大国主命の略表|聖地 日本の神社|「月の光」

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大国主命の略表

大国主命の年表作成上の参考文献

『注釈 上紀(うえつふみ)』 (八幡書店、上下巻)

『完訳 秀真伝(ほつまつたえ)』(八幡書店、上下巻)

『出雲国風土記』(松江今井書店、加藤義成 校注)

和歌山県神社誌(和歌山県神社庁) 紀伊續風土記 巻之三十五

大国主命の位置〜須佐之男神の御子神か?それとも7代目か?

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』では、大国主の命は素盞嗚尊の御子神だ。

 対して、『上紀(うえつふみ)』では大国主命は素盞嗚尊を初代とすると第七代目の子孫にあたる。

 どちらも正しい記述だと仮定するとどうなるか?

  『秀真伝(ほつまつたゑ)』 『上紀(うえつふみ)』
素戔嗚命 須佐之男命
奇杵命(大己貴命) 八島篠眞命(やしましぬま)

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『上紀(うえつふみ)』上巻P151に別称を示している。
八島士奴美命(やしましぬみ)、八束水臣津野命(やつかみづおみづぬ)。
『上紀(うえつふみ)』上巻P160によると、「国引き神話」は八島士奴美(やしましぬみ)のときの出来事。
奇彦命(えびす神) 布波能母遅久奴須奴の命(ふわのもぢくぬすぬのみこと)
子守神(万木麿・美穂彦) 深渕水夜礼花命(ふかぶちみづやれはなのみこと)

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『上紀(うえつふみ)』上巻P162に別称を示している。
八束命(やつか)、八束深恵水命(やつかふかゑみづ)
積葉命(八重事代主命) 八束水臣津野美命(やつかみづおみづぬみ)
蕗根命(ふきね
積葉命の兄・神立命の子にあたる。

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『秀真伝(ほつまつたゑ)』では「ふきねのみこと(蕗根命)」が「さすくにわかひめ(刺国若比売)」と結婚されている。
天之冬衣命(あめのふゆきぬ)

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『上紀(うえつふみ)』上巻P164に別称を示している。
天之葺根命(あまのふきね)。
『上紀(うえつふみ)』では「あめのふゆきぬ(天之冬衣命)」「天之葺根命(あまのふきね)」が「さすくにわかひめ(刺国若比売)」と結婚されている。
櫛甕玉命(鰐彦)
蕗根命(ふきね)が積葉命の長子を養子に迎え入れる。
大名牟遅命(おおなむち)

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『上紀(うえつふみ)』上巻P169にいくつかの別称を挙げている。
大国主命(おおくにぬし)、大名牟遅命(おおなむぢ)、宇都志国玉命(うつしくにたま)、葦原之色許男命(あしはらのしこを)、八千矛命(やちほこ)、大地主命(おおとこぬし)、大名牟遅命(おおなむち)、八千矛法吉主命(やちほこほよぬし)、大物主命(おおものぬし)、櫛甕玉命(くしみかたま)、大国玉命(おおくにたま)、国玉主命(くにたまぬし)、玉久美大地命(たまくみおおとこ)

櫛甕玉命・大国主命の系図

(参考)熊成の岳『注釈 上紀(うえつふみ)』 (八幡書店、上巻、P174 の注記) 

 古事記、旧事記地神本紀は「根之堅州国」すなわち黄泉の国とする。

 つまりこれらがスサノヲの住む国を黄泉の国とするのに対して、上紀(うえつふみ)は、地上世界とするわけで、スサノヲが天孫に先立って地上を治めたとする伝説的発想に符合する。
 上の『上紀(うえつふみ)』の注記にあるように、地上世界の統治はスサノヲから大国主命に移行したので、『秀真伝(ほつまつたゑ)』の記述のように大国主命は素盞嗚神の御子神と記述されても不都合ないことかもしれない。
 地上世界に現われてきた神々を須佐之男尊の御子神としてくる『秀真伝(ほつまつたゑ)』の記述に、私は違和感がないし、地上世界に現われてくる前の神々の記述をしている『上紀(うえつふみ)』の記述にも私は違和感はない。

 『上紀(うえつふみ)』のような文書があるとすると、おそらく、黄泉国での伊邪那美尊の所在を伝える古文献もアフガニスタンかチベットにあるのだと思う。
 そういう文献があってしかるべきなので、私がそういう文献を見てもおそらく何の違和感も持たないだろう。

『秀真伝(ほつまつたゑ)』(八幡書店)の系図から

須佐之男神の御子神

『 注釈 上紀(うえつふみ) 』(八幡書店、上巻)から

須佐之男尊からの系図は「八岐大蛇を退治した後の素盞嗚尊とそれ以後の出雲」を参照してください。

須佐之男神の御子神

大国主命のその時々の異名

      〜『 注釈 上紀(うえつふみ) 』(八幡書店、上巻、P169)より

 大名牟遅(おおなむち)の命
 大国主(おおくにぬし)の命、大穴牟遅(おおなむぢ)の命、宇都志国玉(うつしくにたま)の命、葦原之色許男(あしはらのしこを)の命、八千矛(やちほこ)の命、大地主(おおとこぬし)の命、大名牟遅(おおなむち)の命、八千矛法吉主(やちほこほよぬし)の命、大物主(おおものぬし)の命、櫛甕玉(くしみかたま)の命、大国玉(おおくにたま)の命、国玉主(くにたまぬし)の命、玉久美大地(たまくみおおとこ)の命
(※)
 和名抄、出雲風土記に現われる島根郡法吉(ほほき)郷の法吉に因む名ではなかろうか。  大日本古文書所収正倉院文書の漢字仮名で法吉は「ほよ」と訓む。つまり本来は「やちほこほほきぬし」であったものを誤読したものではなかろうか。
 因みに風土記には法吉の地名縁起譚としてカムムスビの子・ウムカヒメが法吉鳥に化してこの地に鎮まったので法吉というとある。このウムカヒメは古事記によれば、オオナムチが兄神のために大火傷を負った時、カムムスビに派遣されてオオナムチを治療した神であった。
 このように法吉の地はオオナムチと因縁が深いところである。

大国主命の父・天之冬衣の命

      〜『 注釈 上紀(うえつふみ) 』(八幡書店、上巻、P171)より

  天之冬衣(あまのふゆきぬ)の命 いと 若く 逸り男なる時に 八十禍津日の神の裔(はつこ) 悪(ねく)じ狂男(たぶれを)の頭(かみ)の子 梟女(ふぐなめ)ハ 眉目形(みめかた)ハ 諸人に勝れたれども 年長けて 生める御子ハ 祖父の神の御名に象せて 八十神の命 と まをす

 これの御子 御年七つ と まをしし時に 天之冬衣の命 妃 召したまエるからに 梟女(ふぐなめ)ハ いたく 嫉妬りて 御子を掻きて 宮に参イ来て 髪衣暴れに 執拗 罵らこして 幾代か 汝を 呪エましなす と 猛び 叫びて 御子を 門柱に括して そが身 眞向川に跳びて 死去に亡せき

 故 天之冬衣の命ハ 御子を目見たまイて いたく 御胸を塞ぎましき

 ここに 刺国若比売(さすくにわかひめ)の命ハ それの御子を 掻き抱かせたまイて 告りたまわく これの御子ハ 夫子の御子なり 夫子が御子ハ 全き 吾が子なり 故 吾育まに と 告りまして 人子の兄(エ)の子なり と 愛で囃したまイき

大国主命の誕生

      〜『 注釈 上紀(うえつふみ) 』(八幡書店、上巻、P)より

因幡の白兎〜『 注釈 上紀 』(八幡書店、上巻、P172)より

因幡の白兎で有名な白兎海岸の地図(→マピオン地図)。

白兎海岸

施設名 住所 備考
白兎神社 鳥取県 備考
淤岐島 白兎海岸 備考

八上姫〜『 注釈 上紀』(八幡書店、上巻、P172-173)より

腹違いの兄である八十神の命大名牟遅の命は、八上姫神に会いに行った。
( →河原城を中心にしたマピオン地図

八上姫と霊石山

施設名 住所 備考
賣沼神社
(西日天王)
鳥取県鳥取市河原町曳田字上土居 白兎伝承
嶽古墳 鳥取県鳥取市河原町曳野 八上比女の御陵とも伝えられる。
黒木神社 鳥取県鳥取市河原町 八上比女に由緒あり。
河原城 鳥取県鳥取市河原町大字谷一木1011
電話 0858-85-0046
地域振興として建てられたランドタワー。
地域の伝承を集めているのでとても楽しい場所でした。
霊石山 鳥取県鳥取市河原町 天照大神の降臨伝承が残っている。

大国主命の一度目の遭難と復活〜『 注釈 上紀』(八幡書店、上巻、P173)より

【最初の遭難〜赤猪岩神社】  八上比女の命と結婚できなかった腹違いの兄・八十神の命は、大名牟遅の命を殺そうとして赤き厳猪(いかしし)に似た大岩を火で焼いて要害山(手間山・天万山)から転ばし落とした。
 大名牟遅の命の御祖 天之冬衣(あまのふゆきぬ)の命 刺国若比売(さすくにわかひめ)の命 天昇して 高御産巣日(たかみむすび)の命 神御産巣日(かみむすび)の命 に祈った。
 蚶貝比女(きさがイひめ)の命 蛤比女(うむぎひめ)の命 が大名牟遅の命を生き返らせた。
(→ マピオン地図 )

赤猪岩神社

施設名 住所 備考
赤猪岩神社 鳥取県西伯郡会見町寺内 大国主命が最初に遭難したところ。
法吉神社 島根県松江市法吉町582 宇武加比(うむかい)比売(法吉神社の祭神)は、大国主命が火傷を負ったときに、神産巣日之命の大命を受け、支佐加比(きさかい)比売(加賀神社の祭神)とともに降臨し、協力治療の大功をなした。
加賀神社 島根県松江市島根町加賀 大国主命を救済した枳佐加比姫(キサガイ・蚶貝・支佐加比)。
猿田彦命の母神。
猿田彦命が生れたのは208万年前。
対して、大国主命は約156年前に生れている。

大国主命の二度目の遭難と復活〜『 注釈 上紀』(八幡書店、上巻、P173)より

【2度目の遭難〜大蔵山南麓の大石見神社周辺か?】
 赤猪岩神社での復活の後、大倉山(大蔵山)で腹違いの兄・八十神の命の嫉妬が和らぐのを大名牟遅の命は待っていたがまた謀られ生命を落とす。

 八十神の命ハ そを 窺間見(かゐまみ)て また 欺きて 山に率て入りて 大樹を伏せ 角矢を嵌めて その木に打ち立て それの中に入らしめて その氷目矢(ひめや)を打ち放ちて 拷(う)ち放ちて 拷(う)ち伏(ぶ)せに 殺し棄てき

 故 御祖の命 泣きつつ それの木を拆(さ)きて 取り出て 息呼(いよぶ)せなして もとの身に活かして 告りたまわく 

   汝(いまし) ここに在(あ)らば 終(を)エ には腹異(はらかた)の兄 八十神の命に 殺(ころ)さエなむ

(→ マピオン地図 ) 

大倉山(大蔵山)

施設名 住所 備考
大倉山(大蔵山) 鳥取県日野郡日南町神戸上  この山は大蔵山ともいい、昔大倉神社があり闇山祇命を祀っていたと資料にある。  山を守 護する神体は山頂の岩に出現した。また近年まで一町地蔵が立っていてお詣りする人があっ たという。しかしその跡らしきところは見あたらない。
 またこんな話も残っている。孝霊天皇に退治された鬼が住んでいて牛鬼山とも呼ばれた。昔長谷部信連の末裔の元信が山麓を通りかかると、「大蔵殿」と鬼に呼び止められ、「おまえの先祖信連が各地に神社を建てるので住み難くなったのでここを去る」といって消えた。
 長谷部信連といえば反平家を掲げて以仁王とともに決起したが平家に捕らえられ、伯耆の日野氏の元に流された(各地をさまよったという説もある)。信連はやがて鎌倉に帰り関東御家人となり、能登の大屋荘の地頭となった。
 その後長谷部信連の末裔は長氏と名乗り、前田利家に重用され加賀百万国の家老の一人となり、3万3千石と小大名並の家禄をもらった。
 一方当地に残った子孫の元信は備後の武将となり、大蔵左衛門とも呼ばれた。この山を大蔵山といったこと、鬼に大蔵殿と呼び止められたという話は、元信に関わるものと思われる。
 長谷部信連という男によって石川県の加賀・能登と伯耆がつながっている。
 山麓の大石見神社は大国主命、八上姫命などを祀る。
 因幡で八上姫を娶った大国主命は出雲への帰途、手間山(要害山)で兄弟の八十神の妬みから大怪我をするが、八十神の妬みがおさまるまで大倉山の山中で待ったという。

 この故事から孝霊天皇が大和三輪山大明神を勧請し祀ったと伝える。
 神社から大倉山の手前のピークに大岩が見えるが、大倉山の御神体が降臨した岩であり、また牛鬼の住処でもあった。この岩が見えるので石見といったという。
 上記は鳥取の山から引用。
大石見神社 鳥取県日野郡日南町上石見(かみいわみ)  大倉山南麓の大石見神社は大国主命、八上姫命などを祀る。
 因幡で八上姫を娶った大国主命は出雲への帰途、手間山(要害山)で兄弟の八十神の妬みから大怪我をするが、八十神の妬みがおさまるまで大倉山の山中で待ったという。
 この故事から孝霊天皇が大和三輪山大明神を勧請し祀ったと伝える。
 神社から大倉山の手前のピークに大岩が見えるが、大倉山の御神体が降臨した岩であり、また牛鬼の住処でもあった。この岩が見えるので石見といったという。

 上記は鳥取の山から引用。

 上記の引用の真贋を現在調査中ですが、おそらくこの神社が大国主命が2度目に遭難し復活した由緒ある神社かもしれません。
石見神社 鳥取県日野郡日南町下石見(しもいわみ) 伝承

紀の国の大屋比古の元へ大名牟遅の命、脱出

       〜『 注釈 上紀』(八幡書店、上巻、P174-175)より

 故 久久能智(くくのち)の国の 大屋毘古(おおやびこ)の命の御許辺(みもとべ)に 急がし 遣りたまイき

 故 八十神の命ハ 求(ま)きつつも 追イ到りて 鹿児矢刺(かごやさ)す時に木(こ)の俣(また)ゆ漏(く)き 間逃(まぬが)れて 久久能智(くくのち)に走(わし)ら越(こ)しましき

熊成の岳にいる国照神(素盞嗚尊)の元へ

       〜『 注釈 上紀』(八幡書店、上巻、P174-175)より

 ここに 大屋毘古の命 謀(たばか)りに訓(ご)りに 告(の)りたまわく 秋津高穂(あきつたかほ)の熊成の岳に 吾が御祖(みおや) 国照大神 常座(とこくら)ます 故 そに 走(わし)りまをさば それの大神 謀(たばか)りたまイなに と 急がし 放ちましき

(参考)熊成の岳『注釈 上紀(うえつふみ)』 (八幡書店、上巻、P174 の注記) 

 古事記、旧事記地神本紀は「根之堅州国」すなわち黄泉の国とする。

 つまりこれらがスサノヲの住む国を黄泉の国とするのに対して、上紀(うえつふみ)は、地上世界とするわけで、スサノヲが天孫に先立って地上を治めたとする伝説的発想に符合する。

大国主命の試練〜『 注釈 上紀』(八幡書店、上巻、P177-178)より

 【1-蛇の室屋】

 【2-百足手と蜂との室屋】

 【3-鳴鏑を大野の中に〜鼠の救済】

 【4-国照大神、八田間の大室内で御頭の虱を取らせる】

 ここに 国照大神 天降りまして 須賀(すが)の宮に 還りたまイて 直に 八門の御室(みむろ)を 造りまして

『注釈 上紀(うえつふみ)』(八幡書店、上巻、P151)より

(※)
 スサノヲが須賀に帰り「みむろ」(御室)を作ったというこのエピソードは、スサノヲが出雲の清(すが)の地に到り宮を立てたという古事記、日本書紀本文の伝説と大方重なるが、宮でなく御室を作ったという点で出雲国風土記の伝説とより深く繋がるものである。
 出雲国風土記・大原郡斐伊郷の御室山の項に「神須佐乃乎の命、御室を作らしめ給ひて、宿らせ給ひき。故、御室という」とあり、上紀と同じように「みむろ」の語が現われている。
 御室が須賀の地と深く関わるものであることは、御室山(→マピオン)のすぐ近くに須我山(八雲山→マピオン)があり、また大原郡の郡社に須我神社(→マピオン)あることから知られる。

(参考)「室山」からの引用より

      室山はこちらです
 つまりこれらがスサノヲの住む国を黄泉の国とするのに対して、上紀(うえつふみ)は、地上世界とするわけで、スサノヲが天孫に先立って地上を治めたとする伝説的発想に符合する。

 【5-国照大神、八田間の大室内に押入れ髪をタキリに結びつける】

国照大神から大国主命へ

(※)八十神の命の出生の秘密が告げられる。  こハ 眞の兄ならず 悪(ねく)じ頭(かみ)の子なり 兄ハ仮名なすゆ 

八十神の命、大名牟遅命をまたも迫害。

八十神の命、大名牟遅命をまたも迫害。

大名牟遅命の反撃

 妙見山(→マピオン地図

 三屋神社(→マピオン地図