつ)にお戻りになられ、続いて豊玉姫が海路向かわれた。しかし、豊玉姫の船は島根県の三保岬沖あたりで難破し、豊玉姫はミゾロの竜の力を得て身重の体で一人岸まで泳ぎきることになった。
◆紀元前898,627年、彦火々出見尊への天位継承と敦賀湾の気比の松原で鵜葺草葺不合尊の誕生。
豊玉姫は敦賀湾の気比の松原(推定地は神明神社)で鵜葺草葺不合尊を生んだ。そして、産後の体を休めているとき、彦火々出見尊に産屋を覗かれたことを恥じ、罔象女宮(貴船神社の奥宮)に身を隠した。
罔象女宮(貴船神社の奥宮)において、瓊々杵尊が葵葉(あおいば)と桂葉(かつらば)を用いた説得を行い、豊玉姫は心を許すことになった。
(※)豊玉姫の弟・建祗命(たけずみ)に、豊玉姫とその子の鵜葺草葺不合尊を養うようにと詔が下され、河合神社を賜り、京都の鴨御祖神社(祭神:鵜葺草葺不合尊)で養育にあたられることになった。
豊玉姫は、罔象女宮(貴船神社の奥宮)において瓊々杵尊が神上がられた喪祭りを行い、その後再び宮中に戻った。
◆紀元前489,645年、大津シノ宮において、彦火々出見尊と豊玉姫は神上がられた。
彦火々出見尊の亡骸は笥飯(けひ)神宮に納められた。自分のこれまでを振り返られて、塩土老翁(しおつちのおじ)から「笥飯(けひ)」(弁当)を頂戴し、北津(きたのつ)を発ち、海宮に行ったことから道が切り開かれて来たと感ずるものがあったからである。
北津(きたのつ)の宮は伊奢沙別宮(いささわけのみや)ともいわれており、彦火々出見尊の時代では、伊奢沙別命(いささわけのみこと)とは彦火々出見尊のことだったのだろう。
琵琶湖の大津シノの宮からみて、気比神宮の敦賀は、海上交通と陸上交通の要所に当たっている。
豊玉姫の亡骸は罔象女宮(貴船神社の奥宮)に納められた。(※)罔象女宮の舟形石が豊玉姫の御陵墓か
豊玉姫尊にとって罔象女宮(貴船神社の奥宮)は瓊々杵尊から教えを受けたとても貴い場所だったからである。
◆鵜葺草葺不合尊の誕生された聖地は・・
鵜葺草葺不合尊が誕生された聖地を偲んでみると、江戸時代以前には、鳥居上部が壊れ神社の礎石も崩れた状態になっていたようである。この神社がどこになっているかは不明であるが、気比の松原の東にある神明神社の近辺にはあったのではなかろうか?
福井県敦賀市に鵜葺草葺不合尊の伝承が少ないのは、鵜葺草葺不合尊は誕生後すぐに京都の鴨御祖神社(祭神:鵜葺草葺不合尊)で養育されたからかもしれない。
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