年代紀 | 天照神年表 |「月の光」

『秀真伝(ほつまつたゑ)』を中心にして『12番惑星』『神々の指紋』の年代紀

 『完訳 秀真伝』 (鳥居礼編著、八幡書店)をベースにして、ゼカリヤ・シッチン氏の『12番惑星ニビルからやって来た宇宙人』とグラハム・ハンコック氏の『神々の指紋 (上) (小学館文庫) 』『神々の指紋 (下) (小学館文庫) 』を加えて年代紀風にまとめてみた。

  
   
  
   
  
   
  
   
  
   
秀真伝(ほつまつたえ) 『完訳 秀真伝』
(八幡書店)

年代紀

 歴史的項目。   
実年数 西暦 国常立尊の天真栄木で   内  容
3億3,002,704
年前
紀元前
303,000,704年
1鈴木 0枝 1穂
1鈴木=1,000枝=60,000穂
1枝=60穂
1穂=1年
  
 国常立尊、日高見葉木国宮に天真栄木を植え、葉木国神を生む。
 これより鈴木暦の開始。
                                                                                                                                                                                                                                      
実年数 西暦 大濡煮命の代より数えて   内  容
500万年前
      神霊界において伊邪那岐命と伊邪那美命の千引の岩戸閉め。
約580万年-
約440万年前
        アルディピテクス属(学名:genus Ardipithecus)。
 (新生代中新世末期[メッシニアン中期] - 鮮新世初期[ザンクリアン初期])
 エチオピアに生息していた原始的な人類(猿人)の一種。
 長らく最古の人類とされてきたアウストラロピテクス属より、いっそう古い時代の化石人類である。
300万年前
ごろ

      天照大神と須佐之男命の天ノ誓約。
 人体を持った神々の誕生。
 これが『ほつまつたゑ』として記録される。
約400万年 -
約200万年前
        アウストラロピテクス。
 アフリカで生まれた初期の人類であり、いわゆる華奢型の猿人である。
318万年前        〔ルーシーの発見〕
 ルーシー (Lucy) は、1974年11月24日にエチオピア北東部ハダール村付近で発見された318万年前の化石人骨につけられた名前である。アウストラロピテクス・アファレンシス(アファール猿人)の中で最初期に発見されたもののひとつであり、全身の約40%にあたる骨がまとまって見つかったという資料上の貴重さから、広く知られている。
3,002,704
年前
紀元前
3,000,704年
1鈴木 0枝 1穂
1年
  
 大濡煮(ういじに)尊、少濡煮(すいじに)尊の婚礼の制定にともない、雛祭りが生ず。
 501本目の真栄木を植え継ぎ、五百(ヰモ)継ぎ天(アマ)の真栄木と称す。
258万年前
      天之機屋事件と天照大御神の岩戸隠れ
 「ダマシタ岩戸開き」で神霊界に「天照神」が発生。
2,082,000
年前
紀元前
2,080,000年
15鈴木 333枝  穂
920,000年
  
 猿田彦命が生れる。(『秀真伝』八幡書店、下巻P463)からの推論。
1,796,705
年前
紀元前
1,794,705年
21鈴木 100枝  穂
1,206,000年
  
 那岐那美両神の婚礼。
1,795,174
年前
紀元前
1,793,174年
21鈴木 125枝 31穂
1,207,531年
  
 天照神誕生。
 天照神の即位の大礼 。
1,712,404
年前
紀元前
1,710,404年
21鈴木 126枝 58穂
1,290,301年
  
 豊受神、神上がる、真名井に朝日宮を造営。
1,562,704
年前
紀元前
1,560,704年
25鈴木 0枝 1穂
1,440,001年
  
 白人・胡久美の暴挙に端を発し、六ハタレ魔軍隆起す。
1,501,704
年前
紀元前
1,499,704年
26鈴木 16枝 41穂
1,501,001年の3月
  
 第一次天孫降臨。
 国譲りから55,373年後、奇玉火之明尊、十種神宝を賜り葦原国へ派遣。
1,292,607
年前
紀元前
1,290,607年
29鈴木 501枝 38穂
1,710,098年2月1日
  
 第二次天孫降臨。
 瓊々杵尊、八洲巡狩を許され、天照神より三種神器を授与される。
900,627
年前
紀元前
898,627年
36鈴木 38枝 38穂
2,102,078年
  
 瓊々杵尊、火々出見尊へ天位継承。
 豊玉姫、鵜葺草葺不合尊を生む。
 瓊々杵尊、鹿児島高千穂峰に隠れ神上がる。
 葦津姫、朝間の神となる。
 火之明尊、神上がり、飛鳥の神となる。
 天照神の命により、国照命を火之明尊の養子とし、饒速日命と称す。饒速日命喪にはいり、のちに十種の神宝を授与される。
491,645
年前
紀元前
489,645年
42鈴木 850枝 60穂
2,511,060年
  
 8月4日、火々出見尊、豊玉姫と大津シノ宮に上り神上がる。
 鵜葺草葺不合尊、瑞穂宮より遷座し、践祚す。翌朝即位大礼。
432,000年前         「ニビル」から、アヌンナキの来訪。
 エア【エンキ「地球の支配者」】
 ペルシャ湾の海水を蒸留させて「金」を得るために、ニビルから、アヌンナキのエア【エンキ「地球の支配者」】が、ペルシャ湾かアラビア海の植民地エリドウ【遠くに建てた家】にやって来た。
288,000年前         金の採掘に従事しているアヌンナキは反乱。
 その解決策として、アブズ上流の北にあるビット・シムティ(生命の風が吹き込まれる家)で原始的な労働者を作り出した。これが人間と神との最初の遭遇。最初のアダムとイブには生殖能力がなかった。
27万年前         「アダム」の誕生。
25万年前         「イヴ」の誕生。
 人類学と遺伝子の研究者たちは「イブ」は25万年前にいたとしている。
 生殖能力を得たアダムとイブはエディンを追放される。そして、誕生の地に住んだ。
20万年前         ネアンデルタール人。
 約20万年前に出現したとされる「アダム」と「イブ」はネアンデールタール人。
 2万数千年前に絶滅したヒト属の一種である。
180,625前
ごろ
紀元前
178,625年
ごろ
      玉依姫神の誕生。
120,625前
ごろ
紀元前
118,625年
ごろ
      鴨建祗命と磯依姫が神上がり、それから玉依姫の子が生まれる。
9万8,260前 紀元前
9万6,260年
      クロマニュン人。
 エノシュは9万8260年前に生まれた(クロマニュン人)「人間である彼」
8万4,760年前 紀元前
8万2,760年
      神と人との婚姻という問題。
 エレドの誕生が84,760年前に生まれた頃から、神と人との婚姻という新たな遭遇が始まった。
82,705年前 紀元前
80,705年
49鈴木 666枝 40穂
2,920,000年
  
 天照神の12后神上がり、瀬織津姫とともに伊雑宮より伊勢宇治宮に遷座する。
68,043年前 紀元前
66,043年
49鈴木 911枝 2穂
2,934,662年
  
 八瀬姫は五瀬尊を生むが、すぐに神上がられる。
 玉依姫を内局に迎え、五瀬尊を養育される。
 玉依姫の連れ子を、御毛入尊と名付ける。
62,736年前 紀元前
60,736年
50鈴木 0枝 31穂
2,934,662年
  
 天照神、神上がる。
 このころ富士山が爆発する。
4万9,000年前 紀元前
5万1,000年
      ノアの誕生。
年前 紀元前
2万5,000年
      沖縄県・石垣島(石垣市)の「白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴遺跡」で2016年までの調査で見つかった旧石器時代の人骨が、全身骨格がほぼ残った人骨としては国内最古の約2万7千年前のものとみられることが分かった。同県立埋蔵文化財センター(西原町)が19日発表した。人為的に安置されていたとして、旧石器時代に人を葬る思想があったことをうかがわせ「墓域を国内で初めて確認した」と説明している。
 少なくとも19体分以上の骨があることも分かり、旧石器時代の人骨発掘としては「世界最大級」(同センター)という。
 これまで最古とされていたのは、沖縄本島南部で発見された「港川(みなとがわ)人」の約2万2千年前。同センターの金城亀信所長は19日の記者会見で「日本の人類史に新たな一ページを刻むことができる重要な発見だ」とした。
年前 紀元前
14,000年
      世界最古と考えられる土器の一つが、青森県大平山元(おおだいやまもと)遺跡の縄文土器だ。放射性炭素年代から推定すると、約1万6千年前。これらのことから、多くの研究者は、遅くとも1万5千年前には、日本列島で土器が使われていたと考えている。
「でも、ロシアのグロマトゥーハ遺跡などでは、約1万5千年前と考えられる土器が見つかっています。日本だけが古いと言うより、東アジア全体で古い時期に土器が生まれた、とみるべきではないでしょうか」。
 中国湖南省で、約1万8千年前のものとされる土器が確認されたとの報告もある。
 ところが、他地域の最古の土器をみると、南アジア、西アジア、アフリカが約9千年前、ヨーロッパが約8500年前――。学校で習ったいわゆる「四大文明」の故地と比較しても、日本は飛び抜けて古い。
13,000年前 紀元前
11,000年
      ノアの箱舟事件。
 ゼカリアシッチン博士は南極の氷が滑落することによる大洪水と説明。
 グラハム・ハンコック氏は極の氷に重量が原因の地殻移動と説明。
年前
10948年
      起点は紀元前10948年に始まり、後2012年12月21日に区切りを迎えた。
(※)歳差運動 25920年
   半分   12960年
   1/4  6480年
   1/12 2160年
12,450年前 紀元前
10,450年
      ギザ地区にそびえ立つクフ、カフラーおよびメンカウラーのギザ3大ピラミッドが示す時としてグラハム・ハンコック氏が取り上げている。
 ギザ台地との完全な一致は、紀元前10450年に起こる。
年前 紀元前
10,000年
      エンキ(プタハ)は、大洪水で壊滅したエジプトの治水工事を行い、かつての繁栄を再興してゆきました。
 ギザのピラミッドは中立のニンハルサグが管理していましたが、エンキは言葉巧みにニンハルサグを説得し、ピラミッドの管理権を自分のものにしました。
 その後、エンキはエジプトの支配権を息子のマルドゥクに再び委譲し、エジプト王にはゲブが就任しました。
年前 紀元前
9,780年
      マルドゥク(ラー)は、エジプトの支配権を息子のセトとオシリスに分割委譲します。
 セトは上エジプト、オシリスは下エジプトを支配することとなったのです。
 上エジプトより、下エジプトのほうが地理的に有利であり、また土地も肥沃でした。
 また、下エジプトの支配権にはピラミットの管理権も含まれていた為に、上エジプトを得たセトは下エジプトを得たオシリスを妬むようになってゆきます。
年前 紀元前
9,330年
      セトがオシリスを奸計(かんけい)より殺害し、エジプト全土の支配権を勝ち取ります。
年前 紀元前
8,970年
     〔第1次ピラミット戦争〕
 オシリスの息子ホルスは、仇敵セトに対して宣戦布告します。
 この結果、セトは敗走し、航空宇宙施設である、ティルムン(シナイ半島)の宇宙港とモリヤ山の航空管制センターを管轄下に置くにとどまります。
 従って、航空宇宙施設である宇宙港、航空管制センター、ピラミッドはエンキの孫であるセトが管轄する事になり、施設はエンキの支配下になりました。
 更に、「偉大なるアヌンナキ評議会」において、ゲブによって正統に継承された王位は、さらにホルスによって継承されると裁定が下り、セトに勝利したホルスが正式にエジプトの支配権を取得します。
年前 紀元前
8,670年
     〔第2次ピラミット戦争〕
 ニヌルタ率いるエンリル軍と、マルドゥク(ラー)率いるエンキ軍が戦闘しました。
 この闘いは、エンキ軍劣勢のまま、ニンハルサグの仲裁によって休戦が宣言されます。
 ニンハルサグの主催により講和会議が開催され以下の条項が決まりました。
【講和条件】
(1)ピラミットは引き続きエンキ派が支配する。
 エンキの息子であるニンギッジドゥ(トート)がピラミットの支配権を取得する。
 ただし、ピラミットの悪用を避けるため、航空宇宙施設としての装備はすべて取り外し、ピラミッドは航空宇宙施設としての機能を失うものとする。
(2)宇宙港を含むティルムン(シナイ半島)はエンリルが支配する。
 エンリルの息子ナンナルがティルムンの支配を取得する。
(3)モリヤ山の航空管理センターはエンリル派が支配する。
 ナンナルの息子ウトゥが航空管制センターの支配権を取得する。
 この条項の取り決めにより、平和な時代が続いたのです。
 そして、エンリルは息子のニヌルタを正式な後継ぎ者に任命し、シュメールの支配権を与えるとともに、地球総司令官としての支配権を移譲しました。
 又、エンキも息子のマルドゥクを正式な後継ぎ者に任命し、エンキ派の総帥としての権力を完全に移譲しました。
 この移譲劇は、これまでのエンリル派とエンキ派の争いから、息子達であるニヌルタとマルドゥクの対立となって行きます。
年前 紀元前
      いろいろな古文書は、アヌンナキが人間に王権を与えるという決定は、アヌンナキたちの間の、激しい抗争と戦いの末に、ようやく下されたものと、書かれている。
 この抗争のことを「ピラミッド戦争」と名づけた。
 この激しい戦争は、古代の入植地を4分割するという、和平協定によって、停戦合意に達した。
 そのうちの3つは人類に与えられ、それぞれ、古代の3大文明発祥の地として、知られている。
 すなわち、メソポタミア・エジプト・インダスのことである。
 シナイ半島は中立地帯で、大洪水後の宇宙空港が造られた。(P183)
年前 紀元前
7,400年
     〔人類に新たな技術を供与することが決定〕
 しばらくは、平和な時代が続いたため、「偉大なるアヌンナキ評議会」において、人類に新たな技術を供与することが決定されます。
 これにより、人類の新石器時代が開始するのです。
 人類は村を形成して生活するようになり、また土器や高度な石器を製作するようになります。
年前 紀元前
4,041年頃
     〔聖書歴〜天地創成・アダムとイヴの誕生〕
年前 紀元前
3,800年
     〔大洪水以前の諸都市が復興〕
 平和な時代はさらに続き、エリドゥやニップルなど、大洪水以前の諸都市が復興されました。
 復興された都市のうち、旧首都エリドゥはエンキ派が支配し、聖都ニップルはエンリル派が支配することになりました。
 この頃、「人類の運命を定めるための会議」が開催されます。
 この会議は二ビルが地球に接近するたびに開催され、人類にどの程度の文明を供与するかが話し合われたのです。
 二ビル王アヌが会議に出席するため、二ビルから再び地球に来訪します。
 このアヌの来訪を記念して、都市ウルクが建設されました。
 この「人類の運命を定めるための会議」において、人類に高度な都市文明と王権を委譲することが決定されます。
 この決定により、人類は都市に居住することを許されたのみならず、アヌンナキないし半神半人(アヌンナキと人類の混血)に代わって、都市の支配者になることも可能になったのです。
年前 紀元前
3,760年
      エンリル派の総帥ニヌルタの庇護により、キシュに人類の王による王都が建設されます。
 こうして、シュメールにおいて、高度な都市文明が開花したと言うわけです。
 この時点で、車、船、炉、教育制度、法律・裁判制度、議会制度、音楽、舞踊、絵画、宗教、建築学、医学、科学、数学、天文学など、現代文明を構成する要素のほとんどが完成しました。
年前 紀元前
3,500年
       三内丸山遺跡は、今から約5500年前〜4000年前の縄文時代の集落跡で、長期間にわたって定住生活が営まれていました。
平成4年からの発掘調査で、竪穴住居跡、大型竪穴住居跡、大人の墓、子どもの墓、盛土、掘立柱建物跡、大型掘立柱建物跡、貯蔵穴、粘土採掘坑、捨て場、道路跡などが見つかり、集落全体の様子や当時の自然環境などが具体的にわかりました。
また、膨大な量の縄文土器、石器、土偶、土・石の装身具、木器(掘り棒、袋状編み物、編布、漆器など)、骨角器、他の地域から運ばれたヒスイや黒曜石なども出土しています。
ヒョウタン、ゴボウ、マメなどの栽培植物が出土し、DNA分析によりクリの栽培が明らかになるなど、数多くの発見が縄文文化のイメージを大きく変えました。
年前 紀元前
3,450年
     シュメールの原典の記述〜PP190-192〕
 大洪水の後、チグリス・ユーフラテスの平原にも再び人が住めるようになった。
 そして、東方から旅してきた人たちがこのシンアル(シュメール)の平原を発見して、そこに定住した。
 煉瓦を焼き、人間の都市を造った。さらに「その先端が、天にも届く塔」の建造のことが述べられている。
 これが有名なバベルの塔事件だ。
 エンキの長男マルドウクが敵対するエンリルの管理を受けない別の宇宙空港の建設を企んだのが他ならぬこのバビロンだった。およそ、紀元前3450年頃のことだ。エタナの物語とほぼ同じ時代の出来事である。主がバビロンで起きていることをみて、自分の考えを伝えた相手の者たちが誰だったか想像できる。その者たちは、あのイギギだったのだ。イシュタルが推薦したエタナが王に着くまで、イギギたちの管理下に置かれた。
【補足】
 エンリル派の総帥ニヌルタは、シュメールの支配権を兄のナンナルに委譲しました。
 そこで、エンキ派の総帥マルドゥク は、ナンナルからシュメールの支配権を奪取すべく画策を始めます。
 マルドゥクは、人類を扇動し、エンリルの管理を受けない宇宙空港バビロンの建設に取り組みます。
 そこをシュメールの王都にしようと計画したのです。
 これがバベルの塔事件です。
 マルドゥクの暴挙に怒ったエンリルは、自ら大軍を率いて暴動を鎮圧します。
 マルドゥクは、エジプトの支配者ドゥムジ(エンキの息子、すなわちマルドゥクの弟。エンリルの孫娘イナンナの夫でもある)と対立し、彼を殺害してしまいます。
 その結果大ピラミッド内部に幽閉されました。
 閉じ込められたマルドゥクは、井戸坑を通じてピラミッドから脱出しましたが、以後行方不明となりました。
年前 紀元前
3,100年頃
      ナイル川(エジプト)の王制は紀元前3100年に始まる。
 大洪水がエジプトを襲ったあと「古代に地球にやって来た神」が国土の復旧に当たった。
 その神はエンキとマルドウク。(P202)
年前 紀元前
2,900年頃
      シュメールの王・ギルガメッシュは死ぬことを拒んだ(P217)
【その他の記事】
 シュメールの王都がウルク(二ビル王アヌに捧げられた都市)に移動されます。
 また、都市文明をインダス川流域にも建設することが決定されます。
 この決定を知ったイナンナは、二ビル王アヌに取り入り、インダス川流域の支配権を手に入れます。
 これにより、インダス文明が開花します。
 さらに、イナンナは、シュメールの王都ウルクの支配権をも取得します。
 そして、イナンナはエンキから「神聖知識」を騙し取ります。
 「神聖知識」は、最高貴族の地位、王位、僧侶の役割、武器、法律上の手続き、記述法、木工、楽器、神殿の知識などについての記述が書いてあるものです。
 彼女は、これらを都市ウルクに使いウルクの繁栄を実現して行きました。
 これにより、イナンナの権力が急速に拡大したのです。
年前 紀元前
2,650年頃
      人類同士の争いにより、シュメールの王都は、ウルク・ウル・アワン・キシュ・ハマジ・マリなどシュメールの主要都市の間をめまぐるしく移動します。
 人類同士の闘争は、やがてアヌンナキをも巻き込み、さらに拡大して行きました。
 そして、人類の闘争によって地が荒廃したため、強力なリーダーシップを持ち、かつアヌンナキと人類の仲介者になりうるような人類の出現が望まれました。
年前 紀元前
2,450年
      ギザのピラミッドの通気口は紀元前2450年のオリオン三つ星のアリニタクとシリウスに照準を当てている。
 エジプト学者が主張するピラミッドを建てた時期と一致する。
年前 紀元前
2,166年
     〔実用年代〕
 神がアブラムを招命された年。
 のちに神によってアブラハムと変えられた(創世記17:4-6)。
年前 紀元前
2,123年
     〔聖書歴〜アダム・イブから1918年後〕
 ニップルにて、イスラエル人の始祖アブラハムが誕生した。
年前 紀元前
2,113年
     〔ウル第3王朝の開始〕
 エンリル派の総帥ニヌルタは、シュメールの支配権を再び弟のナンナル(イナンナの父親)に委譲しました。
 ナンナルは、シュメールの新王都としてウルを建設しました。
 ウルにおいて、半神半人のウル・ナンムが初代の王に就任します。
 王都ウルにおいては、ナンナルの庇護により、高度で華麗かれいな文明が繁栄しました。
 ウル・ナンム王は「神の武器」を用いて、エンリルに反抗する「悪辣な都市」を攻撃し、これを征服していきます。
年前 紀元前
2,096年
      アブラハムは父テラとともに、シュメールのウルからユーフラテス上流のハランへ旅をした。
 偉大な王ウルナンムが突然の死を遂げ、人々が彼の死を「エンリルが彼の運命を変えた」ためと称する年であった。
 そのころ、シュメールは、邪悪な西部の都市に侵略されていた。(P461)
【参考】
 数々の攻撃により、シュメール人の間でアヌやエンリルに対する不信感が生まれました。
 もてあそばれし英雄の運命・・・ アヌは神聖なる誓いを違えた・・・・ エンリルは偽って運命の宣告を変更した・・・
―『バビロニア列王伝』―
年前 紀元前
2,048年
      アブラハムは、彼の家族・従僕・羊の群れを連れて南に進み、シナイ半島の乾燥地帯のネゲブに移動するように、主神ヤハウエに命じられた。
 この移動は、ヘブライ人の族長が75歳の時、すなわちウルナンムの王位継承者シュルギが死んだ紀元前2048年から行われた。
 それはまた、北メソポタミアのヒッタイトの地にマルドウクが到着して、神々を支配統括する準備を始めた年でもあった。(P461)
【参考】
 堕落したシュルギ王は「神の掟を守らぬもの」および「王の正当性を汚すもの」として告発され、神々の裁きにより死刑判決を受けます。
 この頃流浪の神マルドゥクがヒッタイトの地に出現し、メソポタミア再進出狙います。
 マルドゥクの長男ナブが暗躍し、ナンナルとイナンナの領土を侵食して行きます。
年前 紀元前
2,042年
      アブラハムは彼のネゲブにある前哨基地に戻った。
 この時、彼はラクダの騎兵隊を率いていた。彼は「東方の王たち」の一団が地中海沿岸を襲い、シナイ半島の宇宙空港にまでなだれ込もうとするのを防ぐために、戻ってきたのだ。
年前 紀元前
2,040年
      アブラハムは北第10王朝最後のファラオに受け入れられた。
 アブラハムは、ソドムとゴモラの大変動を目撃。
 そして、アブラハムはそれに続くヤハウエと2人の天使の訪問を目撃。
年前 紀元前
1,963年
      イサク40歳の時、「輸入妻」リベカと結婚し、20年後に双子のエサウとヤコブを生んだ。
 これは、紀元前1963年のことである。
年前 紀元前
1,833年
      ヤコブの家族全員がエジプトに到着。
 エジプト第12王朝のアメネムハト3世が統治していたころと思われる。
年前 紀元前
1,513年
1,526年
      モーゼ誕生。
 モーゼを川から拾ったのはハトシェプストだった。ハトシェプストはトトメス1世と彼の腹違いの妹だった妻との間に生まれていて「ファラオの娘」という敬称を使うことが許されていた。
 トトメス1世が1,512年に亡くなったとき、男性の後継者はハーレムの生んだ息子しかいなかった。この息子がトトメス2世になるには、ハトシェプストと結婚し、相続の正当性を主張する必要があった。
 この夫婦には女の子しか生まれなかった。トトメス2世の治世が9年で終わったとき、ハトシェプストは摂政に指名され、数年後には女王の冠をつけることになった。
 こうして王の息子(トトメス3世)と女王の養子(モーゼ)が対立していくことになる。
年前 紀元前
1,482年
      モーゼの育ての親・女王ハトシェプストが死亡。
 第二夫人の息子がトトメス3世として即位。
 彼は、他国への侵略とイスラエル人への圧政に余念がなかった。
年前 紀元前
1,450年
      モーゼを殺すように命じたトトメス3世が死亡し、アメンポテフ2世が跡を継ぐ。
 この時に、ヤハウエが「燃え茂み」の中から現れ、モーゼに語りかける事件が起きた。
年前 紀元前
1,433年
      「過ぎ越し」の日。
 イスラエルの民のエジプトからの脱出。
年前 紀元前
993年
      ダビデ王の即位。
 イスラエル北方の支族は、サウル王の子イシバアルが率いていたが、その死後、サウル王の娘ミカルを妻としたダビデは、北方支族連合の総意のもとに王として迎えられ、ついに紀元前993年、ダビデはイスラエル全12支族の2代目の王位に就いたのである。
年前 紀元前
922年
      イスラエル王国の分裂。
年前 紀元前
777年
50鈴木 999枝
  
 櫛甕玉命が生まれる。
年前 紀元前
722年
     〔失われた10部族〕
 北イスラエル王国は、大国アッシリア帝国に滅ぼされてしまった。北イスラエルの10支族は、奴隷としてアッシリアに強制連行され、それ以降、歴史から消えてしまった。
 失われた10部族。
2,717年前 紀元前
717年
50鈴木 1,000枝 0穂
3,000,000年
  
 折鈴。
 これ以後、天真栄木の苗が見つかっていない。
2,711年前 紀元前
711年
50鈴木 1,000枝 6穂
3,000,006年
  
 玉依姫内宮となりて神日本磐余彦尊(武仁)を生む。
(天照神亡き後、約6万年後のこと) 。
年前 紀元前
660年
     〔神武天皇の橿原即位〕
年前 紀元前
586年
     〔神武天皇が127歳で崩御〕
 崩御日は『日本書紀』によれば紀元前586年(神武天皇76年)3月11日であるが、これをグレゴリオ暦に換算して4月3日としている。

〔聖書歴〜アダムとイブから3322年〕
〔バビロン捕囚〜ユダ王国の滅亡〕
 ユダ王国は紀元前722年からアッシリア帝国にアッシリアに服属する形で存続していたが、紀元前609年にメギドの戦いの敗北によってエジプトの支配下に入った。紀元前605年にカルケミシュの戦いでエジプト第26王朝のネコ2世が新バビロニアのネブカドネザル2世に敗れた後、紀元前597年にそのネブカドネザル2世の前にユダ王国も屈した。その後しばらくは独立国としての存在が許されていたが、最終的にはエジプトと結んでバビロニアと対抗しようという企てが露見したため (587 BC))、紀元前586年にエルサレム全体とエルサレム神殿が破壊され、支配者や貴族たちは首都バビロニアへ連行されることになった。この時、ソロモンの第一神殿が破壊されている
 これをバビロン捕囚という。
年前 紀元前
537年
     〔エルサレム再建命令〕
 西暦前537年の初めごろ、ペルシャの王キュロス2世は、捕らわれていた者たちがエルサレムに帰還して神殿を再建することを許す布告を出した。総督ゼルバベルと大祭司エシュアに導かれた、4万2,360人の「流刑囚の子ら」に加えて、7,537人の奴隷や歌うたいたちが約4か月の旅をした。アイザック・リーサー訳の聖書の第6版の脚注は、その人数が婦女子を含めて約20万人に達したことを示唆している。彼らは秋の第7の月までに自分たちの都市に定住した。
 紀元前516年から紀元後70年までの間エルサレムの神殿の丘に第二神殿と呼ばれるユダヤ人の重要な神殿(エルサレム神殿)があった。それは紀元前586年のバビロン捕囚の際に破壊されたソロモンの第一神殿に代わって建設された。
〔ペルシャ帝国はユダヤ人に寛大な措置を取った〜エルサレム再建命令〕
 紀元前536年のエルサレム帰還(神殿の再建)。
 紀元前457年のエルサレム帰還(裁判官の任命)。
  69週後(7×69)=483年後は紀元26年です。
 紀元前444年のエルサレム帰還(城壁の復興)。
年前 紀元前
457年
     〔エルサレム再建命令〕
 西暦前537年の初めごろ、ペルシャの王キュロス2世は、捕らわれていた者たちがエルサレムに帰還して神殿を再建することを許す布告を出した。総督ゼルバベルと大祭司エシュアに導かれた、4万2,360人の「流刑囚の子ら」に加えて、7,537人の奴隷や歌うたいたちが約4か月の旅をした。アイザック・リーサー訳の聖書の第6版の脚注は、その人数が婦女子を含めて約20万人に達したことを示唆している。彼らは秋の第7の月までに自分たちの都市に定住した。
 紀元前516年から紀元後70年までの間エルサレムの神殿の丘に第二神殿と呼ばれるユダヤ人の重要な神殿(エルサレム神殿)があった。それは紀元前586年のバビロン捕囚の際に破壊されたソロモンの第一神殿に代わって建設された。
〔ペルシャ帝国はユダヤ人に寛大な措置を取った〜エルサレム再建命令〕
 紀元前536年のエルサレム帰還(神殿の再建)。
 紀元前457年のエルサレム帰還(裁判官の任命)。
  69週後(7×69)=483年後は紀元26年です。
 紀元前444年のエルサレム帰還(城壁の復興)。
年前 紀元前
200年
     〔計算によるとニビルが接近しているはずだ〕
 第8代孝元天皇15年が紀元前200年。
年前 西暦
70年
     〔第二神殿の破壊〕
 第二神殿とは、紀元前516年から紀元後70年までの間エルサレムの神殿の丘に建っていたユダヤ人の重要な神殿(エルサレム神殿)である。それは紀元前586年のバビロン捕囚の際に破壊されたソロモンの第一神殿に代わって建設された。
 紀元前20年から19年の辺りでヘロデ大王は第二神殿の修繕と大拡張工事を行い、それはヘロデ神殿として知られる。
 ローマ帝国は皇帝のティトゥスの下で西暦66年にユダヤ戦争を始め、ユダヤ人の敗北が決定的になった西暦70年のエルサレム包囲戦においてエルサレムと第二神殿は破壊された。
 以後エルサレム神殿は再建されることはなかった。西の壁の下部はヘロデ神殿の遺構を残す数少ない部分であり、嘆きの壁として現存している。
【日本では第11代垂仁天皇〜紀元前69年から西暦70年の時代】
年前 紀元後
2012年12月21日冬至
      歳差運動による26000年の春。
 前の起点は、紀元前10948年に始まり、後2012年に区切りを迎えた。
(※)歳差運動 25920年
   半分   12960年
   1/4  6480年
年前 西暦
3400年
     〔ゼカリアシッチン博士の計算によるニビル接近時期〕
 紀元前11,000年前、ノアの洪水。
 紀元前 7,400年前、人類に技術供与の決定。
 紀元前 3,800年前、人類に都市文明の委譲。
 (参考)紀元前 993年前、ダビデ王によるイスラエル王国の統一。
 (参考)紀元前 660年前、神武天皇による建国。
 紀元前 200年前、第8代孝元天皇15年。
 西暦  3,400年前